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第六章、巫女の性格變換と其生活

 古代の巫女に關しては、未だ記述すべき幾多の問題が殘されてゐるが、其れで無くとも第一篇が餘りに長く成り過ぎる嫌ひが有るので、大體の輪廓だけでも全速力で書いてしまひたいと思ふ。全體、私が本書を起稿するに際して少しく憂へたのは、記述が第一篇の古代に繁く、此れに反して第二篇の中古及び近古に粗く、更に第三篇の近世及び現代に多くして、恰も瓢の如く首尾が太くして中括りの小なる物に終りはせぬかと云ふ事であつた。此れは何人が何の歷史を書くにも共通してゐる惱みなのである。即ち古代の史料と近古現代の史料は、夥しき迄に存するにも關らず、平安朝の末葉から鎌倉・室町の兩期は頗る史料が缺けて居り、更に江戶期に成ると、是れ亦史料の多きに苦しむのが、當然と成つてゐるのである。巫女史にあつても、又此の支配から脫する事が出來ず、遂に憂ひは事實と成つて現はれ、到到、瓢の如く首尾が太く中部は細い物と成つてしまつた。其れで茲には出來るだけ簡明に記述を運んで第一篇を終るとする。

第一節 神人生活と性格の變換

 原始時代の巫女は、神その者であつた。從つて俗人の如く結婚する事は、神性を污す物として、自ら戒めてゐた。卑彌呼が年長ずるも夫婿の無かつた理由である。次に巫女が神の憑代として、神の代理者と成る樣に成つても、同じく神性の尊嚴を保つ必要から、神と結婚する以外に、普通の男子を良人とする事は、許され無かつた。斯うした習禮は、傳統的に、巫女は獨身たるべき者、神以外には通婚せぬ者と約束付けられる樣に成り、此れに加ふるに、永い年月間の獨身生活は、巫女の性格を男子に近付ける變換が行はれる樣に成つたのである。
 伊勢の皇太神宮に奉仕した御子良(オコラ)、及び母等(モラ)の神人生活に就いて、明治の終り頃に神宮司廳で記錄に留めて置きたいと企て、是等の生活を送つた生殘りの人人に對して、其の狀態を調べようとしたが、「神宮內の事は申上げられぬ。」との事で、遂に其の計劃は目的を達する事が出來無かつたと傳聞してゐる。此れ程嚴祕されてゐる神人の生活、其の詳細を知る事は、思ひも寄らぬ事であるが、鎌倉期に書かれた『坂上佛大神宮參詣記』に據ると

 當宮には巫女無し。(中山曰、齋宮を御杖代とした為めである。)子良とて幼稚の未通女の未だ夫婦の業も知らぬが、御膳を備ふる器用にて召仕はるるばかり也。神慮に叶ひ貫れば二・三十(歲)迄も月事無し、冥鑒に背きぬれば十一・二より觸る、觸れば則ち職を辭す。

 と有る。此の二・三十歲に及ぶも通經が無いと云ふ事は、即ち巫女の性格の變換を指してゐるのである。而して斯かる類例は、他の神社に仕へた巫女の上にも、發見する事の出來る事態なのである。『延喜式』臨時祭の條に、「凡座摩巫,取都下國造氏童女七歲已上者充之。若及嫁時,申辨官充替。」と有るのも、此の一例である。更に、『觀惠交話』卷上に、

 常陸鹿嶋の社人從五位上東長門守胤長物語に、當社には長門守の家より代代齋宮の如く女を神に仕へしむ、此れを御物忌と謂ふ。三百石を領す。一家中より二人を選び、百日の神事にて社家ども殘らず著座して、神前にて龜二つを灼く。生龜の甲に二人の女の名を書附け、火を活活と起して灼くに、其任に備るはべき女の名は少しも灼けず。其れを證據にして備ふる也。備はりて後は長門守より外の人には一生逢はず。其者の使ふ女も皆少女・老女の經水無き者也。一年三百六十日の內神事にて、平日は神殿の中に居り、社へ行くに我齋屋より輿にて祝詞の屋迄行き、社內の事社人の為ぬ事をも勤む。皆長壽にして百歲より百二十歲に至る。(摘要。)

 と記し、更に『鹿島志』の卷下には、物忌なる者は、其職に在る內は、幾歲に成るも通經せぬと記したのは、性格的變換する事を證示してゐる〔一〕。筑前國の宗像神社にても、祭神三柱の中、湍津姬神に仕へる巫女は、其職を務むる間は月水無く、今にさうであると傳へてゐる〔二〕。


 而して、斯かる記事が、如何なる點迄信じられる物であるかは別問題として、兔に角に古代に於いては、巫女に通經無しと考へられてゐた事だけは確かである。丹後國竹野郡竹野村大字竹野の竹野神社は舊社であるが、此れに奉仕する祠官は鄰接せる同國熊野郡市場村に住んでゐる。昔は祠官の家に女子が生まれると、飛箭來し屋上に立つ。さうすると、其子四・五歲の頃から竹野社に奉り、此れを齋女と云ふ。同社は高山深谷の中に在つて、齋女は獨り禽獸と交居るも、決して危害を加へられる事が無い。斯くて天癸を見る頃に成ると、何處からとも無く大蛇が出て來て、眼を瞋らして、齋女を見る。此れを機會に宮を致して生家に歸る事と成つてゐた〔三〕。かうした類例も詮索したら未だ澤山有る事と思ふが省略する。
 さて、是等の記事は、性格變換と言つても、月水の未通だけで、事事しく取立てて言ふ程の物では無いが、唯此の裏面に潛む事象を考へる時、更に後世の巫女の事を思ふ時、其れは記錄にこそ殘つてゐぬが、殆ど男性化した巫女の多かつた事が偲ばれるのである。天鈿女命の勇氣に就いて『古事記』に、「汝者雖手弱女人,射向神與面勝神也。」と有るのは、此女神の男性化を示唆してゐる物と信じたい。

〔註第一〕『鹽尻』卷四五に、「伊勢の子良、鹿島の齋は月の觸り知らぬ少女也。嚴島の內侍は年老迄も仕へ侍るにや。」と、同じく巫女は通經無きを原則とする記事を載せてゐる。
〔註第二〕貝原益軒著の『筑前續風土記』卷一六。
〔註第三〕『丹後國竹野郡誌』に『神社啟蒙』を引用して記してある。



第二節 人身御供と成った巫女

 我が古代に、人身御供と云ふが如き野蠻事が、民俗として行はれたか、否かに就いては、先輩の間に異論も有つたが、現在では此民俗の存した事は、單なる文獻や傳說ばかりで無く、考古學的に遺物の上からも證明される迄に研究が進んで來た〔一〕。私は茲に此れが詳說を試みる事は、勿論差控へるとするが、此人身御供に上げられる女性の中に、巫女が其の多數を占めてゐるのは、抑抑如何なる理由に因るのであらうか、其に就いて例の獨斷を記すとする。
 併しながら、是れに關する私の資料は、誠に恥しい程の貧弱さであるが、先づ其の乏しき物の中から、明確に巫女が人身御供と成つた物を舉げる。駿河國富士郡吉原町の瀨古川の上流に深い淵が有り、此處に惡龍棲み年年所の祭りとて人身御供を上げた。或る年關東の巫女七人が京都へ往く途中で、此祭禮に出會ひ、七人の中年若きアジと云ふ者が御鬮に當り、人身御供と成り、殘り六人は柏原邊の浮島池に投身して死んだのを、土地の者が取上げて一つの墓に葬つた〔二〕。旅人を人身御供にする民俗は、かなり廣く行はれてゐたが、其を言ひ出すと論旨が多岐に成るので割愛する〔三〕。陸前國黑川郡大衡村大字大衡に巫女御前社と云ふが在る。偶傳に大昔用水堰を作らうとしたが每に失敗するので、偶偶其處を通り掛かりの巫女を捉へ、堰柱として生埋めにした。其の為めで堰が築かれ社を建てて彼の巫女を祀つたのである〔四〕。常陸國筑波郡菅間村大字上菅間の西北を流るる櫻川に女堰と云ふが在る。此れも古へ此堰を修理しようとしたが、水勢が烈しいので押し流されて目的を果さず、村民此れを神意に問ふべしとて巫女に占はせた所、人間を生杭とすれば必ず成就すべしと告げたので、其では其巫女を生杭に為よと川に投じ、其上に堰を築いたので此名が有ると傳へてゐる〔五〕。其から第八章第三節「巫女と農業」條に載せた陸中國上閉伊郡松崎村の母成(ボナリ)神社の由來も、又此れと同じく巫女が人身御供に上げられた一例である。
 此れは明確に巫女とは記してゐ無いが、私の考へでは如何にしても巫女としか思はれぬ女性の、人身御供と成つた話が有る。尾張國東春日井郡旭村大字新居の道淨寺の前に大きな池が在つた。大昔に此の池水が溢れて田畑を害すので、村民が怪んで筮者に問うた所が、五月朔日に一名の女子が機織具を持つて通るのを捉へて、水中に投じ、堤を築けと誨へた。村民は其日を待つてゐると、果して織具を持つた女子が來たので、水に投じ築堤した。然るに、池水は溢れぬ樣に成つたが、村の女達が五月に機を織ると暴死するので、彼女の怨靈を恐れ、道淨寺を建立して冥福を祈つた。此村では今に至るも五月には機を織らぬ事と成ついている〔六〕。
 此れに似た話は、讚岐國香川郡佛生町の榺(チキリノ)宮(祭神若日女。)の由來である。社傳に治承二年平清盛が、阿波民部に命じて、淺野と云ふ處へ貯水池を掘らせたが、度度堤が崩れるので、陰陽師に占はせしに、人を以て埋めれば成就するとの事で、或る朝路上に出でて行人を候ふと、會會柚(チギリ)(中山曰、機織具。)を持ち、筬(オサ)(中山曰、同上。)を懷にした婦人が來たので、此れを人柱に立てた。然るに、其柚が化して松樹と成り、筬が化して竹林と成り、殃ひするので祠を立て神と祀つた〔七〕。此話の筋は池中に於いて機を織る音がすると云ふ「機織池傳說」と共通してゐる點が存してゐるが〔八〕。茲には其の詮索よりは、何處に斯く機具――殊に筬(オサ)を持つた女性が人柱に立つたのであるかの考覈を試みねば成らぬ。
 此れに就いても、先輩の研究が發表されてゐるが〔九〕、私の信ずる處を簡單に言へば、此れは娍(オサメ)と通稱する巫女が〔十〕、人身御供と成つたのを、オサと筬の國音の通ずる所から、機具を持てる女と迄転訛した物だと考へてゐる。若狹國三方郡東村大字阪尻の國吉山の北麓の水田は、往昔は一面の池であつたが、或年冬の日に、一人の女が機具を持つて池の冰上を通る折に、冰が破れて落ちて死んだ。其以後は水中に機音を聞く事が有る。村民憐んで祠を建てて其靈を祀り、此れを機織池と云ひ、池を機織池と名付けたと有るのは〔十一〕、娍(オサメ)の人身御供傳說に、機織池傳說が付會された物と考へてゐる。而して斯く巫女が人身御供と成つたのは、其が神を和める聖職に居つた為めである事は言ぐ迄も無い。
 未だ此外に、巫女が他人の子を人柱とした話や、巫女で無くして普通の女性が人身御供に成つた話も夥しく存してゐるが、今は大體を言ふに留めて、他は省略した。說いて詳しからず、論じて盡さざる物が有るも、此の問題にばかり屈托してゐられ無いので、遍へに諒察を乞ふ次第である。

〔註第一〕此事は閑が有つたら起稿して見たいと材料を集めて置いた。動物を犧牲にする民俗に就いては『中央史壇』第十一卷第二號に、駒込林二の匿名で發表した事が有る。此記事中でも多少此事に觸れて置いた。御參照を願はれると仕合せである。
〔註第二〕山中共古翁所藏本『田子古道』に據る。
〔註第三〕旅人を人身御供とした神事は、尾張國府宮の直會祭を始めとして、各地に夥しき迄に存してゐた。此理由は祭日に人身御供と成る事を土地の者が知る樣に成り、此れを免れんがた為、外出せぬ樣に成つたので、斯く旅人を捕へる事に成つたのであるが、其も國府宮の如く有名に成ると、同じく旅人が相警めて通行せぬ樣に成るので尾張藩では藩令を以て此れを制止した事さへ有る。旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、其神社の仕來(シキタ)りで、種種なる物が存してゐた。
〔註第四〕仙臺領の地誌である『封內風土記』第九。
〔註第五〕『筑波郡案內記』。
〔註第六〕『張州府志』卷十一。
〔註第七〕『全讚史』卷五。及び『讚州府志』卷七。
〔註第八〕池中に機を織る音を聞くと云ふ話は、全國的に分布されてゐるが、此話はアイヌ語で池の事をパタと云ふので、其から思ひ付いた傳說だらうと云はれてゐる。私は此れに就いて異說を有してゐるが、其を述べると長く成るので略した。
〔註第九〕『鄉土研究』第一卷第十一號に柳田國男先生(誌上匿名。)が揭載された「筬を持てる女」を參照せられたい。
〔註第十〕香取神宮第一の攝社である娍社は、何と訓むのか昔から問題とされてゐるが、K先生に據るとオサメと訓むのが正しいとの事である。其で此娍社が、巫女を祭つた事は疑ひ無く、且つ其が娍(オサメ)と通稱してゐた巫女であると考へたのである。誠に未熟な妄斷な嫌ひは有るが、敢て記して後考を俟つとする。
〔註十一〕日本地誌體系本の『若狹郡縣史』卷三。



第三節 巫女の私生活は判然せぬ

 古代巫女の修行や、師承關係や、其給分の實際等に就いては、私の寡聞の為か、皆目知る事が出來ぬのである。全國の女性が、悉く巫女的生活を營んでゐたとは云ふものの、純乎たる巫女として神に仕へ世に處すには、相當の修行を要した事と想はれるが、其が尠しも判然せぬのである。更に古代に於いては、呪術を學ぶには、後世の師匠取(ド)りとも云ふべき關係も存した事と考へるが、此れも全く手掛りすら判然せぬ。又神社に仕へる巫女には、一定の給分も有つた事と思ふが、此れも又た遂に知る事が出來ぬのである。換言すれば、此方面に於ける巫女の生活は、一切を舉げて歲月の流れと共に永久に流れ去つてしまつて、何事も痕跡だに留めてゐぬのである。從つて下級巫女の社會的位置等も、詳細には知る事が出來ず、唯漠然と、相當に敬意を拂はれたり、恐怖されたりしてゐたのであらうと想像するだけである。
 斯うした時代に於いても、巫女の間に二つの大きな區別が在つた事だけは、やや明白に知られるのである。即ち一は神社に附屬して、或る定まれる神以外には仕へぬ巫女と、一は此れに反して、神社を離れて、村落に土著し、依賴を受けて呪術を行うた巫女との存した事である。名神・大社に奉仕した巫女は、前者であつて、蘇我大臣の渡橋を要して神語を寄せた巫女や、『皇極紀』に有る常世神を祭つた巫覡等は、後者であると見て大過無い樣である。而して此區別は、時代の降ると共に、其間が漸く擴大されて來て、前者は所謂神和(カンナギ)系巫女として、益益高く淨く固定し、後者は佛教・道教・修驗道等の信仰と雜糅して、愈愈低く俗化し、口寄(クチヨセ)系の市子と墮落した物と考へるのである。
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