第二節 巫女史の意義と他の學問との關係
我國に於ける巫女の研究は、宗教學的にも、民俗學的にも、更に、文化史的にも、重要なる位置を占めてゐるのである。神國を標榜し、祭政一致を國是とした我國に在つては、巫女の研究を疎卻しては、政治の起伏も、信仰の消長も、遂に闡明する事が出來ぬのである。巫女の最初の相は、神其者であつた。巫女が神子として、神と人との間に介在する樣に為つたのは、神の內容に變化を來たし、併せて巫女が退化してからの事である。而して巫女史の目的とする所は、是等の全般に涉つて、仔細に研究を試みる物で有るが、先づ此處には、巫女史の名稱、及び其內容、並びに巫女史と他の學問との關係に就いて略記する。
一、巫女史と云ふ名稱に就いて
巫女史とは、巫女の生活の歷史と云ふに外成らぬが、併し此文字を學術語として書名に用ゐたのは、恐らく本書が嚆矢であらうと信じてゐる。巫女に關する從來の研究は、巫女だけを學問の對象として企てた物は極めて尠く、漸く神職の一員──其も極めて輕い意味の、最下級の神職、又は補助神職と云ふ程の態度で取扱つて來たので、從つて巫女史と稱するが如き獨立した巫女の歷史は、未だ曾て何人にも試みられ無かつたのである。然るに、私の巫女に關する研究は、從來の其とは全く趣を異にし、專ら巫女を中心として、他の神職なり、制度なりを取扱ふと云ふのである。此處に多少とも、從來の研究と相違する點が存し、獨立した巫女史の內容が伴ふ物と考へてゐるのである。
我國にも、巫女に對して、覡男とも稱すべき者が有つた。勿論、此熟字は、支那の其を其のまま採用した物ではあるが、兔に角に女祝に對して男祝が有つた樣に、巫女に對して覡男の在つた事は事實であつて、然も兩者の關係は、頗る密接なる物であつた。『梁塵秘抄』に、「東(アヅマ)には女は無きか男巫(ヲトコミコ)、然ればや神の男には憑(ツ)く。」と有る樣に、巫女と男覡との交涉は、殆んど同視される迄に、近い物があつて存した。併しながら、私の立場から言へば、巫女が本であつて覡男は末である。巫女は正態であつて、覡男は變態である。更に極言すれば、覡男は巫女を學んで、その代理を勤める者にしか過ぎぬのである。其故に、私の此巫女史からは、覡男は當然除外されべき物である。巫女に詳しくして、覡男に疎なるのも、要は此れが為めである。豫め此點を含んで置いて貰いたいのである。
二、巫女史の內容と其範圍
巫女史が、巫女の生活の歷史である以上は、此れに伴ふ全般の研究が內容として盛られ無ければ成らぬのは、改めて言ふを俟たぬ。而して、其內容は、巫女の發生、巫女の種類、巫女の階級、巫女の用ゐた呪術の方法と、其種類、巫女の師承關係、巫女が呪術を營むより生ずる性格の轉換、巫女と戦争、巫女と狩獵、巫女と農耕、巫女に限られた相續制度、及び巫女の社會的地位等を重なる問題とし、更に是等に伴ふ幾多の問題を出來るだけ網羅して、此れを各時代に於ける信仰の消長、政治の隆替、經濟の起伏、及び社會事情の推移等を基調として、其變遷を討尋するのであるから、頗る複雜を極めてゐるのである。
而して單に巫女が用ゐた呪術だけにあつても、我國固有の物に、支那の巫蠱の邪法が加り、佛教の加持祈禱の修法と習合し、猶ほ我國に於いて發達した修験道の呪法が交る等、實に雜糅紛更の限りを盡してゐる。加之、更に此れを民族學的に見る時は、我國固有の呪術と、東部亞細亞(アジヤ)に行はれた巫女(シャーマン)教との交涉、アイヌ民族の殘したツスとの關係等、彌が上にも錯綜してゐるのである。然も其等の一一に就いて、克明に發達變遷の跡を尋ねて新古を辨え、固有と外來とを識別するのであるから、其研究はかなり困難なる物ではあるが、其困難が直ちに巫女史の內容であると考へるので、其處に巫女史が學問として相當の價值を認められるのである。
巫女史と他の學問との關係に就いては記述すべき範圍が廣いので、混雜を防ぐ為に各項目の下に略記する。
三、巫女史と政治史との關係
我國に關する最古の文獻である『魏志』(卷三〇。)の「倭人傳」に據れば、倭國の主權者であつた卑彌呼(ヒミコ)なる者は、「克事鬼神惑眾」所の巫女に外成らぬのである。此點から言へば、倭國の原始文化は、巫女に依つて代表され、呪術に精通した物が、一國の支配者としての、機能を有してゐたのであつて、即ちフレザー氏(James George Frazer )の帝王の魔術的起源(マジカル・オリジン・オブ・キングス)の學說を事實に於いて証明してゐるのである。而して、斯くの如き事象は、獨り倭國ばかりで無く、我が內地に在つても、又明確に認められるのである。國語の政治を言へる「まつりごと」が、祭事から出發してゐる事を知る時、古く我國が祭政一致であつた事を覺ると同時に、巫女が政治の中心勢力者であつた事を併せ考へねば成らぬ。何と成れば、我國で「まつりごと」の國語を生んだ時代に在つては、巫女其自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主權者であつたからである。
巫女史の立場から言へば、神璽と共殿同床した時代迄は、巫女が政治中心であつたと考へる事が出來るのである。然るに、政治と祭祀とが分離し、神を祭る者と民を治める者との區別が國法的に定められ、神其自身であつた巫女が一段と退化して、即ち神子(ミコ)(神の子の意。)として、神と人との間に介在する樣に成つても、猶ほ神託は、往往にして政治を動かす勢力を有してゐた。是等に就いては、各時代に於いて、例證を舉げて、詳記する考へであるが、巫女史と政治史との關係は、決して淺少なる物では無いのである。
四、巫女史と祭祀史との關係
我國の原始神道は、原則として、神を祭り神に仕へる者は、悉く女性に限つてゐて、男子は全く之(コレ)に與る事が出來無かつたのである。天照神が、我國の最高神でありながら、天神を祭られたのは、女性であつた為である。神武朝に、道臣命が敕命に依つて神を祭る時、嚴媛の女性の名を負うたのも、此れが為である。崇神朝に、皇女である豐鍬入媛命が神の御杖代と成られたのも、又女性であつた為めである。今に男子が特殊の神事を行ふ時、女裝するのも、此古き原則を守る為である。而して、女性に限つて、神を祭る事を許されたのは、我國の原始神道が、一面巫女教であつた事を意味してゐると共に、一面神を祭る者は、悉く巫女としての資格を有してゐた事を意味してゐるのである。然るに、時勢の暢達は、漸く神の內容に變化を來たし、神道が固定する樣に成つたので、神主・祝・禰宜等の男性神職を出現させ、巫女の手から祭祀と神事の機能を奪つてしまい、此處に主客位置を代へて、巫女は下級の神職、又は補助神職か、員外神職の如き待遇を與へられるに至つたのである。併しながら、巫女教であつた原始神道の傳統は、神道が神祇官流に解釋され、更に神社神道から國體神道と迄發達しても、猶ほ且つ巫女なる者を泯滅する事が出來ず、今に其面影を留めてゐるのである。
巫女は祭祀としての葬儀史にも、亦深甚なる關係を有してゐるのである。佛教の渡來せぬ以前──即ち、我國固有の信仰と、祭儀とを以て、死體を葬り、死靈を祭るには、專ら巫女が其任に當つてゐたのである。神職の一つである祝(ハフリ)の語源は、死體を屠(ハフ)るを職とせし為に、葬(ハフ)りと成り、更に祝(ハフリ)と成つた事を知り、然も此祝(ハフリ)が、元は巫女の役である事を知る時、葬儀史に於ける巫女の務めが、如何に重大なる物であつたかを考へずには居られ無いのである。而して、此問題は、相當に研究を要すべき事なので、詳細は本文に於いて述べるとする。
五、巫女史と呪術史との關係
巫女の聖職は呪術を行ふ事に重大の使命が存してゐた。併しながら、巫女の行うた呪術は、我國に於ける呪術の全體では無くして、僅に其一部分にしか過ぎぬのである。呪術史の觀點に起つて、古代の祭祀を檢討すれば、其機構を為(ナ)してゐる重たる部分は、全く呪術の集成である。從つて、神事の宗源と言はれた天兒屋命及び太玉命は、公的の大呪術師とも考へられるのである。鹿の肩骨を灼いて太占を行ふ事も、更に此れが龜卜に代つても、其信仰の基調は呪術である。祝詞を發生的に考覈すれば、此れの內容に、呪術の思想が濃厚に含まれてゐた事が、看取される。諾尊が黄泉軍を郤ける時、桃實を投じたのも、神武帝が天香山の土を採つて平瓮を造られたのも、共に呪術の一種であると言ふ事が出來るのである。而して、國民の生活は、其悉くが殆ど呪術的であつて、火を鑽るにも、水を汲むにも、更に誇張して言へば、寢るにも起きるにも、食ふにも衣るにも、呪術の觀念を疎外する事は出來無かつたのである。科學を知ら無かつた古代に在つては、呪術が生活の根蔕を為(ナ)してゐたのである。
然るに、巫女の行うた呪術は、是等の多種多樣の呪術より見れば、實に其一端にしか過ぎぬ物であつて、然もそれ が後世に成る程、呪術の範圍が局限され、漸く其面影を留めると云ふ有樣であつた。其故に、我國にも、歐米の心理學者、又は宗教學者が論ずるが如き、幾多の呪術の種類、及び呪術と宗教との交涉等も在つて存するのであるが、是等は一般の呪術史に關する問題であつて、巫女史は此れに與(アズカ)る事が尠いので、本書は出來るだけ此種の問題には觸れぬ事とした。
六、巫女史と文學史との關係
巫女の始めは神其者であつた。從つて、神が意の有る所を人に告げるには、其時代としては、出來るだけ莊嚴にして、華麗なる口語を以てしたに相違無い。我國の祝詞(ノリト)や、壽詞(ヨゴト)は、此處に出發したのである。從つて我國の敘事詩が、古き物程一人稱に成つてゐるのは、巫女が神として述べた事に出發してゐる為である。然るに、神の內容が變化し、巫女は神の子として、其託宣を取次ぐ樣に成れば、巫女は神を降ろし、神を遊ばせ、神を和(ナゴ)め、神を慰め、神を歸す等の呪文を發明すべき必要があつた。而して此呪文は、古きに溯る程、律語を以て唱へられるのが常であつて、我國の歌謠は、斯くして一段の發達を致したのである。巫女が唱へた是等の律語が、如何なる物であつて、然も是等の律語と歌謠との關係、及び律語が歌謠化され、更に說話化されて、各地に分布された過程に就いては、本文に詳記する機會を保留するが、兔に角に、我國の文學史は、巫女の呪文に依つて、スタートが切られてゐるのである。
此機會に、併せ言ふべき事は、巫女史と舞踊史との關係である。我國の舞踊史は、其第一頁(ペーヂ)が巫女の祖先神と稱せらるる天鈿女命に依つて飾られてゐるのである。鈿女命の天磐戶前に於ける神憑(カムガカ)りの狀態が、跳躍教と迄言はれる巫道(シャーマニズム)の其と、如何なる點迄民族學的に共通性を帶びてゐるか否か、更に此種の神憑りの狀態を以て、直ちに舞踊と云ふ事が出來るか否か、更に我國の舞踊起源が、性的行為の誇張化から出發してゐるか否かは、本文に詳述するとしても、巫女と舞踊とは、決して無關係であつたとは言へぬのである。巫女と音樂の關係も又さうであつて、我國の古代に於ける樂器は、概して巫女が神を降し、神を和める折に用ゐた物であつて、然も此れに依つて相當の發達を遂げたのである。猶ほ是等に就いても、段段と記述する考へである。
七、巫女史と經濟史との關係
我國の狩獵時代に於ける巫女の任務は、今人が想像するよりは重大なる物であつた。狩區の方面、及び日時の選定は、巫女が山神と海神とを祭り、其神意を問うて決定したのである。更に農耕時代に入つても、穀神は女性であり、插秧にも、收穫にも、巫女が中心と成つて、穀神を祭り、其恩賴を祈つた。巫女と經濟との交涉は、此處に端が開かれたのである。我國の古代に在つては、山に狩るも、海に漁るも、更に田に稻を播くも、畑に麥を作るも、悉く神意に聽くべき信仰が伴ひ、然も此神意は、獨り巫女に依つて、人間に傳へられてゐたのである。
生命を繋ぐべき食物に於いて既に斯くの如くである。從つて家屋の建築に、飲料水の保護に、更に機織の道に、裁縫の術に、經濟上の生產物は、悉く巫女の呪術に依つて神神の冥助を仰がねば成らぬ狀態に置かれてゐたのである。而して、時勢が降り、巫女が神社を離れて、各地方に漂泊する樣に成るや、巫女は背に負ひし箱を神意に托して、或は村落に入りて農耕の方法を教へ、或荒蕪の地に土著して、村を開き里を作る者さへ有つた。
殊に注意すべき事は、祭祀を中心として發達した工業は、殆んど巫女に依つて制作せられた點である。鏡作りの祖は石凝姥神であり、機織の祖は天棚機比賣神であり、此外に、酒を作る刀自、稻を白げる搗女等、巫女が經濟的に活動した事は、決して尠く無いのである。從つて、我國の原始經濟狀態を知るには、巫女史の研究に負ふ所が多いのである。
八、巫女史と賣笑史の關係
我國の性的職業婦人の起源は、神寵の衰へたる巫女、又は神戒に叛きたる巫女に由(ヨ)つて發生した物である。私の所謂「巫娼」なる者は、此れを意味してゐるのである。勿論、巫娼の間には、幾多の種類も有つた。其と同時に、我國の古代に在つては、賣笑は必ずしも不德の行為でも無く、且つ決して醜業では無かつた。宗教的の意味を濃厚に含んでゐる賣笑も有れば、亂婚時代の習俗を承けた賣笑も有つたが、併し其等の者が、純粹なる賣笑行為として常習的に、且つ繼續的に營まれる樣に成つたのは、巫娼に始まるのである。伊勢の古市遊郭の起源と、子良・母良の關係を知る事は、現在の史料からは殆ど不可能の事に成つて了(シマ)い、更に大和の春日若宮に仕へた巫女と、同地木辻遊郭との交涉を尋ねる事も、至難の事に成つて了つたが、此れに反して、攝州住吉神社と乳守の遊郭、播州室津の賀茂神社と同所の遊女の關係は、今も朧げに知る事が出來るのである。而して、我國の名神・大社と言はれる神社が、殆ど言ひ合わせた樣に、其神社の近くに遊郭を有してゐる事は、古き巫娼の存在を想はせる物である。從つて是等の巫娼から出た我國の遊女が、古く流れの身と言はれてゐながらも、猶ほ立烏帽子を著け、皷を持ち、更に太夫と稱して、歌舞に迄關係してゐたのである。我國の歌舞伎の源流が、出雲大社の巫娼であるお國に依つて發した事も、決して偶然では無かつたのである。
九、巫女史と法制史との關係
我國には、人が人を裁く以前に、人が神の名に由つて、人を裁いた時代が有つた。即ち神判なる物が此れであつて、然も此れを行うた者は巫女である。
濡れ衣と云へば、現在では冤罪の意に解釋されてゐるが、此れは我が古代に於いて、嫌疑者に濡れたる衣を著せ、其水の乾く事の遅速を以て、罪の有無を判じた事實に出發してゐるのである。更に神水を飲ませて罪を按じ、鐵火を握らせ、探湯(クガタチ)を為さしめ、蛇に咬ませ、起誓の失を判じさせる等の、神判を掌つてゐた者は巫女であつた。江戶期の初葉迄行はれてゐた、神文の鐘を撞くと云ふ裁きも、其始めは巫女が此れを主宰してゐたのである。素尊が天津罪を犯した折に、諸神が神議(ハカ)りに議りて、鬚を切り、爪を切り、千座の置座を負せて、神逐(ハラ)い逐い給うたと有るのも、所詮は巫女が神意を問うての結果と見るべきである。斯う考へて來ると、我國の法制史と巫女との交涉は、決して淺い物では無いのである。
猶、巫女史は、此外にも、原始神道史や、民間信仰史にも、深甚なる交涉を有してゐる事は言ふ迄も無いが、是等に就いては本文中に詳記する機會が有るので、今は省略する。
第三節 巫女史の學問上に於ける位置
巫女史の交涉する所は、既述の如く、政治、經濟、祭祀、文學、歌舞、法制等の各般に及んでゐるのであるが、是等は言ふ迄も無く、我國の文化の大系であつて、之(コレ)を知るにあらざれば、文化の真相は遂に了解する事が出來ぬのである。而して、巫女史の學問上に於ける地位は、大略、左の三點より考察すべき物と信じてゐる。
一、文化史に於ける巫女史の地位
發生的に言へば、我國のあらゆる文化は巫女から生まれた物であると云へるのである。即ち巫女史は、人類文化生活の根蔕である。政治、經濟、法制、文學、歌舞、祭祀等の總てに亘って交涉を有し、然も是等の文化事象を生んだ母體であるから、廣い意味から言へば、文化史の起源であつて、之(コレ)を疎卻しては、文化の發生的意義は、尋ねる事が出來ぬのである。文化史に於いて、與へられたる巫女史の地位は、かなり重要なる役割を占めてゐるのである。
巫女史を、文化發達史の方面から見れば、其は母權時代の人類生活を意味してゐる。此時代に在つては、專ら女子が社會の中心と成つてゐて、所謂、女子政治時代を現出してゐた。巫女の發生は即ち此時代に在つた物で、鬼道に通ぜる巫女が支配者として、一國亦は一郡を統治してゐた。而して、此時代に在つては、巫道に通じ、呪術に長じた物が、社會の最高位に置かれたのであるから、此處に種種なる巫術の發達を促し、併せて巫道の進步を來たしたのである。巫女史は、是等の各般に就いて、研究すべき使命を有してゐるのである。
二、原始神道に於ける巫女史の地位
人類の間に宗教なる物が發生せぬ以前に於いて、既に呪術なる物が存在し、宗教は此呪術に依つて發生したと云ふ呪術先行論と云ふのがある。此れに反して、宗教の基調である神聖觀念は、呪術の發生に先つて人類の間に意識されてゐたので、宗教は呪術の以前に發生した物だと云ふ宗教先在論が有る。更に、此兩說を折衷して、宗教と呪術とは、元元發生の動機を別にしてゐる物で、此れに前後の區別をするのは無理であつて、兩者ともに併行した物だと云ふ併行論も有る。而して我國の巫女の有する呪術なる物が、宗教──即ち神聖觀念の基調を外にして發生した物か否か、更に原始神道と巫女教との關係が如何であつたか、是等は共に相當の研究を要すべき問題であるが、(但し其事は本文中に記す考へである。)兔に角に、廣い宗教學の意味から離れて、狹い意味の原始神道の上から見ただけでも、巫女史の研究は、相當に意味の深い物と言へるのである。
現在の如く、神道が固定して了(シマ)つて、祭神の考覈も、教義の研究も、內務省の神社局から發せられる物が絕對の權威を有つ樣に成つては、巫女と神道との關係の如きは、有無共に問題に成らぬ迄に稀薄な勿と成つたが、原始神道は巫女教であつただけに、巫女を閑卻しては、教義の考覈等は、到底企てる事が出來無かつたのである。原始神道の研究は、巫女史を闡明にするに有らざれば、達成する事は不可能である。
三、民俗學に於ける巫女史の地位
民俗學(Ethnology)の目的の一は、異つた集團の性質を究める點に在る。我國の民族の如きも、現時に在つては、殆んど同一民族と見る迄に、同化し、融和して了つたが、併し是等の中(ウチ)に、幾多の異つた民族の集團の曾て存在した事は、今や、人類學的にも、考古學的にも、更に民俗學的にも、証示される迄に成つた。而して此異つた集團は、又各自の巫女を有してゐたのである。其が巫女の流派として、後世に殘された物である。勿論、此流派の中(ウチ)には、師資の關係から來た變化も認め無ければ成らぬけれども、鼓を打つて神を降した巫女と、弦を叩いて神を降した巫女とは、民俗學的には、必ずしも同一と見る事は出來ぬのである。此れには、文化の移動と云ふ事も考慮の內に加へ無ければ成らぬが、巫女史の研究は、民俗學的に見る時、一段と學問的の價值を大ならしめる物と信ずるのである。
- Oct 19 Mon 2009 18:29
日本巫女史 總論 1.2, 1.3
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