第四章、巫女の呪術に用ゐし材料

 巫女の呪術に種種なる方法が有つた樣に、其呪術に用ゐた材料にも、亦種種なる物が在つたのである。私は此處に是等の材料に就いて述べる考へであるが、其の以前に於いて一言すべき事がある。其れは、茲に巫女の用ゐた呪術の材料と云ふものの、文獻上からは必ずも巫女とは限られてゐずして、卻つて覡男と共通、若しくは覡男に限られた物が相當多く加はつてゐる事である。從つて、私の此記述には、巫女史の範疇を越えて、或は一般の巫術史に涉る樣な嫌ひが有るけれども、我國の文獻は屢記の如く、巫女が覡男に征服された後に記述した物である為に、巫女に關する物は至つて僅かしか傳へられてゐ無いのである。其れで止む無く、斯うした態度を執る樣に成つたのであるが、併し見方に依つては、覡男の用ゐた物は巫女も用ゐ、其の間殆ど共通してゐたとも想はれるので、敢て此方法に出た次第なのである。

第一節 呪術の材料としての飲食物

 諾尊が黃泉國に冊尊を訪れて歸るさに、黃泉醜女に追はれた際、桃・筍・葡萄(エビカツラ)の三つを以て擊退した事は既記を經たので再說せぬが、唯茲に考へて見無ければ成らぬ問題は、此の三つは物其れ自體は一種の呪力を有してゐたと云ふ事であつて、呪術に用ゐられたので呪力が發生したのとは違ふ點である。全體、呪術に用ゐられた材料は、概して言へば、咸な此種の物に屬するのであるが、稀には呪術に用ゐられた為に呪力が發生する物も有るので附記するとした。而して古代の呪術に用ゐられた飲食物は大略左の如き物である。

一、米

 豐葦原瑞穗國と云はれた我國にも、古くは一粒の米も無かつた。天照神が熊大人をして稻種を覔められたと云ふ神話は〔一〕、米が外來の物である事を良く說明してゐる。然るに米を獲て蒼生の生きて食ふべき物と成るや、其の稻は忽ち神格化されて、屋船豐受姬命(俗に宇賀能美多麻と云ふ。)と成り〔二〕、精靈を拂ふ呪力有る物として信仰される樣に成つた。『日向國風土記』逸文に、

 臼杵郡內智舖鄉。天津彥彥火瓊瓊杵尊,離天磐座,排天八重雲,稜威之道別道別而,天降於日向之高千穗二上峰。時天暗冥,晝夜不別,人物失道,物色難別。於玆,有土蜘蛛,名曰大鉗・小鉗二人,奏言皇孫尊:「以尊御手拔稻千穗為籾,投散四方,必得開晴。」于時,如大鉗等所奏,搓千穗稻,為籾投散,即天開晴,日月照光。

 と有るのは、米を呪術に用ゐた初見の記事であつて、古代人の米に對する信仰が窺はれるのである。
 『持統紀』二年冬十一月條、天武帝の殯宮に、「奉奠(クマ),奏楯節舞。」と記した奠は、古く米を「奠稻(クマシネ)」と云つたのから推すと、米を靈前に奉る事は、此れに呪力を信じたからであり。尚『和名類聚抄』祭祀具部に「『離騷經』注云、糈,【和名,くましね(久萬之禰)。】精米所以享神也。」と有るのも同じ意である。「大殿祭」の祝詞の細註に、「今世產屋,以辟木束稻,置於戶邊,乃以來米,散屋中之類也。」と載せたも又其れである。『古語拾遺』肱巫の細註に、「今世竈輪及米占也。」も米を用ゐた呪術に外成らぬ。而して此の信仰は後世の散米(打蒔(マキ)・花稻(シネ)・御奠(ミクマ)・手向米等とも云ふ。)と成り、種種なる傳說や俗言を生む樣に成つたのである〔三〕。猶ほ後世に成ると、大豆や小豆を呪力有る物として用ゐてゐるが〔四〕、古代に於いては寡見に入らぬので何とも言ふ事が出來ぬ。


二、水

 人類の生活に火の無い時代は有つたかも知れぬが、水の無かつた時代は想像する事も出來ぬ。我國に於いても火神の信仰よりは、水神の信仰の方が古くから存してゐた樣である。從つて水に呪力を認め、此れを呪術に用ゐた例は、少しく誇張して言へば、枚舉に遑が無い程多く存してゐる。誰でも知つてゐる諾尊が日向の檍原で御禊せられたのは、海水の呪力を信じて、黃泉の穢れを拂うた物である。「變若(をち)水」を飲めば、心身共に更新すると考へた思想も神代から存し、然も其れは現代に迄若水として名殘りを留めてゐる。『萬葉集』卷十三に、「天橋も、長くもかも、高山も、高くもかも、月讀みの、持たる變若水、い取來て、君に奉りて、越えむ年はも。(3245)」と有るのや、同集卷七に「生命をし、幸く良けむと、石走る、垂水の水を、掬びて飲みつ。(1142) 」と有るのは、共に此信仰に因る物である。而して此信仰は水を神とし、更に水の湧く井を神と崇める迄に發展し、生井・榮井・綱長井と神格化する樣に進んでたのである〔五〕。我國に觀水系呪術(ウォーターのゲージング)(次章參照。)が發明されたのも、決して偶然では無かつたのである。猶、後世に於ける水の呪術に就いては、各時代下に記す機會が有るので、今は省略する。


三、鹽

 我國では鹽の呪力を認めた信仰は、遠く諾尊の檍原の海水の御禊に出發してゐる事は言ふ迄も無いが、此れが呪術の材料として用ゐられたのは、『應神記』に、伊豆志乙女を爭ひし兄弟の母が、其の兄の不信を憤りて「乃取其伊豆志河之河嶋一節竹而作八目之荒籠。取其河石,合鹽而裹其竹葉,令詛言(トゴヒ):『(中略。)如此鹽之盈乾而盈乾。』」と有るのが(此の全文は既載した。)、古い樣である。『丹後風土記』逸文に、天女が老夫婦に苦しめられた折に、「思老夫老婦之意,我心無異荒鹽者。」と言うたのは、鹽の呪術に詛(トゴヒ)されて患ふるに同じとの意味であらう。禍津神を驅除すべき祓戶四柱の中なる速開津姬が、荒鹽の鹽の八百道の八鹽道の、鹽の八百會に座(ヰワ)した事は、良く鹽の呪力を語る物である。而して『貞觀儀式』平野祭の條に「皇太子於神院東門外下馬,神祇官中臣、迎供神麻,灌鹽水訖。(中略。)至神院東門,曳神麻灌鹽水。」云云と有るのや、『古語拾遺』に御歲神の怒りを和めんとて、「以薏子(ツス)、蜀椒(ハジカミ)、吳桃(クルミ)葉及鹽,班置其畔。」と有るのも、共に鹽の呪術的方面を記した物である。


四、川菜

 「鎮火祭」の祝詞に、火神が荒び疏びた折には、「水神、匏(ヒサゴ)、植山姬、(中山曰、土の精靈。)川菜。」の四種を以て鎮めよと載せて有る。川菜が呪術の材料として用ゐられた事は、私の寡聞なる此外には知る處も無いが、古く此れが巫女に用ゐられた事は、此の一事からも推測されるのである。
 猶、此外に、酒や、飴や、蒜や、蓬等を呪術の材料として用ゐた例證も有るが、是等は私が改めて說く迄も無いと考へたので省略した。

〔註第一〕稻の原產地は南支那と云ふが、此稻が我國に輸入された稻筋に就いては、南方說と北方說との兩說が有る。私は我國の稻は朝鮮を經て舶載された物と考へる物で、其事は『土俗 傳說』第一卷三號に「穗落神」と題して管見を發表した事が有る。
〔註第二〕「大殿祭」の祝詞の細註に在る。保食神は原始神道上からも、更に民俗學上からも、研究すべき幾多の材料が殘されてゐるのであるが、所詮は稻の精靈であると云ふに歸著するのである。
〔註第三〕『日向國風土記』の逸文から導かれて、高千穗峰に原生の稻が有つたと云ふ傳說は、『三國名勝圖繪』や『薩隅日地理纂考』等を始として、各書に記載されても居るし、又諸先覺の間にも此事が論議されてゐるが、私には贊意を表する事が出來ぬ。稻の野生が我國に無く外來の物である事は疑ふべき餘地は無い。
〔註第四〕追儺に大豆を撒き、祝事に小豆飯を炊く等を重なる物として、此の二つは呪術的には相當廣く用ゐられてゐるが、古代に在つては、其の事實が寡見に入らぬ。琉球の傳說を集成した『遺老說傳』に據ると、大豆と小豆とは、後に外來した物だと載せて有るが、內地に有つても何か斯うした事實が有つたのでは無からうか。
〔註第五〕井の信仰に就いては私見の一端を、『鄉土研究』第三卷第六號所載の「井神考」で述べた事が有る。敢て參照を望む。



第二節 呪術の為に發達した器具

 呪術の為に發生した物と、此れに反して、發生の理由は他に在るも、呪術に用ゐられた為に一段の發達をした物と有るが、茲には是等を押し包めて記すとする。唯恐れるのは、本節に於ける私の考覈は、從來の研究と異る處が有るので、異說を立てるに急なる者の樣に誤解されぬかと云ふ點である。併し私としては決して然る野心の毫も有せぬ事を言明する次第である。

一、玉

 我國に古く重玉の思想の在つた事は言ふ迄も無い。否否、思想と云ふよりは、信仰と云ふ方が適當に想はれる迄に、玉を重んじてゐた。而して其の玉は概して勾玉(マガタマ)の名を以て呼ばれてゐたのである。神代に於ける饒速日命の傳へた十種神寶は、悉く呪具である事は改めて說くを要せぬが、此內、生玉・足玉・死反玉・道反玉と、四つ迄玉が占めてゐた事は、重玉の信仰の容易ならぬ事を證明してゐる物である。『垂仁紀』八十七年春二月條に、

 昔丹波國桑田村有人,名曰甕襲(ミカソ)。則甕襲家有犬,名曰足往(アユキ)。是犬咋山獸名牟士那(ムジナ),而殺之。則獸腹有八尺瓊勾玉,因以獻之。是玉今在石上神宮。

 と有るのは、山獸の腹に勾玉の在つたと云ふ事が、當時の民族心理からは、一つの神恠として見られたのであるが、併し其の勾玉が石上神宮に納められたのは、玉を重く信仰した結果に外成らぬのである。
 全體、我國の勾玉に就いては、考古學的にも民俗學的にも研究されるべき餘地が少からず殘されてゐるのである。就中、私の興味を唆る物は、勾玉の形狀は何を象徵(シンボライズ)してゐるのであるかと云ふ事である。從來の學者の說く處に據ると、勾玉の形狀は、遠い祖先達が狩獵を營んでゐた際に、猛獸又は食獸を獲た場合に、一は其れを記念する為に、一は其の齒牙に呪力有る物と信じて、胸に懸けたのに始まると言はれてゐて、此說は殆ど學界の定說と成つてゐるのである〔一〕。
 併しながら、私に言はせると、此考察は餘り常識的であつて、我國の古い民俗に適應せぬ物が有る樣に想はれる。私は茲に勾玉を研究するのが目的で無いから、結論だけを簡單に記すとするが、私の信ずる處では、勾玉は腎臟の象徵(シンボル)であると斷定する物である。
 由來、我國では心の枕辭に村肝の二字を冠してゐて、此の村肝とは「肝は七葉群(ムラガ)りてあれば、群肝と云ひ、さて、肝向・心乎痛共呼みたるが如く、心と肝とは相離れぬ物なれば、然續けたりとすべし。」と、賀茂真淵翁は說かれてゐるが〔二〕、併し此れとても、私に言はせると「むら(群)」の字義に捉はれた說で腑に落ちぬ物がある。私は固く信じてゐる。我が古代の遠い祖先達は、狩獵に出て、鹿や豬等を獲た時には、是等の食獸を與へてくれた山神に對して、獸を支解し、其の心臟を供物として捧げた習禮の有つた事から推して〔三〕、獸類の解剖には(巫女は人間の屍體を截斷する職務を有してゐた事は後章に詳述する。)相當熟練してゐた事と、且つ遠い祖先達が神秘な物不思議な物として、多大の興味を維(ナツ)いでゐた性器の活(ハタラ)きの根元を知らうとした事である。此結果として、性器の活きの根源は腎臟に在る事は、夙に知られてゐた筈である。
 然るに、此腎臟の色は紫であつて、其れが乾固(カハキカタ)まると、恰も勾玉の如き形狀と成る。赤き心に對して紫の腎(キモ)、此れは支那で發達した陰陽五行の說を醫術に採用し、心・腎・肺・脾・肝の五臟に、赤・青・黃・白・黑の五色を箝當した醫書を見ぬ以前に於いて、確かに、此の赤心紫腎だけの事實は、遠い先祖達の知つてゐた所である。私は此の乾し固めた腎臟を胸に懸けたのが勾玉の古い相(スガタ)であつて、然も紫(むら)肝の枕辭を為した所以だと考へてゐる〔四〕。而して斯く腎臟を胸に懸けたのは、(一)山神に捧げた心臟に對して、自分等が此れを所持する事は、神の加護を受ける物として、(二)性器崇拜の結果は此れに呪力の存在する物として、(三)原始時代の勇者の徽章又は裝身具として用ゐた物と信ずるのである。
 猶ほ此機會に於いて併せ考ふべき事は、古代人は勾玉を靈魂の宿る物〔五〕、若しくは靈魂の形と思つてゐたと云ふ點である。此れも理由を述べると長く成るので結論だけ言ふが、我國で、魂と玉を、同じ語(コトバ)の「タマ」で呼んでゐたのは、此事を裏付ける物と見て差支無い樣である。玉を呪術に用ゐた事は周知の事である上に、勾玉の解說が餘りに長く成つたので他は省略する。


二、鏡

 鏡の起りは「鑑」であつて、其用途は、陽燧に在つたと云はれてゐるが、我國に渡來する樣に成つてからは、專ら呪術の具として用ゐられてゐた。『景行紀』十二年秋九月の條に、神夏礒媛(巫女にして魁帥を兼ねた者。)が參向する際に、

 則拔磯津山賢木,以上枝挂八握劍,中枝挂八咫鏡,下枝挂八尺瓊,亦素幡樹于船舳。

 と有るのは、當時、呪具として最高位の鏡・劍・玉を用ゐた物であつて、此れと全く同一なる記事が『仲哀紀』にも載せてある所を見ると〔六〕、かなり廣く行はれてゐた事が知られるのである。而して鏡が照魔の具として用ゐられた事、及び巫女に限つて鏡を所持した事等は、共に鏡が呪具として重きを為してゐた事が想像される。『萬葉集』卷十四の「山鳥の、尾ろの秀津尾(ハツヲ)に、鏡懸け、唱ふべみこそ、汝に寄そりけめ。(3468)」と有るのは、蒙古に行はれる聖なる幡(ハタック)(此事は次章に云ふ。)と共通の物の樣に想はれるが、兔に角に山鳥は古くから靈鳥として信仰され、且つ十三の斑(フ)を有する尾は呪物として崇拜された物であつて〔七〕、然も其の山鳥の秀尾へ鏡を懸けるとは、言ふ迄も無く、立派な呪具であつたのである。其れ故に下句の「唱ふべみこそ、汝に寄そりけめ。」とは、即ち魂を引寄せるだけの力が有る物と考へられてゐたのである。猶、鏡に就いては、第五章第四節「憑るべの水」の條にも記すので、其れを參照せられん事を希望して、茲には概略に留めるとする。


三、劍

 諾尊が黃泉醜女に追はれた折に「拔所御佩之十拳劍而,於後手振きつつ(布伎都都)逃來。」と有るのは、劍に呪力の有つた事を物語る最古の記事である。『神武記』に帝が紀州熊野村に到りし時荒振神に逢ひ、

 爾神倭伊波禮毘古命儵忽為遠延(をゑ)、(中山曰、毒氣に中る事。)及御軍皆遠延而伏。此時、熊野之高倉下【此者人名。】齎一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子即寤起、詔:「長寢乎。」故受取其横刀之時、其熊野山之荒神自皆爲切仆、爾其惑伏御軍悉寤起之。

 と記せるも、亦た劍に呪力の有つた事を證明してゐる物である。而して斯くの如き記事は、我國の一名を「細戈千足國」と云うただけ有つて、僂指に堪えぬ程夥しく殘されてゐる後世の巫覡の徒が惡靈退治の呪術を行ふ時、劍を揮つて空中を斬るのは、此の信仰に由來する物であつて、更に「劍の舞」なる物が彼等の手に殘されてゐたのも、又た之に基因してゐるのである。


四、比禮

 大己貴命が素尊の許に往き、蛇室に寢る時須勢理媛より蛇比禮を與へられ、且つ「其蛇將咋,以此比禮三擧打撥。」と教へられ、次で蜈蚣(ムカデ)比禮・蜂比禮を與へられて難を逭れた事は有名な神話である〔八〕。亦天神より授けられた十種神寶の中にも、蛇比禮・蜂比禮及び品物比禮(クサクサノヒレ)の三種が舉げてある。更に『應神記』に新羅から投化した天日矛の將來した寶物の中にも、振浪比禮と切浪比禮の二つが有つたと載せてゐる。而して是等の比禮が、呪術用の物である事だけは、明白に知られてゐるのであるが、其れでは其の比禮なる物は何かと云ふと、此れに就いては、古くから異說が多いのである。
 本居宣長翁は「比禮とは、(中略。)何もまれ打振る物を云ふ、されば魚の鰭も水中を行とて振物、服の領巾(ヒレ)も本は振らむ料にて、(原註略。)皆本は一つ意にて名けたる物ぞ。然れば蛇比禮とは、蛇を撥ふとて振物の名也。」と判つた樣で判らぬ事を言うてゐる〔九〕。谷川士清翁は、記・紀・萬葉集等から多くの例を舉げた後に、「比禮は、元衣服の事なるべし。」と輕く說明してゐる〔十〕。鈴木重胤翁は賀茂真淵の『冠辭考』に『萬葉集』卷三の「栲領巾の、懸けまく欲しき、妹が名を。(云云。)(0285)」と有るのを引用して、然る後に曰く、「栲は白き物なれば、實に栲領巾は白き領巾なりし也。今も京邊りの下樣の女等、表立たる禮式に額帽子とて、生𥿻を以て製たる物を夏冬共に必ず帽(カム)るは、領巾の遺制なるべし。予今年下野國足利郡の方へ物せしに、其宿れる家に入來る女、何れも新しき手拭を頂に卷く事京の額帽子の如し。(中略。)こは上古の領巾の遺意の存(ノコ)れる也。」と〔十一〕、飛んでも無い籔睨みをしてゐる。更に飯田武鄉翁は、『大神宮儀式帳』・『外宮儀式帳』・『和名抄』等の事例を比較した後に、「比禮は古き女の服具にて、白き帛類をもて、頂上(ウナジ)より肩へ懸けて、左右の前へ垂せる物と聞えたり。」と考證してゐる〔十二〕。
 私は茲に服飾史の上から比禮の研究を試みる事は措くが、是等の諸說の中、飯田翁の考證に左袒する物である。而して此服具を、或は蛇比禮と云ひ、或は蜂比禮と云うたのは、呪具としての用途に依つて名付けた物と考へてゐる。巫女の比禮に對して、覡男の手繦(タスキ)も又一種の呪具であるが、此れに就いては省略する。


五、櫛

 素尊が八岐大蛇を退治して、奇稻田媛を救う事を、『古事記』には「速須佐之男命,乃於湯津爪櫛取成其童女,而刺御角髮(美豆良)。」と載せ、『日本書紀』には、「素戔嗚尊立化奇稻田姬,為湯津爪櫛,而插於御髻。」と記してゐる。而して此の兩記事に在つては、素尊が稻田姬を櫛と成して御髻に插した樣に解せられるので、昔の神道學者──殊に法華神道の似非學者達は、種種なる神恠を說いてゐるのであるが、民俗學の立場から言へば、女子が櫛を插す事は男子に占められた事。──即ち良人を有つたと云ふ標識に過ぎぬのである〔十三〕。此れは後章に詳しく言ふ考へであるが、伊勢齋宮に成られた皇女が、野宮を出て愈愈皇太神宮へ群行せらるる折に參內すると、天皇が躬から「別れの櫛」を齋宮の御髮(ミグシ)に插されるのは、齋宮は神に占められる事を意味してゐるのである。
 然るに、櫛(クシ)は奇(クシ)と通じ、更に串(クシ)とも通ずるので、古く齋串を齋櫛の意に用ゐ、櫛に一種の呪力有りとする信仰を養ふに至つた。從つて櫛を神體として祭つた神社さへ尠く無いのである。諾尊が櫛を投じて醜女を攘うた故事から、櫛を拾ふと他人と成ると云ふ俗信は、現在に於いても行はれてゐる。『萬葉集』卷十九に、「櫛も見じ、屋中(ヤヌチ)も掃かじ、草枕、旅行く君を、齋ふと思ひて。(4263)」と有るのは、良人の留守に、櫛で髮梳り、箒を用ゐる事は、羈旅に在る良人に禍を負はせる物と考へた為である。後世の巫女が櫛占をしたのも、又此信仰から導かれてゐるのである。
 猶ほ此種に屬する呪具の中に、幡・幟・幣等を數へる事が出來るのであるが、是等は後に記述する機會も有らうと思ふので、今は觸れぬ事とした。

〔註第一〕故坪井正五郎氏を始め、多くの人類學者や、考古學者は、皆此の獸牙說を採つてゐて、幾多の著書や雜誌に、此事が載せてある。從つて天下周知の事と思ふので、書名や、誌名は、煩を避けて省略した。猶勾玉に就いては、谷川士清翁の『勾玉考』が、良く史料を集めて、古代の重玉信仰を說いてゐる。參照せられたい。
〔註第二〕『冠辭考』卷下。其條。
〔註第三〕柳田國男先生の著『後の狩詞記』及び『民族』第三卷第一號所載の早川孝太郎氏の『參遠山村手記』及び同氏著『豬・鹿・狸』(第二叢書本)を參照せられたい。
因みに言ふが、柳田先生の『後の狩詞記』は稀覯書であるので、茲に其の一節を摘錄すると「コウザキ。豬の心臟を云ふ。解剖し了りたる時は、紙に豬の血液を塗りて之を旗とし、コウザキの尖端を切り共に山神に獻ず。」と有る。
〔註第四〕先年雜誌『太陽』へ拙稿「枕辭の新研究」と題して揭載した事が有る。誌上には匿名に成つてゐる。號數は失念したが、大正六・七年頃の發行である。
〔註第五〕瓢が魂の入れ物であると云ふ古代人の信仰に就いては、柳田國男先生が『土俗と傳說』の第二號から連載された「杓子と俗信」の中に述べられてゐるし、更に近刊の『民俗藝術』第二卷第四號所載の「人形と大白(オシラ)神」の中にも記してある。而して、我國の古代に於いて、墳墓を瓢型に築いたのも、亦此信仰に由來してゐるのである。人魂の形は、杓子に似てゐるとは、今も言ふ處であるが、古代人は、勾玉の形を人魂の形に聯想してゐた事も、考慮の內に加ふべきである。
〔註第六〕『仲哀紀』八年春正月條に「筑紫伊覩縣主祖五十跡手,聞天皇之行,拔取五百枝賢木,立于船之舳艫,上枝掛八尺瓊,中枝掛白銅鏡,下枝掛十握劍,參迎于穴門引嶋而獻之。」と載せてある。
〔註第七〕山鳥尾の呪力に就いては、曾て『土俗と傳說』第三號に「一つ物」と題して拙稿を載せた事が有る。
〔註第八〕『古事記』神代卷。
〔註第九〕『古事記傳』卷十(本居宣長全集本)。
〔註第十〕『增補語林倭訓栞』其條。
〔註十一〕『延喜式祝詞講義』卷九の細註。下野國足利郡は、私の故鄉である。從つて、此地方の民俗には、失禮ながら鈴木翁よりは通じてゐると云つても差支無いと信ずるが、私の知つてゐる限りでは、此地方で、婦女が手拭を冠つて他人の前へ出るのは、髮の亂れを隱す為であつて、領巾の遺風等とは考へられぬ。此れは鈴木翁の思ひ過ごしであらねば成らぬ。其れに、冠る物では無くして。垂れる物である。
〔註十二〕『日本書紀通釋』卷二十六。
〔註十三〕女子の有夫の標識には、種種なる民俗が有る。眉を拂ふのも、齒を染めるのも、更に櫛を插すのも皆其れである。詳細は拙著『日本婚姻史』に諸國の例を集めて載せて置いた。宮城縣の磐瀨郡では、昔は未婚者と既婚者の區別は、櫛を插すと插さぬとに在つたが、近年では、誰も彼も櫛を插すので區別に苦しむと、同郡誌に記してある。



第三節 呪術に用ゐし排泄物

 人體の性器を以て呪術を行ひし事は、第五章に記述する考へであるが、茲には人體から排泄された物を呪術に用ゐし事に就いて敘說したいと思ふ。唯、血液を排泄物として、他の唾液や糞尿と同じ樣に取扱ふ事は、少しく妥當を缺く嫌ひが有るも、別に此れが為に一節を設くるも仰仰しいと考へたので、姑らく茲に併記す事としたのである。

一、血液

 古代人が他の民俗と闘爭して負傷し、又は狩獵に出て猛獸と格闘して負傷した時に、身內から滾滾として流出づる血を見ての驚き、及び其血の流出づる事が止ると共に生命の盡きる事を知つて、血は生命の根元也と信ずる樣に成つたのは、蓋し當然の事と言は無ければ成らぬ。ヴント(Wilhelm Wundt)は、此れを血液魂と名付け、精靈(アニミズム)時代に於ける一つの信仰であると論じてゐる。『古事記』神代卷に、諾尊が、火神迦具土を產んだ為に冊尊の神避りしを憤賜ひ、十拳劍を拔いて火神を斬りしに、其御劍の先に著いた血から三神が成坐し、次に御劍の本に著いた血からも三神が成坐し、更に御劍の手上に集る血から二神が成坐したと有るのは、血に對する最も古き信仰であつて、然も血は神を生成する力さえ有る物と考へてゐたのである。反言すれば、血は魂の宿る物と信じてゐたのである。
 斯く、血の神秘と、呪力を信じた古代人が、其血を呪術的方面に利用せんと企てた事も、又た當然の事と言は無ければ成らぬ。そして是れが最初の利用は血其物を飲むと云ふ事であつた。現に我國の俠客と稱する者の間に於いて、親分乾兒の義を結ぶ盃をする時、又は兄弟分の盃をする時に、血を酒に和して飲合ふのは〔一〕、此れが名殘を留めた物であつて、此事は一面から見れば、親分の血を飲む事に依つて、親分の有する力を分與へられた物とする精神的の誓ひであつて、更に他の一面から見れば、此れが為に親分の命令には絕對に服從する社會的の盟ひであつた。近年迄、山形縣田川郡の各村村では、結婚式を舉げる折に、新郎は左の無名指から、新婦は右の無名指から、針を刺して血を出し、其を一つの盃に入れて飲合うたと云ふが〔二〕、此れは血を飲む事が直ちにお互ひの魂を飲合ふ事を意味した物である事は言ふ迄も無い。武士階級に行はれた血判なる物も、又た此思想に由來してゐる事は勿論である。
 人血を飲む事が、他の動物の血に移される事は、極めて自然の經過と見るべきである。人血が容易に得られ無く成る樣に成れば、動物中の特に靈性有る物と信じた鹿や豬の血を以て此れに代へる事は、少しも不思議の無い遷變りである。殊に其が、民間の對症療法として、或る種の病氣には或る種の動物の血が效くと云ふ樣に成れば、想ひも寄らぬ動物の血が、呪術的に飲まれるのは、寧ろ有り得べき事とし無ければ成らぬ。疾病と呪術の關係に就いては、後章に巫女の職務を說く折に詳述したいと考へてゐるので、茲には多く言ふ事を避けるとするが、血が呪術の材料として用ゐられた事は決して珍らしくは無かつたのである。今に肺病には虌の血が、肺炎には鯡鯉の血が利くとて好んで飲み、琉球では重病者に、生きた豚に竹の管を刺して熱い血を飲ませる等、有り觸れた事實として見聞するのである。此事は醫學的に言へば一種の輸血法として說明されるのであらうが、斯う云ふ點からも、呪術は科學の母であつた事が想ひ合されるのである。
 『播磨國風土記』讚容郡條に、

 所以云讚容者,大神妹妋二柱,各競占國之時,妹玉津日女命,捕臥生鹿,割其腹而種稻其血。仍一夜之間生苗,即令取殖。(中略。)即鹿殺山(シカヲコロシシヤマ),(浦木按、鹿放山と記す方が一般的である。)號鹿庭山(カニハヤマ)。云云。

 と有るのは、鹿血に稻種を浸して播いた為に、稻が一夜にして苗を生じた事を言うたのであつて、即ち血液に呪力を信じた物なのである。由來、我國には北野神社の一夜松傳說を始めとして〔三〕、各地に一夜にして生えた杉とか、松とか云ふ物、又は一夜稻とか、一夜麥とか云ふ傳說が澤山に存してゐるが、此れは其の始めは『播磨風土記』に現れた樣に、神の意を占うべき誓(ウケヒ)として行つたのであるが、其が佛教が渡來してからは佛徒に利用され、其奇蹟を示す手段として行はれる樣に成つた。弘法大師が一夜にして稻芽を出させた等云ふのは、其土に蟻の塔(此れは非常に蟻酸を含んでゐる。)を交ぜて播種すると促生する理法を用ゐた物だと聞いてゐる。『播磨風土記』の記事は、勿論蟻酸等を用ゐた物で無く、鹿血に種を浸したので促生したと云ふ、呪力の說明をしたのに外成らぬのである。
 而して同書賀毛郡雲潤里(ウルミノサト)條にも、血を呪術に用ゐた例が載せてある。

 丹津日子神:「法太之川底,欲越雲潤之方。」云爾之時,在於彼村太水神,辭云:「吾以宍血(シシノチ)佃,故不欲河水。」云云。

 此れは稻種を血に浸したのでは無くて、宍血を以て田を作る──即ち宍血を肥料にしたと云ふ程の意味に云はれてゐるけれど、其が呪術的の效能を期待されて用ゐられた事は想像に難く無い。誰でも知つてゐる事では有るが『古語拾遺』に御歲神が怒つて田の稻苗を枯らした時、大地主神が、其怒りを和(ナゴ)める為、「以牛宍置溝口。」かせたのも、亦牛宍の有つてゐる血の呪力を信じた為である。
 琉球には、現時でも血の俗信が深く、祖先の遺骨の實否を正すには、此れを求むる子孫が指等傷けて血を出し、其の骸骨に注ぎ掛け、祖骨為れば血が骨に滲込むと云うてゐる。又た妊婦が流產して出血の甚だしい時は、應急手當として、局部より出た血を口中より注込めば良いとて行うてゐる。更に豚の料理でも、目上の者に送るには、血いりちと稱して、同じ豚血を以て煮ると定つてゐる。殊に同地では、豚血を尊重し、漆器の朱塗りの材料に用ゐ、絲滿の漁夫は網に此血を塗ると豐漁であるとて、血を買ひに來る事すら有るさうだ〔四〕。又同地の石垣島では惡疫が流行する時は、村道の辻や家並の門に注連繩を張り、此れへ牛血へ浸した藁と、牛骨(方言にてフシマフサハサァーと云ふ。)及び蒜根を結びし物を繩の中央に懸垂れて豫防の呪符とするさうである〔五〕。
 以上は悉く血を魂の宿る物と考へた結果から生じた呪術である。而して此れに類似した俗信は、內地に在つても廣く各地に行はれてゐたのである。武藏國北足立郡箕田村大字三木の山王樣へ參詣する者は、必ず紅がらを御神體の局部へ塗るのは、古く其が血灌頂の俗信から出てゐる事は言ふ迄も無い〔六〕。土佐國室戶崎の捕鯨場に漁神として蛭子像が祀られて有る。漁師は海に出て初めて獲た魚を持歸り、其鮮血を此像に塗る事に定めて有るが、同地の豐漁と不漁とは、此像の乾濕に依つて知られると云ふ事である〔七〕。
 斯うした民俗學的の徵證を列舉する段に成ると、兔に角に私が專攻してゐるだけに、讀者がうんざりする程夥しき迄に陳列する事が出來るが、例證は必ずしも多きを以て尊しとせぬので他は割愛する。此民俗から推すのも太だ早速ではあるけれども、稻荷神に限つて鳥居を赤く塗る事等も、何か曰くが有りさうに思はれる。
 最後に血の信仰に就いて閑卻されぬ問題は、婦女の月水を利用する呪術である。『景行記』に載せた、宮簀媛の襴(スソ)に月立ちにけりと有る一句は、專ら血の忌み、若しくは血の穢れと云ふ意味にのみ解釋されてゐるが、斯く月水に近付くべからず、触るるべからず、と禁忌(タブー)された處に、呪力の在る事を認識してゐたのである。餘り愉快な問題で無いので深く言ふ事は措くとするが、此呪術は、時代の下ると共に、大いに巫女に利用される樣に成つたのである。茲には其だけの注意を促すに留めるとする。


二、唾液

 私は先年、客氣に驅られて、紀伊國熊野神社の祭神である速玉男神(ハヤダマヲノカミ)及び事解男神(コトサカヲノカミ)の兩神は、共に唾液の神格化された者が、後に人格神と成つたのであると云ふ考證を發表した事が有る〔八〕。勿論、當時の私の研究には多くの缺陷が有つたので、吾ながらも其の粗笨であつた事を認めざるを得ぬのであるが、然し其結論である熊野神は唾液の神格化也と云ふ點だけは、今に固く主張する事が出來ると考へてゐる。私が改めて言ふ迄も無く、熊野社の祭神である速玉・事解の二神は、諾尊の唾液から成坐した事は神典に明記されてゐる處である。此れを『日本書紀』に徵するに、其の一書に、

 伊奘諾尊追至伊奘冉尊所在處,(中略。)乃所唾之神,號曰速玉之男。次掃之神,號泉津事解之男。凡二神矣。云云。

 と載せて有る。而して斯くの如く唾液が神格化される樣に成つたのは、古く唾液には呪力が在る物と信じられた為である。諾尊が冊尊を追うて黃泉國に到り、絕妻(コトドワタ)して其穢れに觸れたので、此汙き國を去るに臨んで唾液を吐かれたのは、此呪力に依つて、惡氣亦は邪氣を拂はれたのである。
 唾液の有した呪力に就いては、此れを民俗學的に見る時は、古今を通じて、其例証の多きに苦しむ程であるが、其を一一載せる事は差控へるとして〔九〕、更に、事解神に就いて私見を述べんに、此れは大和葛城の一言主神が、「吾者,雖惡事(マガコト)而一言(ヒトコト),雖善事(ヨゴト)而一言(ヒトコト)。言離(コトサカ)之神,葛城一言主之大神者也。」と宣(ノ)られた〔十〕。其の言離と同じ意味であつて、現代語で云へば、唾液を吐いたのは、契りを絕つた證據であつて、此れ以後は言語も交はさぬぞと云ふ事なのである。一言主神の言離も、「善惡ともに一言に云ふぞ、再び問ひ返しても一度言離りした上は答へぬぞ。」と云ふ意味である〔十一〕。
 而して此神話から派生した唾液の呪力は、古代人の固く信仰してゐた物と見えて一二の記錄に殘されてゐる。『日本書紀』神代卷に、天孫彥火火出見尊が兄火酢芹命と山幸・海幸を交換し、兄の鉤を失ひて海神の宮に至り、海神が此鉤を得て尊に授ける時に教へるに、「還兄鉤時,天孫則當言:『汝生子八十連屬(ツヅキ)之裔(ノチ),貧鉤(マチヂ)、狹狹貧鉤(ササマチヂ)。』言訖,三下唾(ツバ)與之。」と載せ、更に『古語拾遺』にも、御歲神の子が、大地主神の作れる田に至り、「唾饗而還。」と記したのは、二つ共に唾液の呪力を示した物である。
 而して以上の記事は、一般の呪術に關する物であつて、特に巫女に限られた物では無いのであるが、今はさる選擇をせずに記述した迄である。巫女が唾液を呪術に用ゐた事に就いては、後章に於いて觸れる考へである。


三、尿

 『日本書紀』の一書に、諾尊が黃泉國より追われて歸る時「乃向大樹放尿(ユマリ),此即化成巨川。泉津日狹女將渡其水之間,伊奘諾尊已至泉津平阪。」と有るのは、尿に呪力有る物とした記事と思はれる。
 併しながら、古代の徵証に在つては、私の寡聞なる是れ以外に知る處が無いので、何とも言ふ事が出來ぬ。更に糞を呪術に用ゐた事は既述したので省き、此外に鼻汁を青幣とした(以洟為青和幣)事が神代卷に見えてゐるが、これも巫女史としては左程に重要な記事とも考へられぬので、同じく省略に從ふ事とした。




〔註第一〕私の故鄉である下野國足利郡地方は、私の少年の頃は謂ゆる「長脇差」の本場であつて、博徒の親分と稱する者が澤山在つた。現に、私の近所にも「親分」なる者が住んでゐて、少年の頃に良く、親分乾兒の固めの盃をする儀式(?)を目擊した物であるが、親分の血(小指へ針を刺して取る。)を冷酒に和し(後には鹽を酒に和した)て飲むのであつて、其式は立會人とか介添人とか云ふ連中が居並び、實に悲壯を極めた物であつた。兄弟分の盃は、御互いに血を出し合つて飲み合ふのであるが、彼等の間には「血を飲み合つた仲」と云ふのは、血肉を分けた親子兄弟よりも義に強い所が有つた。
〔註第二〕『東京人類學雜誌』第一卷第十號。
〔註第三〕『北野緣起』に載せて有る。
〔註第四〕『土俗と傳說』第一卷第四號所載「沖繩書留」條。
〔註第五〕石垣島觀測所長岩崎卓爾氏の『蛭木(ヒルギ)の一葉』に載せて有る。
〔註第六〕此山王樣は、性的神としては有名な者で、諸種の雜誌や書籍に載せて有る。今は齊藤昌三氏著『性的神の三千年』に據る。
〔註第七〕土佐高知市に居住の先輩寺石正路氏より私への書信に據るが、此事は同氏著の『土佐名勝巡遊錄』か『土佐遺聞錄』かに載せて有つたと記憶する。
〔註第八〕大正五六年頃に、國學院大學に開催された、鄉土會の席上で講演した。そして是れには、猶ほ我國で椿木を靈木として信仰した由來──即ち椿(ツバキ)と、唾(ツバキ)との關係を說か無ければ成らぬのであるが、今は煩を避けて省略する。
〔註第九〕岐路に立つた時唾八卦を行ふとか、蛇を指して其のままにして置くと指が腐るので唾を吐き掛るとか、睫毛を唾で濡らすと狐に騙されぬとか、斯うした俗信は、各地に亘つて數へ切れぬ程澤山有る。
〔註第十〕『古事記』雄略卷に在る。
〔註十一〕一言主神は當時に於ける呪術師──即ち覡男であつたのである。此神に就いては『鄉土研究』第四卷第一號に載せた柳田國男先生(誌上には川村杳樹の匿名。)の「一言主考」を參照せられたい。神祇官流の學者等には、千兩の物を一口に喰ふても考い出せぬ程の卓見である。
arrow
arrow
    全站熱搜

    brenda9727 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()