第三節 巫女教としての原始神道

 我國の原始神道が巫女教であつた事は、神道發達史から見るも、古代社會史から見るも、更に巫女史から見るも、民俗史から見るも、疑うべからざる事實である。私は此事に就いて記述したいと思ふ。
 我國の原始神道を説く者で、少しく我國と周圍民族との交涉を知る者は、殆ど言ひ合せた樣に、亞細亞の北方民族の間に發生し暢達した巫女(シャーマン)教との關係を言はぬ者は無い。併し、我國の原始神道と巫女(シャーマン)教との關係を學問的に考察して、此れを早く我が學界に紹介したのは、故山路愛山氏であつた〔一〕。此れに就いて、愛山氏は實に左の如く述べてゐる。

 巫女(シャマン)と云ふのは、滿洲の昔、即ち女真の時代に、女の巫(ミコ)の事を云つたのであります。今の滿洲語でも同じです。其から言葉の意味が移つて、今の滿洲では神を代表させる杆を矢張り巫女(シャマン)と云ひます。(中略。)
 斯う云ふ次第で、巫女(シャマン)教と云ふ物は女巫(ミコ)の教へであつて、神杆を立てて神を祭る事が特色である。然るに日本の昔でも其宗教は矢張り女巫の宗教でありました。さうして多少の變化は有ますけれども、矢張り滿洲の樣に神杆を用ゐたと思はれる形跡が無いではありませぬ。
 今先づ日本の教へが巫道(シャマニズム)と同じ樣に、女巫の教であつたと云ふ事を申上げます。日本では、昔は神主は多く女でありまして、男は少なう御座いました。其故に齋主を齋姬とも云ひます。中頃に成つて、支那の文明を採用し、日本の文明が段段支那流に成つて來ましたが、其でも女巫の宗教であつた時代の遺風として、其時代にも御巫(ミカンナギ)と云ふのは女でありまして、娘で神を祭る事が出來る資格の者を採つたのであります。祝(ハフリ)と云ふのは神主の樣な者であるけれども、此れも中世迄は女が多く、祝と禰宜(ネギ)とを一つの社に並べて置いた時も、祝も禰宜も女の方が男よりも多う御座いました。中古でさへ此位であつたから、其昔に於いて女が多く宗教に攜(タヅサ)はつた事は勿論の事であります。故に大昔には猿女君等と云つて、女を以て神に事へる事を職とした種族も有つた。天朝でも、天照大御神を祭り、大國魂神を祭るのは、皇女(ヒメミコ)の御役であつた。胸肩神と云ふのが九州に在ますが、采女(ウネメ)を遣つて其祭を助けさせた事が、古い書物に書いてあります。神に事へる女を巫(カンナギ)と云ひ、男性で神に事へるのを男巫(ヲカンナギ)と云ひ、始めは神に事へる者は巫と云へば女性であると云ふ事が分り、男で神に事へる者の方は後に成つて出來た故に、男と云ふ字を附けて男巫と云ふ樣にして、男女を分つたと云ふ事を考へると、言葉の上から言つても、日本は始めは女巫の宗教の國であつたと云ふ事が明白ではありませぬか。斯様に女性が宗教を掌るのは日本ばかりでは無い。(中略。)地理の上から言ふと、日本、朝鮮、滿洲、蒙古と、地續きで何れも女巫の世界でありました。私は此事實に據つても、斯う云ふ國は何れも女巫の宗教を信ずる國であつたと云ふ事を斷定するに足りると思う。云云。

 更に山路氏は論旨を進めて、(一)巫女(シャマン)の祭儀(神杆を樹て、鈴を用ゐる事等。)と、我國神道の祭儀との共通を説き、(二)巫女(シャマン)の宇宙觀が、天・地・下界と立體的の三層にある事が、同じく我が神道の高天原・顯國・黃泉國と三界に言ふのと一致するを明にし、(三)三神を一組にして崇拜する事が日・韓・滿共に同源から出た事等を舉げて、巫女(シャーマン)教と原始神道との關係、及び原始神道が巫女教であつた事を詳細に論じしてゐる。
 山路氏は生前、野史國士を以て自ら任じ、他も許した人だけに、此種の文化現象を專門に研究してゐる者から見ると、論旨が大まかで觀察も多少藪睨みの所が有るのは免れぬが、其にしても、當時にあつて、專門外の同氏が早く此點に著眼した事は、氏が凡庸の史家で無かつた事を證據立てると同時に、永く此研究の權輿者たる光榮を荷ふ物である。私が長長と氏の講演を引用したのも、生前に知遇を受けてゐたばかりで無く、全く此微意に外成らぬのである。而して最近に成つては鳥居龍藏氏を始め、上田萬年氏・白鳥庫吉氏を重なる者とし〔二〕、此外にも多くの研究者を出してゐる。
 原始神道が巫女教であつた事は、山路氏の研究で其要領は盡きてゐるのであるが、併し私は此研究の總てを無條件で受け容れる者では無い。成程、我國の原始神道は、山路氏の言はれた如く、(一)地理的に見て巫道(シャマニズム)の圏內に入る物であらうし、(二)教理的に見て共通の點が多く有し、(三)祭儀的に見て類似の形式が尠く無い事だけは異存も無いが、此れより一步進めて、「原始神道は直ちに巫道(シャマニズム)也。」と言ふに至つては、私としては如何にするにも承認する事が出來ぬのである。專門外の研究ではあるが、現存の學者中にも原始神道即ち巫道(シャマニズム)と考へてゐる者も少く無い樣であるから、此機會を利用して私の考へてゐる所を述べるとする。
 私が巫女(シャーマン)教に就いて有してゐる知識は、誠に恥しい程稀薄の物ではあるが、其稀薄なる聞見から言ふも、第一は我國の巫女は教義の基調を祖先崇拜に置いてゐるのに、巫女(シャーマン)教の巫女は、全く祖先崇拜と交涉を有してゐ無い點である。我國の巫女を通じて託宣する神の多くは祖先神(始めは氏神であつたのが、後に社會組織の推移に連れて產土(ウブスナ)神と成つた。此れに就いて後段に記述する。)であるが、巫女(シャーマン)教の巫女に憑く物は、祖先神で無くして、遊離してゐる一種の精靈にしか過ぎぬ樣である。第二は我が原始神道に於ける巫女の多くは、直ちに神として崇拜され(又巫女自身も斯く信じてゐた。)てゐたのであるが、巫女(シャーマン)教の巫女は、何處迄も精靈と人間との間に介在する者であつて、決して神として崇拜されてゐない。第三は巫女となる形式上の手續きに於いて、兩者の間に相違が有る。家の娘が母の後を承けて巫女と成るに就いては、彼我共に共通の相續を以てした樣であるが、實際の娘以外の女性(親族、又は弟子。)が巫女に成つて跡を繼ぐには、彼にあつては山中に在る鏡を拾得る事を條件とするに反し、我にあつては、多く發熱して、神懸り狀態の症狀となる事が要件に成つてゐる。
 以上三點は、其重なる物に過ぎぬが、更に此理由から派生した物として、巫女の神祇觀に於いて、巫女が行ふ呪術の方法に於いて、更に巫女の性的方面の作法に於いて、彼我の間に相違する物が相當に存してゐるのである。而して最近の研究に據れば、巫女(シャーマン)と云ふ語義、及び巫女(シャーマン)の有せる宇宙觀の如きも、果して彼獨特の物か否かさへ判然せず〔三〕、從つて我が原始神道の世界觀の如きも、巫道(シャーマニズム)よりも、寧ろ佛教の教理に負ふのでは無いかと云ふ説有るに於いては、猶ほ今後の研究を俟つべき物が多いのである。私は原始神道が巫女(シャーマン)教に良く似てゐると云ふのならば異議は無いが、此れより進んで全く同じだと云ふに對しては、到底左袒する事が出來ぬのである。
 併し斯く言ふものの、私として決して我が原始神道を巫女教に非ずと主張する者では無い。其點に就いては、山路氏よりは更に幾倍して、巫女教であつた事を高調する者である。畏き事ながら、天照神の高きを以てしても、新嘗を為されたのは、御女性で現(アラ)せられた為である〔四〕。更に溯つて言へば、我國の最高神である日神が女性であるのは、女子が神の極位を占むべき國柄であつた為である〔五〕。賀茂建角身命の女(ムスメ)が玉依媛と稱して、賀茂別雷命を生んだのは、即ち玉依媛は魂憑(タマヨリ)姬であつて〔六〕、一般の女性が巫女としての神人生活を送られてゐた事を暗示してゐるのである。神武帝の御母后が同じく玉依姬と稱された事も、亦此事を考へさせる物がある。
 而して崇神帝が皇女豐鍬入姬命を以て、伊勢皇大神宮の御杖代(ミツヱシロ)と為し給うて齋宮の制を立て、爾來、歷聖が御即位と共に皇親の女性を以て齋宮と為し、七十餘代に及んだのも、更に嵯峨帝が皇女有智子內親王を以て賀茂齋院と為して範を垂れ、同じく三十餘代を續けたのも〔六〕、共に神に仕へるは女性に限られた古代の聖規を傳へた物である。神武朝に道臣命に敕して神を祭らせし折に、特に嚴媛(イカシヒメ)の名を賜つたのも此れが為で〔七〕、今に神社亦は民間に於ける祭事に、男性が女裝して勤めるのも〔八〕、亦古き教䡄を殘した物である。神功皇后が、畏くも國母の身を以て、躬から神の憑代(ヨリシロ)と成られたのも、勿論皇后が女性で現せられた為である。
 山路氏も言はれた如く、女祝・女禰宜こそ、我國の聖職であつて、男子が此れに代つたのは、寧ろ變則であつた。前揭の『梁塵秘抄』に、「東(アヅマ)には女は無きか男巫(ヲトコミコ)、然ればや神も男には憑(ツ)く。」と有るのは、其變則を詠じた物である。而して此女性が即ち巫女であつたのであるから、我國古代は女性が祭祀の中心であり、其神道が巫女教であつた事は明確なる事實である。

〔註第一〕山路氏が主宰した『獨立評論』に連載した物を、後に『山路愛山講演集』第二に収めた。今は講演集に據つた。
〔註第二〕鳥居氏は多くの著書に於いて、上田氏は神道談話會、白鳥氏は東洋文庫講演會に於いて、共に高見を發表されてゐる。茲に一一其を記述する事は出來ぬけれども、何れも大家の説とて傾聽すべき物である。
〔註第三〕白鳥庫吉氏の講演で、此事を聽いた。猶ほ雜誌『民族』に揭載された、圀下大慧氏の巫女(シャーマン)に關する論文中には、此問題に觸れた所が多い。
〔註第四〕此事は『古事記』に見えてゐる。新嘗を為されると云ふ事は、即ち神神を祭られる儀式である事は言ふ迄も無い。我國の至上神が猶ほ神を祭ると有るのは、至上神が御女性であつた為である。
〔註第五〕天照神は男性で坐しますと云ふ説は、江戶期の一部の學者に依つて唱へられ、明治期には津田左右吉氏は『神代の新しき研究』に於いて、此説を發表された事がある。併し此説には、私は如何にするも同意する事が出來ぬ。巫女教であつた我國の最高至上神は、女性で無ければ成らぬ事は、多言を要せぬ事である。
〔註第六〕賀茂社に齋院を置かれた事は、單なる信仰上の問題では無くして、多少とも政治的意味が加つてゐる樣に考へられるが、埓外に出るので今は其迄は言はぬ事とする。
〔註第七〕『神武紀』に載せて有る有名な記事である。
〔註第八〕拙著『日本民俗志』に各地の類例を集めて説いた事が有る。



第四節 原始神道及び古代社會と巫女との關係

 我國の事を稍(ヤヤ)詳しく記錄した外國最初の文献は『魏志』の倭人傳である。而して其一節に左の如き記事が有る。

 (上略。)倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子為王,名曰卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。以婢千人自侍。唯有男子一人,給飲食傳辭出入居處。(中略。)卑彌呼以死,大作冢,經百餘步,殉葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺。當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定。(下略。)

 此記事は有名であるだけに、我國の古代史を研究する程の者ならば、誰でも知らぬ者は無いのであるが、然らば此卑彌呼なる者は何であるかと云ふ事に成ると、誰にでも判らぬ程の難問なのである〔一〕。私は卑彌呼の研究が目的で無いから、此れ以上には觸れぬ事とするが、更に此記事を巫女史の立場から考覈する時、左の如き事象を認識する事が出來るのである。

第一、卑彌呼(ヒミコ)は即ち日女子(ヒメコ)であつて男子の日子(ヒコ)と對立して、我が古代女性を云ひ現はす最高の名である事。
第二、卑彌呼が鬼神に事へ、能く眾を惑すとは、即ち巫女であつた事を意味してゐる事。
第三、卑彌呼が、年已に長ずるも夫婿の無きは、巫女は夫を有たぬ(其實は夫を有してゐても。)のを、原則にした事。
第四、卑彌呼に男弟が有つて、佐けて國を治めたと有るのは、曾て琉球に行はれた、神託を聞く女君が酋長であつたのが、進んで姊(又は妹。)なる女君の託言に依つて、弟(又は兄。)なる酋長が政治を行うた時代を想はせる物である事。而して此れに類似した制度が、內地にも古く存したと想はれる事。
第五、卑彌呼死後に宗女を王に立てたとは、巫女の相續は女系で傳へた物である事。

 女王卑彌呼の治めた倭國なる物が、現在我國の何處に該當するかに就いては、此れ又學界に異説が有つて、今に定説を見ぬのであるが〔二〕、其詮議は茲には姑らく措くとして、直ちに私の考へた所だけを述べると、以上に例舉した五項は、古く我國全體に行はれた巫女の作法と見て差支無いと信じてゐる。
 第一の、卑彌呼が比賣(ヒメ)子──即ち日女(ヒメ)子である事は言ふ迄も無い。古く日女子を比美(ヒメ)子と云ふ例証は、天壽國曼荼羅にも見えてゐる。而して此名を負ふ者が、古代に在つては、女性の社會的階級の高位に居る者に限つて用ゐられた事は疑ひ無い。後世に成ると、姬(ヒメ)の名が下級の者に迄濫用される樣に成つたが、日女は即ち日神の裔と云ふ意であるから、古代に在つては、神聖にして濫りに用ゐる事が出來無かつた筈である。而して卑彌呼(ヒミコ)が、此名で呼ばれてゐる所を見ると、彼女は當時の社會階級の高位に居た事が知られると同時に、原始神道の最高神である日神の裔であると信用され、崇拜されてゐた事が、併せ知られるのである。
 第二の、鬼神に事へ、眾を惑すは、改めて言ふを要せぬ程明確に、彼女が巫女であつた事を語つてゐるのであるが、唯(タダ)茲に慎重に考ふべき事は、最高の巫女が最高の治者であつたと云ふ點である。而して此事は、一方社會學的に見れば、我國古代には、母權社會が行はれてゐた事を想はせる有力なる手掛りと成り、更に一方神道發達史から見ると、神に事へる最高の神職は女性であつて、神職の最高者なるが故に、一國の治者と成り得るのであると云ふ、所謂、祭政一致時代の最も古き相を稽へさせる重要なる傍證と成るのである。寔に比倫を失ふ事ではあるが、此例を神代に覓めれば、即ち天照神が其であると申す事が出來るのである。前にも記した如く、天照神が新嘗をされたと云ふ事は、神に事へられた事であつて、其時だけは神官としては最高に位し、併せて高天原の統治者であらせられたからである。
 第三の、卑彌呼が年長ずるも夫婿が無かつたと云ふ事も、又我國の古俗を示してゐる物である。巫女は、原則として、神と結婚すべき約束の下に置かれてゐたのである。(是等(コレラ)の實例は後段に詳述する。)國中の女性が巫女として神人生活を營んでゐた時代に在つては、夫婿を定めるには、悉く神判成婚の形式に由ら無ければなら無かつたのである。而して初夜の權利は神が占めべき物と定められてゐた〔三〕。『萬葉集』巻二に、「玉葛(タマカヅラ)、實成(ミナ)らぬ木(キ)には、千早振(チハヤブ)る、神(カミ)そ憑(ツ)くと云(イ)ふ、成(ナ)らぬ木如(キゴト)に。(0101)」と有るのは、此思想を詠じた物で、更に同集巻三に、「千早振(チハヤブ)る、神(カミ)の社(ヤシロ)し、無(ナ)かりせば、春日(カスガ)の野邊(ノヘ)に、粟蒔(アハマ)かましを。(0404)」と有るのも、亦此思想を言外に寓してゐるのである。而して『源氏物語』の若菜巻を讀むと、上代貴族婦人は結婚せぬのを習ひとしてゐた事が釋然する。此れは何時でも神に占められる事の出來る樣にとの必要から來てゐたのである。內地の古俗を克明に保存した琉球でも、先五代の王女は結婚し無かつたと有る〔四〕。卑彌呼に夫婿が無かつたのは、彼女が巫女であつたからである。
 第四の、曾ては、神託を聞く女君が統治者であつたのが、後には、女君の兄弟が治者と成り、女君の託言に據つて、政治を行うたと有る一事は、我が古代國家の發達を知る上に於いて、極めて重要なる意義を有してゐると思ふのであるが、併し現在の學問の程度では、此れ以上を言ふ事は、或は官憲の欲せざる所と思ふから、態(ワザ)と省略に從ふ事とする。
 第五の、卑彌呼の宗女が其後を繼いだと有るのは、巫女の相續は女系を以てし、且つ其が、我が國に母權時代の在つた事の傍証と成る物で、我國では後世に至る迄、此遺風が存し、巫女は女系相續を以て規範としてゐたのである。
 以上の考察より見るも、『魏志』の記事は、我が古代社會制度と、原始神道と、巫女との關係を、明確に記述した物である事が知られるのである。倭國の所在地が九州であつたか、畿內であつたかは姑らく措くも、更に卑彌呼が、倭姬命であるか、神功皇后であるかは、同じく別問題とするも、此記事が、我國全般の巫女に關する物である事は、疑ふ餘地は無いのである。
 本居宣長翁が『駁戎慨言』巻上に於いて、『後漢書』の卑彌呼が鬼神に事へ、以妖惑眾と有るのに對して、「唐人(カラビト)、大御國の神道(カムナガラノミチ)を知(シ)らざるが故に、斯(カ)かる妄言(ミダリゴト)はする也(ナリ)。」と評し、更に『魏志』の、「自為王以來,少有見者。」以下に就いて、「己實(オノレマコト)には男にて、女王に非(アラ)ざるが故に、斯(カ)の魏の使(ツカヒ)に、徒(タダ)にはえ會(ア)はで、帳等垂(ナドタ)れて、物越(モノゴ)しにぞ會(ア)へりけん。」云云と言つてゐるが、此れこそ卻つて、本居翁が我が古代の實相を見誤つた智者の一失である。

〔註第一〕本居翁は、卑彌呼を神功皇后に擬し、內藤虎次郎氏は倭姬命に擬せられてゐるが、私は其よりは更に一段と古い時代の女酋であると考へてゐる。
〔註第二〕卑彌呼の治めた國に就いても、九州説と畿內説とが有るが、私は後者の説に從ふ物である。管見は『考古學雜誌』に發表した。
〔註第三〕是等に關して拙著『日本婚姻史』に詳記した。參照を願ひたい。
〔註第四〕折口信夫氏の談。



第五節 古代人の死後生活觀と巫女の靈魂觀

 我が古代人は、靈の不滅を信じ、肉の敗滅を事實として信じてゐた。前に引用した記・紀の諾冊二尊の場合に徵するも、冊尊は火神を生んだ為めに死を意味する神避りを為し、其尊骸は「蛆集蘯(宇士多加禮許呂呂岐)」たる敗滅の狀態であつたが、然も其靈魂は諾尊と問答し、又は諾尊を追ひ走る等、生前と少しも變らぬ活動を示されてゐる。而して此思想は、神で無い人間の上にも當然及ぼされて、人は死すると肉體は滅するも靈魂は滅せぬと、全く神の如く考へられてゐた。其では、此靈魂なる物は、何時でも再び人間界に戻つて來て、生前と同じ樣に人格を有して活動する事が出來るかと云ふに、其は決して出來ぬ物であると考へてゐた。何と成れば、人は一度死ぬと、黃泉國へ往き、此處で黃泉國の者となるべき儀式の「黃泉戶喫(ヨモツヘグヒ)」をするからでる〔一〕。即ち一度此儀式を濟したからは、不滅の靈魂も再び人格を備へる事は出來ぬ物と信じてゐたのである〔二〕。換言すれば、肉體が滅びた以上は、再び人間に成る事は出來ぬと信じてゐたのである。
 我が古代人が、靈と肉とを二元的に考へた例證は、相當に多く殘されてゐる。天照神が皇孫を葦原中津國に降臨せしめる折に、

 是時,天照大神手持寶鏡,授天忍穗耳尊而祝之曰:「吾兒,視此寶鏡,當猶視吾。可與(トモ)同床共殿,以為齋鏡。」

 と告げられたのは、即ち肉體を離れて靈魂の存在を認識した思想の現はれと見るべきである。他語を以て言へば、天照神の御魂は、常に此齋鏡に宿つてゐて、寶祚の隆んなる事、天壤と窮無き樣守護するとの意味なのである。然れば、記・紀其他の文献に徵するも、國家大事に際しては、常に神託を請うて嚮ふべき所を仰ぎ、天照神の御魂も亦屢屢現はれて、其採るべき方法を啟示されてゐるのである。此れ以外にも、靈肉の別と、靈魂の不滅を證する事實が多く存してゐるが、他は省略に從ふとする。
 斯く靈魂の不滅を信じた古代人は、更に此靈魂の活用を四つに分けて、荒魂(アラミタマ)、和魂(ニギミタマ)、幸魂(サチミタマ)、奇魂(クシミタマ)とした。此四魂の解釋に就いては、先覺の間に種種なる異説も有るが、私としては高田與清翁の説かれた、

 荒魂・和魂は、武魂・文魂と云はんが如し、神靈の武く荒びたるを荒魂と云ひ、靜に和ぎたるを和魂と云ふ。(中略。)幸魂は幸福の靈を云ひ、奇魂は奇妙の靈を云へる也。

 と有る解釋の簡明なるを好む(但し同意はせぬ。)物である〔三〕。併しながら、原始神道の立場から見ると、此高田翁の解釋は、餘りに字義に捉はれて古き信仰を忘れたかの感が有る。反言すれば、後世の知識を以て、古代の思想を忖度した嫌ひが有る。
 而して此れに較べると、鈴木重胤翁の、「荒魂は現魂にて、和魂は饒魂也。」と解釋されたのは、一段の進步である。然りと雖も、此鈴木翁の説も、次の如く、

 現魂は外に進み現出坐て、其神威を示し、又其強異を摧伏給はむと成るに、其に引替て、和魂は玉體に服て、御壽を守給はむと宣べるは、其玉體を離れず、鎮守御在むと云ふ事にて、所謂和魂の饒魂なる所以也〔四〕。

 と言ふに至つては、此れとても字義に重きを置いて、古代人の思想を閑卻した物として、高田翁の説と五十步百步たる事を免れぬのである。
 而して、私は此れに對して、巫女史の觀點から、極めて常識的に考へてゐるのである。其は、荒魂の古意は現魂であつて、即ち現に生きてゐる物の魂であつて、此れに反して和魂とは、死したる物の魂を云つた物であると言ふのである。現人神(アラヒトカミ)の現(アラ)は、即ち現存の意であつて、荒魂の荒(アラ)は、此れと同じ物に違ひ無い。和(ニギ)に就いては、誠に徵證が弱いのであるが、「古く『延喜式』に消炭を和炭(ニギズミ)と稱するより推して、和魂は死魂の意なるべし。」と有る説を採る物である〔五〕。
 全體、荒魂及び和魂の出典は、『古事記』では、神功皇后征韓の折に、新羅國に、「即以墨江大神之荒御魂,爲國守神而,祭鎮還渡也。」と有るのみで、和魂は見えず。『日本書紀』には、同じ神后紀に二箇所有るが、始めのは、「神有誨曰:『和魂服王身而守壽命,荒魂為先鋒而導師船。』」と有り、後のは、「撝荒魂為軍先鋒,請和魂為王船鎮。」と有るのが其である。
 而して茲に荒魂を撝(ホキヲキ)(古點に斯く訓むと云ふ橘守部翁に從ふ。)と云ひ、和魂を請(ネキ)と云うた事は關心すべき事で、現魂なればこそ祝招(ホキヲキ)る必要も有り、死魂なる故に念(ネキ)た次第と解すべきだと思ふ。其故に古くは荒御魂は現人の魂、和魂は死人の魂(魂に此二つの區別をしてゐた事は、巫女の職務中の鎮魂の節に述べる。)と解してゐたのを、記・紀が文字に記錄される際に、荒・和の二字を當てたので、種種なる疑義が生じ、遂に高田翁の如く武魂・文魂を以て解説を企てる迄に進んだ事と思ふ。國學者としては創見に富んでゐる橘守部翁が、「荒魂は此時に顯給ひし、現人神なる故に先鋒と成給ふ。」と有るのは〔六〕、參考すべき説と考へてゐる。而して次の幸魂と奇魂とに就いても私は別に考へる所が有るが、此れは巫女史の立場からは左迄に重要な問題と思はれぬので、姑らく高田翁の説に從ふ事とする。
 さて、斯うした靈魂に對する巫女の態度は、荒魂も和魂も、其靈魂が能動的に、人に憑(カカ)つて活く場合は、何等の豫告も無く、場所と時間とに關係無く、突如として現れる物とし。此れに反して、靈魂を衝動的に降き招して託宣を聽く事は出來るが、其には或る定まれる祭儀を行ふ事を必要とし、且つ其憑代(ヨリシロ)と成り得る資格を有してゐる者は巫女に限られた物と信じてゐたのである。少しく後世の事例を以て古代を類推する嫌ひは有るが、後代の巫女が專ら用ゐた生口(イキクチ)──即ち生ける人の魂を遠隔の地に於いて引寄せて語るのは、此荒魂の誨へから出た物で、死口(シニクチ)──即ち死せる人の魂を幽界から引出して語るのは、此和魂の法に由る物では無からうか。更に後代の巫女が「神口(カミクチ)」と稱して、人間の其年だけの運命を豫言し、凶を吉に返し、禍を福に轉じ、又は與へられた吉なり福なりを、保持し發展する樣に仕向けた一事は、此幸魂と奇魂との信仰に負ふ所が有るのでは無いかと思はれる。其で無いと、我國に於いて特種的に發達した巫女の呪術の起源が不明に歸するからである。

〔註第一〕黃泉戶喫の事は、土俗として民間にも今に殘つてゐる。其最も顯著な一例は、結婚の夜に、新郎・新婦が同じ茶碗に盛つた飯を、二人して食ふのが其であらう。同じ鍋の物を食ふと云ふ事は、即ち、彼等が同族に成つた事を意味するのである。
〔註第二〕我國には古く轉生の思想は無かつた。此れを言ふ樣に成つたのは佛教渡來後である。
〔註第三〕『神祇稱號考』巻二(大日本風教叢書本)。
〔註第四〕『日本書紀傳』。
〔註第五〕『參宮圖絵』巻下附錄。
〔註第六〕『稜威之道別』(橘守部全集本)。
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