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第三節 社會相に現はれたる巫女の勢力

 奈良朝の情熱歌人であつた山上憶良が、天平五年三月に記した「沈痾自哀文」の一節に、

 我犯何罪,遭此重疾。初沈痾已來,年月稍多。(中略。)欲知禍之所伏,祟之所隱,龜卜之門,巫祝之室,無不徃問。云云。


 と載せて有る〔一〕。憶良は渡唐留學迄した當時の新知識であつて、今で云へば、隨分ハイカラであるべき人物であるにも拘らず、猶ほ病氣と成れば、巫祝の室に赴かざるを得無かつたのは、巫祝の勢力が社會的に重きを為してゐた事を物語る物である。更に奈良朝の大政治家であつた吉備真備が、子孫の為に『私教類聚』三十八則を殘し、其三十一に於い、「莫用詐巫」と題して、「凡偽巫覡,莫入私家。巫覡每來,詐行不絕。」と記して(此全文は後に揭げる。)警戒した如き、又以て巫覡が社會的に相當の地步を占めてゐた事が推測されるのである。而して私は、是等の巫覡の中、特に巫女の勢力が中古の社會相に如何に現はれてゐたかに就いて、管見を記すとする。



一 政治方面に於ける巫女の勢力

 祭政一致を國是としただけに、世が降つても、其規範は史上に多く貽されてゐる。『欽明紀』十六年春二月條に、百濟王子惠が來朝して援兵を乞ひし時、蘇我稻目之(コレ)に對して言ふに、

 昔在天皇大泊瀨(雄略帝)之世,汝國為高麗所逼,危甚累卵。於是天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰:『屈請建邦之神,往救將亡之主,必當國家謐靖,人物乂安。』由是請神往救,所以社稷安寧。(中略。)頃聞,汝國輟而不祀。方今悛悔前過,修理神宮,奉祭神靈,國可昌盛。汝當莫忘。云云。


 と有るのは、良く此問の消息を盡してゐて、然も神語を託する巫祝の勢力が、政治的にも、軍事的にも、顯然として信じられてゐた事が知られるのである。
 而して斯くの如き狀態は時に消長有るも、依然として政治に現はれ、前に舉げた孝謙朝に東大寺の建立と成つたのも、稱德朝に僧道鏡に非望を懷かせ、更に之(コレ)が成否を神意に問うたのも、共に巫覡の力が政治に及ぼした影響と見る事が出來るのである。殊に奈良朝に成つてからは、此餘勢を承けてか、巫覡の跳梁は其極度に達し、政府も神託の濫出に苦しみ、之を禁斷する法令は(其事は後に述べる。)殆んど雨の如く下されたが、猶ほ其猖獗を奈何ともする事が出來無かつた。嵯峨朝の初めに、太政官符を以て、國司に神託の真偽を檢察せしめて、一面巫覡の跋扈を防ぎ、一面妖言と神託との詮議をしたのは、當時、前時代の遺弊を受けつつあるも、其剿絕の期難きを覺つた政府の彌縫策である事が知られると同時に、併せて奈良朝に於ける巫覡の勢力を窺ふ事が出來るので、左に此れが官符を抄載する。

類聚三代格(卷一)太政官符(國史大系本)。

應撿察神託事

 右被大納言正三位藤原朝臣園人宜偁:奉敕,怪異之事,聖人不語。妖言之罪,法制不輕。而諸國民信狂言,申上寔繁。或言及國家,或忘陳福禍。敗法亂紀,莫甚於斯。宜仰諸國,令加撿察。自今以後,若有百姓輙稱託宣者,不論男女,隨事科決。但有神宣灼然,其驗尤著者,國司撿察定實言上。
弘仁三年九月二十六日


 此れが更に平安朝と成ると、社會を舉げて、鬼神を恐れ、物怪を信じた神經衰弱時代だけに、巫覡の妖言に惑溺する事一段と猛烈なる物が有つた。藤原兼家が攝關の高位に居ながら、賀茂の若宮の良く憑る「打臥しの巫女」と云ふを招ぎ、手づから裝束を奉り、冠を著せ、然も自分の膝に枕させて、物を占はせたと有るのは、『大鏡』の筆者が、「斯樣(サヤウ)に近く召し寄さるに、言ふ甲斐(カヒ)も無き程の物にもあらで、少し侍女(オモト)程のきはにてありけり。」と冷笑的に記してゐる所から推すと、曰くの有りさうな信仰である事が知られるが、併し此時代で無ければ、決して見る事の出來ぬ事象である。更に『宇津保物語』藤原の君の卷に、致仕の大臣三春高基が、德町と云ふ巫女を後妻に迎へた事が載せて有るが、架空の物語物に為よ、當時、斯かる世相の有る事を著者が知つてゐて記した物と考ふべきである。
 殊に注意し無ければ成らぬ點は、當代に於いて藤原氏が、幼帝を擁し奉つて政權を爭うた為、其手段として往往巫蠱の疑獄を惹起し、之を以て政敵を陷れた事である。勿論、此手段たるや、決して平安朝に突如として惡辣なる政治家の間に發明された物で無く、遠く國初時代から慣用せられて來たのであるが、奈良朝に於いて猖んに惡用され、平安朝は之を踏襲したに過ぎぬのであるが、深く迷信に拉はれてゐた時代だけに、其陰險さは一段の熾烈を加へたのである。
 『政事要略』卷七〇に載せた藤原為文、同方理、佐伯公行妻(高階光子)、方理妻(源氏)及び僧圓能等が相謀り、上東門院、及び其父藤原道長を呪詛したと云ふ巫蠱罪の判決文は、當時の人心が如何に巫蠱の徒を恐れてゐたか、併せて其結果が如何に政治に現はれたかを知るに便宜が有るも、餘りに長文なので此處に摘錄する事すら出來ぬのは遺憾である〔二〕。
 併しながら、斯うした事件も平安朝に在つては決して珍しい事では無かつた。承和皇太子の廢されたのも、源高明が失腳したのも、巫蠱を利用した政治家の犠牲に成られたのである。此事は一般の歷史にも記されてゐる事であるから、餘り深く言ふ事は差控へるが、又以て巫蠱の勢力の侮る事の出來無かつた事が知られるのである。『古今著聞集』の卷一に、「長暦二年大中臣佐國祭主となり、罪を獲て、翌三年六月に伊豆國へ流された。然るに、同七年十月と十六日の兩回に、齋宮內侍に御託宣が有り、同十九日に敕命に依つて、佐國が召還された。」のは、託宣が政治を動かした例として最も適切なる物である。而して斯かる事は後世にも往往行はれたと見えて『康富記』文安五年九月二十九日條に、西宮左大臣高明に從一位を贈つたが、此れは備前國の某村人に神託が有つたのを、山科中將顯言が耳にし奏聞した為めだと有る。


二 軍事方面に於ける巫女の勢力

 神策を受ける事が、戰勝の唯一の原因とした時代に在つては、巫女が前代に引續き、軍事方面に勢力を有する事は當然である。『推古紀』十年春二月條に、

 來目皇子為擊新羅將軍,授諸神部及國造、伴造等,并軍眾二萬五千人。


 と有る「神部」の解釋に就いては、學者の間に多少の異說も存してゐる樣であるが、此れは飯田武鄉翁が說かれた如く、

 神部とは、(中略。)中臣・齋部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績等の氏人、又其氏人に隷屬せる人共をも、廣く云ふ名なるが、今新羅を撃給はむとして、然る職掌有る人を授給へるは、如何にと云に、此れは兵士の方にはあらで、旨(ムネ)と神祭の為也けり。然るは上古は、天皇を始奉り、大將軍を遣して叛者を伐しめ給へるも、先づ神祭を嚴にして、神に乞願ひ、吾軍の恙無くして、敵の亡びん事を祈願し給へるは、神武以來御代御代の史に數多く見えたるが如く、此れ上古の道なれば、行先處處にて忌瓮坐ゑ、神祭を為し給はん為に、諸神部をも率て行給ふ也。(日本書紀通釋其條。)


 と有るのが、良く古代の事情を盡してゐる物と考へる。記事が少し前後するが『雄略紀』九年三月條に、

 天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰:「無往也。」天皇由是不果行。


 と有る此神も、恐らく巫祝に憑つて託宣された者であらうと推察される〔三〕。更に『扶桑略記』卷六に、

 養老四年九月,有征夷事。大隅、日向兩國亂逆。公家祈禱於宇佐宮。其禰宜辛島勝代豆米,相率神軍,行征彼國,打平其敵。大神託宣曰:「合戰之間,多致殺生。宜修放生。」者。諸國放生會,始自此時矣。(國史大系本。)


 と有るのは、元より正史には見えぬ事であつて、且つ放生會の緣起を說かうとする佛徒の術策の樣に思はれるが、併し此事は『濫觴抄』(群書類從本。)にも載せて有るので、多少とも此れに似寄つた事が有つたのでは無いかと考へ直したので採錄するとした。而して禰宜の辛島勝代豆米は即ち刀自であるから、女性であつた事は推測に難く無い。更に『將門記』には、巫倡が有つて將門を占ひ、此れが意を迎へた事が記して有る。巫倡の文字から推して、尋常の巫女で無い樣にも思はれるが、兔に角に神策を問ふに必要なる巫女が、陣中にゐた事だけは明白である。
 斯うした信仰は、傳統的に戰士の間に殘り、合戰に際して血祭りをするとか〔四〕、又は兜に神體を籠めるとか〔五〕、鎧の袖に佛像を縫ふぃとか〔六〕、樣樣なる工夫を凝らし、以て冥助を受けん事を祈つた物である。迥に後世の記事ではあるが、尾張國西春日井郡萩野村大字辻に、淺野秀長の腕塚と云ふが在る。俚傳に秀長山崎合戰の折に譽田別尊の神像を奉持して臨み、敵軍に包圍されて右腕を斬落されたが、死地を脫して一命を保ち、安井村に隱栖して此地に腕塚を築いたのだと云うてゐる〔七〕。而して陣中に女性が禁止される樣に成れば、巫女に代つて男覡が之を勤めるのは當然の事であつて、壹岐の神職の棟梁である吉野末秋は、豐公征韓の際に前後七年間杉浦氏に屬して從軍し、武運長久勝利の祈念を專とした。凱旋の後に食祿百石を賞賜せんとしたのを辭し、子孫永く壹岐國惣大宮司兼社家支配役たらん事を許されたと有るのは〔八〕、蓋し其一例である。猶ほ男覡を軍事探偵に用ゐた例は澤山有るが、此れは巫女史に直接關係が無いので省略した。


三 信仰方面に於ける巫女の勢力

 巫女の存在價值は、信仰方面に在るのであるから、此れは改めて記す程の事も無い樣に思はれるが、其信仰も時代に依つて多少とも變遷する物故、茲には其點を略述したいと思ふ。而して巫女が尤も其威力を發揮したと信ずべき物は、『日本後紀』卷十二に載せた左記の事件である。

 延暦二十三年二月丙午朔。(中略。)
 庚戌,運收大和國石上社器仗於山城國葛野郡。(中略。)
 二十四年春正月辛未朔,廢朝、聖體(桓武帝)不豫也。(中略。)
 庚戌,(中略。)典闈建部千繼,被充春日祭使。聞平城松井坊有新神,託女巫,便過請問。女巫云:「今取所問,不是凡人之事。宜聞其主。不然者,不告所問。」仍述聖體不豫之狀。即託語云:「歷代御宇天皇,以慇懃之志,所送納之神寶也。今踐穢吾庭,運收不當。所以唱天下諸神,勒諱贈天帝耳。」登時入京密奏。即詔神祇官并所司等,立二幄於神宮。御飯盛銀笥,副御衣一襲,並納御轝。差典闈千繼充使。召彼女巫,令鎮御魂。女巫通宵忿怒,託語如前。遲明,乃和解。(中略。)返納石上神社兵仗。云云。(國史大系本。)


 石上神宮は物部氏の氏神であるだけに、(物部が靈界に通ずる者の部曲(カキベ)である事は既述した。)此社の兵器を故無く他に遷したと云ふので神怒を買ひ、巫女に憑(カカ)つて桓武帝の聖壽を咀はんとしたのであつて、此れには在朝の百官も慴伏した事と思はれる。然も、其巫女たるや、京に召されても、通宵忿怒を續けるに至つては、更に恐れざるを得無かつたのである。桓武帝は此不豫より大漸に陷り、遂に翌大同元年三月を以て崩御あらせられたが、當時、民間に在つては、此巫女の凡庸で無かつた事を取沙汰した物と推測される。
 然るに此れとは事情を異にするが、巫女の徵驗ある事を記した物が有る。『政事要略』卷七〇に、『善家異記』を引用して、

 先君,貞觀二年,出為淡路守。至于四年,忽疾病危篤。時有一老媼,自阿波國來云:「能見鬼知人死生。」時先妣,引媼侍病。媼云:「有裸鬼持椎,向府君臥處,於是丈夫一人怒。追卻此鬼,如此一日一朝五六度,此丈夫即似府君代(氏カ)神。」於是先考如言,祈禱氏神。媼亦云:「丈夫追裸鬼,令過阿波鳴渡。」既畢,此日先考平復安和。其後六年春正月,又疾病。即亦招媼侍病。媼云:「前年所見丈夫,又於府君枕上悲泣云:『此人運命已盡,無復生理。悲哉。』(中略。)」其後數日,先考遂卒。(中略。)此事雖迂誕,自所見,聊以記之,恐後代以余為鬼之薫狐焉。(史籍集覧本。)


 と有るのが、其である。而して『政事要略』の編者である惟宗允亮も、此れには頗る感心したと見え、「詐巫之輩,雖其制;神驗之者,為云其徵。載此記耳。」と記してゐる。
 斯うした事件は、鬼を信じ巫を好んだ平安朝には、到底此處に舉げ盡せぬ程多く存してゐるが、就中、左の事件の如きは、神託の靈驗を知る上に必要であると考へたので、最後の類例として抄出した。『大神宮諸雜事記』卷一に、

 長元四年六月十七日,大神宮御祭也。仍齋內親王依例參宮。(中略。)而爰齋王御託宣云:「我皇大神宮之第一別宮荒祭宮也。而依大神宮敕宣て(天)。此齋內親王に(仁)所託宣也。故何者,寮頭相通,並妻藤原古木古曾及數從者共に(仁),年來狂言之詞巧て(:『天),我夫婦には(仁和),二所大神宮翔付御なり(奈利),男女之子供に(仁)荒祭宮の(乃)付通給也。』女房共には(仁和),今五所別宮の(乃)付給也と(止)號して(志天),巫覡之事を(遠)護陳て(天),二宮化異之由を(遠)稱す(須),此尤奉為神明にも(仁毛),奉為皇帝にも(仁毛),極不忠之企也。云云。」同年八月二十日,寮頭相通者伊豆國,妻古木古曾子者隱岐國に(仁)配流。云云。


 鎌倉期に成ると、流石に、武斷政治を以て天下に號令しただけに、巫女を信賴する事、前代の如き物は無かつたが、其でも決して絕無と云ふ次第では無く、源賴朝程の人物でも、又此れを全く閑卻する事は出來無かつたのである。前揭『吾妻鏡』卷二治承五年七月八日條に、「相模國大庭御厨庤一古(イチコ)娘參上。」と見え、同書卷六文治二年五月一日條には、

 自去比黃蝶飛行,殊遍滿鶴岡宮,是怪異也。(中略。)有臨時神樂,此間大菩薩(八幡神)託巫女給曰:「有叛逆者。(中略。)日日夜夜,奉窺二品(源賴朝)之運,能崇神與君,申行善政者,兩三年中,彼輩如水沫可消滅。」云云。


 と載せて有る。此れに反して、民間には、前代の餘弊を承けて、巫女を崇拜して、鬼道を聽く事を悅んだ例が、夥しき迄存してゐるが、既に大體を盡したと信ずるので他は省略に從うた。 巫女の託宣に依つて、國家が神社を剏祭した事は、前に宇佐八幡宮及び北野天滿宮の其を舉げたが、斯かる類例は猶ほ此外にも存してゐるのである。本節の結末を急ぐ為に、茲には一二だけ揭げるに留めるが、『伊呂波字類抄』筑前筥崎八幡宮條に、

 延喜二十一年六月二十一日,於觀世音寺西大門,若宮一御子七歲女子橘滋子に(仁)就御して(志天)託宣。(中略。)延長元年癸未歲,從大分宮遷御佛教已了,奉號筥崎宮矣。


 と有り。更に『日本紀略』後篇卷十二の長和四年六月二十日條に、「依疫神託宣,立神殿,奉崇重也。」と有るのが其である。靈驗衰へたりと云へども、中古の信仰方面に於ける巫女の勢力は、猶ほ後世からは信ずる事の出來ぬ程の強大さであつた。

〔註第一〕『萬葉集』卷五。
〔註第二〕平安朝の巫蠱の疑獄は、政治的であつただけに頗る複雜してゐる。一一茲に其等の事件を舉げて批判する事は出來ぬが、篤學の方方は一般の歷史に依つて夙に知つて居らるる事と思ふので多く言ふ事を避けた。
〔註第三〕軍事と巫女との關係に就いては、第一篇に略述したので、本編には再び其には觸れぬ考えでゐたのであるが、其では折角集めた資料も無駄に成るし、且つ第一篇に盡さぬ嫌ひが有つたので、又又記載する事とした。斯かる次第故、記事の時代が前後して頗る不體裁の物と成つて了つた。稿を改めれば良いのであるが、其も思ふに任せず、其のままとした事を深くお詫びする。
〔註第四〕軍神の血祭りと云ふ事は、良く物の本では見るが、さて我國に於いて具體的に其の祭儀を記した物は寡見に入らぬ。敢て高示を俟つ。
〔註第五〕兜に佛像を收めて戰勝を祈つた例は『聖德太子傳暦』にも見えてゐる。兜の頂邊を「八幡座」と云ふのも、此處に神靈の宿る為に言出した物と思はれる。
〔註第六〕鎧の袖裏、又は胴に、不動尊其他の佛像を畫き、又は刺繍した物は、『集古十種』の武具部等にも載せて有る。旗指物に神神の名を記した物は、餘りに知られてゐるので、改めて言はぬ事とした。
〔註第七〕『西春日井郡誌』。
〔註第八〕『壹岐鄉土史』。



第四節 巫女を通じて行はれた神の淨化

 『元享釋書』の僧行基傳に有る一節は、元より荒唐無稽の說である事は、敢て平田篤胤翁の考證を俟つ迄も無く〔一〕、多少の注意を拂つて讀書する者ならば、誰でも氣の付く事ではあるが、唯問題と成る點は、斯うした思想が、古くから、我が神神の間に存してゐたと云ふ事である。換言すれば、僧行基が、伊勢の皇大神宮に參詣した折に、畏くも佛舍利を給はり、渡りに舟を得た樣だとか、闇夜に燈を得た樣だとか仰せられたと有るのは、虛偽には相違無いが、此虛偽を事實であらうと信用する程の交涉が、古い神と、佛との間に在つた事だけは、注意せねば成らぬ。
 奈良朝に芽を發した本地垂跡──即ち神佛一如の思想は、必ずしも佛徒の方面ばかりで提唱した物では無く、其根底には、神神の方から步寄つた形跡の有る事は、既述した。更に、道德を超越してゐた我國の神神が、道德的に淨化された過程に、佛教の力の加つてゐた事も記載した。然るに、此傾向は、平安期から鎌倉期に掛けて、巫女を通じて行ふ事が、特に目立つて來た。此れは巫女の方から云へば墮落であるが、神神の方から見れば進化であつて、他の時代には多く見る事の出來ぬ、巫女の新しい任務の一つであつた〔二〕。而して、此事を記したものは、相當に多く存してゐるけれども、左に二三を抄錄する。『私聚百因緣集』卷九「山王に詣てる僧担死人許す事」條に、

 中比ノ事ナルニ、無事ナル法師世ニ歎有、自京日吉社ヘ有詣百日僧、(中略。)下向過大津ト云ふ所ヲ、或ル家ノ前ニ女ノ目モ不知サクリモアヘス溶溶有泣立。此ノ僧見此ノ氣色、(中略。)「何ヲカ?」問ヘハ、悲シムト、女ノ云フ樣ハ、「(中略。)母ニテ侍ヘル人ノ、日來惱ミ侍ヘリツルガ、朝終ニ無墓成リ侍ヘル也。」(中略。)僧聞之、(中略。)我レトモ斯クモ引隱サント、(中略。)日暮レヌレバ、夜ニ隱レ遷シテ送リテ便吉キ所。(中略。)ツラツラ思フ樣、サテモ詣八十餘日事成徒止ナン事口惜シキ事是(ナ)レド、為名利不為只詣テ、知ル神ノ御誓樣ヲ、(中略。)又日吉ヘ打向フテ詣ル通道サスガ胸打騒キ、空恐シク畏ルル事無限、詣リ付テ見レバ、二ノ宮ノ前ニ人ノ所モナク集レリ。只今十禪師ノ付テ巫樣樣ノ事ノ給(タマ)フ節也ケリ。此僧思知リテ身ノ誤、(中略。)為歸ント程ニ、巫遙ニ見付テ彼者僧近ク寄、有リト可云フ事ノ給(タマ)フ。(中略。)汝勿恐事イミシク為物哉ト、見レハ我身本非神、哀ミノ餘垂タリ跡ヲ、信ヲ發サセン為メナレハ、忌物事又假ノ方便也。(中略。)僧ノ心斜ナランヤ、哀レニ忝ナク覺ヘテ流淚ツツ出ニケリ。云云。(大日本佛教全書本。)


 此記事等も、平田翁流に解釋すれば、佛徒が佛法弘通の方便として言ひ觸らした物であつて、所謂古川柳の「神道の廂(ヒサシ)を借(カ)りて大伽藍。」の一例と成るのであるが、斯うして神から佛へ步寄つた信仰は、此時代の特徵として數へる事が出來るのである。僧無住の書いた『沙石集』卷一に載せて有る十項の記事は、殆ど此神と佛との步寄りを傳へた物であつて、畏くも皇大神宮を始めとして、大和の三輪明神、尾州の熱田神宮、奈良の春日明神、安藝の巖島明神等が、其對象の重なる物として舉げられてゐる。而して其方法は、概して巫女が仲介者と成つてゐるのであるが、左に其一例を示すとする。同書卷一「神明慈悲貴給事」に大和三輪の常觀坊と云ふが、吉野へ詣でる途中不幸なる女子の死骸を葬り、身に不淨を負ひたれば、金峯神社へも參詣せず、

 さて恐も有れば、御殿より遙(ハル)かなる木下にて、念誦し法施奉(タテマツ)るに、折節巫神(カンナギ)つきて舞をどりけるが走出て、「あの御房は如何(イカ)に?」とて來りけり。「あら淺猿、此れ迄も參まじかりけるに、御咎(トガ)めにや。」と、胸內騒ぎて恐思ひける程に、近づきよりて、「何に御房此程待入たれば遲くはおはするぞ、我は物をば忌まぬぞ、慈悲こそたうとけれ。」とて、袖を引きて拜殿へ具しておはしける。(中略。)其のかみ慧心僧都の參詣せられたりけるにも、御託宣有て、法門なんど仰せられければ、目出度く有難(アリガタ)く覺えて、天台の法門不審申されけるに、明かに答給ふ。(中略。)此巫柱に立添ひて、足を寄りてほけほけと物思すがたにて、「餘(アマ)りに和光同塵が久しく成て忘れたるぞ。」と仰せられけるこそ中中哀に覺し。云云。(國文學名著集本。)


 斯うした思想は『日本靈異記』以來の傳統的の物であつて、其を集成したものが『今昔物語』であるが、其詮索は姑らく措くとするも、兔に角に神神の淨化が佛法に依つて行はれ、然も其仲介者が常に巫女であtた事は注意すべき點だと考へてゐる。

〔註第一〕『出定笑語』や『俗神道大意』等に、平田一流の說が載せて有る。
〔註第二〕巫女の任務に就いては、其作法が秘密とされてゐただけに、文獻にも現はれず、傳說にも殘らぬ多くの物が在つた樣である。併し、此事は今からでは、既に知る事の出來ぬ物と成つて了つた。
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