第三章、日本巫女史學の沿革と其史料
 記・紀の神代卷には、巫女の熟語は見當らぬ。其では、我國の神代には巫女は無かつたかと云ふに、此れは決してさうでは無い。巫女と云ふ熟語こそ見當らぬが、實質的に巫女であつた神神、及び其神神が行うた呪術なる物は、立派に存在してゐる。殊に記・紀に比較すると、記述した年代も降り、且つ官撰では無いけれども、『古語拾遺』に神代の事を記した條に、「片巫、肱巫」の二種の巫女の名が舉げて有る所から推すと、巫女が神代から在つた事は明白である。然らば、是等の巫女、又は巫女の呪術、及び巫女の生活等に關する研究は、記・紀又は『古語拾遺』等の研究と共に、相當、先覺の間に盡されてゐるべき筈であるのに、事實は此れに反して、一向に纏つた物が殘されてゐぬのである。
 勿論、巫女の語義とか、呪術の意味とか、又は巫女と呪術との關係とか云ふ、斷片的の研究は相應に試みられてゐるが、系統を立て、年代を追うて研究した物は、全く寡見に入らぬのである。果して然らば、巫女史學の考察が、何が故に斯く先覺の間に閑卻されてゐたかと云ふに、此れには又相當の理由が在つたのである。而して、其第一の理由は、巫女に依つて祖述され、發達した、神道に對する解釋の變更と、第二は、神道の佛教化、及び儒教化の結果として、全く巫女を神道の圏外に放逐した為である。第三の理由としては、出自の高かつた巫女達が、信仰の推移と社會感情の消長とに連れて、段段と自身達が墮落して來た事と、此れに伴うて巫女の呪術が、詐謀に惡用される樣に成り、遂に代代の官憲から禁止された結果として、宮中又は名神・大社に附屬した僅少の公的巫女を除いた、(私の所謂神和(カンナギ)系の神子。)他の多くの私的巫女は、(私の所謂口寄(クチヨセ)系の市子。)社會の落伍者として蔑視され、其職業は卑賤なる物とせられ、延いて一種の特種民として待遇される樣に成つて了(シマ)つた。而して巫女の境遇が、斯かる低級に置かるる樣に成つてからは、代代の識者は、此れが呪術なり、生活なりに就いて、記錄する事を卻つて恥辱とするが如き感情を養ひ、其が為に、巫女の歷史は、全然默殺さるる結果と成つて曉了つたのである。此れが奈良朝の末葉から室町期の初葉迄の概觀である。
 然るに、室町期の中葉から、五山文學の隆昌は、當時の有閑階級で且つ有識階級であつた公卿を刺激し、是等堂上の縉紳をして國學の訓詁注釋に著手させるに至つた。而して此影響は、伊勢神道に傳つて研究を促進させ、更に吉田神道等にも波及して、此れ亦相當の成果を舉げさせ、全く閑卻されてゐた巫女の問題にも、極めて微溫的ではあるが觸れる樣に成つたのである。
 斯くて、世態が一轉し、德川氏が起つて、天下の政柄を握り、江戶に霸府を開くに至り、泰平の滋雨は忽然として奎運の暢達を來たし、國學の復興と共に、神道の研究も隆んに成り、記・紀及び祝詞・風土記・物語等に現はれたる神和系の神子の考覈も行はれ、此機運は進んで、口寄系の市子の生活、及び呪術の秘密に興味を持ちし、所謂、好事家とも稱すべき者が、斷片的にも記錄する樣に成り、而して明治期に入つたのである。私は、此見地に立ちて我國の巫女史學の沿革を、(一)混沌期、(二)室町期、(三)江戶期、(四)明治期の四期に區別して、稍(ヤヤ)詳細に述べるとする。



一、混沌期に於ける巫女史學の概觀

 巫覡の熟語が、我が國史に初めて見えたのは、『皇極紀』二年春二月條であるが、此紀に記された巫覡は、私の所謂口寄系の市子又は男覡(ミコ)と見るべき者であつて、社會的にはかなり墮落もし、且つ輕視されてゐた者と信ずべき點が有る。奈良朝に入つては、巫覡の活躍は相當に見るべき物があるが、國史に現はれたる所は、專ら其呪術の惡用の方面のみで、此れを律令格を以て禁斷し、又は巫覡を遠流した記事が多きを占めてゐる。吉備真備の『私教類聚』と稱する遺誡の中(ウチ)、「莫用詐巫事。」の一項の如きは、良く當代の巫弊を道破してゐる物が有る。斯く奈良朝に於いて、巫覡を禁斷した事は、

一、當時の社會感情が、巫覡の行ふ所の呪術に對して、非常なる恐怖を有してゐた事。
二、當時、隋・唐の文化を旺んに輸入した結果として 支那本土の儒教が極力巫覡の徒を排斥せる風を學び、我國でも努めて之(コレ)が剿絕に盡した事。
三、佛教の興隆は、當代早くも、神佛習合の端を發し、やがて將來された本地垂跡說の基を成(ナ)し、我國の神神は漸く佛教化せんとする思想が上下に瀰漫してゐたので、佛教の教相の上から、儒教と同じく極力巫覡を排除した事。

 此三點を重なる物とし、更に巫覡の徒に於いては、

一、呪術の方法が、我國固有の神意を問うて民人に告ぐるだけの範圍を越え、支那より傳來した巫蠱厭魅の邪道を以て、民心の呪術を恐るる間隙に乘じて、猖んに社會を荼毒した事。
二、當時の巫女には、品性の墮落せる者尠く無く、巫娼として賣笑せる者、又は其以上に賣笑を職業とする者を出して、社會の輕侮を受けし事。
三、男覡の間にも、無賴の者を出し、自ら社會を狹くした事。

 斯ういふ事等が、雙方から步み寄つて、遂に斯くの如き結果を馴致したのである。
 平安期に入ると、巫覡の社會的位置は益益低下して、大同二年九月の「太政官符」の一節に有る如き、「巫覡之徒,好託禍福,庶民之愚,仰信妖言。淫祠斯繁,厭呪亦多。積習成俗,虧損淳風。」の實狀を呈し、更に、我國最初の百科全書(エンサイクロベチャ)である『倭名類聚鈔』には、巫覡を遊女・乞食・盜兒と同視して、乞盜部に載せる程に墮落したのである。勿論、宮中及び名神・大社に附屬してゐた神和系の神子にあつては、我國固有の古格を守り、是等の徒とは全く類を異にしてゐた事は言ふ迄も無いが、神社に離れ、給分を失うた巫覡の輩は、概して淪落の淵に沈んでゐたのである。而して當代は、宮廷文學の最高調に達してゐたのと、過房に依る神經衰弱の時代であつただけに、迷信も深かつたので、『源氏物語』・『榮花物語』・『大鏡』等を始めとして、公卿の手に成れる家乘日記の類にも、巫覡に關する記事は相應に殘されてゐる。併しながら、其等の記事は、悉く斷片的な者であつて、系統を立てた巫女史なり、呪術史なりは遂に見る事が出來ぬのである。『政事要略』に、「蠱毒厭魅及巫覡等事。」と題する一節が有るが、其多くは賊盜律及び格令等の轉載にしか過ぎぬ。而して鎌倉期に入つても、又之(コレ)と同じで、『吾妻鏡』『沙石集』『古今著聞集』『古事談』等の三四の書籍に、巫覡の事が切れ切れに載せて有るだけで、纏つた物は殘されてゐぬのである。


二、室町期に於ける巫女史學の概觀

 室町期の三百年間は、歷史的には闇黑時代であり、民眾には煉獄時代であつた。幕府の威信が地に墜ち、海內は舉げて戰亂の巷と化し、群雄は各地に割據し、山海の賊盜が出没すると云ふのであるから、民眾にとつては、此上の無い受難時代であり、且つ苦患時代でもあつた。然るに、迷信は失望の時代に猖んに成り、空想は失望の時に羽を廣げるとある樣に、此時代に處した民眾は、驚く程迷信的であり、空想的であつた。我國の迷信は、全く此の室町期に於いて集大成されたのである。換言すれば、室町期は、我國の迷信黄金時代とも云へるのである。從つて、迷信を生命とした巫覡の徒が、跋扈し、跳梁したのも、當然の歸結であつた。
 巫覡の猖獗は甚だしき物があつたが、是等の生活なり、巫術なりに關して、記錄した物は、前期に比して、更に尠い事を、嘆ぜずには居られぬのである。由來、室町期は、總ての歷史を通じて、殊に文獻も記錄も缺乏してゐる時代である。馬蹄の響きに、吚唔の聲は打消され、戰亂の為に古き圖書は失はれ、其反對に新しき圖書は出でず、文字を解する者は僅に特權階級であつた僧侶に限られると云ふ有樣であつた。然るに、此文教を握つてゐた五山の僧徒が、漸く文學を振興したので、當時の有閑階級で、且つ有識階級であつた公卿を刺激し、是等堂上の縉紳をして、國學の訓詁注釋に著手させるに至つた。
 就中、一條兼良は稀に見る篤學者で、『源氏物語』に就いては、『花鳥餘情』、『千鳥抄』、『源語秘訣』、『源氏物語年立』、『源氏和秘抄』等、極めて多くの研究を殘し、更に、『日本紀纂疏』、『伊勢物語愚見抄』、『歌林良材集』等の著述を為し、當代の和學は殆ど兼良一人──又は兼良一家に於いて總合されたかの觀が有る。後世、村田春海が和學の復興發達は一條兼良に始まるとして、其業績を稱へたのも、決して過褒では無いと考へる。而して兼良に依つて投じられた一石は、國學の研究に大なる波紋を生じ、堂上家に在つては、飛鳥井雅親・三條西實隆等の好學者を出し、武家に在つては、今川了俊・東常緣、降つては細川幽齋の如き考覈者を出し、更に僧侶系の文學者としては、正徹・心敬・世阿彌・宗祇・松永貞德等の研究者を見るに至つた。
 斯うした國學の復興的發達は、神道の方面にも、影響せずには置か無かつた。そして、其を第一に受けたのは伊勢神道であつた。伊勢神道とは、言ふ迄も無く、外宮神官の間に發生した特種の神道說であつて、其思想は內外兩宮を中心として發展して來たのであるが、就中外宮の祭神である豐受大神の位置を決定して、外宮の根柢を確立せん事を一つの目的とした物である。少くも、伊勢神道初期の經典であつて、長く此神道を支配した五部書は、(一、天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記。二、伊勢皇太神宮御鎮座傳記。三、豐受皇太神宮御鎮座本紀。四、造伊勢二所太神宮寶基本紀。五、倭姬命世記。)明かに、此目的の下に、擬作された物と見られるのである。
 由來、伊勢神道は、南北朝の交に度會家行が出でて、『類聚神祇本源』(序に元應二年とある。)十五篇を著はして、之(コレ)を大成した。同書の第十二は、「神宣篇」であつて、其內容は、神神の託宣を以て滿たされてゐるのであるが、例の或種の目的の下に記された物だけあつて、徒らに、牽強附會に有らざれば、奇怪雜駁の文字を陳ねただけである。從つて、我國の神道の本義に觸れる事は極めて尠く、其神宜篇に於いても、巫女の神道史上に於ける地位の如きは、全く見る事が出來ぬのである。而して、家行には、此外に『瑚璉集』『神道簡要』『神祇秘抄』等の著述が有るが、咸(ミナ)伊勢神道の衒學に有らざれば、彼特自の捏造哲學の愚劣なる物に過ぎぬ。然れば、此流れを汲める伊勢神道の人人は、室町期において二三の文獻を殘してゐるが、悉く大同小異の物であつて、巫女等に就いては遂に何らの記す所も無いのである。
 伊勢神道と同じ樣な影響を受けたのは、吉田神道である。(卜部神道とも、唯一神道とも、更に元本宗源神道とも云ふ。)此神道で、一派の組織を為したのは、室町期の中葉から末葉に掛け、即ち吉田兼俱にあると傳へられてゐる。元來、此吉田家は、長く神祇官に勢力を有し、又古典研究の傳統を持つ家柄であつて、既に兼俱以前に於いても多くの好學者が此一家から現はれてゐる。『徒然草』の作者である兼好法師の如きも、此家の血筋に繋がる者である。殊に、卜部懷賢の『釋日本紀』は、中世に於ける『日本書紀』研究の上に、一つの時期を劃すべき文獻であると迄言はれてゐる。斯うした家の學問は、兼俱を出すに及んで、漸次に古典研究の風を移して、時代に一派の神道說を唱へる樣に導かれて來た。そして伊勢神道の故智を學んで、遂に吉田神道を建設するに至つたのである。而して嚴格なる考察に據れば、吉田神道は、伊勢神道の影響を、思想の上に於いても、教義の點に就いても、かなり濃厚に受容れてゐるのである。換言すれば、吉田神道の完成は、伊勢神道の影響を離れては、考へる事が出來ぬのである。そして、其は吉田家の出であつて、外宮の神官──即ち伊勢神道の祖述者と成つた度會常昌と親交の有つた僧慈遍(天台宗の學僧。)が楔子と成つてゐた事を發見するのである。
 僧慈遍の神道史學に於ける位置は、彼の自傳に據るも、「抑慈遍、聊神道に赴き、殊に靈驗を憑み奉る起りは、去る元德の年、夢の中に神敕を承るに依て、先『神懷論』三卷を選み、佛神の冥顯を理り、真佶の興廢を明らむ。」に發し、後醍醐帝の上覧に備へる為に、『舊事本紀玄義』、(十卷。)『大宗秘府』、(六卷。)『神祇玄用圖』、(三卷。)『神皇略文圖』、(一卷。)『古語類要集』(五十卷。)を著し、別に、「國母の詔を承けて」、『豐葦原神風和記』(三卷。)を作つてゐる。此內で、私の見た物は、『舊事本紀玄義』(續續群書類從神祇部所收。)と、『豐葦原神風和記』(同上。)の二部だけであるが、併し是等の書籍に據つて知り得た慈遍の神道觀は、全く伊勢神道其のままとも言ふべき物で、殊に『舊事本紀玄義』の內には、伊勢神道の經典である五部書を始め、『神皇實錄』、『神皇系圖』、『天口事書』等を盛んに引用して自說を立ててゐる。試みに巫女に關係ある託宣を記した「尊神靈驗事」と題せる條(『豐葦原神風和記』卷中所載。)を見ても、五部書中の『寶基本紀』の一節を丸取りにして、此れの終りに自說を添加した迄である。而して伊勢神道の教義が、僧慈遍の手に依つて、吉田神道に移されてから、約百三十年を經て、吉田神道を大成した兼俱の全盛時代が開けたのである。
 吉田神道の特色は、其教義よりは、寧ろ祭祀の儀禮に關する事相方面に存するのである。吉田神道の最高の經典として、伊勢神道の『類聚神祇本源』に比敵すべき『唯一神道名法要集』の著者は、今に何人であるか判然せぬけれども、私は恐らく兼俱が萬壽元年吉田兼延に仮託して偽作した物だと考へてゐる。而して更に兼俱の著として疑い無き『神道大意』(神道叢說所收本。)に現はれたる巫女關係の託神を解して、「神に三種の位有(アリ)、一には元神、二には託神、三には鬼神也(ナリ)。」と有るのは、僧慈遍の「尊神靈驗事」の條に、「凡そ冥眾に於て大に三の道有(アリ)、一には法性神、謂る法身如來と同體、今の宗廟の內證是也。(中略。)二には有覺の神、謂る諸の權現にて、佛菩薩の本を隱して萬神と顯(アラワ)れ玉ふ是也。三には實迷神の神、謂る一切の邪神の習として、真の益無く愚なる物を惱し、偽れる託宣のみ多き類是也。云云。」と有るのを、換骨して記述した迄に過ぎぬのである。從つて、巫覡に關する史學的の記載を是等の文獻より發見する事は極めて困難であるが、吉田家は永く神祇伯家の神長官として、後世に至る迄巫覡の徒を監督して、平田篤胤翁の所謂「鈴振(フリ)神道」の總本家であつたのである。
 室町期に非常の發達をした修驗道も、巫覡に似た「憑祈禱(ヨリキトウ)」なる物を好んで演じた。更に、法華經の行者なる者も、真言宗の御加持なる物も、又此種の託宣じみた事を用ゐてゐた。私は此方面に就いては、極めて尠少なる學問しか有してゐ無いので、此方面の憑祈禱と巫覡の呪術との交涉を、深く詮索する事の出來ぬのを遺憾とするが、併し私の乏しき知識から云ふも、當代の文獻から此方面の史料を抽出する事は困難の樣である。猶ほ此れに就いては、後段に記述する機會が有るので姑らく保留する。而して當代に發達した謠曲及び稗史の中(ウチ)にも、巫女關係の物が二三見えるが、此れも數へ立てて言ふ程の事も無い。


三、江戶期に於ける巫女史學の概觀

 下川邊長流、僧契沖に依つて提唱された國學の研究は、江戶期の昌平に促進されて、大きな力と成つて、上下に迎へられた。更に此れより曩き、林道春が、其師藤原惺窩の廢佛思想を承けて『本朝神社考』を著し、神儒合一の說を唱へたが、此學風も、同じ流れに滙合され、一種の機運と成つて、社會に波及した。而して德川氏が幕府を開いて六十年、元祿の交に於いて、巫女史學に就いて、有益なる記述を殘したのは、名古屋の天野信景である。彼は其著『鹽尻』に於いて、隨筆的な斷片ではあるが、學的價值に富んだ物を多く傳へた。
 然るに、神社神道を種とした荷田春滿に依つて唱へられた國學の復興は、其門から賀茂真淵を出し、更に真淵に贄を執つた本居宣長の出ずるに及んで、神社神道は一躍して國體神道と成り、其學風を慕ひし平田篤胤の現はるるや、一段と其神道振りを發揮するに至つた。併しながら、本居翁の神道說は、先づ我國の神神を儒教から引離す事に重きを置いてゐた。更に平田翁にあつては、第一には、我國の神神を佛教から(本地垂跡說と山王神道・法華神道等も含めて。)解放する事であつて、『古道大意』や『出定笑話』は、此れが為に作られた。大には、我國の古神道を、吉田家の俗神道や、山崎闇齋の神儒同一主義の垂加流の神道から切り放す事で、『伊吹颪』や『俗神道大意』は、此目的に依つて著はされたのである。
 而して、此運動は、明治維新に依つて、其功果を遺憾無く實現したのであるが、本居翁も、平田翁も、此神神の解放に多忙であつたのと、神社神道を國體神道に引き上げるに急であつた為に、原始神道が巫女教から發達した事等は全く忘れて了つて、卻つて其當時の巫覡の徒の卑俗なるを見て、古代の巫女迄攻撃して止まぬと云ふ態度で莅んでゐた。斯かる次第であるから、あれ程古神道の復興を高調した本居翁の『古事記傳』及び其他の著書からも、同じく平田翁の『古史傳』及び其他の著書からも、共に訓詁注釋以外には、巫女史學の材料を發見する事が出來ぬのである。平田翁自身は、本居翁の學風を相續した者は自分だけである樣に言うてゐるが、平田翁は決して本居翁の繼承者では無い。私の父は、極端な平田翁崇拜者であつたが、其でも、「全體、平田翁は本當の學者では無い。政治家の地金へ物識りの鍍金をした樣な人物である。」と評してゐた。
 平田翁に比較すると、伴信友翁は、本居翁の繼承者として、敬服すべき立派な學者であつた。伴翁の考證は、煩はしき迄に、微に入り、細に涉つてゐるが、何處迄も、真理を探究して措かぬ態度には、學者として、欣慕すべき點が多い。從つて、其著述の中には、巫女史學に關係した者が多く、殊に『正卜考』や『方術原論』や『鎮魂傳』等は、共に不朽の勞作であると同時に、私の巫女史も、此れに負ふ所が尠く無いのである。
 其から、平田翁の門人であつて、同翁に比して一段と神道組織の巨腕を有してゐた鈴木重胤翁も、相當に巫女史學の資料を殘してゐる。其大著である『日本書紀傳』と『祝詞講義』とが其である。猶ほ神道關係の文獻では、白井宗因の『神社啓蒙』や、鈴鹿連胤の『神社覈錄』や、小寺清之の『皇國神職考』等に散見してゐるが、併し別段に取り立てて言ふべき程の物は無く、何れも斷片的の記事に過ぎぬ物である。
 是等の文獻に比して、稍(ヤヤ)體系を付けて、巫女史學的の考察を為した物は、本居內遠の『賤者考』である。此れは現代語で言へば、全く民俗學的に記述されてゐて、且つ各地の巫覡の生活や、社會的地位等が、かなり克明に書かれてゐる。唯欠點を言へば、其命題が示してゐる如く、專ら巫覡の徒を社會の落伍者としてのみ取扱ひ、彼等が斯かる境遇に墮落した過程に就いては、少しの考察も拂はれてゐ無い點である。併しながら、當代に於いて賤民と迄卑しめられてゐた巫覡に對して、斯う迄詳細なる記述を殘してくれた事は、內遠翁が凡庸なる訓詁者流の學究で無かつた事を、證據立てる物として意義が有る。
 江戶期に現れた千百も啻成らぬ隨筆類には、巫覡に關する記事も決して尠く無い。併し是等の多くは、筆者が好奇心を以て、興味半分に書記しただけであるから、巫女史學の素材には成るが、其沿革として記すべき程の價值ある物を發見せぬ。但し、是等の內に於いて、喜多村信節の『嬉遊笑覧』や、高田與清の『松屋筆記』や、松浦靜山の『甲子夜話』等に載せた物は、史料としても、參考としても、共に有益なる物である。
 同じ江戶期に編纂された地誌類の內にも、巫女史學關係の記事は決して尠く無いが、此れも多くは斷片的な物で、纏つた物としては見當らぬ。其中でも、德川幕府で纂輯した『新編武藏風土記稿』や、同じ『新編相模風土記稿』を始めとし、會津藩で編輯した『新編合圖風土記』、廣島藩の『藝藩通志』、紀州德川家の『紀伊國續風土記』、尾州德川家の『張州府志』等を主なる物として、岡田溪志の『攝陽群談』、阿部正信の『駿國雜誌』、松平定能の『甲斐國志』、中山信名の『新編常陸國志』、寒川辰清の『近江輿地志略』、岡田啓の『新撰美濃志』、富田禮彥の『斐太後風土記』、貝原益軒の『筑前續風土記』、島津藩編纂の薩隅日『三國名勝圖會』等は、量と質に於いての相違は有るが、巫女史學の材料を多少とも載せてゐる。更に同期に書かれた諸種の遊覧記の類にも見えてゐるが、是等の書名は餘りに煩雜になるので今は省略する。
 其から茲に注意すべき巫女史學關係の記錄が有る。其は柳田國男先生に依つて發見された『諸國風俗問狀答』と稱する物である。由來、此記錄は、文政年間に、幕府の儒官であつた屋代弘賢が、年中行事及び慶弔婚嫁等の民俗の一一に就き、詳細なる設問を為し、各地の藩主に向つて答狀を求めた物である。然るに、此問狀に接して答狀を發した藩主の少かつたものか、現在迄に發見された物は、柳田先生に依つて、秋田・三州吉田領・丹後中郡・越後長岡領の四答狀で、別に柳田先生のお指圖に依つて私が發見した物が大和高取藩、私が單獨で偶然の事から發見した若狹、及び備後國浦川村の二答狀で、合計七種だけ集め得たのであるが、其他にあつては、有無共に明白に成つてゐ無い。私は此れが捜索には多年の間注意して、帝國圖書館に『輪池叢書』を檢討し、新聞記事に依つて地方好學のお方の配慮を乞ふやら、かなり手を盡してゐるのであるが、今に是(コレ)以上發見されぬのは誠に遺憾の次第である。若し本書の讀者中に此記錄に就き御承知のお方が有つたら、學問の為切に私迄御通知を願ひたい。私は百里も遠しとせず推參して寫し取り、そして學界へ發表したいと念じてゐる。此れが一面には我が民俗學の利益であり、又一面には先覺の學恩に對する禮儀であると考へてゐる。而して此問狀答の學問的價值の高い事は、各地方の眼前に行はれてゐた事實を、其のまま克明に正確に直寫した點にあるので、素材ではあるが、史料としては、書物の孫引や、先輩の受け賣り等とは、比較する事の出來ぬ程の尊さが存してゐるのである。
 當代の稗史小說及び歌謠・川柳等にも、巫女關係の史料が多少は存してゐる。稗史としては、山東京傳の『稻妻雙紙」』、滑稽小說では式亭三馬の『浮世床』、十返舍一九の『東海道膝栗毛』等で、歌謠では『松の葉』に收めて有る「晴明祈りの詞」が其である。淨瑠璃の院本にも一二見えてゐるが、是は左迄に重要な物で無いので今は省筆する。
 最後に、當代の官憲で取調べた書類、又は巫覡の徒から官憲に書き上げた記錄も、少しは殘つてゐる。殊に、內閣文庫に一本しか傳つてゐぬ『祠曹雜識』には、注意すべき史料が載せて有る。


四、明治期に於ける巫女史學の概觀

 此處に明治期とは、明治に續く大正、及び本書を執筆した現在の昭和四年の上半期迄を含めた意味である。明治の維新と共に、奎運遽に長足の進步を為し、諸般の學問が偉大なる發達を遂げたが、巫覡に關する研究は、餘り學者の注意に上ら無かつた。而して此れの原因は、(一)巫覡の社會的地位が低劣であつたので、傳統的に是等の事に筆を執るのを厭うた事、(二)明治に成つてから、巫覡の職業を、治安に有害なる物として嚴禁剿絕したので、社會からも忘られ、學者の注意からも逸した事、(三)巫覡の方でも、明治四年に特種部落が解放されて以來、平民と伍する事が出來る樣に成つたので、此職業を棄てて、他の正業に就くと同時に、曾て自分達が以前この賤業卑職を營んだ事を逃避する態度を執り、努めて其を隱さうとした為に、材料を得るに困難であつた事、(四)偶偶、官憲の眼を忍んで此業に在りし巫覡は、例の口傳や師承を言ひ立てて、秘密を守つたので、同じく材料を手に入るるに困難であつた事等を重なる原因とすべきである。
 更に、學者側に在つては、(一)當時、此種の研究を試むべき學風が起ら無かつた事、(二)明治も二十年頃迄は、歐米の學問を輸入し、咀嚼し、消化するに多忙であつた、所謂、翻譯時代であつたので、我國の社會制度や、民俗組織を研究する餘裕を有してゐ無かつた。況(マ)して、原始神道とか、巫覡研究とか云ふ問題に没頭する事は、事情が許さ無かつたのである。其が、明治十九年に、故坪井正五郎氏に依つて『人類學雜誌』が發行され、次で明治二十六年に土俗學會の集りが催される樣に成り、漸次此學風が海內に行涉る傾向を生じ、引續いて『風俗志林』『風俗書報』等の雜誌も興り、世人も此種の問題に注意を拂ふ樣に成つて來たのである。
 然るに、明治四十四年九月、柳田國男先生は『東京人類學雜誌』(第廿卷第六號。)に「似佛(イタカ)及び山家(サンカ)」と題せる論文を發表された。此れが我國に於ける巫女史學の研究の權輿である。我が柳田先生は、東京帝國大學に於いて、夙に農政經濟を專攻されたが、先生の篤學なる、我國の農政に關する多くの書籍及び記錄等を讀破された結果、更に農村の實際生活にも親しく觸れる機會が有つたので、國法に於いて嚴しく制禁されゐるにも拘らず、巫覡の潜勢力が根強く農村の間に喰入つてゐる事を、耳聞目睹せられた為に、遂に此論文を發表せらるるに至つたのであらうと思ふ。
 而して更に柳田先生は、大正二年三月に雜誌『鄉土研究』を發行され、第一卷第一號より「巫女考」と題せる研究を連載され、此れは同卷第十二號に迄及んだ。(同誌上には川村杳樹の匿名に成つてゐる。)此「巫女考」は、柳田先生の多年の蘊蓄を傾倒された物であつて、巫女を中心として、或は原始神道の立場から、或は民俗學的の方面から、更に民間信仰の觀點から、縱橫に之(コレ)が考覈を試みられ、而して我が國民史、及び文化史上に於ける、巫女の地位と、使命と、消長とを、明確に論斷された。而して柳田先生は更に進んで、巫女に深甚の關係を有してゐた「毛坊主」に就いて、同じ『鄉土研究』の第二卷に於いて、前後十一回の研究を連載され、猶ほ此外に、同誌に於いて巫覡關係の論文として幾多の有益なる研究を發表されてゐるが、就中、「一言主考」(第四卷第一號。)、「和泉式部」(同上四號。)、「老女化石譚」(同上五六兩號連載。)、玉依姬考(同上十二號。)等は、悉く前人未發の卓說であつて、巫女研究のエポックメーキングとして、永久に我國の巫女史學の權威たるを失はぬのである。私の此『日本巫女史』の如きも、專ら柳田先生の研究に刺激され啓發された物で、平たく言へば、先生の研究が餘りに高遠であり、且つ論旨が餘りに深長であるので、其を平易に祖述したに外成らぬのである。
 柳田先生に依って提唱された巫女の研究、及び巫女と同じ運命に置かれた特種階級の賤民の考覈は、深く學界の注意を惹起し、大正八年一月に喜田貞吉氏が『民族と歷史』を發行して、(後に『社會史研究』と改題す。)更に此種の研究を鼓吹し、殊に巫覡關係の論文に在つては「憑物研究號」(第八卷第一號。)を始めとして、有益なる多くの研究や史料が揭載されてゐる。而して此種の研究は、大正八九年頃より昭和の現時に至るに及んで、益益其程度を深め、遂に一種の學風を為して天下を風靡し、好學の士を起たして、此種の單行本や雜誌が到る所で刊行される迄の機運を作るに至つた。先づ單行本としては柳田先生の『石神問答』、鄉土研究社の『爐邊叢書』及び『第二叢書』、溫故書房の『閑話叢書』及び『共古隨筆』、總葉社の『日本民俗志』、甲陽堂の『民俗叢書』等を重なる物として、故山路愛山氏の『神道論』(愛山講演集第二篇所收。)、鳥居龍藏氏の『日本周圍民俗の原始宗教』及び『人類學上より觀たる我が上代の文化』等、到底此處には書名だけでも記せぬ程の刊行を見るに至つた。而して直接巫女史學には關係せざるも、又以て此れが參考とすべき物には、津田左右吉氏の『古事記及び日本書紀の新研究』及び『神代史の研究』、折口信夫氏の『日本文學の發生』、(日本文學講座所載、及び「古代研究」所收。)土居光知氏の『文學序說』、武田祐吉氏の『神と神を祭る者との文學』、土田杏村氏の『文學の發生』、加藤咄堂氏の『日本宗教風俗史』及び『民間信仰史』等其他が有る。更に雜誌に在つては、柳田先生の監修せられた『民族』並びに折口信夫氏が編輯された『土俗と傳說』を始めとし、京都で發行された『鄉土趣味』及び濱松市で發行された『土の色(イロ)』等、此れも誌名を舉げるだけでも容易成らぬ程多く存してヰる。猶、參考論文としては、內藤虎次郎氏の『卑彌呼考』(藝文所載。)、羽田享氏の『北方民族に於ける巫女に就いて』(藝文所載。)、狩野直喜氏の『支那上代の巫、巫咸に就いて』、同じく『說巫補遺』、『續說巫補遺』、及び『支那古代祭尸の風俗に就いて』(以上は『哲學研究』、『藝文』等に揭載された物であるが、後に編輯されて『支那學文叢』に收められた。)等が、其重なる物である。
 更に巫女史學の素材とも云ふべき資料を載せた各地の神社誌及び地誌類に在つては、古く江戶期に編纂されて、明治期に復刻された物、新に明治期に於いて編纂された物、即ち各種の神社由緒記、國誌、府誌、縣誌、(又は史。)郡誌、(同上。)町村誌(同上。)及び名所記、案內記等に至つては、私が讀んだだけでも、約七百種の多數に達してゐる。勿論、是等の神社誌や地誌類の悉くに必ず巫女資料が載せて有ると云ふのでは無いが、是等の書籍から、かなり多くの資料を抽出する事が出來るのである。而して是等の書名は如何にするも此處に列舉する事が出來ぬので、本文に引用した際には、一一註を加へて出典を明白にするとした。
 我國內地の巫女史學の研究にとつて、重要なる參考史料となるべき物は、琉球の祝女(ノロ)及び巫女(ユタ)と、アイヌのツスの考覈である。而して前者に在つては、伊波普猷氏の『古琉球』、『古琉球の政治」』、『沖縄女性史』及び『民族』に揭載された三四の論文と、故佐喜真興英氏の『女人政治考』、外に折口信夫氏の『琉球の神道』(世界聖典全集本所收及び『古代研究』所收。)及び『續琉球神道記』(爐邊叢書本『山原の土俗』所載。)等が有り、後者に在つては金田一京助氏の『アイヌの研究』及び『鄉土研究』『東亞の光』『民族』等に揭載された多くの研究が有る。猶ほ附言する事は、我國の巫女史學と直接間接に交涉を有してゐる西比利亞(シベリヤ)、滿州、朝鮮等の巫女史學の沿革、及び新聞紙の揭載された此種の史料は、一一此處に記述する事を省略して、其機會の有る每に記述する事とした。
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