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第三章、巫女の信仰的生活と性的生活

第一節 巫女を中心として見たる神神の起伏

 『琉球國舊記』を讀むと、同國の神神は正しい名の外に、必ず「諱(イベ)名」と云ふのを、一つか二つ程有つてゐる。チャンバレン(Basil H. Chamberlain)氏は、此諱(イベ)名は內地の諱(イミナ)と交涉があらうと言はれてゐるが〔一〕、私には其詮索よりは、琉球の神神は何故に斯く一神にして多くの名を有してゐるかの考證に、興味が惹かれるのである。而して更に近刊の『對馬嶋誌』を見ると、神社篇に引用して有る『八幡傳記』(鎌倉期の文治年中の記錄と傳へられてゐるが、私の信ずる所では、もう少し新しい者と思はれる。)所藏の神名を讀んで、其大半迄が全く何の意味やら見當すら付かぬのに、我れながら驚き入つて了(シマ)つた。勿論、此れは私の無學に原因してゐる事ではあるが、併し私とても、多少は神神の研究を試みた者、自分だけには相應の豫備知識を有してゐると信ずるのに、見當さへ付かぬのであるから、今更の樣に己の無學と寡聞とが恨めしくも成つた。此處に二三の例を舉げると、「よらのぐんつ」とか、「さごのもしこ」とか、「したるのつと」とか云ふ類の物で、恐らく私ばかりで無く、誰でも一寸手の下しやうが無い難問だと考へる。然るに、是等の分らぬ神名の內で、殊に私が關心したのは「つなのろかんよる」と云ふ神名であつた。此れは私の乏しき琉球語の知識から見ても、直ちに綱(ツナ)と稱する巫女(ノロ)に神(カン)が憑(ヨ)るので、斯く神名を負ふに至つたのであると判明した。斯く琉球で行はれてゐる言葉が有る以上は、此方面から手掛りを得る事が出來ようと思ひ、其方法を講じて見たが、此れも結局は徒勞に終つて了つた〔二〕。其處で、私の考へたのは、此對馬の神名も、琉球の神の有(モ)てる諱(イベ)名と同じ性質の物では無いかと思ひ付いたので、專ら其方針で諱(イベ)名の發生に關して詮索を續け、漸く大體の見當だけを突き留める事が出來た。其が本節の中心であつて、我が古代の神神の發達と巫女との關係を知るに至つた次第なのである。
 琉球の巫女(ノロ)の制度は、我が內地の古代の其と少しも變る處が無く、巫女(ノロ)の最高位に在る聞得大君(キコエオホキミ)は、國王の姊妹を以て任命するのを原則とし、大昔に在つては王后の上位に在つて、國內に於ける女性の最高者としての待遇を受け、其下に「大あむしられ(ウフ阿母志良礼)」と稱する取締の樣な機能を有する巫女が若干有つて大君を補佐し、更に此の「大(ウフ)あむしられ」の下に、各村各村の巫女(ノロ)が、適當に配置されて隷屬してゐた。そして此巫女(ノロ)(內地の神和系の神子と同じ樣な者で、一定の給分を受けてゐた。)の外に、ユタ(內地の口寄系の市子に似た者で、給分は無くして、一回の神事に對して、一回の報酬を受けてゐた。)なる者が存してゐたのである〔三〕。然るに、是等の巫女(ノロ)が、國家又は鄉邑に有事の場合に、其事件の大小難易に依つて、或は高級の巫女、又は下級の巫女が、神意を承けて託宣をする時、或は自發的に、又は審神の問ふがままに、此託宣は何何の神の聖慮であるとて、頻りに神名を唱へるのを常とする。此れは神名に依つて事件を決しやうとするのであるから、神名を唱へる事が託宣を聽く者の信用を保つ點から必要である為に、斯うした結果を見るに至つたのであつて、巫女中心の原始的宗教に於いては、當然、將來すべき傾向に過ぎ無いのである。
 然るに、茲に困難なる問題の伴ふのは、神託を承くる時の巫女(ノロ)の身體上の工合や、巫女(ノロ)に憑(カ)かる神の性質──即ち其神が荒ぶる神か、和(ナゴ)める神かの相違に依つて、同一の神の憑代(ヨリシロ)と成つてゐながら、巫女(ノロ)の唱へる神名なる物が、或は前の場合と後の場合と矛盾し、或は始めの折と終りの時とは全く別箇の物が出ると云ふ事である。而して斯かる場合には、先に稱してゐた神名を正しき物とし、後に唱へた變つた物を諱(イベ)名と云うたので、斯く琉球の神神は多くの諱(イベ)名を有する樣に成つたのである。換言すれば、琉球の巫女(ノロ)は、託宣に際し、往往にして神名を創作するのである。同じ御嶽(ウタキ)に鎮坐す神を招降(オギオロ)しながら、場合に依つては、一般に信じられてゐる神名を言はずして、意の動くままに、飛んでも無い新しい神名を言出すが、其際は新しいのを諱(イベ)名として傳へてゐたのであつて、此れで諱(イベ)名の正體が朧げながらも知る事が出來たのである。對馬の神名の不可解なのは蓋し此創作された諱(イベ)名を傳へた物では無いかと考へる。
 然るに、猶ほ此處]に併せ考へて見無ければ成らぬ問題は、琉球に於ける神神の高下と云ふ事と巫女(ノロ)との關係である。他の語を以て言へば、神に大小が有り、高下が有り、更に靈驗の著しい神が有り、之(コレ)に反して靈驗の餘り聞えぬ神も有るが、斯うした神神の相違に就いて、巫女(ノロ)が如何なる交涉を有してゐたかと云ふ事である。併しながら、問題は割合に簡單に說明の出來ぬ事であつて、好んで巫女(ノロ)に憑(カカ)る神が早く名を知られ、憑つた神の託宣が有效であれば、其神の位置が向上し、斯くて幾度か同じ事が繰返へされる內に、何何の神の託宣は常に靈驗が有ると成れば、其神は他神を壓して名神大社に昇り、壓せられた神は叢祠藪神に降り、神神の世界にも淘汰の理法が行はれてゐたと解して差支無い樣である。
 其では、斯うした問題は、獨り南方の嶋嶋に限り存した事で、內地の古代には之に類似し、又は共通した信仰は無かつたかと云ふに、此事たるや、特に筆端を慎しまぬと、意外の誤解を受ける虞れが有るので、流石に無遠慮に物を書くのに馴れてゐる私でも、餘り突つ込んだ事は差控へ無ければ成らぬが、許された範圍內で說を試みると、此れと共通した信仰が、我が古代に顯然と存してゐた事だけは認めねばなるまいと思ふ。前に引用した『日本書紀』に、神后が親しく神主と成らせ給ひ、烏賊津臣を審神者(サニワ)として神意を承けさせられた折に、審神が、誰神か其名を知らんと問ひしに、第一に撞賢木嚴之御魂天疎向津姬命と答へ、第二に天事代虛事代玉籤入彥嚴之事代神と答へ、第三に表筒男・中筒男・底筒男神に答へられてゐる。(詳細前揭の書紀の本文參照。)勿論、此れは琉球の其とは異り、同じ神を他の名で稱へてゐる物では無いが、其にしても、神憑(カムガカ)りと云ふ事は、必ずしも一神が憑る物では無くして、二神又は三神が一時に憑り、審神の問ふに連れて、其神神の名を稱へる物であると云ふ事だけは、拜察されるのである。
 然るに、私の寡聞なる、此れに類した文獻の他に有る事を知らぬので、此れ以上の事は何も言はれぬのであるが、琉球の例を以て古代を推す時は、教養の無い巫女の間に在つては、或は一神を他の名で稱へたり、或は同じ神を降ろしながら、前時と後時と名を異にする樣な事が、往往にして在つたのでは無いかと想像されるのである。『神名帳』に有る出雲の神魂伊能知奴志とか、『地祇本紀』に有る久久紀若室葛根神とか云ふのは、或は巫女に依つて創作された神名ではあるまいか。而して此傳統を承けた物か、後世の巫女は隆んに神名を創作した樣だが、誰でも知つてゐる八幡社の出現も、欽明朝に巫女(職業的の者では無いが。)に憑りて、「我は譽田の八幡丸(ヤハタマロ)也。」と神託されたので八幡神の名が起り〔四〕、菅公も村上朝に巫女(同上。)に憑りて、天滿大自在天神と託宣されたので、天滿神の稱が起つた等は〔五〕、其顯著なる例證として舉げる事が出來るのである。
 更に巫女に依つて神格を向上した神としては、先づ八幡神を其徵證とする事が、好適でもあり、且つ安全だと考へる。前にも言うた如く、八幡社は我國第一の託宣好きの神で、此れを集めた『宇佐託宣集』だけでも、十八卷の多きに達してゐる。從つて國家に有事の際には、殆んど懈怠無く託宣をされるが、殊に著聞せるは、『續日本紀』天平勝寶元年十一月(辛卯朔)條に、

 巳酉,八幡神託宣向京。
 甲寅,遣參議從四位上石川朝臣年足,侍從從五位下藤原朝臣魚名等,以為迎神使。路次諸國,差發兵士一百人以上,前後驅除。又所歷之國,禁斷殺生。(中略。)  十二月戊寅,(中略。)迎八幡神於平群郡。是日入京,即於宮南梨原宮造新殿以為神宮。請僧四十口,悔過七日。
 丁亥,大神禰宜尼大神朝臣杜女【其輿紫色,一同乘輿。】拜東大寺。天皇(孝謙帝)、太上天皇、太后,同亦行幸。是日,百官及諸氏人等,咸會於寺。(中略。)奉大神一品,比咩神二品。(中略。)左大臣橘宿禰諸兄,奉詔白神曰:「天皇が(我)御命に(爾)坐申賜と(止)申く(久)。去辰年,河內國大縣郡の(乃)智識寺に(爾)坐盧舍那佛を(遠)禮奉て(天),則朕も(毛)欲奉造と(止)思ども(登毛)得不為之間に(爾),豐前國宇佐郡爾坐廣幡の(乃)八幡大神に(仁)申賜へと(閉止)敕く(久)。神我天神地祇を(乎)率誘ひて(伊左奈比天),必成奉无事立不有,銅湯を(乎)水と(止)成,我身を(遠)草木土に(爾)交て(天),障事無く(久)奈佐むと(牟止)敕賜ながら(奈我良)成ぬれば(奴禮波),歡み(美)貴みなも(美奈毛)念食す(須)。然猶止事不得為て(天),恐けれども(家禮登毛)御劍獻事を(乎),恐み(美)恐みも(美毛)申賜くと(久止)申。」尼杜女,授從四位下。主神大神朝臣田麻呂,外從五位下。施東大寺封四千戶,奴百人、婢百人。云云。(國史大系本。)

 の一條である。當時、孝謙女帝は、父聖武帝の宿願を繼いで、盧舍那佛(即ち奈良の大佛。)を鑄造せられんとしたが、鑄造術の幼稚なる、幾度か鑄損じたのを、此れは佛像を鑄る事を、我國の神神が悅ばぬ為だと云ふ風說が有つたので、殊の外に叡慮を惱まさせられた折に、真に突如として九州の一角に在る八幡社が託宣して、必ず成就せしめんとの事であつたので、斯くは帝都に八幡神を迎へたのであるが、其盛儀の實に意外であつた事は、『續紀』の記事に盡して有る。更に『詞林采葉』卷一に據れば、

 聖武天皇、(中略。)正八幡大菩薩を此寺(東大寺)の鎮守(手向山八幡宮)と崇奉らんとて、敕使を鎮西宇佐宮へ奉らせ給ひければ、乘物無き由敕答有るに依て、帝乘給ふ神輿を奉らせ給ひしかば、やがて乘現せ給ふ、南都へ入せ給ふ、自其以來、代代の御門の祖神一朝ノ宗廟四維八紘を擁護し給ふ者也。


 とは、誠に以て託宣の力が如何に偉大であつたか、千載の後からでも恐察されるのである。殊に、巫女である社女が、禁色の輿に乘り、主神田麻呂の外從五位下に對して、從四位下に敘せらるる等、巫女の勢力の如何に甚大であつたかが推測されるのである。從つて、斯く皇室の御信仰を深く受けてゐたればこそ、神護景雲三年七月、僧道鏡の事件の起るに及んで、和氣清麻呂を宇佐八幡に遣して、神託を仰奉らしめたのである〔六〕。然るに、此八幡神が清和朝に僧行教に依つて、石清水に分靈鎮座されてより、一段と神威を加へ、更に清和源氏の棟梁達の信仰を博してから、式神として朝野の崇敬を受け、九州の一地方神であつたのが、天下の高位神として、全國に祭られる樣に成つたのである。

〔註第一〕此事に關しては、柳田國男先生が、先年、折口信夫氏の宅で、琉球見聞談を二回程試みられた際に、詳しく承つてゐたのである。
〔註第二〕琉球出身の伊波普猷氏に、此事の教示を仰いだが、『八幡傳記』の神神の名には、琉球語は多く發見されぬとの事であった。
〔註第三〕同上伊波普猷氏の『沖繩女性史』に同國の巫女の事が詳記して有り、且つ巫女の體系や關係が圖に成つて示して有る。篤學のお方の參照を望む。
〔註第四〕『八幡愚童訓』及び其他の書にも見えてゐる。因みに言ふが、八幡はヤハタと讀むのが古訓であつて、然も其八幡(ヤハタ)なる語は地形から來てゐる物である事は、既に小山田與清翁も『松屋叢話』及び『松屋筆記』に述べてゐる。而して之をハチマンと讀んだのも新しい事では無いが、此讀み方は僧侶が佛教に附會せんが為に、古意にする所があつたのである。
〔註第五〕『北野緣起』及び『北野天神繪卷』の詞書にも見えてゐたと記憶してゐる。
〔註第六〕託宣好きであつた八幡神は、或意味から云へば、餘りに饒舌に過ぎて、思はぬ失敗を招かれた事すら有る。『續日本紀』天平勝寶七年三月の條に、「八幡大神託宣曰:『神吾不願矯託神命請取,封一千四百戶田、一百四十町,徒无所用,如捨山野。宜奉返朝廷,唯留常神田耳。』依神宣行之。」と有るのは、其一例である。更に習宜阿蘇麻呂が、八幡神の託宣を矯めて、僧道鏡に媚びた顛末、及び當時の大政治家であつた藤原百川が、如何に此八幡神の神威を有效に利用して、僧道鏡を退けたかに就いては、故田口卯吉翁の『史海』に載せた藤原百川傳に盡してゐる。八幡神に就いては、猶ほ記したい事が澤山有るが、深入りして誤解を受ける事も如何と考へたので割愛する。



第二節 御子神信仰の由來と巫女の位置

 『記』・『紀』・『風土記』及び延喜の『神名帳』に現れた御子神(ミコカミ)を、悉く巫女關係の神と云ふ事は許されぬ迄も、此內の幾神かは、巫女其の者を神と祀り、又は巫女と神との間に生れた御子(ミコ)を神に祀つた物である事は認めねば成らぬ。私は此見地に立つて、先づ『神名帳』から是等の神神を檢出し、然る後に、巫女神(ミコカミ)、及び御子神の由來と、巫女の地位に就いて、多少の考察を試みるとする。



第一、巫女を神に祀りしと思考する神社

所在地
神社名

山城國愛宕郡 天津石門別稚姬神社
大和國葛上郡 櫛玉比女神社
伊勢國多氣郡 天海田水代大刀自神社
尾張國愛智郡 火上姊子神社
伊豆國賀茂郡 佐伎多麻比咩命神社
伊豆國賀茂郡 優波夷命神社
美濃國賀茂郡 坂祝神社
信濃國更級郡 冰銫斗賣神社
同國埴科郡 玉依比賣命神社
越前國敦賀郡 天比女若御子神社
出雲國出雲郡 神魂意保刀自神社
紀伊國名草郡 都麻都比賣神社
伊豫國風早郡 櫛玉比賣命神社
讚岐國大內郡 水主神社


 (備考、式外の古社にあつて巫女を祭つたと考ふべき神社も相當數多く見えてゐるが茲には省略した。)

 是等の神神に就き、一一其出自の由來と、神名の解釋とを加へぬと、或は私の獨り合點に陷つて、讀者に納得されぬ點も多多有る事と思ふが、併し其を試みると成ると、非常なる紙幅を要するので、今は省略に從い〔一〕、更に御子神を祭つた者を同じ『神名帳』から摘錄して、是等の神神に對する私見を述べるとする。


第二、御子神を祀りしと思考する神社

所在地
神社名

山城國愛宕郡 片山御子神社
大和國宇陀郡 神御子美牟須比命神社
河內國高安郡 春日戶社坐御子神社
遠江國磐田郡 須波若御子神社
同上 御子神社二座
常陸國新治郡 鴨大神御子神主神社
陸奧國牡鹿郡 香取伊豆乃御子神社
同上 鹿島御兒神社
同國行方郡 鹿島御子神社
同國栗原郡 香取御兒神社
加賀國能美郡 氣多御子神社
對馬國上縣郡 和多都美御子神社
同上 胡祿御子神社
同下縣郡 島大國魂御子神社


 (備考、此れも前記と同樣であるが今は態と省略に從ふ事とした。)

 我國に於ける「御子神(ミコガミ)」信仰は、決して新しい物では無い。『常陸風土記』行方郡條に、日本武尊が躬ら鴨を射られた鴨野里に、夙に香取神子神社の在つたと云ふ記事から推すも、此信仰が古代から民族の間に行はれてゐた事が知られる〔二〕。而して御子神とは、其神名が示してゐる如く「神神の神子」と云ふ事であつて、古く巫女の事をミコと云うたのも、又此意味に外成らぬのである。
 併しながら、既に信仰の對象として祭られてゐる幽界の神神が、顯界に在る人間と同じ樣に生殖を營み、御子神を幾柱と無く儲けると云ふ事は、後世の神祇觀から言へば、誠に腑に落ちぬ理窟であるが、此れは神と云ふ物の內容が、時代に依つて變遷する事を會得すれば、忽ちに釋然する問題なのである。白河法皇の『梁塵秘抄』に、「神も昔は人ぞかし。」と有る如く、原始神道の立場から云へば、神主は直ちに祭神其の者であつた。古代に在つては、名神大社は云ふ迄も無く、更に叢祠藪神の末迄も、苟くも神主の有る以上は、其神主は「現神(アキツカミ)」としての待遇を受けてゐたのである。
 現今でこそ、神主と云へば、神と人との間に介在して、神意を人に傳へ、又は人の請を神に告ぐる職掌の樣に解されてゐるが、神主は即ち神主(カンザネ)であつて、大昔は此職掌は專ら巫女が當つた物で、神主は活ける神として、是等巫女の上に臨み、殆んど絕對の神權を有してゐたのである。既述した諏訪神社の大祝や、出雲の兩國造や、大三島神社の神主等が、明治期に成る迄、特殊の地位を占めてゐたのは、此古俗を遺した物なのである。而して此現神である神主と、其神主に奉仕した巫女との間に生れた子が即ち御子神なのである。
 後世に成ると、此御子神を「若宮」と稱する樣に成つたが、其でも若宮の名が『延喜式』臨時祭條に見えてゐる故、此稱も相應に古い事が知られる。然るに中古に成ると、此信仰が泯びて了つたので、若宮を有してゐる神社では、此れを常識化し、合理化するに種種なる苦心を重ねて、其破綻を防がんと試みてゐる。春日神社の若宮は最も著名な神であるが、此れが出現に就いては、『大和志料』卷上に、舊神主千鳥家所藏の古記錄を引用して、

 長保五年三月三日巳時、從第四殿板敷、心太(ココロブト)樣物三升許落つ、暫の程有りて從件物中に、五寸許なる□□(缺字)地出、從乾柱下登入同殿內畢、(中略。)即時神宮預是忠奉見記也。


 と有るのを典據として〔三〕、此れが若宮の出現であると言つてゐる等は、詭辯此上無しで寧ろ滑稽に感ずる程である。石清水八幡宮でも、攝社に水若宮(本宮の東方、若宮殿の南に在る。)と云ふのが有るのを、無理に史實に合ふ樣に解釋せんとて、此れの祭神を菟道稚郎子としてゐるが〔四〕、水若宮とは、常識的に云へば、流產した水子の事であるから、此れでは卻つて史實に遠ざかる事に成るのである。我國の御子神──及び若宮の出現は、然(サ)る迴り諄(クドイ)解釋をせずとも、古き信仰さへ知れば、容易に合點される問題であると同時に、又斯くの如く解釋するのが最も妥當であつて、さうで無ければ、東北地方に散在する鹿島神三十餘苗裔の御子神の由來や、熊野神の九十九王子の信仰等も、遂に不明と成つて了うのである。
 而して是等の巫女──即ち御子神を儲けた女性は、神母(或は人母、聖母とも云ふ。)と稱して特に崇敬を受け、往往神として祭られた物であつて、前に載せた巫女神(ミコガミ)の中の幾柱かは、蓋し其に相當してゐるのである。更に紀州海草郡宮村の官幣大社日前國縣神社には、古くから人母と稱する上﨟が、二人づつ神官として仕へてゐた〔五〕。土佐國長岡郡長岡村大字陣山小字神母の神母神社では、今でも性神(セックス・ゴッド)として知られてゐるが〔六〕、此れも神に仕へた巫女を祭つた物であらう。筑前福岡市西町の島飼八幡宮では中央に八幡大神を、左方に寶滿大神、右方に聖母大神を祭つてゐる〔七〕。九州には聖母大神、又は聖母屋敷と稱する物が各地に存してゐるが、是等は古く神母としての巫女に由緣の有つた神神であり、土地であつたに違ひ無い。遠江國磐田郡佐久間村大字半場小字神妻に鄉社神妻神社と云ふのが有る。社記に據ると、昔一人の巫女が神を生んだが、其神が神妻社の祭神と成つたので、神の母也とて同社の傍に墳墓がある〔八〕。肥後國鹿本郡吉松村大字船島の菅牟田神は、元は阿蘇大神の妾であつたが、正妻の嫉妬の為に、神と成つても阿蘇山の見えぬ處に宮造りをするさうだが〔九〕、此れも神母の其と見て差支無い樣である。前に巫女神の一例として舉げた、紀州海草郡東山東村大字平尾の都麻都比賣命神社は、土人の傳へには、此神は同郡の古社である、伊太祁曾神社の妻女であるので、一切の神事は、伊太祁曾社の社人が勤める事に成つてゐると云ふが〔十〕、恐らく此れも巫女が神妻と成つた物と考ふべきである。
 更に柳田國男先生の研究に據ると、民間傳承(フォークロア)として最も豐產なる人聞(ジンモン)菩薩は、此人母又は神母と關係有るかも知れぬと云ふ事である〔十一〕。『三代實錄』元慶四年三月二十二日に正六位上を授けられた筑前國の託神・咩神の如きも、其神名から推すも巫女神であつて、然も神母では無かつたかと思はれるのである。前引の『萬葉集』卷二に、「玉葛(タマカヅラ)、實成(ミナ)らぬ木(キ)には、千早振(チハヤブ)る、神(カミ)そ憑(ツ)くと云(イ)ふ、成(ナ)らぬ木如(キゴト)に。(0101)」と有るのは、神に占められ易き女性の身の上を詠じた物であるが、然も其由つて來たる所は、神主と巫女との關係が、其基調と成つてゐたのである。

〔註第一〕神祇の研究に關する文獻は、餘りに多く存してゐて、其書目を舉げるだけでも容易で無いが、其中重なるは林道春の『本朝神社考』、白井宗因の『神社啟蒙』、鈴鹿連胤の『神社要錄』、伴信友の『神名帳考證』、栗田寬の『神祇志料』と、外に柳田國男先生が『鄉土研究』と『民族』との各號に載せられた諸研究の論文、及び折口信夫氏著の『古代研究』の民俗學篇等をお讀み下さると、私が此處に舉げた神神の出自や機能も、良く御合點が往く事と思ふ。
〔註第二〕八幡宮の祭神が古く王神(ミコガミと訓む。)であつたのが、偶偶王神の國音が應神に通ずる所から、應神帝が祭神となられた過程に就いては、柳田國男先生の「玉依姬考」(『鄉土研究』四ノ十二所載。)に段段と考證されてゐる。八幡宮の祭神に關しては、國法の認むる所に依れば、極めて明白であるが、併し學問上には、昔から研究すべき餘地が存してゐて、栗田寬翁も『栗田先生雜著』卷一の「八幡神考證」に於いて、祭神は彥火火出見尊なるべしと、主張された樣に記憶してゐる。
〔註第三〕神主千鳥家に傳へた古記錄は『若宮御本緣又根元、同六所諸神根元、並進物日記』と云ふ長い書名だと同志料に載せて有る。
〔註第四〕『山城綴喜郡誌』。
〔註第五〕『官幣大社日前國縣神宮本紀大略』。
〔註第六〕『土佐史壇』第一卷第十三號。
〔註第七〕『筑前續風土記』卷三(益軒全集本)。
〔註第八〕『明治神社志料』卷上。
〔註第九〕『肥後國志』卷一〇。
〔註第十〕伴信友翁の『神名帳考證』。
〔註十一〕『民族』第二卷第二號「健兒松王」記事參照。
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