第三節 性器利用の呪術と巫女の異相

 男女の性器に呪力有りとした民間信仰は、古代から存した事は既記の如くであるが、更に巫女が娼婦化し、巫道が墮落する樣に成つてから、此信仰が、一段と助長した事は、明白に看取される。此處には、其代表的事實として、毛髮信仰に由來する巫女の七難の揃毛に就いて記述を試みんとする。



一、原始的な毛髮信仰

 毛髮を生命の指標ライフ・インデックスとした信仰は、古くから我國にも存してゐた。『神代紀』に、素尊が種種の罪を犯して、高天原を逐はれる時に、八束鬚を斷られたと有るのは、即ち此信仰の在つた事を裏付ける物と見て差支無い樣である。降つて『孝德紀』に、「或為亡人斷髮刺股而誅。」を制禁したのも、又た髮に生命の宿る事を意識してゐた民俗に出發してゐるのである。現にアイヌ民族では、巫女ツスの呪力は鬢髮の間に深く藏されてゐて、髮を剃れば巫術は行はれぬ物と信じてゐる〔一〕。斯うした信仰から導かれて、毛髮には或る種の呪力の存する物として、崇拜された民俗は、今に樣樣なる形式で殘つてゐる。
 例へば、田畑に立てる案山子カカシの語源には異說も有るが、此れは毛髮を燒いた匂ひを鳥獸が嫌ふ為に、之コレを木に吊し、竹に挾んで立てた即ち嗅せカガかがせの轉訛と見るのが穩當である〔二〕。節分の夜に、蟲の口を燒くとて、鰯の頭を毛髮で卷き、柊枝に刺し、豆殻を焚きながら唱へる種種なる呪文も〔三〕、咸ミンナ臭氣を以て、農作に損害を與へる動物を拂ふ為で、其が毛髮を燒いた事に源流を發してゐる事は明白である。既載した琉球の「於成ヲナリ神」の信仰は、男子が旅行する際に、姊なり妹なり(姊妹無き者は從姊妹。)の毛髮二三本を所持してゐれば、息災であると云うてゐるが、此れに似た信仰は、內地にも廣く古くから行はれてゐたのである。
 此處に二三の類例を舉げれば、妊婦の橫生逆產を安產せしめるには、良人の陰毛十四本を燒研し、豬膏に和して、大豆大に丸めて吞ませると宜い〔四〕。人が若し、蛇に咬まれた時は、其人の口中に男子の陰毛二十本を含ませ、汁を嚥めば、毒の腹に入る事は無い〔五〕。私の生れた南下野地方では、男子が性病に掛つた時は、三人の女子の陰毛を貰集め、此れを黑燒にして服すと、奇功が有ると云うてゐる。是等は、廣く尋ねて見たら、更に他地方にも行はれてゐる事と思ふ。其から、芝居の興行師や、茶屋女等が、來客が少くつて困る時は、陰毛三本を拔き、一文膏へ貼り、人に知れぬ樣他の繁昌する店頭へ貼つて來ると、必ず其店の客を引く事が出來ると信じてゐた〔六〕。
 而して以上は、專ら男女の陰毛に關した物であるが、之コレ以外の毛髮に就いても、又た深甚なる俗信が伴つてゐたのである。播州飾磨郡地方では、惡疫流行の際に、袂の底に毛髮を二三本入れて置くと、惡疫に掛からぬと云つてゐる〔七〕。山城國葛野郡小倉山の二尊院の門前に、長タケ明神と云ふが有る。社傳に據ると、檀林皇后の落ち髮を祀つた物だと云うてゐる〔八〕。記述した稱德女帝の御髮を盜んで、犬養姊女等が呪詛したと有るのも、髮に生命の宿る事を信じてゐたからである。京都市外の雙ヶ岡の長泉寺には、吉田兼好法師の木像が有り、外に辭世の、「契りをく、花と雙びの、岡の邊に、あはれ幾代の、春をへぬらむ。」の歌を、兼行が剃髮の毛で文字を綴つて作つた掛幅が有る〔九〕。同じ京都市外の栂梶の西明寺には、中將姬の髮の毛で、彌陀三尊の種子を作つた掛幅が有る〔十〕。此れと似た物が、上野國邑樂郡六鄉大字新宿の遍照寺にも有る。此れも中將姬の毛で、彌陀三尊の梵字を一字づつ織り出してゐるが、俗に頭髮の曼荼羅と稱してゐる〔十一〕。
 其から、甲州御嶽の藏王權現の寶物中に、北條時賴剃髮の毛と云ふが有る。其毛は、綰ねて捲子の中に納め、其外に、「最明寺殿御髮毛、愛宕山へ納め候を、當將軍樣家光?御申下し、愚僧方へ參候を、當山へ奉納候、寬永一六年正月吉日、納主不明。」と記して有るさうだ〔十二〕。更に、雲州出雲郡神立村の立蟲神社は、社家の傳に素尊の毛髮を納めた所だと云つてゐる〔十三〕。そして薩摩國日置郡羽島村の髢大明神は、天智帝の妃大宮媛が、頴娃に下向の時、同村を過ぎ髢を遺されたのを祀つた物と傳へられてゐる〔十四〕。斯うした毛髮信仰は未だ各地に存してゐるが、煩を避けて他は割愛した。昭和の現代でも、嬰兒の產ウブ毛を保存して置くのは、此古い信仰の名殘りであると言ふ事が出來るのである。
 其では、斯かる信仰は、何に由來してゐるかと云ふに、其總てを盡す事は、アニミズム時代から說かねば成らぬので、其は茲には省略するより外に致し方は無いが、兔に角に、(一)毛髮が自然と伸長する事、(二)黑い毛が年齢により白くなる事、(三)死體は腐つて了つても、毛だけは永く殘ると云ふ事等が、古代の人人をして毛髮にも一種の靈魂が宿る物と考へさせたに起因するのである。而して古代人は、異常は必ず神秘を伴ふか〔十五〕、又は神秘の力を多分に有してゐる物と併せ信じてゐた。此處に頭髮なり、鬚髯なり──殊に陰毛なりが、異常に長い事を、一段と不思議とも考へ、神秘力の多い物とも考へる樣に成つた。巫女の七難の揃毛は、此信仰から發生し、此れに佛法の仁王信仰が加つて完成された物である。



二、各地に存した七難の揃毛

七難の揃毛(ソソゲ)の文獻に現われたのは、「扶桑略記」卷二十八が初見のようである。即ち治安三年七月十七日(此月十三日に萬壽と改元)に、入道前大相國{○藤原/道長}が、紀州高野山の金剛峯寺へ參詣した歸路に、奈良七大官寺の一なりし元興寺に立寄り『開寶倉令覧、中有此和子陰毛{宛如蔓不/知其尺寸}云々』とあるのが、それである。勿論、これには七難の揃毛とは明記してないが、此の和子の陰毛が宛も蔓の如く、その尺寸の知れぬほど長いものであったということは、他の多くの類例から推して、明確に知り得られるのである。 而して私は、茲にこれが類例を舉げるとするが、先ず東京市の近くから筆を起すと、北千住町の少し先きの、武藏國北足立郡谷塚村大字新里に、毛長明神というがあった。昔は長い毛を箱に納めて神體としていたが、いつ頃の別當か、不淨の毛を神體とするは非禮だといって、出水の折に、毛長沼に流してしまった。此の毛長明神の鳥居と相對せる、南足立郡舍人村大字舍人には、玄根を祀った社があったが、今では取拂われて無くなってしまった〔一六〕。下總國豐田郡石下村の東弘寺の什物に、七難の揃毛というがある。色は五彩(五色の陰毛とは注意すべきことで、後出の記事を參照されたい)長さ四丈有余、何者の毛か判然しない。傳に、往古七難と稱する異婦があって、この者の陰毛だと云っている〔一七〕。これに就いては、「甲子夜話」卷三十に僧無住の「雜談集」を引用して、『俗に往昔の靈婦の陰毛なり』と載せている。今、私の手許に雜談集が無いので、參照することが出來ぬが、若し此の記事に誤りがないとすれば、僧無住は、梶原景時の末裔で、嘉祿年中の出生であるから、此の揃毛は鎌倉期にはあったものとして差支ないようである。 それから、伊豆の箱根權現の什物中にも、悉難ヶ揃毛というものがあった。「尤草子」に長き物の品々にも、七なんがそそげとあるのを見ると、長い物であったことが想われる〔十八〕。上野國多野郡上野村大字新羽に神流川というがある。慶長頃に洪水があり、その時に、此の川の橋杭に怪しい長い毛が流れかかり、村民が大勢して拾いあげて見ると、長さ三十三尋餘りあり、その色黑くして艷うつくしく、何の毛か分らぬので、村民も驚いたが、そのまま打ち棄てて置くことも出來ぬので、巫女を招んで占わせたところが、此の毛は同村野栗權現の流した陰毛だというので、直ちに同社へ送り返した。同社では每年舊六月十五日の祭禮の節には、神輿の後へ此の陰毛を筥に入れて、恭しく捧げ持ち、今に陰毛の寶物とて名が高い〔一九〕。然るに、此の毛髮は現存していると見え、近刊の「多野郡誌」によると、新羽村の新羽神社の神寶にて、橘姬の毛髮長さ七尺五寸と記してある。 更に、同樣の例を舉げれば、信州の戶隱神社にも、古く七難の揃毛というものがあったが、現今では山中院と稱する宿坊の物となり、平維茂に退治された鬼女紅葉の毛と傳え、色は赤黑く縮れていて、長さ五六尺ばかり、丸く輪になって壺の中に納めてあるという事である〔二〇〕。それから、天野信景翁の記すところによると、尾張の熱田神宮にも、昔は此の種の長い毛があったと云うことである〔二一〕。そして、飛驒國大野郡宮村の水無瀨神社の神寶は六種あるが、その一に七難の頭髮というがある。社家の說に、昔この地に鬼神がいて、名を七難と稱した。神威を以て誅伐されたが、その毛髮だと云っている〔二二〕。 尚、近江國の琵琶湖中にある竹生島の弁才天祠にも、七難の揃毛があった〔二三〕。同國石山の阿痛(アライタ)藥師堂には、龍女の髮の毛というのがある。琵琶湖に栖んでいた龍女が得脫して納めたものだと傳えているが、その髮は長くして、地に垂れるほどのものである〔二四〕。これには、戶隱のそれと同じく、別段に七難の揃毛とは明記してないが、併し鬼女といい、龍女というも、結局は揃毛の呪術が忘れられた後に附會した說明であるから、元は揃毛であったことは、他の類例からも知ることが出來るのである。大和國の官幣大社──巫覡に緣故の深い物部氏の氏神である石上神宮にも、また七難の揃毛というのが現存している。最近に發行された繪端書で見ると〔二五〕、今に婦人が用いる「ミノ」と稱する髢(かもじ)のようなもので、餘り長いものだとは思われぬ感じがした。同國吉野のどろ川という所の奧の天(テン)ノ川の弁天堂に、七難のすす毛とて、長さ五丈ばかりのものがある。俗に白拍子静御前の髮の毛だとも云い、また緣起を聞くと、甚だ尾籠なものだと云う事である〔二六〕。備後國奴可郡入江村の熊野神社の末社に、跡厨殿というのがあるが、祭神は判然せぬ。神體は男女とも毛が長く、一に毛長神とも云っている〔二七〕。越前國大野郡平泉寺村から白山禪定の故地に往く道に、七難の岩屋というが殘っている〔二八〕。此の二つは、やや明瞭を欠く所もあるが、毛長といい、七難とといっているので、姑らくここにかけて記すとした。 三 陰毛の長い水主明神 巫女と七難の揃毛を記す以前に、猶お予備として、陰毛の長い神の在ったことを述べて置く必要がある。讚岐國大川郡譽水村の水主神社の祭神が、陰毛が長いために、親神から棄られた緣起は既載した。但し、親神が何が故に、陰毛の長いのを恥じたのか、理由が判然せぬが、恐らく磯良神が變面を恥じたという傳說と共に、異相であったことを心憂く思ったものと考えられる。而して讚岐の隣國なる、阿波三好郡加茂村字豬乃內谷の彌都波能賣神社にも、神毛にまつわる信仰が傳えられている。此の神社は、僅かに一筋の長い毛であるが、常には麻桶に入れて、神殿の奧深く安置してある。神慮の穩かならざるときは、その毛が二岐に分れて大いに延び、桶を押し上げて外へ余るようになる。これに反して、神意の和(なご)むときは、本の如くなると、里人は語っている〔二九〕。これには陰毛だとは明記してないが、同書の附載として『大和國布留社(記述の石上神宮のこと)にも大なる髮毛あり、ソソゲといふ由』とあるのから推すと、筆者が態(わざ)と此の點の明記を避けたものと考えられる。 日向國兒湯郡西米良村大字小川字中水流の米良神社は、祭神は磐長媛命と傳えられているが確證はない。此の社にも、昔は一筋の毛髮があって、これを極秘の神寶としていた。俚傳によると、祭神が世を憤りたまい、此の地の池に投身された折の神毛だというている。元祿十六年の洪水で、此の神毛は流失してしまったが、これの在った間は、神威殊に著しく、不淨は勿論のこと、外人殊に下日向の人を憎んで、一步も境內に入れなかったと云う事である〔三〇〕。俚謠に『お竹さん、×××の毛が長い、唐土(カラ)(又は江戶)までとどく』とあるのは、いつの世に、誰が何の理由があって、言い出したものか知る由もないが、七難の揃毛を背景として考えるときは、常人にすぐれた長い陰毛を持っているということは、或る種の呪力有している人と見られていたのであろう〔三一〕。そして此の信仰は、巫女が性器を利用した呪術に發し、これに仁王信仰が附會して、巫女が好んで陰毛の長大を誇り、併せてこれに種々なる裝飾を加えるまでに至ったのである。 四 仁王信仰と七難即滅の思想 現在では、仁王尊といえば、寺院の門番と思われるまでに冷遇されているが、古く奈良朝から平安朝へかけては、仁王信仰は上下の間に深く行われたものである。而して仁王尊の功德に就いては、仁王經に載せてあるが、これに關して南方熊楠氏の言われるには、 七難のこと、仁王經にあり(中略)。是等七難を避くるために、五大力菩薩(五人の菩薩名は略す)の形像を立て、これに供養すべしとなり。朝家に行われし仁王會の事なり。然るに、それは一寸大仕事ゆえ、七難即滅のために一種の巫女が七難の舞をやらかせしにて、それより色々と變り、猥褻なる事にもなり、陰を出し(中山曰。所載の貴船社の巫女と和泉式部の件參照)通しては面白からぬゆえ、秘儀を神密にせんとて、殊更に長き陰毛を纏いしなるべし。凡て佛法に隱れたる所にある長毛を神靈とせるは「比丘尼傳」の外に「大唐西域記」卷十中天竺伊爛孥伐多國、室縷多頻沒底抅胝(聞二百億)の傳にも見えたり(中略)。此人(釋迦の弟子)は、一足の裏に長き金色の毛あり、甚だ寄なりとて、國王が召して見たことがある。とある〔三二〕。以上の說明によって、七難の揃毛の由來と、巫女が好んで陰毛の長きを利用した事情が、全く釋然したであろうと思う。 更に下總の東弘寺に傳った陰毛が、五彩であったという事であるが、これに就いても、南方熊楠氏は、 姚秦三龍佛陀耶舍共笠法念譯、四分律藏二十九卷に、爾時薄伽婆(佛の事)在舍衛國給孤獨園、時六群比丘尼、蓄婦女、裝嚴身具、手腳釧及猥所莊嚴具(印度は裸で熱い所故に、衣服を飾りても久しく保たず、汗に污れる故に、髮腕足の輪環又陰毛を染め、甚だしきは陰部に玉を嵌める等の飾りあり)諸居士皆見識嫌云々。との例を舉げ〔三三〕、我國のもこれを真似たものだろうと言われている。 以上の俗信を頭脳に置いて、古い七難の揃毛のことを再考すると、それは前にも述べた如く、佛說を土台とした巫女等が、猖んに長いほど呪力の加わるものとして利用した結果が、三丈五丈のものを殘すようになったのである。巫女の墮落と、異相も、ここに至って極まれりと言うべきである。猶お本節を終るに際し、南方熊楠氏の示教に負うことの多きを記して、敬意を表する次第である。 〔註一〕金田一京助氏の談。〔註二〕川口孫次郎氏が「飛驒史談」において、詳しい考證を發表されたことがある。私の記事は、これに據ったものである。〔註三〕「水戶歲時記」によれば、同地方では「隣りの嫁さんの××の臭さよ、ふふん」と唱え、更に「吉居雜話」によれば、駿河の吉原町邊では「ながながも候、やッかがしも候、隣りの婆さん屁をたれた、やれ臭いそれ臭い」と云う由。共に臭氣を以て、鳥獸を逐うた名殘をとどめたもので、更に此の問題は、惡臭のする草木を呪符の代用した俗信にも觸れているのである。〔註四〕「千金方」。〔註五〕時珍の「本草綱目」。そして以上の二書は、支那のものであるが、これ等の呪術が我國に行われていたので、敢て舉げるとした。〔註六〕「東京人類學雜誌」第二十九卷第十一號。〔註七〕「飾磨郡風俗調查」。〔註八〕「山州名跡志」卷九(史籍集覧本)。〔註九〕「甲子夜話」卷五十二(國書刊行會本)。〔註一〇〕同上。〔註一一〕「群馬縣邑樂郡誌」。〔註一二〕「甲斐國志」卷六十四。〔註一三〕「出雲國式社考」卷下(神祇全集本)。〔註一四〕「三國名勝圖繪」卷十。〔註一五〕俗に白ツ子という者や、低能者などを、異常者として、一種の崇敬した例さえある。〔註一六〕元祿年中に、古川常辰の書いた「四神地名錄」に據る。〔註一七〕「和漢三才圖會」卷六。〔註一八〕加藤雀庵の「さえずり草」。〔註一九〕「閑窓瑣談」卷四(日本隨筆大成本)。〔註二〇〕「日本傳說叢書」信濃卷。〔註二一〕「鹽尻」卷二(帝國書院百卷本)。〔註二二〕「斐太後風土記」卷四(日本地誌體系本)。〔註二三〕「和漢三才圖會」同條。〔註二四〕「近江輿地誌略」卷三十六(日本地誌大系本)。〔註二五〕東京の溫故會と稱する好事家の集りで秘密に出版したものに據る。〔註二六〕「塵塚物語」卷四(史籍集覧本)。〔註二七〕「藝藩通志」卷四。〔註二八〕「大野郡誌」下編。〔註二九〕「日本傳說叢書」阿波卷。及び「阿州奇事雜話」に據る。〔註三〇〕「鄉土研究」第四卷第十二號。〔註三一〕福島縣石城郡草野村大字北神谷の高木誠一氏の談に、同地方では「百舌鳥(モンズ)モンモの毛、太夫(巫女)さんの×××毛三本つなげば江戶までとどく」と言うそうだ。〔註三二〕「南方來書」明治四十四年九月十三日の條。〔註三三〕同上。明治四十四年十月十日の條。 第四節 巫女の間に用いられた隱語巫女が呪術の際に用いた隱語は、その時代により、更にその流派(又は師承)により、必ずや異ったものが存したように想われるけれども、遺憾ながら、詳しいことは、寡見に入らぬ。誰でも知っている「東海道膝栗毛」日坂の條で、巫女の母子が口寄せした折に、夫の事を唐の鏡と云い、妻の事を相の枕と云ったとある程度のもので、誠に自分ながら慚愧に堪えぬ次第であるが、今のところ奈何ともする事が出來ぬので、知り得たところを記して、敢て後人の集成に俟つとする。     南總珍(房總志料叢書本)市子の隱語の條タカラ(子供) 弓取(夫) 相ノ枕(妻) ヘラトリ(男) 松ノ露(孫) 瓜の蔓(兄弟) 唐ノ鏡(世間) 舞台(身代) 烏帽子寶(惣領)    登米郡史(宮城縣)卷上、方言の條唐ノ鏡(妻) 相ノ枕(夫婦) ヘラトリ(主婦) ヰクラダイショウ(主人) ヰクラナラビ(隣家)    鈴木久治氏談(秋田縣仙北郡長信田村出身)巫女の隱語相の枕(夫婦) 弓取(男) ヘラトリ(女) 居家を踏まへる弓取(相續人の男子) 又や續きの弓取(家の次男) 一の親類(本家) ふるさと(嫁聟の生家) こひしき(緣談) やくし(醫者) 寶弓取(寄せられた佛の子の男) 寶へら取(同上の女子) 寶同然の弓取(同年輩の他人の男子) 寶同然のへら取(同上の女子) 親神の弓取(父親) 親神のへら取(母親)元より秘密にしている巫女の隱語であるから、明確に總てを知ろうとするのは無理なことであって、此の乏しき例に就いて見るも、既に二三の相違があり、殊に「南總珍」に載せたヘラトリを男とした如きは、全く誤りであることが知られるのである。 而して斯くの如き巫女の隱語が、何時頃に定められたものか、これも明確には知ることの出來ぬ問題ではあるが、曾て南方熊楠氏が、私に語った所によると、『巫女の隱語中に、弓取、烏帽子、鏡などの語のあるところより推して考えるに、是等の物が家の體面上、又は身の裝飾上に必要欠くべからざる時代に出來たものと見て差支なかるべく、それは概ね鎌倉中葉以降と見るべきである』との事であった。私は別に異說がないので、茲に南方氏の意見を取次ぐだけにする。 第六章 巫女の社會的地位と其の生活第一節 歌舞音樂の保存者としての巫女神懸りにおいて舞踊を發明し、歌謠の源流である敘事詩を生んだ巫女が、更に是等を發達に導き、併せてその保存者となるべき地位に置かれるのは、寧ろ當然の歸結である。神遊び(後の神樂)は、時勢の降ると共に、漸く複雜化せるも〔一〕、猶お遊びの前後に阿知女(アチメ)の作法を行うほどの用意を忘れず、歌謠も神樂歌より、催馬樂、今樣、風俗と多くの種目を加えたけれども、その歌手は概して巫女か、それでなければ巫女から出た歌女(カメ)と稱するものであった。併しながら、時勢の發達は、舞踊や、歌謠を、いつ迄も巫女の手に委ねては置かず、それぞれ專門の者を出すようになったが、茲にはその過程に就いて記述する。 一 歌占の發達と巫女の詩人的素養 古代における巫女の託宣が、俗談平語を離れて、律語的に、且つ敘事詩的に發せられるのを常としたが、此の傾向は、漸次に歌占と稱する歌謠の形式を以て行われるようになった。前載の、惠心僧都が金峯山に巫女を訪ねたときに答えたるものが、その一例であるが、更に「平治物語」に鳥羽法皇が熊野へ參詣し、 權現を勸請し奉らばやと思召て、まさしき巫女やあると仰せければ、山中無雙の巫女を思召す、御不審の事あり、占申せと仰せありければ、權現すでにおりさせたまへりと云へるところのことを(中略)半井本には、巫、法皇に向進らせて、歌占を出したり、「手にむすぶ水に宿れる月影は、あるかなきかの世にはありけり」とありて、下文にさて云々と申たてば、巫女取あへず「夏はつる扇と秋の白露と、いづれかさきに置まさるべき」、夏の終秋の始とぞ仰せられける。とあるのも、又それである〔二〕。更に「安居院神道集」に、「和歌抄」を引用して、左の如き記事がある。 白河院御時、御兩所市阿波ト云御子を召、御□(紙魚不明)云事ハ何樣ナル事アラント、銀ノ壺ニ乳ヲ入テ、此ヲ亦物ニ入ツ、蓋ヲシテ、帝ト后トノ二人御心ニテ、亦人ニ不知之、サテ此中ナル物ヲ占ヘト、御子ノ前ニ差出ケレバ、度(シバラク)計跟蹡ナル歌占ニ、「シロカネノツホヲナラヘテ水ヲ入ハ、フタシテカタク見ルヘクモナシ」ト、□出、御淚ヲ流給テ□勇事哉ト思食サレタリケリ、□銀共ヲ賜ハリケリ(宮內省圖書寮本)。漸く巫女が、託宣を歌謠の形式を以て表現するようになったのは、巫女の傳統的因襲の外に、歌謠の流行したことを併せ考えなければならぬ。私は曾て自ら揣らず「我國の神詠の考察」と題する剪劣なる管見を發表したことがあるが〔三〕、代々の敕撰歌集を讀んで見て、平安朝以降において、神々の詠歌と稱するものの遽かに增加した事は、注意すべき點である。熱田、賀茂、住吉、大神(ミワ)の各神を始めとして、神託の形式を殆んど和歌に假りているのである。而して此の流行?は、佛教方面にも取り入れられて、又た盛んにこれが利用されているのである〔四〕。勿論、私は是等の神詠なるものが、巫女によって假作されたものであるなどとは、夢にも考えていぬ所であるが、斯うした和歌流行の世相は、巫女を驅って歌人的素養を深からしめた事だけは言い得るものと信じている。更に一口に、巫女と云っても、その中には自から階級があり、名神大社に仕える者と、叢祠藪神に仕える者との間に、出自、品性、素養の相違あることは言う迄もないから、高級者にあっては、短歌や、今樣ぐらいは、平生の嗜みとしても、作り得らるるだけの用意はあったろうが、それにしても巫女をして詩人たらしめる世相の存したことは看取される。 然るに、此の託宣を歌謠を以てすることが、固定するようになれば、その歌謠を以て直ちに神意を占うことに利用されるに至った。換言すれば、曾て巫女によって制作された歌謠、又は神詠と稱する歌謠、若しくはその他の歌謠の或る數を限り、此のうちの何れかを取り當てたもの(即ち後世の御籤に似たもの)に由って、吉凶を判ずるという信仰を生むようになった。「長秋記」長承二年七月六日の條に、 自女院被仰云、七月七日當庚申時、於乞巧奠前、不論男女、七人會同、各書舊歌百首、都合為一卷、用歌占、如指不違云々。とあるのは、即ちその一例で、然も是が民間に移されて、七夕の星祭に、歌占を以て男女の緣を結ぶ(神判成婚の意)民俗にまでなったのである〔五〕。而して更に此の信仰の最も通俗化したものが、謠曲の「歌占」と稱する方法である。これに關しては、「參宮名所圖會」卷下にも記載があるので、彼之を參酌要約すると、概ね左の如きものであったことが知られるのである。 伊勢國度會郡二見鄉三津村に、度會家次(謠曲にある歌占の發明者という)の子孫なる者があって、家號を北村と稱し、此の者が歌占の弓という物を持ち傳えていた。即ち長さ三尺ばかりの丸木弓の握り柄を赤絹にて纏き、上を絲で卷き、その弓の本末に短冊一枚づつ付けて、本には『神心たねとこそなれ歌占の』と書き、末には『ひくもしらきのたつか弓かな』と記し、別に弓弦に短冊八枚を付け、これに下の如き歌一首づつ書きつけてある。 增鏡そこなる影に向ひゐて、しらぬ翁にあふここちする(中山曰。拾遺集の歌なり)。年を經て花のかがみとなる水は、ちりかかるをや曇るといふらむ(同上。古今集)。末の露もとのしつくや世の中の、おくれさきたつためしなるらむ(同上。新古今集)。ものの名も所によりてかはりけり、なにはの芦は伊勢のはあまをき(同上。蒐玖波集)。鶯のかひこの中のほととぎす、しゃが父に似てしゃが父に似ず(同上。萬葉集長歌の一節)。千早振るよろづの神も聞しめせ、五十鈴の川の清き水音(同上。出所不明)。北は黃に南は青くひがし白、にしくれなゐにそめ色の山(同上。同上)。ぬれて乾す山路の菊の露の間に、散そめながら千代にも經にけり(同上。古今集)。斯うした短冊の一枚を依賴者にとらせ、その歌の文句によって判斷するのであって、後世の御籤というものと、全く同じ方法に過ぎぬのである〔六〕。謠曲の「歌占」には、父を尋ねる子方が、鶯のかいこの中の時鳥という短冊をひき、さては親を尋ねるのだなと占うている所を見ると、その方法も、解說も、極めて淺薄なものであると同時に、如何にも室町期の中頃に行われそうなものであったことが知られるのである。 二 複雜せる巫女と傀儡女との交涉 巫女の工夫した神體としての木偶を、巫女の手から奪って、木偶を舞わせることを獨立的に發達させ、傍ら賣笑を兼ねた者が、即ち傀儡女(クグツメ)である。從って古代に遡り、源流を究むるほど、巫女と傀儡女との境界は朦朧として、一身か異體か、全く區別する事の出來ぬほどの親密さを有しているのである。前述の東北地方の一部で、今に巫女を傀儡と稱しているのは、よく古俗を殘したものであって、又その親密さを、よく明らめているのである。藤原明衡の「新猿樂記」の左の一節の如きは、明白に此の間の消息を傳えているのである。 四ノ御許者覡女也。卜占、神遊、寄弦(ヨリツル)、口寄(クチヨセ)之上手也。舞袖瓢トテ颻如仙人ノ遊。歌聲和雅ニテ如頻鳥ノ鳴。非調子ノ琴ノ音。而天神地祇垂影向。無拍子ノ皷ノ聲。而□□(紙魚不明)野干必傾耳。仍天下ノ男女繼テ踵來。遠近ノ貴賤為市舉ル。熊米(クマシネ)積テ無所納。幣紙集不遑數。尋レハ其夫則右馬寮史生。七條已南ノ保長也。姓ハ金集(カナツメ)。名百成。鍛冶鑄物師〔七〕。并銀金ノ細工也云々。(以上。群書類從本)。同書は、人も知る如く、藤明衡が、當時(平安期の中葉)西京の猿樂師右衛門尉一家の、三妻、十六女、九男に託して、世相の一端を記したものであるから、直ちにその悉くが事實なりとは斷ぜられぬけれども、內容は明衡が耳聞目堵したしたものと思われるので、大體において信用することが出來るようである。而して此の記事に由れば、卜占、神遊、寄弦、口寄等の呪術を行うに際し、舞袖は仙人の遊びの如く、歌聲は頻鳥の鳴くに似て、琴の音は神祇を影向させ、皷の聲は野干の耳を傾けさせるとは、かなり形容が誇張に過ぎているようではあるが、殆んど巫女か、舞伎か、更に傀儡女であるか、寔にその識別に苦しむほどのものが存するのである。試みに、下に大江匡房の「傀儡子記」の一節を抄錄して、如何に兩者の內的生活が近似していたかを證示する。 傀儡子者、無定居、無當家、穹廬氈帳、逐水草以移住(中略)。女則為愁眉啼、粧折腰步齲齒咲、施朱傳粉、唱歌滛樂、以求妖媚(中略)。夜則祭百神、鼓舞喧嘩以祈福助(中略)。動韓峨之塵、余音繞梁周者、霑襟{人偏{{⺕⺕}下女}}不能自休、今樣、古川樣、足柄片下(アシガラカタオロシ)(中山曰。是に關しては後に述べる)、催馬樂、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、滿周、風俗、呪師、別法士之類、不可勝計、即是天下之一物也云々(以上。群書類從本)。彼と之とを比較するとき、巫女は神事を表面の職業とし、傀儡女は唱歌滛樂を世渡りの職業としただけの區別はあるが、その內的生活に至っては、殆ど相擇むものなきまでの交涉を有している。殊に、傀儡女が得意とした今樣、足柄片下、催馬樂、田歌、辻歌等の總ての歌謠は、悉く元は巫女の得意とし、且つ歌い出したものであるのを、後に傀儡女がこれを以て獨立した職業に移したまでなのである。それ故に、巫娼史の觀點より言うときは、巫女と傀儡女とは同根の者であったのが、巫女は神に仕える古き信仰を言い立てて糊口の料とし、傀儡女は神を離れ(併し全く離れきれぬ事は百神を祭る點からも察せられる)、信仰を棄てて、倡歌と賣笑とを、渡世の業とした區別にしか過ぎぬのである。「和訓栞」に『まひまい蟲(中山曰。東京邊の水すまし蟲)を備前美作にミコマヒ、東四國にてイタコ蟲と云ふ』とあり、更に備前邑久郡にては、巫女の事をコンガラサマと云うのは、同じく水すまし蟲のことを、コンガラと稱するより出でし方言で〔八〕、共に、巫女が此の蟲の如く跳ねたり、踊ったりするので、その動作より形容したものである。併し此の一事は、巫女の古き呪法にシャマニズムの跳躍方面を多分に存していたことを想わせると同時に、後には此の方面と、是れに伴うた歌謠とを傀儡女に持ち去られ、纔に佛法や修驗道に寄生して、殘喘を保つようになったのである。 三 巫女と遊女と傀儡女と 我國には、古く神々が、定期または臨時に、人里に天降(アモ)りして、氏子の間に神意を啟示する民俗があった。琉球では近年まで此の事が克明に行われていた。曲亭馬琴の「椿說弓張月」に引用した「琉球事略」に載せてある所謂キミテスリの祭は、必ず十月であって、七年に一回の荒神、又は十二年に一回の荒神があり、遠國島々一時に出現す。その年八九月の頃から、前兆として山々の峯にアヲリ(天降(アモ)りの意?)という雲氣が現われ、十月に神が出現すれば、託女王臣各々鼓を打ち、歌うたいて神を迎う。王宮の庭を以て神の至る處となし、大なる傘二十余を立つとある。更に「德之島小史」には、此の光景を一段と精細に記述して、祭典にはカンギヤナシ(內地の巫女と同じ)が各々珍絹を頭に被り、筒袖の白衣を著し、珠玉(內地の曲玉と同じ)を纏い、恰も天神の天降りに擬す。これに隨屬せる少女をアラホレ(見習巫女とも云うべき者)と稱して、十二歲乃至十六歲の無垢神聖の者を以て充つ。アラホレも亦、振袖の白衣を著し、袴を穿ち、頭には鴛鴦の思い羽、或は鷺の寸羽を翳し、日陰蔓を以て鉢卷きなし、大小五色に編みなせる曲玉粒玉の襷をかけ、手には或は軍配團扇の如き物(檳榔葉製)を持ち、或は長刀を攜えて舞をなす。此の時一種異樣の鈴の響き(琉球本島では鉦)が微かに聞ゆるかと思えば、これぞ神の出現する時だと云っている。而して此の民俗に共通した神事の、我が古代に在ったことは、誠に微弱ながらも、推知し得べき資料が存しているのである〔九〕。これ即ち「賓神(マロウドカミ)」であって、人里に大事が起る前とか、又は祭典の折などには、天降りますのが常であった。殊に、歲旦とか、田植とか、刈上げとかいう節々(我國の節供の起源はこれである)には、氏子を祝福し、作物を豐穣にするために「壽詞(ヨゴト)」を下すのを習いとした。而して此の壽詞を傳誦していて、或る場合には、神々の代理者(古代はこれを神その者と考えていた)として述べるのが、巫女の聖職の一つであった。 此の信仰と神事とは、國初期から奈良朝までは嚴存していたのであるが、奈良朝の中頃からは、神々の正體が知られて來ると同時に、漸く衰え始めて〔一〇〕、此の壽詞の言い立てをする一種の營業者ともいうべきものが生れるようになった。これが「萬葉集」に見えている「乞食者(ホカイビト)」であって、彼等は年の始めの吉慶に、家屋の新築の棟祝いに、更に旅行の無事を祈る餞別、或は災危を拂う呪願などを、當時の美辭麗句で綴りあげて、それを旋律的(リズミカル)の調子で歌い步いて、世過ぎの料とした〔一一〕。後世の、千秋萬歲、ものよし、大黑舞などは、悉く此の賓神と祝言人との系統に屬しているのである。 古く我國の巫女が、好んで鼓を攜えていたのは、此の壽詞を唱える折に必要であったためである。鈴も、琴も、鼓も、その古き用法の意味は、神の御聲としての象徵であった。曾て鳥居龍藏氏から承った所によると、我國のツヅミという語は、ウラルアルタイの語系に屬し、蒙古、滿洲、朝鮮、我國とも、同語源であるとの事である〔一二〕。そうすれば、鼓はシャマニズムと共に北方から輸入されたものであって、巫女の神を降ろすに欠くことの出來ぬ樂器であったとも考えられる。「梁塵秘抄」には、巫女と鼓との關係を詠じたものが尠からず載せてある。 金峰山(カネノミタケ)にある巫女(ミコ)の打つ鼓。打ち上げ打ち下げ面白や。我等も參らばや。ていとんとうとも響き鳴れ。如何に打てばか此の音の。絕えせざるらん。 東北院職人歌合所載の巫女殊に、ここに舉げたものなどは、兩者の交涉をよく說明しているものである。更に「東北院職人歌合」の巫女の條に、嫗の雙手に鼓を持てる繪に對して『君とわが口を寄せても寢まほしき、鼓も腹も打たたきつつ』とあるのもその一例であって、巫女と鼓とは離るることの出來ぬ間柄であった。然るに、此の巫女と深甚なる關係を有している──即ち巫娼一體の境地に在った遊女が、やがて、此の鼓を巫女の手から奪って自分の物としてしまい、同じく「梁塵秘抄」にある如く、 遊(アソビ)女の好むも雜藝(中山曰。後世の今樣)鼓、小端船(コハシブネ)、大傘かざし艫取女(トモトリメ)、男の愛祈(アイノ)る百太夫。となるのである。かくて巫女は、歌謠を傀儡女に持ち去られ、鼓(樂器としての)を遊女に委ねばならぬようになったのである。古い信仰が世の降ると共に影が薄くなり、曾て存したものが樣々に分化して、世に推し移って行く有樣が偲ばれるのである。巫女が社會の落伍者として、生存の競爭場裡から置いてきぼりにされたのも、決して偶然ではなかったのである。 併しながら、傀儡女や遊女に、歌謠や樂器を渡す以前にあっては、音樂と歌舞との保存者は巫女であった。前揭の「傀儡子記」にある足柄片下(アシガラカタオロシ)とは、即ち足柄{○相/模國}明神の傳えた神歌なのである。「郢曲抄」によれば、 足柄は神歌にて、風俗といへども其の品替るなり(中略)。足柄明神の神歌故に、風俗といへども其の音あり。と記し、更に高源光行の「海道記」には、 彼山祇(ヤマズミ)の昔の歌を、遊女(中山曰。巫娼の意)が口に傳へ、嶺猿の夕の啼は、行人の心を痛ましむ、昔青墓{○美/濃國}の宿の君女、この山を越えけるとき、山神翁に化して歌を教へたり、足柄といふ是なり。とあるように、神歌を傳えたものは巫女であった。これを後に殘したものが遊女なのであった〔一三〕。かく考えて來ると、巫女と、傀儡女と、遊女とは、一元から出發したもので、然も此の三角關係が意外に複雜しているのも道理であることが知られるのである。 〔註一〕神遊びの後身が直ちに神樂であるという說には、多少の疑義があることと思うが、私は屢記の如く、神樂は古く葬禮にのみ限って行われたものと考えているので、姑らく此の說を支持したいと思う。〔註二〕伴信友翁の「正卜考」後附に據った。流布本の「平治物語」にもあるが、半井本と多少の出入があるので、今はこれに從った。〔註三〕國學院大學の鄉土會で講演したことがある。誠に拙きものではあるが、神詠なるものが、平安朝になってから、急に增加したことは、我國の託宣史上、注意すべき點である。〔註四〕「野守鏡」の序文に、神佛の詠まれた和歌の多くが載せてあるが、更に「新古今集」の神祇部と、釋教部とにも多く載せてある。〔註五〕拙著「日本婚姻史」に、神判成婚の一例として舉げて置いた。敢て參照を望む。〔註六〕我國の御籤なるものも相當に古いもので、「斉明紀」四年十一月の條に「短籍」とあるのがそれで、降っては「吾妻鏡」脫漏元仁二年三月卅一日の條、及び「明月記」貞永二年正月廿一日の條などに見えている。〔註七〕シャーマン教における巫女と、鍛冶職との關係に就いては、有賀右衛門氏が「民族」誌上に高見を發表されている。我國には、是等の關係を考覈すべき資料が殘っていぬが、偶々「新猿樂記」に此の一事が見えている。これは遇然のことであろうが、參考までに言うとした。〔註八〕これは總論第一章第一節に舉げて置いたので、報告者の氏名は略すが、兔に角に、昔の巫女は甚だしく跳ねたり踊たりしたものと見える。今に見る神樂巫女の動作だけでは、かかる俚稱は起ろうとも思われぬ。〔註九〕折口信夫の談によると、鈴木重胤翁の「祝詞講義」の大殿祭の條に引用した文獻に、それを考えさせるものがあるとの事である。〔註一〇〕「山原の土俗」に神を捕える話が二つ載せてある。そして捕えた神は巫女であって、殊にその一つには、捕えた男の母が神の中に加っていたとのことである。〔註一一〕此の條は折口信夫氏の研究をそのまま拜借し、且つ祖述したものである。明記して敬意を表す。〔註一二〕星野輝興氏が主催されていた祭祀研究會の講演で承ったものである。〔註一三〕「更級日記」に、足柄山で遊女が歌を謠ったことが載せてあるが、或はこれは神歌の面影を傳えたものではなかろうかと思われる。全文は有名なものゆえ、態と省略した。 第二節 巫女の給分と其の風俗巫女の給分及びその收入等に就いては、神社に附屬せる神和(カンナギ)系の神子と、町村に土著せる口寄(クチヨセ)系の市子とに區別して記述するのが正當であるが、私の寡聞のため、前者に關しては多少の資料を有するも、後者に關しては全く知見するところが無いのである。そこで止むなく、茲には前者に就いてのみ記し、後者に就いては假定を述べて、後人の大成に俟つこととする。 伊勢の齋宮、賀茂の齋院は、普通の巫女と申上げることは出來ぬので今は省くが、先ず宮中における御巫、巫等に就いては、(一)一定の給分と、(二)臨時の給分とがあった。而して一定の給分に就いては「延喜式」卷三に『新任ノ御巫ニハ皆給へ屋一宇ヲ{長二丈。庇二/面長各二丈}』とあって、現今なれば、官舍ともいうべきものを給り、外に『凡諸ノ御巫者。各給夏ノ時服絁一疋。冬ハ不給。其ノ食ハ人別ニ人ニ白米一升五合。鹽一勺五撮』とある。併し、これ等の給分は、誠に寡少のものであって、金額に見積れば、實にお話にならぬほどであるが、要するに、宮中における御巫や、巫等は、神々に仕える聖職であり、且つ無上なる名譽でもあったので、餘り物質上のことなどは苦にせぬ人々であったに相違ない。殊に、宮中のことは、九重雲深くして詳細に漏れ承ることは出來ぬが、これ等の御巫や巫等は、世襲的に奉仕したものと察せられるので、旁々、その給分の如きは、問題とされていなかったであろう。然るに、これに反して、臨時的の給分にあっては、その祭儀により、元より一樣ではないが、相當の收入となったようである。「延喜式」に散見するところを要約して、左に記載することとした。 春日ノ神四座ノ祭齋服料物忌一人ガ料。夾纈(カフケチ)ノ帛三丈五尺。羅ノ帶一條。紫ノ絲四兩。錦鞋一兩。{已上/封物}錦二條。{一條長三尺五寸。一/條長六尺。並廣四寸}絁三疋二丈九尺。緣ノ絁一疋。紗七尺。韓櫛二枚。紅花一斤二兩。東絁三尺五寸。綿三屯半。支子五升(中略)。右祭ノ料依前ノ件。春ハ二月。冬ハ十一月ノ上申日祭之(中略)。其物忌一人食。日ニ白米一升二合。鹽一勺二撮云々(以上。卷一、四時祭上)。大原野ノ神四座ノ祭齋服料物忌二人ニ。別ニ夾纈ノ帛。淺緑ノ帛各三丈。絁一疋二丈五尺。帛一疋五丈六尺五寸。表裙(ウハモ)一腰。帶一條。縹(ハナダ)ノ帛二丈四尺。緋ノ帛一丈五尺。紫ノ絲二兩。綿四屯。東絁三尺五寸。履一兩。紅花五兩。支子(クチナシ)五升。御巫一人ガ絁一疋。淺緑帛一匹。綿二屯。表裙一腰。物忌御巫別ニ緣ノ絁一疋云々(同上)。平岡ノ神四座ノ祭齋服料物忌一人ガ裝束料絹四疋九尺。夾纈ノ絁三丈五尺。綿三屯六兩。錦九尺五寸。紗七尺。紅花一斤三兩。支子五升。錦鞋一兩。紫絲四兩。韓櫛二枚云々(同上)。松尾祭齋服料物忌王(オホギミ)氏夏ハ絹五疋。{冬加/一疋}綿十屯。紅花小六斤。錢一貫六百卅文。{冬料/准此}和(ヤマト)氏。大江氏並ニ夏ハ別ニ絹二疋。{冬加/一疋}綿三屯。紅花小三斤。錢六百卅文。{冬料/准此}云々(同上)。大殿祭齋服料供奉スル神今食御巫等ノ裝束。{十二月/不給} 御巫絹四疋。絁一丈一尺。綿二屯。細布六尺。紅花六斤。錢百卅文。{中宮御/巫亦同}座摩(ヰカスリ)。御門。生島。東宮ノ巫各絹三疋。絁各九尺。綿一屯。細布六尺。紅花一斤。錢百卅文。供奉神今食人等ノ祿。(前略)。御巫ニ絹三疋。{中宮御/巫亦同}座摩。御門。生島。東宮ノ巫各二疋(同上)。鎮魂祭官人以下ノ裝束料。{中宮宮/主准此} (前略)。御巫{中宮。東宮。/御巫准此}御門ノ巫一人。生島ノ巫一人ニ。各青摺ノ袍一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。下衣(シタカサネ)一領。{表裏別/帛三丈}綿二屯。單衣一領。{帛三/丈}表裙一腰。{表裏別帛/三丈。腰料一丈}綿二屯。下裾一腰。{同/上}袴一腰。{帛三丈/五尺}綿二屯。單袴一腰。{帛二/丈}帔(ウチカケ)一條。{帛二/丈}褶(ヒラミ)一條。{緋帛/四丈}紐一條。{錦三/丈}髻髮并襪料細布一丈。領布ノ紗七尺。櫛二枚。履一兩。座摩巫一人ニ青摺袍一領{表裏別帛/二丈五尺}綿一屯。下衣一領{同/上}綿一屯。單衣一領。{帛二丈/五尺}表裙一腰。{表裏別帛三丈/腰料一丈}綿一屯。下裙一腰。{同/上}袴一腰。{帛一丈/五尺}綿一屯。單袴一腰。{帛一/丈}帔(ヒ)一條。{帛一/丈}褶一條。{緋帛一/丈五尺}紐一條。{錦一/丈}領巾・六尺。襪ノ料細布五尺。履一兩(以上。卷二。四時祭下)。以上の祭儀を一々詳述して、御巫及び巫等の職掌を細說し、而して是等の給分の事を說明すべきであるが、そう克明に涉らずとも、大體は會得されることと信じたので省略した。而して、伊勢の兩皇太神宮における物忌の定員、及び給分等は、「延喜式」卷四によると、大略左の如きものである。 太神宮三座(前略)。物忌九人。{童男一人/童女八人}父(チチ)九人云々。荒祭宮一座內人二人。物忌。父各一人。度會宮四座(前略)。物忌六人。父六人云々。多賀宮一座內人二人。物忌。父各一人。九月神嘗祭太神宮祢宜。大物忌二人ニ。各絹三疋。綿三屯(中略)。物忌。。絹一疋三丈。綿一屯云々。大物忌云々。日ノ祈(ミ)ノ御巫云々。絹一疋。綿一屯云々。荒祭ノ宮(中略)。物忌一人ニ。絹一疋三丈。綿一屯云々。度會宮(前略)。大物忌一人ニ。絹二疋。綿二屯云々。物忌。絹一疋三丈。綿一屯云々(中山曰。これは僅にその一節を舉げたもの、詳しくは本書に就いて見られたい)。祭儀の行われる每に、伊勢兩宮の物忌は、臨時の給分を受けたことは、以上の一例を以て知る事が出來るが、更に一定の給分としては、同じ「延喜式」卷四に『物忌太神宮四人。度會宮三人。給年中食料、日ニ各米八合』とあり、猶お三節祭の直會には『物忌ニ汗袗一領』を給することとなっていた。これも宮中の御巫などと同じく、給分としては、誠に些少のものであるが、併し大物忌は、荒木田氏の女に限り、その他の物忌も、各々家筋が限られていたほどの名譽の職掌とて、物質上の問題などはどうでも宜いという境遇であったようである。而して後世に、此の物忌が御子良と改り、物忌ノ父が母良と改まるようになると、神領のうちからそれぞれ一定の給分を與えたものと見えて、「神鳳抄」に左の如き記事が散見している。   諸神田注進文(建久四年云々)     安濃郡重昌神田、宮守子良神田五段云々。中萬神田十一町之內二町五段之宮守子良神田。一町七段百八十步、大物忌子弘子良粮料。二町五段在安東郡、大物忌父季貞神主、子良衣粮料。一町五段在安西郡、同季貞神主子良衣粮料。三町七段在安西郡、大物忌父光兼子良衣粮料。一町四段在安西郡、大物忌父氏弘子良衣粮料。     伊勢國安西郡母良神田{一丁三/反大}子良神田{四丁/余}(中略)。舘母神田。「神鳳抄」は、源賴朝が鎌倉に覇府を開いた折に、伊勢神領の整理をした記錄であるが、これに由ると、物忌、子良の給分は、相當に豐富であったように考えられる〔一〕。併し、これ以外の神樂料等の雜收入が、如何に是等の者に配分されたかは、遂に寡見の及ばぬ問題である。 宮中及び伊勢の御巫、物忌等の給分に就いては、極めて概略の記述を試みたが、さて是れ以外の、賀茂、春日、八幡、熱田等の大社に附屬していた巫女の給分はどうであったか、これは各神社の古記錄を仔細に檢討したら、容易に知り得らるることと思うが、今の私としては此の容易の問題を詮索する餘裕を有たぬので、誠に申譯の無い次第ではあるが、觸目した資料だけを揭載し、一臠を以て全鼎の味を推すこととする。而して既述した宇佐八幡宮の巫朝臣杜女に從四位下を授け、これに伴う封戶を賜ったことは元より例外であるが、普通の巫女の給分は大體において尠少であったようである。「延喜式」卷卅五大炊寮の條に『松尾社物忌一人。料米三斗六升、小月、三斗四升八合』とあるが、これは日割にすれば、一升二合にしか當らず、然も小ノ月には一日分を控除するとは、かなり手嚴しい待遇と云わなければならぬ。更に「三代實錄」には、巫女の給分に關する記事が二ヶ所ほど見えているが、第一は貞觀十二年六月二十七日の條に『松尾神社物忌一人、充日{○一本/作月}粮、立為永例云々』とあるが、恐らく、前揭の給分が一時的であったのを、定制としたまでであろう。第二は、元慶三年閏十月十九日の條に『伊勢高宮物忌、准諸宮物忌、永充月粮、以神封物給之』とあるのも、他の物忌に准ずとあれば、同じく食米を給せられる程度であったと見て大過ないようである。 これでは如何に物質に緣遠き聖職にある巫女であっても、その日の生活にも追われがちではあるまいかと想像されるが、神々に仕え、信仰に活きる者には、又た相當の收入が在ったようである。これに就いて、既述の攝州廣田、西宮の兩社に仕えて、五十年の神職生活を送られた吉井良秀翁が、その著書「老の思い出」に載せられた『平安末期に御巫が置かれて有った事』と題せる一節は、よく廣西兩社の巫女の臨時收入の點を明かにし、且つ一般の巫女の生活にも觸れているところが多いので、左にこれを轉載することとした。 この頃、巫女(ミコ)など云うと、洵に卑いように思われるが、昔は決してそうで無い。宮中を始め、諸國の大社々々には、何方も置かれてあって、我廣田西宮にも同樣であった。今日では、里神樂と稱して、各大小神社の私祭に雇われて來る者がある。之は各社でも、其の待遇が粗末で、一般からも輕視されている。伊勢神宮や、住吉、春日などは、その神樂所のみに、奉仕しているは別段で、是は品位を保たせてある。昔は何れにても、普通一般神社の如くで無く、品位を有ったものである。我が廣田西宮でも、優に位置高く置かれてあった事は、書に見えてある。併し上下の階級はあったらしい。平家時代の巖島神社の如きは、幽雅美麗の御巫が置かれてあった事は〔二〕、高倉院巖島御代の途次、福原(中山曰。神戶市)の御所に御立寄の時、予て巖島から招き寄せてあった內侍八人(原注。內侍としてあるが全く御巫である)の舞樂を叡覧に入れ、終って御神樂を奏している。內大臣土御門通親公が、天人の降りたらんもかくやとぞ見ゆると、周圍の裝飾もあったからであろうが、劇賞して日記に書いている。巖島御參拜の折にも、內侍ども老いたる若き、さまざま步き連りて、神供まいらせ、とりつづきて、がくどもして、御戶ひらき參らせ云々とある如く、榮えたる神社には、いつも斯うした御巫があった。當神社(中山曰。西宮社)でも、古くは置かれてあったと見えて、近衛天皇の康治元年の事であるが、美福門院が新に寵を得られて、待賢門院の侍女で津守島子が、其夫なる散位源盛行が待賢門院の旨を受けて、廣田神社の御巫朱雀と云うを召して、美福門院を呪詛せしめ、其事露顯して、檢非違使を遣わし、盛行を捕え、銀筥を西宮神宮に得て、盛行を流に處した事がある。是は「百練抄」に書いてある(原注。「大日本史」にもある)當時朱雀と稱した巫女が、西宮にあったと見える。之を想像して見ると、現今大小神社にある所の巫女の樣でなく、神前に常侍して居たもので、位置も決して卑しい者では無かったのである。夫れから五十年許りの後、後鳥羽天皇の建久頃に、巫女壽王と云う人が、當社にある事を「諸社禁忌」と云う書物に書いてある。此壽王という巫女も、文意を見ると、社中の上位に置かれた人である。それから又三十年許り後の、後堀河天皇の貞應三年に、神祇伯王が當社に參拜せられて、巫女の四條女宅を宿所とした。是は代々の例であると、「神祇官年中行事」に見えるが、此時伯王の行列と云うものは盛んな事で、船七八艘して下向し、大勢の行列で西宮濱に著き、伯王は乘輿で、衣冠の力者十二人で舁いで、神祇官員若干も皆衣冠、諸大夫以下皆布衣とあって、大層な樣子に書いてある。夫れが巫女の四條の宅を宿所としたのである。されば巫女の宅は宏莊な物であったであろう。假令、隨行者皆迄が、此家で宿泊したのではあるまいが、兔も角も長官伯王の宿所と定めてあるから、夫れ相應な設備を要する資格の家でなければならない。況や代々の常宿であるらしい。巫女といえど社中でも立派な位置に居たものと見える。夫れからまだ書いてある事に、『今夜女房の宿願を果す為に、又夷宮(ヱビスノミヤ)に參る、前に御神樂を行ふ、夷三郎及御大教前に於て、種々の事等あって、衣一領を「北宮四條に給ひ」絹一疋を「南宮兵庫一戎台」直垂「史巫為延」已上巫女等に給り了ぬ。此他堪能の巫女に纏頭を給ふ。大口一領、守護袋、帖紙等の類である』としてある。其四條とは巫女の名で北宮は廣田社であろう。南宮兵庫の兵庫は巫女の名で、南宮に專屬の巫女であろう。一戎台は何とも解き難かけれど〔三〕、夷社、專屬の巫女の名であろう。史巫為延は即ち覡で、男の巫であろう。其他堪能の巫女にも夫々今云う祝儀を呉れたのである。之を見ると、巫女等の人數も、隨分多かった事と見える。巫女に物を與える事は、當節の慣例と見えて、「巖島御幸記」にも、一々綿を給った事が見えている。今から七百八十年以前(中山曰。昭和三年より起算して)、巫女が當社に仕えていた。その地位を察すると、現今各社に用いる巫女の如きで無く、一廉の地位を占めていたらしい。此件を見て往昔廣田西宮の隆昌であった事が知られる。序に云うて置きたい事がある。明治維新當時まで、當社には男の巫子が二人あって、表門前に宿屋を兼業していた。元祿正德頃には幣司、鳥飼、大石、五十田等の名が見えている。維新頃の所作を見ると、神樂と云う程で無く極簡素な業で、講中や氏子の乞いにより、神樂所にて鈴の行事を行うのである。社役人と同じく下級の社人となっていた。然れども苗字帶刀はしていた(中山曰。讀み易きよう句讀點を加えた所がある)。當代の巫女の生活と收入とを說いて詳細を盡しているが、併し斯うした事象は、獨り廣田西宮の兩社に限られたことではなく、他の名神大社に附屬していた巫女の上にも在った事と想われる。勿論、神德の高下や、神社の隆替によって、その悉くが軌を一にしていたとは言われぬが、大體において共通したものと考えて差支ないようである。從って巫女の收入は一定の給分よりは、臨時に參拜者より受くる纏頭が多きをなしていたのであろう。江戶期になると、巫女の神社における位置は極めて低下し、殆んど有るか無きかの待遇に甘んじなければならぬ迄に余儀なくされていたが、それでも神樂錢の分配だけは收得する權利を有していた。是等に就いては、第三篇に述べるので、茲に保留して置くが、平安朝頃の巫女の臨時收入は蓋し尠くなかったであろう。さればにや、既述の如く、金持の巫女を後妻に迎えた大臣のあったことが「宇津保物語」に見え、更に「源平盛衰記」によれば、平清盛が巖島の內侍(巫女)を愛し、その間に儲けた女を宮中にすすめ、然も此の內侍は、後に土肥實平の妻となったことが載せてあり、所謂、氏なくして玉の輿の好運を贏ち得た者もあったに相違ない。時代は降るが、室町期に常陸國鹿島神宮の物忌(即ち巫女)が、田地一町步を同地の根本寺に永代寄進した古文書(著者採訪)が同寺に保存されている。左にこれを轉載する。    奉寄進田地之事    合壹町者{鹿嶋郡宮本鄉之內/神野下青木町也} 右彼田者依有志限永代寄附根本寺者也末代於此田不可有他之違亂妨如往古可被知行仍為後證寄附之狀如件  應永十九年{壬/辰}十二月三日                 鹿島太神宮 物忌 妙善     當寺長老水賛西堂鹿島社の物忌は、他の巫女とは多少性質を異にし(此の事は既述した)ているし、殊に此の寄進者は物忌でありながら、佛教の篤信者と思われるので、此の一例を以て、
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