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第二章、修驗道の發達と巫道との關係
明治四年に、全國の修驗道に屬する修驗者(俗に山伏と云つた。)を廢止した時の第一の理由は、修驗は神社と異り、一定の氏子を有せず、更に寺院と違ひ、一定の檀徒を持たぬ為であつたと聞いてゐる。維新の際の宗教行政には、今から考へて見ると、多少の無理も伴つてゐた樣であるが、此れは萬事に改革を急いだ當時としては止むを得ぬ事と思はれる。而して此修驗道なる物は、獨り一定の氏子や檀徒を有してゐ無いばかりで無く、其教義に於いても、儀軌に於いても、是(コレ)がと云ふ獨自の特色が有るでは無く、古神道と、道教と、佛教との三者の中(ウチ)から、民間信仰に交涉有る物だけを拾集め、其へ不完全な體系を加へた物であつて、一言にして云へば、無特色が特色で、俗に謂ふ八宗兼學的の「何でも御座れ」を表看板にしてゐたのである。換言すれば、神道と、道教と、佛教の三つから、都合の宜い所を少しずつ摘んで來て、之(コレ)を山岳崇拜と云ふ修驗道の基調とした鎔爐(ルツボ)の中へ入れて煮上げた物にしか過ぎぬのである。更に極言すれば、修驗道は、我國の宗教界に於ける寄生蟲であつたとも評する事が出來るのである。併しながら山岳信仰を高調してゐただけに、好んで深山高嶽に出入して、人跡未到の地を開拓した功績は認め無ければ成らぬ。其に年久しく民間信仰に喰込んでいただけに、其勢力は實に驚くばかりの物であつて、明治に廢止された折には、先達と稱する頭目だけでも、約十七萬人の多きに及び、此他に小先達とか脇先達とか云ふ者を加へたら、無慮幾十萬と云ふ夥しき數であつたらうと云ふ事である。斯うした勢力を有してゐた修驗道と巫女との關係はどうであつたか、私は其兩者の交涉を例の速斷で簡單に記述したいと思ふ。
第一節 憑り祈禱に現はれた兩者の交涉
修驗道は、奈良朝に於いて、役小角が開いた物だと傳へられてゐる〔一〕。私は小角が創めた當時の修驗道が、如何なる物であつたかは詳しく知らぬが、後世の是等の徒が好んで行うた呪術は、俗に「憑(ヨ)り祈禱(キトウ)」と稱する物であつて、一名の男女(又は子供。)を、憑座(ヨリマシ)(仲座(ナカザ)、御幣持(ゴヘイモチ)、屍童(ヨリワラ)、乘童(ノリワラ)、神使(オコウサマ)、一ツ者(モノ)、護法實(ゴホウダネ)、護法付(ゴホウツキ)、護因坊(ゴインボウ)、古年童(コネンドウ)等とも云ふ。)と定め、此れに神を祈り著けて、其者の口より、神意として、善惡吉凶等を語らせる方法である。私は此處に、修驗者が行つた憑り祈禱の二三の實例を舉げ、然る後に、此呪法と、巫女の其との比較、及び關係に就いて、管見を述べる。唯前以てお斷りして置く事は、此種の類例は、代代の文獻にも非常に多く存してゐるので、到底此處には舉げ切れず、又舉げる必要も無いと信ずる故、今は私が專攻してゐる民俗學的の資料を、時代に拘らず載せた事である。『校正作陽誌』久米郡南分寺院部に、
護法社,在岩間山本山寺(天台宗。)域內。每年七月七日,行護法,祈其法撰素撲者,齋戒齋淨,諺謂之護法實。至七日,使居東堂之庭,滿山眾徒盤境呪持。此人忽ニ(爾)狂躍,或咆吼忿嗔,狀如獸族,力扛大盤。若有穢濁之人,則捉而抛擲數十步之外也。呪法既畢,則供護法水四桶,每桶盛水一斗五升。其人盡吞了,後俄然仆地,即復本。敢莫勞困,又不自知之耳。謂之墜護法也。(以上摘要。)
此護法實と稱する人物が、呪持の為に、力大、盤を扛(ア)げ、水六斗を吞み盡し、獸族の如くに成つて咆吼し、穢濁者有る時、捉へて數十步の外に擲つとは、現今の科學から說明すれば、全く催眠狀態の仕業である事が容易に知り得らるるのであるが、斯かる知識を少しも有してゐ無かつた時代に在つては、唯神秘の事、不思議の事と信じ、恐れるより外に致し方が無かつたのである。昭和の現代に於いても、真宗の絲引名號や、法華宗の御因緣樣等が多數の信者を有してゐる所から推すと、修驗道が民間信仰の骨髓に迄浸み込み、護法實や山伏の威力は、私等が今日から想像する以上に更に猛烈であつたに相違無い。而して其旁證とも見るべき記事が、同じ『校正作陽誌』久米郡北分寺院部に載せて有る。曰く、
二上山兩山寺,(真言宗。)在大垪和村。云云。末社護法祠。建治元年七月十日,僧定乘於鎮守廟言護法神託,寺僧書軸為號護法託宣,率千數百字皆不經之言也。相傳,昔有山鬼,名曰三郎坊養勢,常為佛敵。護法神怒執縛之,自後誓不復往山。又山下有護法松,住日法樂之日,寺山某來見,會將央,護法之屍奮然起而攫捉寺山。蓋因其不潔也。寺山勇悍,相撲接峻崖嶮坂輾轉而下。二人共死,因合葬其地。後人植松為標,名護法松。(以上摘要。)
此護法松の由來に就いては、『岡山新聞』に異說が載せて有る。重複する點も有るが、如何に當時、此護法信仰なる物が、威力を以て民眾に臨んでゐたかを知る上に、參考として附載する。
美作國久米郡の兩山寺には、往昔二十四房有つたが、過半は廢れて今では六房しか殘つてゐ無い。每年八月十五日に、武甕槌命の祭典が有る。此れを護王(中山曰、護法の轉訛。)と云ひ、人に神を祈り付け、境內を飛び走つて穢れし人は之を捕へる。此れに捕へられた者は、二年すれば死ぬと言傳へられてゐる。昔、不信心の武士が、(中山曰、前條の寺山某か。)わざと魚を食つたまま參詣し、此護王に追掛けられ、逃げ途を失ふて、松木へ登り、難を避けたが、護王が其松に登つて來たので、武士は帶刀を揮つて護王を斬殺して了(シマ)つた。武士が血刀を附近の池で洗つた所、不思議にも池水が一時に涸れて了(シマ)ひ、今でも雨が降ると血色の水が湧くと云ふ。(摘要。大正七年七月廿六日發行。)
是等の記事は、別段に說明を要する程の難解の物では無いが、唯一言注意迄に言つて置く事は、此護法附の憑り祈禱を行ふ寺が、雙方とも修驗道に關係の深い天台宗と真言宗とである事である。私が改めて言ふ迄も無く、修驗道は古くから此兩宗に屬し、聖護院派(天台で當山派と稱し。)と、醍醐派(密宗で本山派と稱す。)とに分れてゐて、峰入りも順逆の二つに區別されてゐた。而して修驗道が、此兩宗の袈裟下に投じた事に就いては、多少記すべき事が存するけれども〔二〕、其は餘り本問に關係が無いので割愛し、更に此種の憑り祈禱の類例を舉げるとする。護法附に就いては『鄉土趣味』第一卷第五號に、左の如き記事が載せて有る。
京都の松尾山鞍馬寺(天台宗。)では、每年六月二十日の夜に、護法附と云ふ修法を行ふ。此れは有名なる「鞍馬の竹伐」の行事(中山曰、竹の伐り方で年占をする物。)に關係有る雌蛇が、護法神として祭つて有る為である。大昔には、每年人味(人身御供。)を供へたと云ふが、今では夜八時に、堂內の燈火を悉く消し、生贄にする僧(即ち憑座。)を坐せしめ、眾僧も共に闇中に居て、代る代る陀羅尼神呪を大聲に唱へて、彼の僧を一時ばかり祈殺す。此處に至つて、護法神は人味を納受せられたとて、之にて法式が終る。後に其假死してゐる僧を板に乘せて堂の後に舁て往き、大桶七ツ半の水を注流して身に懸けてやると、生贄はやがて蘇生する。其處で裸體のまま護法の祠に參詣する。此れを護法附の行事と稱してゐる。今日では僧を祈殺し、祈活すと云ふ樣な、法力實驗は致さぬさうである。(以上摘要。)
此記事は採集者の態度が興味本位である為に、學術上の大きな問題を忘卻してゐる。其は此種の行事の目的は、其憑座の口から神意を語らせ、一年中の豐凶又は時疫の有無等を占ふ事に出發してゐるのであつて、其事は年占の竹伐りの行事に引續いて舉げられる點からも知れるのである。次に載せる憑り祈禱等も、又其が脫落してゐるが、唯面白半分に斯かる祈禱が行はるる筈が無いので、古意が失はれて、行事だけが殘つた物と見るべきである。『福島縣耶麻郡誌』に、
岩代國耶麻郡月輪村大字關脇の麓山(ハヤマ)神社、舊記に每年九月十五日民家を掃ひ清め、注連を引いて大幣二本を安じ、村民の祭りに與る者宿齋し、此家に集會し、大なる爐に薪を焚き、眾人「月山(ツキヤマ)、麓山(ハヤマ)、羽黑の大權現、並びに稻荷(トウカ)の大明神」と一と口に出る如く唱ふる事數十反、神之(コレ)に憑る者一人或は二三人、互ひに起つて幣を執り狂躍し、遂に爐中に入り火上に坐す。或は火を擢み、或は火を踏み、幣にて火を探れども燃ゆる事無し。少間有りて神去れば、其人醉の醒めたるが如し。十五日より二十七日迄每夜かくの如く、二十九日の朝麓山社に詣て神事に交る。此れを火祭りと云ふ。(以上摘要。)
以上の憑り祈禱に比較すると、竹崎嘉通翁が『鄉土研究』第三卷第九號に寄せた物は、良く古俗を傳へてゐる物と考へるので採錄する。
石見國邑智郡高原村大字原村の氏神社では、例祭の折に『託舞(タクマイ)』と云ふ神樂が行はれる。託とは神託の事で、一人の審神(サニワ)(中山曰、審神は既記の如く神意を判ずる者であるから、此場合は憑座とか幣持とか云ふのが穩當であるが、今は原文に從ふとした。)を立て、神降(オロ)しを為(ナ)し、種種の問答を試みるのである。託太夫、即ち審神となる神職は、自然世襲の有樣で、又其に屬する腰抱(コシダ)きと云ふ役も有るが、此れも亦た世襲の姿であつた。託舞の設備としては、大きな注連繩の端を龍頭に似せて造つた物を、神前の左右の柱から相對する方面の柱に引渡す。深更の刻、審神者を上座とし、多數の神官其繩に取付き、幣を持ち、歌を唄ひ、祝詞を讀む。さうすると、暫時にして、審神者に顏色變り、大聲を發して、「村の某は云云の罪惡が有る。」「某は不信者。」「本年某の方面に火災が有る。」等口走り、又た祭主たる神職と種種の問答をする事も有る。時に依つては神怒を發し、太刀を拔いて荒迴り、或は棧敷に飛込み、怪我人を生ずる事も有る。其時腰抱きなる者が此れを抱き鎮める。自分(即ち竹崎翁、因に云ふが翁は神職である。)は三四度其席に列した事が有るが、何時(イツ)も餘りの恐しさに、片隅に打伏してゐた。(以上摘要。)
此處迄記事を進めて來ると、猶ほ此種の行事に類する吉野金峯山の蛙飛びの神事、(一人の僧を蛙の如く扮裝させ、之(コレ)を鞍馬寺の如く祈殺し祈活す。)奧州羽黑山の松聖(マツヒジリ)の行事、近江の比良八荒の傳說、尾張國府宮宮で旅人を捕へて氣絕させる直會祭、筑前觀音寺の同じく旅人を搦めて松葉燻しにする行事や、其他各地の修驗者が好んで行うた「笈渡しの神事」迄說明せぬと、些か徹底を欠く樣に思はれるが、其では餘りに長文に成るし、又此外に子供を憑座とした憑り祈禱も舉げたいとも考へてゐるので、是等は悉く省略に從ふ事とし、筆路を護因坊に移すとした。而して護因坊に就いては『近江輿地志略』卷二〇に『日吉記』を引用して、下の如く載せて有る。
護因坊,僧形有觜,樹下僧行力巨多也。後身誕生,後二條院敕賜愛智上庄三千石內陣御供料。當社,神位崇敬之社,辻護因坊跡也。奧護因廟所,淨之勝也。內井之護因,比谷川大洪水時,流自大行事迄內井。如此止處建社,號流護因云云。(日本地誌大系本。)
美作の護法實に為(セ)よ、鞍馬の護法附に為(セ)よ、憑代と成る者は、或る限られた人物であつたに為(セ)よ、其でも未だ私達と同じき橫目縱鼻の人間であつたが、此護因坊と成ると、僧形有觜と有る如く、全くの天狗と成り了ふせてゐる〔三〕。斯く人間から天狗に遷變つて行く所が、やがて修驗道が道教や佛教を巧みに取り入れて、民間信仰を支配するに至つた過程なのである。而して此憑り祈禱と同じ樣な目的で、憑座に子供を用ゐた神事も多數に存してゐるが、茲には僅に二三だけ舉げるとする。
岩代國耶麻郡豬苗代町字新町の麓山(ハヤマ)神社の祭日には、火劍の神事とて、生木を焚いて薪とし、鹽を多く振掛けて火を示し、村民等呪文を唱へ、幣帛を振つて清め、祈願ある者參詣すれば、火中を渡らせる。又た乘童(ノリワラ)と號けて、祈願する者の吉凶を託宣する。昔は子供が此事を行つたが、今では老壯の者が遣る樣に成つた〔四〕。飛驒國益田郡下呂村大字森の八幡宮の例祭は、古風を傳へてゐるが、正月十日に、氏子の中から、十二三歲の子供を集め、神前にて籤を取らせ十人を選み、又其中より一人を選み、禰宜と稱し、折烏帽子直垂を著し、神事の祭主とする。祭典の十四日に成ると、祭主の子供が細き竹を長さ二尺一寸に切攜へ、之をコイバシ(己以波之)と名付け、祭禮が濟むと、此竹を群集の間に投げる。拾得た物は嘉瑞とする〔五〕。此れは口で言ふ託宣を竹に代表させた物である。常陸の鹿島神宮で、舊四月九日に行ふ齋頭祭等も、私が親しく拜觀した所に據ると、左右の大將となる者は子供であつて、今では祭神振武の故事を演ずると云つてゐるが、古くは左右の勝敗に依つて年占を行つた物だと考へられる〔六〕。類例は限りが無いから、此程度に止めて、今度は此修驗道の憑り祈禱と巫女の呪術との關係に就き一瞥を投ずるとする。
我國の古代の巫女が、神を己れの身に憑らせて託宣した事は、畏くも既述の神功皇后が其範を示された如く、全く固有の呪法と言ふべき物であつて、代代の巫女も又此呪法を傳へて變る所ˋが無かつたのである。唯其が、道教が輸入され、佛教が弘通されてからは、巫女も是等に導かれて、固有の呪法に幾多の變化を來たす樣に成つたが、其でも此固有の所作だけは保持してゐたのである。此立場から見れば、修驗者の行うた憑り祈禱なる物は、巫女の其を學んで、然も纔に方法を變えて──即ち巫女自身に憑らせべき神を、仲座と稱する第三者に憑らせて、修驗者は審神者の地位に立つたと云ふに過ぎぬのである。從つて、巫道と、修驗道との、呪術の關係は、前者の所有してゐた物を後者が奪ひ、男性であつただけに其を擴張したに外成らぬとも言へる樣である。殊に子供が託宣する事も、既述の如く、此れ又た古代からの事象であつて、此れとても修驗者の發明とは見られぬのである。修驗道が宗教界の寄生蟲と云はれるのも、決して故無しとせぬのである。
併しながら、修驗道の表道具であつた憑り祈禱は、如何にも神怪であつただけに、深く民間信仰を維いでゐた事は、爭ふべからざる事實であつた。加之、彼等が此呪術を自在に為し得る迄には、筆舌にも盡せぬ程の難行苦行を積んだ物である。『元亨釋書』の忍行篇に載せて有る彼等の行法や、謠曲『谷行』に現はれた彼等の作法等は、私の樣な氣の弱い者には、實に卒讀にも堪へぬ程である。絕食、絕水、不眠、不臥、手燈、倒懸、刻骨、捨肉、火定と云ふが如き、有りと有らゆる慘酷を忍ぶばかりか、更に加賀の白山禪定、紀州熊野の補陀落渡海の如き、聽くだに戰慄を覺える樣な事を、恰も尋常茶飯事の樣に實行して恐れ無かつた彼等の心理狀態は、よし其が迷信にもせよ、神や佛に縋ろうとする懸命の信仰を外にしては、遂に解釋し能わぬ問題である。斯く詮じ來たれば、修驗の徒が、永く民心を支配したのも、決して偶然の事では無く、且つ後世に成ると巫覡と並び稱せられて、覡は直ちに修驗者を意味する迄に成つたのも、又た偶然では無かつたのである。
〔註第一〕修驗道を役小角が開いたと云ふのは、彼等の徒の主張であつて、必ずしも正しい記錄に見えてゐる譯では無い。斯かる信仰上の問題は、追追に大成される物であつて、役ノ小角は單に此れに似た事をした位に過ぎぬ者と見るべきである。
〔註第二〕修驗道に關する書籍は少く無いが、纏つた物では『木の葉衣』『踏雲錄』等(共に『續續群書類從』宗教部所收。)で、此外にも、江戶期の隨筆にかなり多く記されてゐる。
〔註第三〕我國に於ける天狗信仰は、かなり複雜してゐるだけに、又た厄介な問題であるが、一言にして言へば、修驗道で創作した俗信の對象である。更に砂から工夫した飯綱信仰とか、狼を中心とした三峯信仰とか言う物も、修驗者が宣傳した物である。
〔註第四〕『新編會津風土記』卷四九。
〔註第五〕『飛州志』卷五。
〔註第六〕此事は曾て『國學院雜誌』で拙考を發表した事が有る。猶『元亨釋書』の行尊傳(有名な修驗者で、小倉百人一首で、「諸共(モロトモ)に、哀(アワ)れと思(オモ)へ、山櫻(ヤマサクラ)、花(ハナ)より外(ヨソ)に、知(シ)る物(モノ)も無(ナ)し。」の和歌で知られてゐる)に小女を憑座とした事が詳しく載せて有る。特志のお方の御參照を望む。
第二節 神降の呪文に見えた兩者の交涉
謠曲『葵上(アフヒノウヘ)』を讀むと、朝日の巫女が神降(カミオロ)しの呪文として、「憑坐(ヨリマシ)は、今ぞ寄り來る、長濱の、芦毛の駒に、手綱搖掛(ユリカ)け。」と云ふ短歌を唱へてゐる。此短歌は、何時(イツ)の頃に、誰が作つた物か、皆目知れぬと同時に、其解釋に就いても、判然せぬ物が有る。即ち憑坐(ヨリマシ)が芦毛の駒に乘つて寄來る事は合點されるが役小角が開いた物だと傳へられてゐる〔一〕、何故に長濱から來るのか、其が會得されぬ。併し、分らぬ事は分らぬままに後考を俟つとして、更に私に分る事だけ言ふと、巫女の用ゐた神降しの呪文も、時代に依つて、相當の變遷を經てゐる事は、當然の歸結であつて、神は人の敬ふにより德を增し、人は神の惠みに依り福を加ふと云ふ、神と人とが相互扶助的に對立される樣に成つて來れば、此神に仕へる人である巫女も、時勢に推し遷る事が生活の第一義であつたに相違吾い。從つて呪文なり、神占の方法なりも、時勢と共に繁より簡に、巖より寬に傾いて來た事も、又た當然の趣向と云は無ければ成らぬ。
其では中古の巫女が、如何なる呪文を唱へて神降しをしたかと云ふに、誠に慚愧に堪えぬ次第であるが、其代表的の物が寡見に入らぬのである。『年中行事秘抄』に據ると、鎮魂祭の折に用ふる呪文的歌が八首載せて有り、此中(コノウチ)の、「魂匣(たまはこ)に、木綿取り鎮て(ゆうとりとして)、たまちとうせよ、御魂上り(みたまあかり)、魂上り罷り(たまかりまかり)、座し神(まししかみ)は、今ぞ來(いまそき)ませる。」と有るのは〔二〕、神降しの意を含んでゐる樣に拜せられるのであるが、此れは畏くも歷聖の御上に限られた事であるから、其を巫女の輩が用ゐた等とは夢にも想はれぬ事である。其かと言うて、後世の巫女が唱へた、「千早振(チハヤブ)る、此處(ココ)も高天原(タカマヶハラ)なれば、集賜(アツマリタマ)へ、四方(ヨモ)の神神(カミカミ)。」と有る物は、如何にも近世の駄作であつて、此れが古くから行はれた物とは思はれぬ。併し、此れは文獻に見えぬこそ、寧ろ當然であつて、探し出さうとするのが卻つて無理なのである。何となれば、呪文は巫女の秘密にすべき物であつて、一子相傳とか、師承口傳とか、努めて他に漏れる事を禁じてゐた筈であるから、さう輕輕しく他人に語る譯も無く。從つて記錄にも殘ら無かつたので、是を詮議しようとした所が、先づ徒勞に終るのが關山と思は無ければ成らぬ。そんな次第で、古い物は見當らぬが、室町期の作である『鴉鷺合戰物語』卷九に、左の如き神降しの呪文の有るのを發見したので載錄する。因に言ふが、此物語は、鳥類を擬人化した物であるから、其事を承知せられたい。
(上略。)此處に雀小藤太が妻子の嘆(ナゲ)き申ばかりなし、せめてもの事に、正しき巫鵐コシトド)を請じて、小藤太を梓弓にかく、彼の巫(ミコ)、梅染の小袖かいとり座敷になをる。弓を打叩て、
天清淨地清淨、內外清淨、宅清淨、六根清淨と清淨し進候、上は梵天帝釋、四大天王、下は炎魔法王、太山府君、五道の冥官、司命司祿、海內海外、龍王龍象、別しては日本國中大小の神祇、殊には王城の鎮守鴨上下、河內國には飛鳥部大明神・雄黑大明神、和泉國には大島大明神、阿波國には白鳥大明神、東山道に鳥海大明神・火鷹大明神、東海道には香鳥大明神迄、梓弓を持て驚(オドロ)かし申、「夫(ソレ)我朝は神國也(ナリ)、神明の垂跡は此れ佛陀の慈悲の餘り也。」各納受をたれて、只今より來(キタ)る所の亡者の冥路の語、正しく聞せ賜へ。
寄人(マレビト)は、今そ寄來る、長濱(ナガハマ)や、葦毛(アシゲ)の駒に、手綱搖掛(ユリカ)け
ありがたの只今の請用やな。云云。(以上、博文館發行『國文學全書』本に據る。)
此神降しの呪文は、鳥類の物語であるだけに、招下(オギオロ)した神神が、悉く鳥の字の付く者ばかりで、殊に香取を香鳥にもぢつた所等は、如何にも後世の戲作にでもありさうな書き方ではあるが、併しながら、大體に於いて、斯うした文句が、巫女の間に用ゐられてゐた事は、第三篇に舉げた他の類例から推しても、ほぼ察知する事が出來るのである。
而して是を基準として說を試みるのは、太だ早速ではあるが、此呪文に現はれた思想と信仰とは、我が原始神道とは非常なる距離を有してゐて、全く修驗道の唱へた物の丸寫しとも言へるのである。六根清淨の祓は、兩部神道者の手に依つて作られた物であるが、此れを好んで用ゐた者は修驗者である。梵天帝釋・閻魔法王は、佛家の說であるが、此れを利用した者は修驗者である。泰山府君は道教の大達物であるが、此れを民間信仰に持込んだ者は同じく修驗者である。斯く神・佛の三者を雜然として織込んだ所は、修驗道の何でも御座れを如實に現はしてゐるのである。而して茲に注意し無ければ成らぬ事は、斯うした修驗道の思想や、信仰を、露骨に出してゐる呪文を巫女が平氣で之(コレ)を用ゐて憚ら無かつたと云ふ點である。此問題は一面から見れば、修驗道が民間信仰の中心と成つた事を意味してゐるが、更に他の一面から見れば、巫女は、(勿論、全部と言はれぬ事は、此種の呪文を用ゐぬ者も存してゐたからである。)修驗者に信仰的に征服された事を物語つてゐるのである。然も其征服された事實は、更に二つに分れて呪的方面と、性的方面とに區別して見る事が出來るのである。
〔註第一〕呪歌を常識から解釋しようとするのは、始めから無理な事かも知れぬが、此長濱は、地名か、人名か、故事か、其すら全く見當が付かぬ。敢て後考を俟つとする。
〔註第二〕此鎮魂歌は、私の所藏してゐる『年中行事秘抄』に載つてゐぬので、伴信友翁の『鎮魂傳』から轉載した。
第三節 修驗道から學んだ巫女の偶像崇拜
巫女は自身が神其の者であつたので、從つて自身が他人から崇拜を受くるとも、他に崇拜すべき偶像を有つてゐぬのが、其本義でもあり、且つ特色でもあつたのである。勿論、祖先崇拜と云ふ原始神道に培はれた古代巫女が、祖先の墳墓を神格化し、其土塊を以て造つた人形(ヒトガタ)を持つてゐた事は、偶像崇拜と見られぬ事も無いのであるが、此れは單なる呪力の根元として所持してゐただけで、所謂、一般の偶像崇拜とは信仰を異にしてゐるのである。換言すれば、血液で維(ツナガ)れた氏神信仰を基調とした巫女が、此種の人形(ヒトガタ)を攜へてゐたのは、此れを持つてゐる事が、氏神の末裔である事を證明し、併せて神性を承けてゐる事を體認する方法にしか過ぎぬのであつて、一般人の神體や、佛像や御影に對する偶像崇拜とは、其間に截然たる區別が在つて存したのである。然るに中古の巫女に成ると、漸く偶像を崇拜する樣に變じて來た。奧州のイタコと稱する巫女が、大白(オシラ)神を崇拜した(此神の由來や分布に就いては後に述べる。)のは、其最も代表的な物で、更に前にも載せた「後佛」を所持するとか、(此れは察するに修驗者の笈から思ひ付ゐたものであらう。)笹帚(ササハタ)キと稱する巫女が、笹の代わりに御幣を以て呪術を行ひし事、及び各地の巫女が、十三佛中の一佛を以て守り本尊として崇拜したのは、悉く其徵證として舉げる事が出來るのである。
勿論、巫女の偶像崇拜の動機なり、過程なりを、單に修驗道の影響のみと斷ずる事は妥當を缺き、此れには佛教なり──更に佛教の影響で神道が偶像を造り崇拜し、一般の信仰が偶像崇拜に墮した大勢にあつた事に注意し無ければ成らぬが、巫女に直接に此刺激を與へた物は、修驗者であつたと信じたい。各地に夥しき迄祀られてゐる天白社(テバクシャ)(手箱、天獏、天凾等書く。)なる物の多くは、巫女が或は手にし、或は背にした箱を(此事は後に巫女の土著の條に詳述する。)祀つた物へ、道教の太白神を附會した物であつて、巫女の箱が、修驗の笈に教へられた事は疑ふ餘地は無い。修驗にとつては、笈は神靈の宿る物で、片時も此れを放す事無く、此れを措いては呪術を行ふ事の出來ぬ迄に重要な物であつた。高野聖(ヒヂリ)と稱する徒が、瓢を二つ割にした樣な珍妙な笈(明治に成ると此笈は新案特許と成り他者の製作を許さ無かつた。)を背負い、此中に護摩の灰を入れて、諸方を流步き、到る所で小盜を働き、婦人にも關係するので、遂に草賊の事を「護摩の灰」と稱し、更に、「高野聖に宿かす莫、娘取られて恥かく莫。」の俚諺を生む樣に成つたが、此笈等も修驗の其に學ぶ所が有つた物と考へられる。而して此巫女の偶像崇拜は、次項に述べる兩者の性的結合──修驗の妻は概して巫女であつたと云ふ事を想ひ合はす時、決して偶然で無い事が知られるのである。
第四節 生活の機構が導いた兩者の性的結合
弘安年中に僧無住の書いた『沙石集』は、鎌倉期の世相を考覈するには、有要なる史料で滿たされてゐる。其卷七「無嫉妬之心人事」と題する記事の末節に、
或る山の中にて、山伏(ヤマブシ)と巫女(ミコ)と往相(ユキア)ひて物語しけるが、人も無き山中にて凡夫の習(ナラ)ひなれば、愛欲の心起りて、此巫女(ミコ)に墮(オ)ちぬ。此巫女(ミコ)山澤の水にて垢離かきて、鼓を鼕鼕と擊ち、珠數捺擦(オシス)りて、「熊野白山三十八所、猶も斯かる目に遭(ア)はせ給へ。」と祈りけり。山伏又垢離かきて、珠數捺擦(オシス)りて、「魔界の所為にや、斯かる惡緣に遭(ア)ひて不覺を仕りぬる。南無惡魔降伏不動明王、今はさてあれと制させ給へ。」と云て、二人行き別れにけり。
と載せて有る。而して此記事は、少くとも、(一)兩者が同じ樣に信仰生活に處した事、(二)且つ同じ樣に漂泊生活を營んでゐた事、(三)然も同じ樣に性行為に就いては、多少とも世間を兼ねる境遇に置かれてゐた事の三つの暗示を與へてゐるのである。
巫女と修驗の信仰生活が共通した事は既述したし、漂泊生活が類似した事は後既に說く故、此處には性行為に就いて一言するも、巫女は原則として良人を有たず、淨き獨身生活を送るべき約束が有つたのである。修驗は教義の上からは、妻帶する事は禁じられてはゐ無かつたが〔一〕、信仰に生き、靈界の事に從ふ者は、常人の為し兼ねる事を敢てする點に、威望が繫がるのであるから、如何に有髮の優婆塞でも、女性に關しては遠避かる程の態度を持する事が必要であつた。平田篤胤翁の『古今妖魅考』三卷は、翁一流の廢佛拆僧の考へを以て著はされただけに、極端に迄僧尼の非行亂倫を列舉して有るが、是等に據るも、彼等信仰生活を營んだ者が、如何に性の問題に就いて苦しんだかが窺はれるのである〔二〕。
然るに、社會の大勢は、是等の巫覡の呪術を輕視する樣に成り、巫覡其自身の信仰も、漸次墮落して來る樣に成れば、同氣相求むると云ふか、同病相憐むと云ふか、兔に角に、此兩者が一つに成つて──夫婦として共同生活を營む樣に成るのは、先づ當然の事として認めねば成らぬ。而して此傾向は、近古に至つて益益增長を加へて來たのであるが、其等の實例、及び共同生活の內容等に關しては、第三篇に詳しく述べる機會が有るので、今は除筆する。
巫女と修驗道との呪術的關係に就いては、猶ほ幾多の問題が殘されてゐる。『七十一番職人歌合』に、地者(ヂシャ)と稱して男子が女子を裝ひ神事を行ふ者を載せてゐるが、此れは巫覡の習合其の頂上に達した物であらうし、巫女が竃拂ひをしたのも其であるし、巫女が呪符を用ゐたのも其である。併し茲には、大體を記すに止めて、他は機會の有る每に補足するとした。
〔註第一〕我國の修驗者を、佛法の優婆塞に、更に巫女に同じ優婆夷の語を充て、說明する者が有るが、此れは大變に相違してゐると思ふ。佛法上の用例に從へば、兩者は五戒を受けて、近く三寶に仕へるだけの者で、即ち在家の篤信者にしか過ぎぬ。又た我國に於ける清僧が、性の問題に觸れて修驗者に成つた幾多の例も有るが、此處には其研究が目的で無いので省略した。
〔註第二〕私は曩に「泡子地藏が語る墮胎史の一片」と題して、此種の問題に就いて、多少の考察を試みた事が有る。拙著『日本民俗志』に收めて置いた。御參照を乞ふ。
明治四年に、全國の修驗道に屬する修驗者(俗に山伏と云つた。)を廢止した時の第一の理由は、修驗は神社と異り、一定の氏子を有せず、更に寺院と違ひ、一定の檀徒を持たぬ為であつたと聞いてゐる。維新の際の宗教行政には、今から考へて見ると、多少の無理も伴つてゐた樣であるが、此れは萬事に改革を急いだ當時としては止むを得ぬ事と思はれる。而して此修驗道なる物は、獨り一定の氏子や檀徒を有してゐ無いばかりで無く、其教義に於いても、儀軌に於いても、是(コレ)がと云ふ獨自の特色が有るでは無く、古神道と、道教と、佛教との三者の中(ウチ)から、民間信仰に交涉有る物だけを拾集め、其へ不完全な體系を加へた物であつて、一言にして云へば、無特色が特色で、俗に謂ふ八宗兼學的の「何でも御座れ」を表看板にしてゐたのである。換言すれば、神道と、道教と、佛教の三つから、都合の宜い所を少しずつ摘んで來て、之(コレ)を山岳崇拜と云ふ修驗道の基調とした鎔爐(ルツボ)の中へ入れて煮上げた物にしか過ぎぬのである。更に極言すれば、修驗道は、我國の宗教界に於ける寄生蟲であつたとも評する事が出來るのである。併しながら山岳信仰を高調してゐただけに、好んで深山高嶽に出入して、人跡未到の地を開拓した功績は認め無ければ成らぬ。其に年久しく民間信仰に喰込んでいただけに、其勢力は實に驚くばかりの物であつて、明治に廢止された折には、先達と稱する頭目だけでも、約十七萬人の多きに及び、此他に小先達とか脇先達とか云ふ者を加へたら、無慮幾十萬と云ふ夥しき數であつたらうと云ふ事である。斯うした勢力を有してゐた修驗道と巫女との關係はどうであつたか、私は其兩者の交涉を例の速斷で簡單に記述したいと思ふ。
第一節 憑り祈禱に現はれた兩者の交涉
修驗道は、奈良朝に於いて、役小角が開いた物だと傳へられてゐる〔一〕。私は小角が創めた當時の修驗道が、如何なる物であつたかは詳しく知らぬが、後世の是等の徒が好んで行うた呪術は、俗に「憑(ヨ)り祈禱(キトウ)」と稱する物であつて、一名の男女(又は子供。)を、憑座(ヨリマシ)(仲座(ナカザ)、御幣持(ゴヘイモチ)、屍童(ヨリワラ)、乘童(ノリワラ)、神使(オコウサマ)、一ツ者(モノ)、護法實(ゴホウダネ)、護法付(ゴホウツキ)、護因坊(ゴインボウ)、古年童(コネンドウ)等とも云ふ。)と定め、此れに神を祈り著けて、其者の口より、神意として、善惡吉凶等を語らせる方法である。私は此處に、修驗者が行つた憑り祈禱の二三の實例を舉げ、然る後に、此呪法と、巫女の其との比較、及び關係に就いて、管見を述べる。唯前以てお斷りして置く事は、此種の類例は、代代の文獻にも非常に多く存してゐるので、到底此處には舉げ切れず、又舉げる必要も無いと信ずる故、今は私が專攻してゐる民俗學的の資料を、時代に拘らず載せた事である。『校正作陽誌』久米郡南分寺院部に、
護法社,在岩間山本山寺(天台宗。)域內。每年七月七日,行護法,祈其法撰素撲者,齋戒齋淨,諺謂之護法實。至七日,使居東堂之庭,滿山眾徒盤境呪持。此人忽ニ(爾)狂躍,或咆吼忿嗔,狀如獸族,力扛大盤。若有穢濁之人,則捉而抛擲數十步之外也。呪法既畢,則供護法水四桶,每桶盛水一斗五升。其人盡吞了,後俄然仆地,即復本。敢莫勞困,又不自知之耳。謂之墜護法也。(以上摘要。)
此護法實と稱する人物が、呪持の為に、力大、盤を扛(ア)げ、水六斗を吞み盡し、獸族の如くに成つて咆吼し、穢濁者有る時、捉へて數十步の外に擲つとは、現今の科學から說明すれば、全く催眠狀態の仕業である事が容易に知り得らるるのであるが、斯かる知識を少しも有してゐ無かつた時代に在つては、唯神秘の事、不思議の事と信じ、恐れるより外に致し方が無かつたのである。昭和の現代に於いても、真宗の絲引名號や、法華宗の御因緣樣等が多數の信者を有してゐる所から推すと、修驗道が民間信仰の骨髓に迄浸み込み、護法實や山伏の威力は、私等が今日から想像する以上に更に猛烈であつたに相違無い。而して其旁證とも見るべき記事が、同じ『校正作陽誌』久米郡北分寺院部に載せて有る。曰く、
二上山兩山寺,(真言宗。)在大垪和村。云云。末社護法祠。建治元年七月十日,僧定乘於鎮守廟言護法神託,寺僧書軸為號護法託宣,率千數百字皆不經之言也。相傳,昔有山鬼,名曰三郎坊養勢,常為佛敵。護法神怒執縛之,自後誓不復往山。又山下有護法松,住日法樂之日,寺山某來見,會將央,護法之屍奮然起而攫捉寺山。蓋因其不潔也。寺山勇悍,相撲接峻崖嶮坂輾轉而下。二人共死,因合葬其地。後人植松為標,名護法松。(以上摘要。)
此護法松の由來に就いては、『岡山新聞』に異說が載せて有る。重複する點も有るが、如何に當時、此護法信仰なる物が、威力を以て民眾に臨んでゐたかを知る上に、參考として附載する。
美作國久米郡の兩山寺には、往昔二十四房有つたが、過半は廢れて今では六房しか殘つてゐ無い。每年八月十五日に、武甕槌命の祭典が有る。此れを護王(中山曰、護法の轉訛。)と云ひ、人に神を祈り付け、境內を飛び走つて穢れし人は之を捕へる。此れに捕へられた者は、二年すれば死ぬと言傳へられてゐる。昔、不信心の武士が、(中山曰、前條の寺山某か。)わざと魚を食つたまま參詣し、此護王に追掛けられ、逃げ途を失ふて、松木へ登り、難を避けたが、護王が其松に登つて來たので、武士は帶刀を揮つて護王を斬殺して了(シマ)つた。武士が血刀を附近の池で洗つた所、不思議にも池水が一時に涸れて了(シマ)ひ、今でも雨が降ると血色の水が湧くと云ふ。(摘要。大正七年七月廿六日發行。)
是等の記事は、別段に說明を要する程の難解の物では無いが、唯一言注意迄に言つて置く事は、此護法附の憑り祈禱を行ふ寺が、雙方とも修驗道に關係の深い天台宗と真言宗とである事である。私が改めて言ふ迄も無く、修驗道は古くから此兩宗に屬し、聖護院派(天台で當山派と稱し。)と、醍醐派(密宗で本山派と稱す。)とに分れてゐて、峰入りも順逆の二つに區別されてゐた。而して修驗道が、此兩宗の袈裟下に投じた事に就いては、多少記すべき事が存するけれども〔二〕、其は餘り本問に關係が無いので割愛し、更に此種の憑り祈禱の類例を舉げるとする。護法附に就いては『鄉土趣味』第一卷第五號に、左の如き記事が載せて有る。
京都の松尾山鞍馬寺(天台宗。)では、每年六月二十日の夜に、護法附と云ふ修法を行ふ。此れは有名なる「鞍馬の竹伐」の行事(中山曰、竹の伐り方で年占をする物。)に關係有る雌蛇が、護法神として祭つて有る為である。大昔には、每年人味(人身御供。)を供へたと云ふが、今では夜八時に、堂內の燈火を悉く消し、生贄にする僧(即ち憑座。)を坐せしめ、眾僧も共に闇中に居て、代る代る陀羅尼神呪を大聲に唱へて、彼の僧を一時ばかり祈殺す。此處に至つて、護法神は人味を納受せられたとて、之にて法式が終る。後に其假死してゐる僧を板に乘せて堂の後に舁て往き、大桶七ツ半の水を注流して身に懸けてやると、生贄はやがて蘇生する。其處で裸體のまま護法の祠に參詣する。此れを護法附の行事と稱してゐる。今日では僧を祈殺し、祈活すと云ふ樣な、法力實驗は致さぬさうである。(以上摘要。)
此記事は採集者の態度が興味本位である為に、學術上の大きな問題を忘卻してゐる。其は此種の行事の目的は、其憑座の口から神意を語らせ、一年中の豐凶又は時疫の有無等を占ふ事に出發してゐるのであつて、其事は年占の竹伐りの行事に引續いて舉げられる點からも知れるのである。次に載せる憑り祈禱等も、又其が脫落してゐるが、唯面白半分に斯かる祈禱が行はるる筈が無いので、古意が失はれて、行事だけが殘つた物と見るべきである。『福島縣耶麻郡誌』に、
岩代國耶麻郡月輪村大字關脇の麓山(ハヤマ)神社、舊記に每年九月十五日民家を掃ひ清め、注連を引いて大幣二本を安じ、村民の祭りに與る者宿齋し、此家に集會し、大なる爐に薪を焚き、眾人「月山(ツキヤマ)、麓山(ハヤマ)、羽黑の大權現、並びに稻荷(トウカ)の大明神」と一と口に出る如く唱ふる事數十反、神之(コレ)に憑る者一人或は二三人、互ひに起つて幣を執り狂躍し、遂に爐中に入り火上に坐す。或は火を擢み、或は火を踏み、幣にて火を探れども燃ゆる事無し。少間有りて神去れば、其人醉の醒めたるが如し。十五日より二十七日迄每夜かくの如く、二十九日の朝麓山社に詣て神事に交る。此れを火祭りと云ふ。(以上摘要。)
以上の憑り祈禱に比較すると、竹崎嘉通翁が『鄉土研究』第三卷第九號に寄せた物は、良く古俗を傳へてゐる物と考へるので採錄する。
石見國邑智郡高原村大字原村の氏神社では、例祭の折に『託舞(タクマイ)』と云ふ神樂が行はれる。託とは神託の事で、一人の審神(サニワ)(中山曰、審神は既記の如く神意を判ずる者であるから、此場合は憑座とか幣持とか云ふのが穩當であるが、今は原文に從ふとした。)を立て、神降(オロ)しを為(ナ)し、種種の問答を試みるのである。託太夫、即ち審神となる神職は、自然世襲の有樣で、又其に屬する腰抱(コシダ)きと云ふ役も有るが、此れも亦た世襲の姿であつた。託舞の設備としては、大きな注連繩の端を龍頭に似せて造つた物を、神前の左右の柱から相對する方面の柱に引渡す。深更の刻、審神者を上座とし、多數の神官其繩に取付き、幣を持ち、歌を唄ひ、祝詞を讀む。さうすると、暫時にして、審神者に顏色變り、大聲を發して、「村の某は云云の罪惡が有る。」「某は不信者。」「本年某の方面に火災が有る。」等口走り、又た祭主たる神職と種種の問答をする事も有る。時に依つては神怒を發し、太刀を拔いて荒迴り、或は棧敷に飛込み、怪我人を生ずる事も有る。其時腰抱きなる者が此れを抱き鎮める。自分(即ち竹崎翁、因に云ふが翁は神職である。)は三四度其席に列した事が有るが、何時(イツ)も餘りの恐しさに、片隅に打伏してゐた。(以上摘要。)
此處迄記事を進めて來ると、猶ほ此種の行事に類する吉野金峯山の蛙飛びの神事、(一人の僧を蛙の如く扮裝させ、之(コレ)を鞍馬寺の如く祈殺し祈活す。)奧州羽黑山の松聖(マツヒジリ)の行事、近江の比良八荒の傳說、尾張國府宮宮で旅人を捕へて氣絕させる直會祭、筑前觀音寺の同じく旅人を搦めて松葉燻しにする行事や、其他各地の修驗者が好んで行うた「笈渡しの神事」迄說明せぬと、些か徹底を欠く樣に思はれるが、其では餘りに長文に成るし、又此外に子供を憑座とした憑り祈禱も舉げたいとも考へてゐるので、是等は悉く省略に從ふ事とし、筆路を護因坊に移すとした。而して護因坊に就いては『近江輿地志略』卷二〇に『日吉記』を引用して、下の如く載せて有る。
護因坊,僧形有觜,樹下僧行力巨多也。後身誕生,後二條院敕賜愛智上庄三千石內陣御供料。當社,神位崇敬之社,辻護因坊跡也。奧護因廟所,淨之勝也。內井之護因,比谷川大洪水時,流自大行事迄內井。如此止處建社,號流護因云云。(日本地誌大系本。)
美作の護法實に為(セ)よ、鞍馬の護法附に為(セ)よ、憑代と成る者は、或る限られた人物であつたに為(セ)よ、其でも未だ私達と同じき橫目縱鼻の人間であつたが、此護因坊と成ると、僧形有觜と有る如く、全くの天狗と成り了ふせてゐる〔三〕。斯く人間から天狗に遷變つて行く所が、やがて修驗道が道教や佛教を巧みに取り入れて、民間信仰を支配するに至つた過程なのである。而して此憑り祈禱と同じ樣な目的で、憑座に子供を用ゐた神事も多數に存してゐるが、茲には僅に二三だけ舉げるとする。
岩代國耶麻郡豬苗代町字新町の麓山(ハヤマ)神社の祭日には、火劍の神事とて、生木を焚いて薪とし、鹽を多く振掛けて火を示し、村民等呪文を唱へ、幣帛を振つて清め、祈願ある者參詣すれば、火中を渡らせる。又た乘童(ノリワラ)と號けて、祈願する者の吉凶を託宣する。昔は子供が此事を行つたが、今では老壯の者が遣る樣に成つた〔四〕。飛驒國益田郡下呂村大字森の八幡宮の例祭は、古風を傳へてゐるが、正月十日に、氏子の中から、十二三歲の子供を集め、神前にて籤を取らせ十人を選み、又其中より一人を選み、禰宜と稱し、折烏帽子直垂を著し、神事の祭主とする。祭典の十四日に成ると、祭主の子供が細き竹を長さ二尺一寸に切攜へ、之をコイバシ(己以波之)と名付け、祭禮が濟むと、此竹を群集の間に投げる。拾得た物は嘉瑞とする〔五〕。此れは口で言ふ託宣を竹に代表させた物である。常陸の鹿島神宮で、舊四月九日に行ふ齋頭祭等も、私が親しく拜觀した所に據ると、左右の大將となる者は子供であつて、今では祭神振武の故事を演ずると云つてゐるが、古くは左右の勝敗に依つて年占を行つた物だと考へられる〔六〕。類例は限りが無いから、此程度に止めて、今度は此修驗道の憑り祈禱と巫女の呪術との關係に就き一瞥を投ずるとする。
我國の古代の巫女が、神を己れの身に憑らせて託宣した事は、畏くも既述の神功皇后が其範を示された如く、全く固有の呪法と言ふべき物であつて、代代の巫女も又此呪法を傳へて變る所ˋが無かつたのである。唯其が、道教が輸入され、佛教が弘通されてからは、巫女も是等に導かれて、固有の呪法に幾多の變化を來たす樣に成つたが、其でも此固有の所作だけは保持してゐたのである。此立場から見れば、修驗者の行うた憑り祈禱なる物は、巫女の其を學んで、然も纔に方法を變えて──即ち巫女自身に憑らせべき神を、仲座と稱する第三者に憑らせて、修驗者は審神者の地位に立つたと云ふに過ぎぬのである。從つて、巫道と、修驗道との、呪術の關係は、前者の所有してゐた物を後者が奪ひ、男性であつただけに其を擴張したに外成らぬとも言へる樣である。殊に子供が託宣する事も、既述の如く、此れ又た古代からの事象であつて、此れとても修驗者の發明とは見られぬのである。修驗道が宗教界の寄生蟲と云はれるのも、決して故無しとせぬのである。
併しながら、修驗道の表道具であつた憑り祈禱は、如何にも神怪であつただけに、深く民間信仰を維いでゐた事は、爭ふべからざる事實であつた。加之、彼等が此呪術を自在に為し得る迄には、筆舌にも盡せぬ程の難行苦行を積んだ物である。『元亨釋書』の忍行篇に載せて有る彼等の行法や、謠曲『谷行』に現はれた彼等の作法等は、私の樣な氣の弱い者には、實に卒讀にも堪へぬ程である。絕食、絕水、不眠、不臥、手燈、倒懸、刻骨、捨肉、火定と云ふが如き、有りと有らゆる慘酷を忍ぶばかりか、更に加賀の白山禪定、紀州熊野の補陀落渡海の如き、聽くだに戰慄を覺える樣な事を、恰も尋常茶飯事の樣に實行して恐れ無かつた彼等の心理狀態は、よし其が迷信にもせよ、神や佛に縋ろうとする懸命の信仰を外にしては、遂に解釋し能わぬ問題である。斯く詮じ來たれば、修驗の徒が、永く民心を支配したのも、決して偶然の事では無く、且つ後世に成ると巫覡と並び稱せられて、覡は直ちに修驗者を意味する迄に成つたのも、又た偶然では無かつたのである。
〔註第一〕修驗道を役小角が開いたと云ふのは、彼等の徒の主張であつて、必ずしも正しい記錄に見えてゐる譯では無い。斯かる信仰上の問題は、追追に大成される物であつて、役ノ小角は單に此れに似た事をした位に過ぎぬ者と見るべきである。
〔註第二〕修驗道に關する書籍は少く無いが、纏つた物では『木の葉衣』『踏雲錄』等(共に『續續群書類從』宗教部所收。)で、此外にも、江戶期の隨筆にかなり多く記されてゐる。
〔註第三〕我國に於ける天狗信仰は、かなり複雜してゐるだけに、又た厄介な問題であるが、一言にして言へば、修驗道で創作した俗信の對象である。更に砂から工夫した飯綱信仰とか、狼を中心とした三峯信仰とか言う物も、修驗者が宣傳した物である。
〔註第四〕『新編會津風土記』卷四九。
〔註第五〕『飛州志』卷五。
〔註第六〕此事は曾て『國學院雜誌』で拙考を發表した事が有る。猶『元亨釋書』の行尊傳(有名な修驗者で、小倉百人一首で、「諸共(モロトモ)に、哀(アワ)れと思(オモ)へ、山櫻(ヤマサクラ)、花(ハナ)より外(ヨソ)に、知(シ)る物(モノ)も無(ナ)し。」の和歌で知られてゐる)に小女を憑座とした事が詳しく載せて有る。特志のお方の御參照を望む。
第二節 神降の呪文に見えた兩者の交涉
謠曲『葵上(アフヒノウヘ)』を讀むと、朝日の巫女が神降(カミオロ)しの呪文として、「憑坐(ヨリマシ)は、今ぞ寄り來る、長濱の、芦毛の駒に、手綱搖掛(ユリカ)け。」と云ふ短歌を唱へてゐる。此短歌は、何時(イツ)の頃に、誰が作つた物か、皆目知れぬと同時に、其解釋に就いても、判然せぬ物が有る。即ち憑坐(ヨリマシ)が芦毛の駒に乘つて寄來る事は合點されるが役小角が開いた物だと傳へられてゐる〔一〕、何故に長濱から來るのか、其が會得されぬ。併し、分らぬ事は分らぬままに後考を俟つとして、更に私に分る事だけ言ふと、巫女の用ゐた神降しの呪文も、時代に依つて、相當の變遷を經てゐる事は、當然の歸結であつて、神は人の敬ふにより德を增し、人は神の惠みに依り福を加ふと云ふ、神と人とが相互扶助的に對立される樣に成つて來れば、此神に仕へる人である巫女も、時勢に推し遷る事が生活の第一義であつたに相違吾い。從つて呪文なり、神占の方法なりも、時勢と共に繁より簡に、巖より寬に傾いて來た事も、又た當然の趣向と云は無ければ成らぬ。
其では中古の巫女が、如何なる呪文を唱へて神降しをしたかと云ふに、誠に慚愧に堪えぬ次第であるが、其代表的の物が寡見に入らぬのである。『年中行事秘抄』に據ると、鎮魂祭の折に用ふる呪文的歌が八首載せて有り、此中(コノウチ)の、「魂匣(たまはこ)に、木綿取り鎮て(ゆうとりとして)、たまちとうせよ、御魂上り(みたまあかり)、魂上り罷り(たまかりまかり)、座し神(まししかみ)は、今ぞ來(いまそき)ませる。」と有るのは〔二〕、神降しの意を含んでゐる樣に拜せられるのであるが、此れは畏くも歷聖の御上に限られた事であるから、其を巫女の輩が用ゐた等とは夢にも想はれぬ事である。其かと言うて、後世の巫女が唱へた、「千早振(チハヤブ)る、此處(ココ)も高天原(タカマヶハラ)なれば、集賜(アツマリタマ)へ、四方(ヨモ)の神神(カミカミ)。」と有る物は、如何にも近世の駄作であつて、此れが古くから行はれた物とは思はれぬ。併し、此れは文獻に見えぬこそ、寧ろ當然であつて、探し出さうとするのが卻つて無理なのである。何となれば、呪文は巫女の秘密にすべき物であつて、一子相傳とか、師承口傳とか、努めて他に漏れる事を禁じてゐた筈であるから、さう輕輕しく他人に語る譯も無く。從つて記錄にも殘ら無かつたので、是を詮議しようとした所が、先づ徒勞に終るのが關山と思は無ければ成らぬ。そんな次第で、古い物は見當らぬが、室町期の作である『鴉鷺合戰物語』卷九に、左の如き神降しの呪文の有るのを發見したので載錄する。因に言ふが、此物語は、鳥類を擬人化した物であるから、其事を承知せられたい。
(上略。)此處に雀小藤太が妻子の嘆(ナゲ)き申ばかりなし、せめてもの事に、正しき巫鵐コシトド)を請じて、小藤太を梓弓にかく、彼の巫(ミコ)、梅染の小袖かいとり座敷になをる。弓を打叩て、
天清淨地清淨、內外清淨、宅清淨、六根清淨と清淨し進候、上は梵天帝釋、四大天王、下は炎魔法王、太山府君、五道の冥官、司命司祿、海內海外、龍王龍象、別しては日本國中大小の神祇、殊には王城の鎮守鴨上下、河內國には飛鳥部大明神・雄黑大明神、和泉國には大島大明神、阿波國には白鳥大明神、東山道に鳥海大明神・火鷹大明神、東海道には香鳥大明神迄、梓弓を持て驚(オドロ)かし申、「夫(ソレ)我朝は神國也(ナリ)、神明の垂跡は此れ佛陀の慈悲の餘り也。」各納受をたれて、只今より來(キタ)る所の亡者の冥路の語、正しく聞せ賜へ。
寄人(マレビト)は、今そ寄來る、長濱(ナガハマ)や、葦毛(アシゲ)の駒に、手綱搖掛(ユリカ)け
ありがたの只今の請用やな。云云。(以上、博文館發行『國文學全書』本に據る。)
此神降しの呪文は、鳥類の物語であるだけに、招下(オギオロ)した神神が、悉く鳥の字の付く者ばかりで、殊に香取を香鳥にもぢつた所等は、如何にも後世の戲作にでもありさうな書き方ではあるが、併しながら、大體に於いて、斯うした文句が、巫女の間に用ゐられてゐた事は、第三篇に舉げた他の類例から推しても、ほぼ察知する事が出來るのである。
而して是を基準として說を試みるのは、太だ早速ではあるが、此呪文に現はれた思想と信仰とは、我が原始神道とは非常なる距離を有してゐて、全く修驗道の唱へた物の丸寫しとも言へるのである。六根清淨の祓は、兩部神道者の手に依つて作られた物であるが、此れを好んで用ゐた者は修驗者である。梵天帝釋・閻魔法王は、佛家の說であるが、此れを利用した者は修驗者である。泰山府君は道教の大達物であるが、此れを民間信仰に持込んだ者は同じく修驗者である。斯く神・佛の三者を雜然として織込んだ所は、修驗道の何でも御座れを如實に現はしてゐるのである。而して茲に注意し無ければ成らぬ事は、斯うした修驗道の思想や、信仰を、露骨に出してゐる呪文を巫女が平氣で之(コレ)を用ゐて憚ら無かつたと云ふ點である。此問題は一面から見れば、修驗道が民間信仰の中心と成つた事を意味してゐるが、更に他の一面から見れば、巫女は、(勿論、全部と言はれぬ事は、此種の呪文を用ゐぬ者も存してゐたからである。)修驗者に信仰的に征服された事を物語つてゐるのである。然も其征服された事實は、更に二つに分れて呪的方面と、性的方面とに區別して見る事が出來るのである。
〔註第一〕呪歌を常識から解釋しようとするのは、始めから無理な事かも知れぬが、此長濱は、地名か、人名か、故事か、其すら全く見當が付かぬ。敢て後考を俟つとする。
〔註第二〕此鎮魂歌は、私の所藏してゐる『年中行事秘抄』に載つてゐぬので、伴信友翁の『鎮魂傳』から轉載した。
第三節 修驗道から學んだ巫女の偶像崇拜
巫女は自身が神其の者であつたので、從つて自身が他人から崇拜を受くるとも、他に崇拜すべき偶像を有つてゐぬのが、其本義でもあり、且つ特色でもあつたのである。勿論、祖先崇拜と云ふ原始神道に培はれた古代巫女が、祖先の墳墓を神格化し、其土塊を以て造つた人形(ヒトガタ)を持つてゐた事は、偶像崇拜と見られぬ事も無いのであるが、此れは單なる呪力の根元として所持してゐただけで、所謂、一般の偶像崇拜とは信仰を異にしてゐるのである。換言すれば、血液で維(ツナガ)れた氏神信仰を基調とした巫女が、此種の人形(ヒトガタ)を攜へてゐたのは、此れを持つてゐる事が、氏神の末裔である事を證明し、併せて神性を承けてゐる事を體認する方法にしか過ぎぬのであつて、一般人の神體や、佛像や御影に對する偶像崇拜とは、其間に截然たる區別が在つて存したのである。然るに中古の巫女に成ると、漸く偶像を崇拜する樣に變じて來た。奧州のイタコと稱する巫女が、大白(オシラ)神を崇拜した(此神の由來や分布に就いては後に述べる。)のは、其最も代表的な物で、更に前にも載せた「後佛」を所持するとか、(此れは察するに修驗者の笈から思ひ付ゐたものであらう。)笹帚(ササハタ)キと稱する巫女が、笹の代わりに御幣を以て呪術を行ひし事、及び各地の巫女が、十三佛中の一佛を以て守り本尊として崇拜したのは、悉く其徵證として舉げる事が出來るのである。
勿論、巫女の偶像崇拜の動機なり、過程なりを、單に修驗道の影響のみと斷ずる事は妥當を缺き、此れには佛教なり──更に佛教の影響で神道が偶像を造り崇拜し、一般の信仰が偶像崇拜に墮した大勢にあつた事に注意し無ければ成らぬが、巫女に直接に此刺激を與へた物は、修驗者であつたと信じたい。各地に夥しき迄祀られてゐる天白社(テバクシャ)(手箱、天獏、天凾等書く。)なる物の多くは、巫女が或は手にし、或は背にした箱を(此事は後に巫女の土著の條に詳述する。)祀つた物へ、道教の太白神を附會した物であつて、巫女の箱が、修驗の笈に教へられた事は疑ふ餘地は無い。修驗にとつては、笈は神靈の宿る物で、片時も此れを放す事無く、此れを措いては呪術を行ふ事の出來ぬ迄に重要な物であつた。高野聖(ヒヂリ)と稱する徒が、瓢を二つ割にした樣な珍妙な笈(明治に成ると此笈は新案特許と成り他者の製作を許さ無かつた。)を背負い、此中に護摩の灰を入れて、諸方を流步き、到る所で小盜を働き、婦人にも關係するので、遂に草賊の事を「護摩の灰」と稱し、更に、「高野聖に宿かす莫、娘取られて恥かく莫。」の俚諺を生む樣に成つたが、此笈等も修驗の其に學ぶ所が有つた物と考へられる。而して此巫女の偶像崇拜は、次項に述べる兩者の性的結合──修驗の妻は概して巫女であつたと云ふ事を想ひ合はす時、決して偶然で無い事が知られるのである。
第四節 生活の機構が導いた兩者の性的結合
弘安年中に僧無住の書いた『沙石集』は、鎌倉期の世相を考覈するには、有要なる史料で滿たされてゐる。其卷七「無嫉妬之心人事」と題する記事の末節に、
或る山の中にて、山伏(ヤマブシ)と巫女(ミコ)と往相(ユキア)ひて物語しけるが、人も無き山中にて凡夫の習(ナラ)ひなれば、愛欲の心起りて、此巫女(ミコ)に墮(オ)ちぬ。此巫女(ミコ)山澤の水にて垢離かきて、鼓を鼕鼕と擊ち、珠數捺擦(オシス)りて、「熊野白山三十八所、猶も斯かる目に遭(ア)はせ給へ。」と祈りけり。山伏又垢離かきて、珠數捺擦(オシス)りて、「魔界の所為にや、斯かる惡緣に遭(ア)ひて不覺を仕りぬる。南無惡魔降伏不動明王、今はさてあれと制させ給へ。」と云て、二人行き別れにけり。
と載せて有る。而して此記事は、少くとも、(一)兩者が同じ樣に信仰生活に處した事、(二)且つ同じ樣に漂泊生活を營んでゐた事、(三)然も同じ樣に性行為に就いては、多少とも世間を兼ねる境遇に置かれてゐた事の三つの暗示を與へてゐるのである。
巫女と修驗の信仰生活が共通した事は既述したし、漂泊生活が類似した事は後既に說く故、此處には性行為に就いて一言するも、巫女は原則として良人を有たず、淨き獨身生活を送るべき約束が有つたのである。修驗は教義の上からは、妻帶する事は禁じられてはゐ無かつたが〔一〕、信仰に生き、靈界の事に從ふ者は、常人の為し兼ねる事を敢てする點に、威望が繫がるのであるから、如何に有髮の優婆塞でも、女性に關しては遠避かる程の態度を持する事が必要であつた。平田篤胤翁の『古今妖魅考』三卷は、翁一流の廢佛拆僧の考へを以て著はされただけに、極端に迄僧尼の非行亂倫を列舉して有るが、是等に據るも、彼等信仰生活を營んだ者が、如何に性の問題に就いて苦しんだかが窺はれるのである〔二〕。
然るに、社會の大勢は、是等の巫覡の呪術を輕視する樣に成り、巫覡其自身の信仰も、漸次墮落して來る樣に成れば、同氣相求むると云ふか、同病相憐むと云ふか、兔に角に、此兩者が一つに成つて──夫婦として共同生活を營む樣に成るのは、先づ當然の事として認めねば成らぬ。而して此傾向は、近古に至つて益益增長を加へて來たのであるが、其等の實例、及び共同生活の內容等に關しては、第三篇に詳しく述べる機會が有るので、今は除筆する。
巫女と修驗道との呪術的關係に就いては、猶ほ幾多の問題が殘されてゐる。『七十一番職人歌合』に、地者(ヂシャ)と稱して男子が女子を裝ひ神事を行ふ者を載せてゐるが、此れは巫覡の習合其の頂上に達した物であらうし、巫女が竃拂ひをしたのも其であるし、巫女が呪符を用ゐたのも其である。併し茲には、大體を記すに止めて、他は機會の有る每に補足するとした。
〔註第一〕我國の修驗者を、佛法の優婆塞に、更に巫女に同じ優婆夷の語を充て、說明する者が有るが、此れは大變に相違してゐると思ふ。佛法上の用例に從へば、兩者は五戒を受けて、近く三寶に仕へるだけの者で、即ち在家の篤信者にしか過ぎぬ。又た我國に於ける清僧が、性の問題に觸れて修驗者に成つた幾多の例も有るが、此處には其研究が目的で無いので省略した。
〔註第二〕私は曩に「泡子地藏が語る墮胎史の一片」と題して、此種の問題に就いて、多少の考察を試みた事が有る。拙著『日本民俗志』に收めて置いた。御參照を乞ふ。
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