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第一章、神道に習合せる道佛二教
第一節 巫女の呪術に現はれたる道教の影響

 元來、日本と韓國は同祖であり、同域であつたと考へてゐる〔一〕。從つて、素尊が韓地に跡を垂れたとか、神武帝の皇兄稻冰尊が新羅に往かれたとか云ふ傳說の有るのも、決して不思議では無いのである。更に此反對に、韓國の民族が我國に渡來歸化したのも、遠く神代からである。新羅の王子と稱せる天日矛が來朝したのは、『播磨風土記』に據れば、大國主命の時代である。任那國から、蘇那曷叱知を遣して朝貢させたのは、崇神朝である。斯うして彼我の交通は、先史時代から隆んに行はれてゐたのであるが、茲に注意し無ければ成らぬ事は、日韓の交通に依つて我國は、支那に於いて發達した文物制度を輸入した點である。換言すれば、我國は韓國を仲介者として、斷えず支那の文化を吸收してゐたのである。秦始皇帝の子孫と稱する弓月王が渡來したのも、此結果であつて、古く我國へ漢學を舶載し、後に佛教を傳來したのも、共に韓國であつたのは、其事を證示してゐるのである。
 勿論、『魏志』の倭人傳に從へば、卑彌呼女王國は韓國を經ずして直接支那と交通してゐた事を記し、更に輓近各地より發掘せられた劍鏡其他の遺物は、遠く日支交通の存した事を明白に證據立ててゐるのである。當時、我が國情は是等文化の先進國である秦韓兩民族の投化を歡迎すべき理由の有つた所へ、戰亂等の為に母國に留まる事を欲し無かつた彼等秦韓兩民族の事情と相俟つて、神代以來殆んど年年歲歲の如く、或は百二十七縣の大團體を以て、或は五人七人の小規模を以て、海を濟り浪を凌いで我國に移住した。弘仁年中に萬多親王が敕命を奉じて、畿內だけに居住せる者の出自を調查した『新撰姓氏錄』に據ると、總數一千一百八十二氏と有るが、此中で蕃別と稱する秦韓の歸化族は約三百五十氏の多きに達し、總數の三分之一強を占めてゐる有樣である。而して此計數は、僅に五畿內だけの事であるから、更に之(コレ)を全國的に涉つて計算したら、北は奧州より西は九州迄、其實數は蓋し驚く程の物であつたに相違無い。奈良朝頃の古文書を見ても、是等歸化族の夥しき迄に存してゐた事は、□れながら意外とする程である。
 斯うして直接間接に支那から輸入した文化の中で、巫女史に交涉有る物だけを抽出して記さんに、其は神道の骨髓に迄浸潤した道教(此處には陰陽道及び五行讖緯の說迄押しくるめた意である。)の思想である。由來、『古事記』や『日本紀』を讀んで、誰でも氣の付く點は、此れこそ古神道の信仰である、我が固有思想であると言はれてゐる物の中に、驚くべき程澤山に、道教の信仰と思想とが含まれてゐる事である。天地未剖の記事が、支那の開闢思想の輸入であるとか、渾沌如雞子の文字が『三五暦記』其のままであるとか云ふ、そんな輕微な問題では無くして、其殆んど多くが、道教の影響である事を想はせる物が有る。諾冊二尊が、國土を生む時、御柱を左旋右回したと有るのは、道教の左尊右卑の信仰であり、諾尊が桃を投じて黃泉軍を退けたのも、又た道教の思想を受けてゐるのである。更に白鳥庫吉氏の研究に據れば、產土神を一(マタ)に高木神と云うたのは、道教の扶桑木思想であり、諾尊が日少宮に入られたと有るのも、又其であると發表されてゐる〔二〕。
 斯う詮索し始めると、諾尊の左右眼から貴神が生れたのは、支那の盤古傳說を學んだ物で、諾冊二尊が木・火・土・金・水の五神を生んだのも、又た道教思想であると云へるのであつて、此觀點から言ふと、我國の原始神道は、巫女(シャーマン)教よりは、寧ろ道教に共通した所が多いとも考へられるのである。喜多村信節翁は、『日本紀』を論じて、同書に斯く道教思想が濃厚に加味されてゐるのは、此れが編纂總裁であつた舍人親王が、道教の信者であつた為であると述べてゐるが〔三〕、此れは喜多村翁としては不徹底な物の言ひ方であつて、當時、我國の上下に瀰漫してゐた道教の思想は、即ち時代思潮の中心と成つてゐたのであるから、舍人親王を措いて他の貴種を以て此れに代へても、此範疇から脫する事は不可能であつたに相違無い。其は恰も明治期の文化が餘りに歐米の模倣であるのを不可也とするのと同じであつて、當時としては斯うするより外に方法が無かつたのである。殊に記・紀が編纂される折に、實際に筆を執つて記錄を書いた物は、概して如上歸化族の子孫と思はれるので、思想も措辭も彌が上に支那化され、道教化された物と見て大過無いと信ずるのである。



一、道教思想に養はれた呪術

 道教の呪術的思想が古代に於いて如實に具現された例證は〔四〕、前にも引用したが、『仁德紀』の左の記事である。

 太子【○菟道稚郎子(宇遲能和紀郎子)。】曰:「我知不可奪兄王之志。豈久生之煩天下乎?」乃自死焉。時大鷦鷯尊(仁德帝)聞太子薨,以驚之從難波馳之,到菟道宮。爰太子薨之經三日。時大鷦鷯尊摽擗叫哭,不知所如,乃解髮跨屍,以三呼曰:「我弟皇子!」(中略。)於是大鷦鷯尊素服為之發哀,哭之甚慟。云云。(以上,國史大系本。)

 此記事に現はれた(一)髮を解いて屍に跨り三たび呼んだ事と、(二)素服して(三)哀みを發して哭くと有るのは、共に道教の思想であつて、我國固有の呪術では無いのである。
 即ち(一)に就いては、『日本書紀通證』に、『楚辭』の註を引用して、

 古者人死,則使人以其服,升屋履危,北面而號,曰皐某復。遂以其衣三招之,乃下以履尸,此禮所謂復也。

 と記した如く、支那の古俗に據りしに外成らぬのである。而して此呪術は、大鷦鷯尊が博士王仁より漢籍を學んで知つてゐられたので、一時的に此の所作に出られた事と拜察するのであるが、其にしても道教の思想が此處迄浸潤してゐた事の徵證とは成るのである。且つ此復(タマヨバヒ)の思想は、前に述べた鎮魂の呪術(振衣の所作。)と交涉する所が深く、永く後世迄行はれて來たのである。後朱雀帝の尚侍嬉子が薨去せる折の事を、『野府記』萬壽二年八月七日の條に、

 昨夜風雨間,陰陽師恒盛、右衛尉雅孝,昇東對上,(中山曰、屋字を脫せるか。)【尚侍住所。】魂呼。

 と載せ、『徒然草』にも堂上家に此事の行はれた例を舉げ、『越後風俗志』第八輯に、家に新死者有れば、修驗を賴み亡魂招(ナキタマヨバイ)をする。死人在生中に著た衣服を攜へ、東南方から屋上に昇り、北に向ひ大音で三度呼招ぎ、其衣服を卷いて願主の前へ投落し、西北方から地上へ降る。死者が男の時は在世の名を、女是れば家を呼ぶ。魚沼郡には文化頃迄行はれてゐた。而して今に民間に於いて、死者又は氣絕者有る時、屋上に昇り、或は井戶に向つて、其者の名を呼ぶのは、此遺風と見るべきである。
 更に(二)の、素服に就いては、『喪葬令』に、「凡為天皇,為本服二等以上親喪,服錫紵。」と記し、錫紵に就いては『令義解』に、「錫紵者細布(サヨミ),即用淺黑濃。」と載せ、『箋注倭名類聚鈔』に、「六典戶部職貢賦注,亦紵布麻布並戴。」と有るのから推すと、麻の細布(サヨミ)を喪服とする事は支那の思想で、然も其が道教に由來してゐる事が知られるのである。
 而して(三)の、哀みを發して哭くとは、天稚日子の葬儀の際に『日本紀』に、「以鷦鷯為哭者。」と記し、『古事記』に、「雉為哭女。」と有る故事に由る物と、因襲的には解釋されてゐるが、更に一步を進めて考ふる時は、此習俗も、又支那からの輸入と思はれる點が有る。『允恭紀』四十二年條に、新羅人が帝の崩御を知り、「是泊對馬而大哭。」と有るのは其手掛りで、今に支那にも朝鮮にも、此習俗が存してゐる點からも〔五〕、さう信じられるのである。


二、巫蠱の輸入と呪術の深刻化

 斯く神道や民俗に迄浸潤した道教の思想は、當然の歸結として、巫女の行ふ所の呪術に習合せられ、此れが事象は明確に指摘し得る程に現はれて來た。『用明紀』二年夏四月條に、

 中臣勝海連於家集眾,隨助大連(物部守屋)。遂作太子彥人皇子像與竹田皇子像,厭(マジナフ)之。俄而知事難濟,歸附彥人皇子於水派宮。

 と有るのは、其一例である〔六〕。勿論、我が固有の呪術にも人を詛ふ事の有つたのは、既述の如くであるが、其方法は凶言を用ゐるか、又は物實(モノザネ)である土を採るかの簡單なる物であつて、人像(ヒトガタ)を作つて呪詛する事は曾て存してゐ無かつたのである。其が此時代に斯くの如き呪術の行はれる樣に成つたのは、全く道教の影響としか考へられぬのである。
 由來、支那の道教の思想に依つて養はれた巫蠱の呪術は、其國民性の反映と見らるる程に慘忍を極めた物で、然も其方法も、又多種多樣で、且つ深刻なる物ばかりであつた。我が養老年中に編纂された『賊盗律』に、

 有所僧惡,而造厭魅,及造符書呪詛,欲以殺人者,名以謀殺論,減二等。

 と有る正條の腳註の一節に、

 造厭魅,事多方,罕詳能悉。或託鬼神,或剋作人身,繫手縛足。如此厭勝,事非一緒。魅者或假託鬼神,或妄行左道之類,或呪或咀,欲以殺人者。云云。

 と載せて有る呪法は〔七〕、其悉くが支那傳來の物であつて、道教の思想に依つて發達した物とも言へるのである。而して斯かる呪術の行はれた事は『續日本紀』神護景雲三年五月條に、犬養姊女等が巫蠱の罪に座して配流された時の詔の一節に、

 冰上鹽燒が(我)兒志計志麻呂を(乎)天日嗣と(止)為むと(牟止)謀て(氐),挂畏天皇(稱德帝)大御髮を(乎)盜給はりて(波利弖),污き(岐多奈伎)佐保川の(乃)髑髏に(爾)入て(弖),大宮內に(爾)持參入來て(弖),厭魅為る事(流己止)三度せり(世利)。

 と有るのからも察しられるのである〔八〕。
 斯くて此傾向は、時代の降ると共に益益猛烈と成り、呪術の弊害は海內に繁延したので、代代の官憲も極めて、或は巫覡の徒を流刑に處し、或は呪術を禁斷するの法令を頻發する等、(此二つは後に述べる。)此れが剿絕に努めたのであるが、事實は此れに反して愈愈猖獗を來たし、殊に平安朝に成ると、過防に依る神經衰弱時代の世相と相俟つて、全く底止する所を知らず、『袖中抄』卷八の宇治橋姬條に、

 我をば思出(オモヒイテ)て、元の女を戀ふるにこそと妬く思ひて、男に取憑(トリカカ)りたり。

 と有る如く、婦人の呪詛傳說を生み、更に此俗信は發展して謠曲『鐵輪』に記された樣に、女性の身で、頭上に燈を點じ、胸に鏡を懸け、一本齒の足駄を穿いて、藁人形に呪ひの釘を打つ「丑時參(ウシノトキマヒリ)」なる者を見る樣に成つた。阿波國三好郡山城谷村にては、大昔より、人を怨み之(コレ)を呪殺さんとする時は、丑時參に扮粧して、竹柏(ナギ)樹の下に至り、祈りて竹柏を折る。枝の折れると共に怨みたる人は死するも、怨む人其半の禍を受けると言傳へてゐる。其故に竹柏の木は人の近寄れぬ樣設備したのが多いとの事である〔九〕。
 斯うして民俗學的の類例も相當に多い事と思ふが、此呪術は古く奈良朝に其端を發してゐるのである。而して一方に於いては修驗道に依つて唱へられた天狗信仰と呪術が習合し、遂に『台記』久壽二年八月條に、「為咀朕(近衛帝),打釘於愛宕護山天狗像目。」と有る樣に進んで來た。然も是等の呪術は巫女の墮落と共に頻頻として行はれ、以て明治期に及んだのである。


三、巫女の呪具と道教の影響

 巫女の持てる固有呪具は、天鈿女命に由つて傳へられた手草と矛、息長多良志媛に由つて傳へられた水晶珠より外は寡見に入らぬが、道教に導かれ巫蠱の術を移し入れてからは、巫女の呪具も遽に多種なる物と成つた。就中其重なる物は、A.梓弓を用ゐる樣に成つた事、B.人骨を用ゐる事、C.識神を使ふ事、D.巫女が湯立を行ふ事等である。



A、巫女の梓弓は外來の呪法

 巫女が、古くは梓弓を、今は竹弓を用ゐ、其弦を叩きながら、神降しの呪文を唱へて、自己催眠(神懸(カガリ)の狀態。)に入る事は、文獻にも存し、實際にも見る所であつて、然も巫女の別名を梓巫女(アヅサミコ)とも、又は單に梓(アヅサ)とも言つてゐる程であるから、巫女と梓弓との關係は、切つても切れぬ程の親密さを有してゐるのである。併しながら、仔細に巫女が梓弓を用ゐし事を考究する時、其は我が固有の呪具では無くして、(神道者の行ふ鳴弦式も又た道教の影響である。)支那からの輸入である事が知れるのである。從來の俗說に據ると、巫女が弓を用ゐる起源は、天磐戶の齋庭に於いて、鈿女命が弓六張を並べて、其弦を彈き、琴の代用としたのに有るとか、又は神功皇后が征韓に際し神を降す時同じ樣に弓を並べて彈ひたのに有るとか言つてゐるが〔十〕、是等は記・紀其他の信賴すべき記錄には全く見えぬ事で、所詮は何事にも古代の箔を付けて、無理勿體に俗人を嚇さうとする者の賢(サカシ)らにしか過ぎぬのである。
 勿論、我國にも梓弓の在つた事は古代に屬し、『應神記』に大山守命が宇治川で戰死された折に、宇遲稚郎子の詠める御歌に、「梓弓真弓(アヅサユミマユミ)、伐射(イキ)らむも、心(ココロ)は思(オモ)へど。云云。」と有るのを始めとし〔十一〕、代代の記錄にも見えてゐるが、巫女が弓──殊に梓弓の弦を叩いて呪術を行つたと思はれる物は發見されぬ。然るに『萬葉集』を讀むと、此種の呪術の存した事を考へさせる證歌が、少からず散見してゐる。左に此れが一二を抽出する。

 梓弓(アヅサユミ)、引者隨意(ヒカバマニマニ)、依目友(ヨラメドモ)、後心乎(ノチノココロラ)、知勝奴鴨(シリガテヌカモ)(卷二 0098、訓み方は橘千蔭『萬葉集略解』に據る。)

 梓弓(アヅサユミ)、末者師不知(スヱハシシラズ)、雖然(シカレドモ)、真坂者君爾(マサカハキミニ)、緣西物乎(ヨリニシモノヲ)(卷十二 2985。)

 梓弓(アヅサユミ)、引見縱見(ヒキミユルベミ)、思見而(オモヒミテ)、既心齒(スデニココロハ)、因爾思物乎(ヨリニシモノヲ)(同上 2986。)

 安豆佐由美(アヅサユミ)、欲良能夜麻邊能(ヨラノヤマベノ)、之牙可久爾(シゲカクニ)、伊毛呂乎多氐天(イモロヲタテテ)、左禰度波良布母(サネドハラフモ)(卷十四 3489。)

 安都佐由美(アヅサユミ)、須惠波余里禰牟(スヱハヨリネム)、麻左可許曾(マサカコソ)、比等目乎於保美(ヒトメヲオホミ)、奈乎波思爾於家禮(ナヲハシニオケレ)(同上 3490。)

 是等の短歌に現はれた梓弓は、悉く「依る」と云ふ語を言はんが為の序詞である事は明白であつて、然も此依るは憑(ヨ)る又は寄(ヨ)ると見るべき物で、即ち梓弓の弦に引かれて寄り來る意を寓してゐるのであるから、當時、靈魂を身に引憑(ヒキカカ)らせて、口を寄せし巫女が、好んで梓弓を用ゐた事が推知されるのである。『政事要略』卷七〇に、

 古老云,太皇太后(村上皇后)於東五條殿,【○原註略。】有御產事。【○同上。】產難之間,占云:「御產之下,有厭者歟。」搜求之處,無有其物。見御板敷之下,白頭嫗取梓弓之折,齧立齒居。遂出件嫗,即時御產已了。云云。(史籍集覧本。)

 と有るのは、巫女が梓弓を用ゐた徵證である。
 而して巫女が弓を用ゐた例の支那に存する事は、夙に山岡浚明翁も氣付かれてゐて、『類聚名物考』に於いて、

 巫女の梓弓を引鳴らして、死人の口を寄する事、唐土にも見え、其樣稍(ヤヤ)同じ。『論衡』王充論死篇、「世間死者,今生人殄而(ヨミシテ)用其言。及巫元絃下,死人魂因巫口談。」云云。

 と載せてゐる〔十二〕。此れで我國が支那のを移し入れた點は明瞭と成つたが、猶ほ殘された問題は、何故に巫女は梓弓を好んで用ゐ、他の檀弓(マユミ)なり、槻弓(ツキユミ)なりを用ゐ無かつたかと云ふ一事である。此問題は相當に複雜した內容を有してゐるのであるが、茲には出來るだけ簡單に記述する。
 支那で、梓宮、梓人等、梓の字を用ゐた物は、概して葬禮の凶事に關係してゐる。此れは梓木で棺を造る事に由來してゐるのである〔十三〕。然るに、我國で梓と呼んでゐる木は、支那の梓とは全く別種な物で、棺にしたり、弓にしたりする樣な、大木では無いのである〔十四〕。其にも拘らず、支那の文物を輸入するに急であつた我國では、支那に於ける梓木に關する信仰だけは其のまま受容れてしまい、梓弓と云ふも實際は竹を合せて造つた物を斯く稱してゐたのである〔十五〕。然るに我國の古俗として、文通する折に文字を梓葉に書いて造る習俗が有つたので〔十六〕、何時か書狀の事を玉梓(タマヅサ)の約言──即ち「たまづさ」と云ふ樣に成り、此思想が梓弓に附會して、文通から靈の交通へと導かれて來たのであると考へる。
 巫女が弓を用ゐた典據に就いては、『神道五部書』の一なる『御鎮座本紀』に、「猿女君祖天鈿女命,採天香山竹,其節間雕風孔,通和氣,今世號,笛類是也。亦天香山弓,興並叩弦。【今世謂和琴,其緣也。】」を徵證とする者も有るが、此書が後世に作られた偽書である事は明確なので〔十七〕、元より典據とするに足らぬのである。併しながら此俗說も、かなり古い頃から行はれてゐた物と見え、『源氏物語』箒木卷にも此事を載せ、『古今六帖』には、「六つの緒の寄りめ事(コト)にそ香は匂(ニホ)ふ、彈(ヒ)く少女子が袖やぶれつる。」と舉げ、『康富記』には、「大炊御門殿被仰云:『』和琴者,天照大神岩戶出給之時神樂之器也。弓六張,並彈之。仍之有六弦。云云。」と記し、更に鴨長明『無名抄』卷上に、「和琴の起りは、弓六張を彈(ヒ)きならして、之(コレ)を神樂に用ゐける。」と云ふに至つて、此俗說が大成され〔十八〕、斯くて巫女の弓に迄利用される樣に成つたのである。猶ほ巫女用の弓の長短、拵へ方、弓を用ゐる流儀と用ゐぬ者等に就いては、第三篇に述べる考へである。


B、人骨を用ゐるは巫蠱の思想

 巫女が動物の骨を用ゐた事は、我國固有の呪法として、鹿肩骨を灼き、巫鳥骨を燒いて神意を問うた既載の所作からも察せられるし、更に彼等は最角(イラタカ)の珠數と稱して、(此事の詳細は後の修驗道と巫道の習合の條に述べる。)羚羊の上顎骨、狐の頭蓋骨、熊の牙、鷹の爪等を紐に通して所持し、此れが咒力の源泉であると云ふ流派さへ生ずる樣に成つたが、人骨を呪具とした事は、我が固有の物では無くして、支那の巫蠱に教へられた物と考へざるを得ぬのである。而して支那の巫蠱なる物が、以下に人道に反し慘忍を極めてゐるかは、天野信景翁の『鹽尻』卷五三に諸書を要約して載せて有るので、左に引用する。

 異邦、巫蠱左道の邪術、古へより多し。巫蠱、【我國に謂ふ犬神。】蛇蠱、【とうびゃう。】髑髏神、或は鳴童、預拔神【我國に謂ふ外法(ゲホウ)頭。】の類數ふるに遑無し。『續夷堅志』の少童を盗み隱(カク)し、日日に食を減じ法酢を灌き、其死を待て枯骨を收め、其魂魄を掬(キク)す。他の事を聞かんと欲する時は、耳邊に於て其事を報ずと云へり。『癸未續識』にも又此事を筆し、蠱家人を慘酷せし樣(サマ)を云へり。『輟耕集(ママ)』にも蠱家童男女を捉へ、符命法水咒語を語らひ迷惑せしめ、活きながら鼻・口・唇・舌尖・耳朶・眼を割央して、其活氣を取り、腹胸を破り心肝を割て各小塊とし、曝乾搗羅(サラシホシツキフルイ)て末とし、收裏して五色の綵帛を用ひ、生魂頭髮と同じく相結び、紙を以て人形樣を作り、符水をして兔遺し、人家に往て怪を為し、廣く他の財物を持し事を記せり。鳴呼、是一箇の邪術財寶を貪り得るが為に、斯かる惡業を為し、其終りは國家の為に極刑に寘るる類間間聞え侍る。我國白狐犬神等の邪術も其意殆同じ、畏れ避て可也。(帝國書院百卷本、但し句讀點は私が加へた。)

 斯うした呪術が支那から輸入され、更に此(コレ)に佛教の呪法が加味され、然も其を巫女が行ふ樣に成つて來ては社會を荼毒する所實に甚大であつて、官憲も彈壓に苦心せざるを得無かつた筈である。『增鏡』に太政大臣藤原公相が頭が大きくして異つてゐたので、此れを葬りし時、外法(ゲホウ)を行ふ者が其塚を發き、首を斫つて持去つたと有るのは、即ち髑髏神を呪力の根元とした物であつて、然も此邪法は後世に成る程巫女の間に猖んに行はれたのである。既載した稱德帝を咒詛し奉らんと、大御髮を穢き髑髏に入れて、宮中に持參したと有るのも、又此れが派生的呪術と考へられるのである。
 既載の『賊盗律』の腳註に有る、「或剋作人身。」とは、如何なる呪術を指して言つたのか判然せぬが、之(コレ)に就いて想起されるのは、我國に於いて人體を假作する迷信の行はれた事である。勿論、此れが人身を剋作する物と同じだとは考へぬけれども、併しながら何と無く其間に、一脈相通ずる物が在る樣に思はれるので、要點だけを抄錄する。而して此れに就いては、櫻井秀氏が『鄉土研究』第二卷第三號に載せた物が極めて要領を得てゐるので、其に據るとした。

 平安朝に於ける人體假作の信仰は、頗る面白い物である。果してどの位に迄信ぜられてゐたか解らぬが、先づ二三の實例を舉げて見やう。西行法師の著と稱す『撰集抄』卷四に、「高野の奧に住みて──人骨を取集めて、人に作り為す樣可信人のおろおろ語り侍りしかば造りて──侍れば人の姿には似侍りしかども、色も惡く全て心も無く侍りき、聲は有れども管絃の聲の如し。」と有る。右の可信人とは德大寺殿【實定?】である。──其方法と云ふは、「人も見ぬ所にて、死人の骨を取集めて──續け置きて祕藏(ヒサウ)と云ふ藥を骨に塗り、苺(イチゴ)と繁縷(ハコベ)の葉を揉合せて後、藤の若葉の蔓にて骨を絡げて、水にて度度洗ひ──髮の生ずべき所には、西海枝(サイカシ)の葉と無窮花(ムクゲ)の葉とを灰に燒きて附け侍りて、土の上に疊をしきて二七日置きて後に生きて、沈と香とを炷きて反魂の秘術を行ひ侍りき。」と有る。如何にも神秘の術らしいけれども、而も右の企ては失敗した。然るに伏見黃門師仲も人を作つた經驗が有るので、西行に語つて言ふには、「四條大納言の流れを受けて人を作り侍りき、今の卿相にて侍れど、其と明しぬれば、作りたる物も作られたる物も解(ママ)けうせければ、口より外には出さぬ也。云云。」右の四條亞相と云ふのは公任であらうか、ともあれ怖しい話である。(中略。)其から師仲卿は、西行の失敗を評して、「香をば炷かぬ也──沈と乳とを炊くべきにや、又──秘術を行ふ人、七日物を食ふまじき也。」と言つた事が有り、終に土御門右府【○師房ならむ。】も此術を行つたと記し、「土御門の右大臣造給へるに、夢に翁來て我身は一切の死人を領せる者に侍り、主に物給ひ合せで──骨等取給ふかとて、恨める氣色見えければ──我子孫造りて靈に取られなん、甚(イトド)由無しとて、やがて燒せ給ひにけり。」云云とも有る。此『撰集抄』は偽作とも言ふが、此等の記事は頗る趣味が有る。全て妖術で作つた人物は、或特定の條件を守らぬと、消滅するとの信仰は此外にも多い。紀長谷雄が鬼から與へられた美婦も解けてしまつた。【○『長谷雄草子繪卷』。】}室町時代に出來た『厳島本地』には死人復活の術を記してある。云云。

 此記事は、所謂朝神の間に行はれた人體假作であつて、道教の思想から考へ付いた有りの遊(スサ)びの樣にも見え、且つ巫蠱の術とは全く交涉が無いとも思はれるが、兔に角に斯うした事が我國に行れたのは、人體剋作の影響としか信じられぬのである。


C、複雜せる識神の正體

 識神(式神とも書く。)に就いては、私の學問では餘りに荷が勝ち過ぎてゐるので、一知半解の事を言ふよりは、寧ろ之(コレ)に觸れぬ樣にするのが聰明な事かも知れぬが、從來、此問題に關しては、深く論じた學者の有る事を耳にせぬので、茲に管見を記し、以て叱正を仰ぐとする。
 『大鏡』を讀むと、花山帝が脫屐の折に、陰陽道の泰斗安倍晴明が、識神に依つて、此事を豫知したと載せて有る。而して此識神なる物は、平安朝の文獻以外には、餘り記錄にも現はれぬので、從つて代代の學者の注意も惹かず、全く閑卻されてゐる始末なのである。併しながら、安倍晴明が好んで使役したと有るからは、此神が私の謂ふ道教から出てゐる事だけは知られるのであるが、さて其正體はと云ふと誠に捕捉する事が困難なのである。山岡浚明翁は『類聚名物考』に於いて、

 式神、此れは人の魂魄を術を以て使ふ事也、陰陽家に傳へし術也、中古の物に多く見えたり。西土の書にも此術有り。髑髏神と云ふも是也。俗に外法とも云へり。『清少納言記』、「識神(シキノカミ)も自(オノ)づから、甚賢(イトカシコ)し。」とて云云。『後漢書六術長房傳』、「翁曰:『幾得道云云。』又為作一符曰:『以此主地上鬼神,云云。鞭笞百鬼,及驅使社公。』今案に、識神、或は式神と書く、借字也。知識は、人の情心の留まる所也。其魂神を驅使するを識神と云ふ也。」「輟耕錄」卷十三中書鬼案條に、「人の魂魄、神を使ふるを云ふ所に、我亦會遣使鬼魂,我有收下的生魂賣與儞。云云。」と有り。鬼魂は即ち是れ識神の事也。

 と記し、識神は髑髏神、又は外法と同じ物で、陰陽家に傳へられた物だと考證してゐる。而して是だけ見ると、識神は道教にのみ屬する物の樣に思はれるが、更に之(コレ)を佛教方面から見ると、益益其正體が紛らしく成つて來るのである。
 往年、柳田國男先生の質問に對して、南方熊楠氏が解答された往復文書を淨書して『南方來書』と題し、今に柳田先生が秘藏されてゐるが、其を私が拜借して拔書した所に據ると、南方氏は識神に就いて、左の如く考へられてゐる。

  東晉三藏法師佛陀跋陀羅譯、『摩訶僧紙律』三十一卷に、「憍陳如比丘(釋迦の父の家來の子にて、釋迦の後を逐て出家せし五比丘の一也。)歿して,四魔天來,欲觀其識神不見,已變白鳥而去。」文簡にして十分に分らぬが、四人の魔天來り、識神を見んとせし時、已に白鳥に化して去つた後故に見えなんだと云ふ事(人魂、神鳥に化する信仰、印度外にも有り。日本武尊の御事等も似たり。)と存候。只今、此處に引ける所の識神は、人魂と云ふ事と存候。晴明等の識神は其前後の支那の道家が、此佛家の識神より變じて、作り出せる物ながら、死靈を使ふと云ふ樣な事で、餘り佛家の此處に云へる所と變らぬ事と存候。
 識神(タマシヒ)の字、『空華集』(大日本佛教全書本。)にも有り、タマシヒと振假名せり。(以上。明治四十五年四月十二日の條。)
 識神と云ふ字、佛教で最も古く正しき出所は、『增一阿含所會經』と思ふ(『黃蘖板一切經』第八十六卷。)芹奈三藏曇摩難提譯十二卷三寶品第二十一に有り。云云。此文は、父母交會及び父母別居の狀態、種種なるにより、子たるべき者の靈が來りて、或は胎に入り、或は胎に入り得ぬ事を述べたる也。識、外識、識神、神識と四樣に譯し有れど、皆一と見ゆ。英語の Soul(魂) と云ふ程の事也。故に無論晴明等の使ひしと云ふ物と全く一致せず、魂(タマシイ)を使ふと云ふ意味から、陰陽家にも用ゐ出せし事と覺ゆ。云云。(以上、明治四十五年五月廿三日條。)

 南方氏に據れば、識神は佛說に出た物を、支那の道家が作り變へて我國に傳へた物であると云ふ結論に成り、且つ髑髏神とは少しく相違してゐる樣に考へられるのである。元元、私の學力では奈何ともする事の出來ぬ難問故(ユヱ)、今は識神に關して先覺中に斯かる考證が有ると云ふ事だけをお取次して置くより外に致し方が無いが、其何れにしても、魂魄を神として、──即ち死靈を驅使したと有る點が一致してゐるのであるから、晴明が使つたと云ふ識神も、此意味に解し大過無き物と思ふ。而して此識神が巫女に傳へられてから、口寄せと稱する呪術が、一段の發展を來たしたのである。猶ほ其に就いては後に述べたいと思うてゐる。


D、巫女の間に行はれた湯立

 現在でも京阪の神社に參拜すると、巫女が社前に据ゑた大釜の湯を、兩手に持つた笹葉を束ねた物で掬上げ、其を自分の身體に振掛けながら神諫(カミイサメ)するのを目撃する。此れが即ち湯立神事であつて、參拜者は此湯の飛沫を浴びると除災するとて、好んで釜の近くに押掛けてゐるのを見る事が有る。而して此湯立の起源に就いては、此れ又、餘り深く研究されず、例の天鈿女の俳優の餘風であるとか〔十九〕、更に奇拔なのは、武內宿禰の探湯(クガタチ)の遺俗であるとか〔廿〕、殆んど耳を捉へて鼻へ押付け樣とするが如き氣樂な事ばかり言はれてゐるが、私の考へた所では、此呪法も又、道教の影響であると信じてゐる。
 湯立神事が古くから行はれた事は『儀式貞觀』卷一の園並韓神祭儀條に、「御神子(ミコ)先迴庭火,供湯立舞。次神部八人共舞。」と有るのから推しても知る事が出來る。唯茲に注意し無ければ成らぬ點は、此湯立舞は『神樂歌』の弓立てと同じ物と考へるので〔廿一〕、或は其實際は貞觀年中等よりは、更に古い時代から行はれてゐたかも知れぬと云ふ事である。
 多田南嶺が、

 神前にて湯立する事、古書に所見有るや、予に於ては知らず、『古語拾遺』の手草とても、比例とはし難(ガタ)し。武內宿禰の探湯も神事の湯立には非(アラ)ず。

 と迄斷じたのは卓見であるが、此れに次いで、

 『梁塵愚案抄』に載せ給ひぬる神樂に、弓立(ユダテ)と云ふ有れ共、弓(ユ)にして湯(ユ)に非(アラ)ず。

 と筆端を滑(スベ)らせたのは智者の一失であつて〔廿二〕、弓立は湯立の假字である事は、其歌謠からも合點されるのである。然らば湯立は道教の影響也とする論據は那邊に有るかと云ふに、同じ多田南嶺は此れに就いて左の如く論じてゐる。

  神社方に有る湯立と云ふ事、上代は笹葉と蒼朮(ヲケ)とを持つて、湯をあみる也。ヲケ(飫憩)と云ふは、蒼朮の事也。(中略。)唐土にては、大切の山神等祭る時、合湯を用ゆ。合湯とは、湯と水と也、能加減(カゲン)の湯は清淨也〔廿三〕。

 此記事を讀んで想起す事は、『古語拾遺』天磐戶條の、「飫憩(オケ)。【木名也,振其葉之調也。】」の解釋である。此「ヲケ(飫憩)が木名也。」と腳註に明記して有る為に、累世の碩學もかなりに苦しんでゐて、本居翁は、「木葉を振ふ音のヲケと鳴るべき由無ければ、木名とするは非也。」とて、宇氣の事を、「神樂に斯く唱へしを誤れる也。」と、殆んど急所を避けてゐるし、伴信友翁は、「神樂に阿知女於介(ヲケ)と唱ふるより、ヲケは猿(ヲケ)にて、天鈿女の俳優を褒めて、神等の鈿女猿(ヲケ)と云つたのであらう。」と、逸(イツ)に似ず、判つた樣な判らぬ事を言ひ、又一說には、「ヲケは榊也。」との說も有る等〔廿四〕、全く見當さへ附かぬと云ふ有樣なのである。然るに四時堂其諺(京都圓山阿彌の住職。)は之(コレ)を考證して、

 神代に云ふ飫憩(ヲケ)之木とは、朮(オケラ)也,是不淨を除く草也。又中華にも、「今夕(除夜。)蒼朮を焚燒して辟疫よし。」所說多し。

 とて、時珍其他の本草書を舉げて論じてゐる〔廿五〕。此考證が學說としてどれ程の價值を有してゐるかは、多少の疑念が伴はぬでも無いが、榊說よりは傾聽すべき物が在る樣に思はれる。
 私は太だ早速ではあるが、以上の兩記事から推して、湯立なる呪術は道教から出た物だと信ずるのである。寬文頃の記錄に有るとて、學友星野輝興氏の語る所に依れば、宮中の內侍所に仕へた御齋(オサイ)、(御齋の意で古い御巫(ミカンコ)に相當する者。)采女ウネメ()、(采女で御齋に次ぐ巫(カンコ))刀自(トジ)、(刀自で同じく巫。)命婦メウブ()(命婦で下級の巫。)等は、決して湯に入る事無く、必ず水を以て淨めるのを恒とし、若し沐浴する事が有つても、掛け湯に限つてゐて、浴槽に入る事は無い。此れは浴槽に入ると、自分の垢で自分を穢す樣に成り、神に仕へる清淨と成り得ぬからだと云ふ事である。此一事から見るも、我國の原始神道には、湯を用ゐて身體を淨める思想は無く、從つて道教の輸入以前には湯立と云ふが如き神事は存し無かつたと考へるのが穩當である。
 其にしても、此湯立神事が、平安朝以後に於いて、神社及び巫女の間に、盛んに行はれたのは事實である。源實朝の『金槐集』に、「里巫(サトミコ)が御湯立笹のそよそよに、靡(ナビ)きおきふしよしや世中。」と有り、『康富記』文安六年九月廿九日條に、「粟田口神明有湯立,參詣拜見。」と載せ、『晴富宿禰記』文明十二年二月廿五日條に、「於左女牛若宮有湯立,自公方御沙汰之由風聞。」と記し、此他にも枚舉に遑無い程諸書に散見してゐる。
 殊に民俗學的に見て、興味の多いのは、出雲國美保神社の一年神主に對する湯立神事である。同社には正神主橫山氏の外に、一年神主とて、氏子中より選定して、一箇年間勤める者と有る。而して此神主の選定は、三年前に行ふのであるが、先づ九・十兩月の間、同町三百餘軒の民家の中、男子十二三歲より老年迄、何れも美保社の祭神より前後三度の夢告げが有る。其夢が、正神主と、一年神主となる者と同じであれば、(白髮の老人來たりて告げる事有り、又は淨衣烏帽子著たる人の告げも有る。)其が一年神主となるのであるが、愈愈さう決定すると、其家を煤拂ひし、鹽水で洗ひ、佛壇は寺へ預け、前後三箇年佛事を營まず、更に十二月大晦日の夜から、海邊に出て汐垢離を執り、爾來數日美保社へ參詣して、神主の無事に勤まる樣祈願する。さて三年目の春三月十日は、同社の祭禮とて、其日前年の神主より神役を受取る。此れ迄前二年より船著なれば、船中安全の為とて、諸國の回船より米初穂料の金錢を送る。其で三年間の生活費に充てる。此內、妻に不淨が有れば、住宅の裏に他屋(タヤ)とて離れ家を建てて其へ置き、清淨の時だけ一所に暮す。斯くて祭禮の日に成ると、大なる湯立の釜に、水八分程入れ焚立て、湯玉の滾(タギ)る時に、其年の新神主を、淨衣白無垢風折烏帽子を著たるままで、其湯釜に入れて煮るのである。介抱は前神主數人で皆皆其加減を見て、息絕えたりと思ふ時に、四五人にて釜より出し、神前の荒菰の上に寢かして置くと、暫らくして生返るので、今度は神社の拜殿迄舁出して、幣帛を持たせ皆者は平伏する。其時、近國から參詣の老若男女大勢群集し、心得たる者は神託を書留めんと、紙矢立を用意し、待構へる。一年神主は幣帛を三三九度に振り、其が濟むと其一年中の農作の善惡、病氣の流行等、一一神の告げとて託宣する。事終ると其のまま臥すが、其を再び荒菰の上に寢かせて置くと、やがて元の如く成り、衣服を著替へて歸宅する。但し何時でも願主あつて神託を願へば、右の通り湯立して、一年神主を釜へ入れ、祭禮の如くして託宣する。此初穂料は文化三年頃には金七兩二分であつた〔廿六〕。
 此湯立神事は、修驗者が好んで行つた所謂「護法附(ゴホウツキ)」なる物(此事は後に述べる。)の影響迄受容れてゐるが、其にしても神を信ずる心の深い者で無ければ、奈何にするも行ひ得ぬ放れ業である。而して湯立神事から派生した物で、更に一段と簡略化された物が、京都西七條村で行はれた蒸講(ムシコウ)である。此れは此村の氏神祭りの日に、神前の大釜に湯を立て、村の老女が世話役と成り、幼き男女を抱いて釜上に翳し、湯氣に當ててやるのであるが、斯うすると疱瘡が輕いと信じられてゐる〔廿七〕。巫女が湯を身に掛けて神託を為すのも、更に備前の吉備津神社の釜鳴りの神判等も、咸(ミナ)此信仰に由來する物で、然も其根本は、實に道教の思想に負うてゐるのである。

〔註第一〕斯かる事は、今更改めて言ふ迄も無い程、明確な問題であるが、曩に久米邦武氏は『日韓同域考』を發表し、近く吉田貞吉氏は『日韓同祖論』を發表されてゐる。唯誤解されたく無い事は、日韓同祖とは、我國の根幹を為した民族と、韓民族とが同祖であると云ふ事であつて、此れ以外に南方民族やアイヌ民族等の加はつてゐる事は勿論である。
〔註第二〕昭和三年十月に前後九回に亘り東洋文庫で開催された白鳥庫吉氏の「周圍民族の古傳說より見たる神代卷」と題する講演で、扶桑木の事及び日少宮の事を述べられた。
〔註第三〕『嬉遊笑覧』の附錄中に見えてゐる。
〔註第四〕『神武紀』の郊祀、靈畤の用語は、道教の思想に由來する物であるが、併し此れは、『日本紀』の執筆者が、漢樣に斯かる文字を用ゐた迄と見るべきである。
〔註第五〕泣き女は、支那にも、朝鮮にも古くから存し、前者は『中華全國風俗志』に、後者は『朝鮮風俗志』に、共に詳記して有る。我國にも、琉球・讃岐・加賀・八丈島等には近年迄有つたが、支那からの輸入と考へてゐる。
〔註第六〕『太子傳暦』には、此時の厭勝の事が、少しく詳しく載せて有るが、今は省略した。
〔註第七〕『政事要略』卷七十(史籍集覧本)「蠱毒厭魅及巫覡等事」條。
〔註第八〕奈良朝及び平安朝には、良く巫蠱の疑獄が起つて、貴神大官が此れに連座し、處罰されてゐるが、此れには政治的の意味も多分に含まれてゐて、此れを利用し、惡用した政治家も、尠く無かつた樣である。從つて、此時代に行はれた咒術の慘忍さに就いては、注意して見無ければ成らぬ點が有る。
〔註第九〕『山城谷村史』。私は先年『趣味の友』と云ふ雜誌に「呪ひの釘」と題して、我國の呪詛傳說に關して、管見を發表した事が有る。其切拔きは大正十二年の震災で燒いて了(シマ)ひ、雜誌の號數は古い事なので失念して了つた。
〔註第十〕巫女(シャーマン)は太鼓を叩くが、弓弦は叩(タタ)かぬ。朝鮮の巫堂(ムーダン)も、又た其である。然るに我國の巫女(ミコ)は、弓弦を叩(タタ)いて、太鼓は樂人の手に渡して了(シマ)つた。我國の巫道が、巫女(シャーマン)と共通してゐる所が有るにせよ、此處に兩者の區別の有る事も知らねば成らぬ。そして此弓の故事を有難さうに說くのが、巫女等の常套手段であるが、元より信用の出來ぬ事である。江戶期の關東の巫女の取締であつた田村家では、神功皇后說を傳へてゐるが、一噱に附すべき妄談である事は、機會が有つたら第三篇に述べたいと思つてゐる。
〔註十一〕『古風土記』を讀んだ折に、大國主命が、梓弓を折つて橋の代りとしたと云ふ記事が有つた樣に記憶してゐるので、其カードを探したが見當たらぬので、其のままとした。(浦木按、『伊勢國風土記逸文』及び『倭姬命世記』にで、大國玉神が天日別を遣つて梓弓を橋の代りとした記事が有り。大國玉神、大國主命別名也。)
〔註十二〕同書卷三三〇雜部五、卜筮條。猶『淵鑑類函』か『古今圖書集成』でも見たら、もつと適切な支那の材料が見出される事と思はぬでも無いが、茲には大體を盡せば足りると考へたので中止した。
〔註十三〕此れに就いては『禮記』『楚辭』等に載せて有る。
〔註十四〕雜誌『風俗志林』第二卷第三號に載せた白井光太郎氏の「梓材考」に詳記して有る。
〔註十五〕『松屋筆記』卷九六に見えてゐる。
〔註十六〕『增補語林倭訓栞』其條。
〔註十七〕『神道五部書』の多くが偽書である事は、吉見幸和以降學界の定說である。從つて信用出來ぬ事は勿論である。
〔註十八〕田邊尚雄氏の『日本音樂講話』に據ると、弓は琴の代用とは成らぬと有る。然れば、弓が琴の始めだ等と云ふ說は荒唐無稽であつて、絲の下に板(三味線なれば皮。)が無ければ鳴る物で無いと論じてゐる。
〔註十九〕『神道名目類聚抄』卷五。
〔註二十〕『增補語林倭訓栞』湯立條。
〔註廿一〕橘守部『神樂歌入文』に其事を言つてゐるが、此れは一度歌を讀みさへすれば、誰でも氣の附く事である。
〔註廿二〕『南嶺子』卷三(日本隨筆大成本)。
〔註廿三〕『南嶺遺稿』卷三(日本隨筆大成本)。因に著者は同じだが本は異つてゐる。混雜せぬ樣附記する。
〔註廿四〕久保季茲氏著『古語拾遺講義』に據る。
〔註廿五〕『滑稽雜談』卷廿二(國書刊行會本)。
〔註廿六〕黑川春村翁著『神名帳考證土代附考』(伴信友全集第一冊所收。)に據る。
〔註廿七〕『諸國年中行事大成』卷二。因に『年中行事大全』と混同し易いので注意を乞ふ。
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