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日本巫女史 第一篇:固有咒法時代



第七章、精神文化に於ける巫女の職務

 巫女の職務を說くに當り、私は其を精神文化と物質文化の二つに區分して記述する事とした。勿論、此區分は、自分ながらも、決して學術的であると考へてゐる物では無い。全體、私が改めて言ふ迄も無く、巫女の職務と云へば、其悉くが信仰に基調を置いてゐるのであるから、精神文化を離れた物質文化等の在り樣筈は無いのであるが、併し同じ信仰に根差してゐる物の中でも、其間には直接的の物が有り、間接的の物が有る樣に、多少の相違の有る事は、又否定する事の出來ぬ事實である。神其の者としての巫女と、御陣女臈としての巫女とは、如何にするも、其間に職務の相違有るを認め無ければ成らず、更に、豫言者として巫女の職務と、收稅者としての巫女の職務とは、其對象に於いても、態度に於いても、徑庭の有る事を沒する譯には往かぬのである。其に、斯うして二つに區分する事が、讀んで貰うにも會得し易く、且つ記すにも便宜が有ると信じたので、非學術的であるとは知りながらも、試みて見たのである。而して茲に、精神文化とは、巫女の職務の中で、信仰と文學と藝術とに、特に交涉の深い物を抽出したのである。

第一節 神其の者としての巫女

 巫女の發生を「於成(をなり)神」信仰に在ると考へた私は、更に神其の者としての巫女の位置を說かねば成らぬのであるが、我が古代の文獻に現はれた所では、既記の如く、巫女の社會的位置は一段と引き下げられて、漸く神の代理者、又は神と人との間に介在する憑座(ヨリマシ)としてのみ傳へられ、神託を宣べる時だけ神として崇拜されたのみで、更に民俗に見るも、傳說に徵するも、巫女を神其の者として信仰した事象を捉へる事が困難なのである。勿論、天照神である大日靈貴(オオヒルムチ)を巫女として考覈する事が無條件に允さるるならば〔一〕、或る程度迄は、此事が明確に知り得らるるのであるが、併しながら、現在の學界趨勢と、社會感情とは、此至高神の民俗學的研究は或る程度迄差控へねば成らぬ狀態に置かれてあるので、此れは到底企てられぬ事である。其處で洵に窮余の一策ではあるが、他に相當の事例を見出して、間接的にも此れが記述を運ばねば成らぬのであるが、其には先づ內地の古俗を克明に保存した琉球の巫女信仰を知る必要が有ると信ずるので、左に折口信夫氏の所見を舉げ、然る後に內地の巫女に關する私見を述べるとする。、

 生き神とか、顯(アキ)つ神とか云ふ語は、琉球の巫女の上で、始めて云ふ事が出來る樣に見える。神と人との堺が明らかで無い。(中略。)神を拜むか、人を拜むか、判然し無い場合すら有る。祝女(ノロ)(中山曰、巫女。)殿內(ドンチ)に祀るのは、表面は火神(ヒヌカン)であるが、是は單に宅(ヤカ)つ神としてに過ぎ無い。(中略。)祝女(ノロ)自身は、『由來記』等に記した程、(中山曰、『琉球國諸事由來記』の事。)火神を大切にはしてい無い。祝女(ノロ)の祀る神は別に有るのである。
 正月には、村中の者が祝女(ノロ)殿內を拜みに行く。最古風な久高島を例に取ると、其は確かに久高、外間(ホカマ)(中山曰、地名。)兩祝女(ノロ)の火神を拜むのでは無い。拜まれる神は、祝女(ノロ)自身であつて、天井に張つた涼傘(リャンサン)と云ふ天蓋の下に坐つて、村人の拜を受ける。涼傘は神天降(アフリ)の折に、御嶽に神と共に降ると考へてゐたのであるから、取りも直さず、祝女(ノロ)自身が神であつて、神の代理或は、神の象徵等とは考へられ無い。併し、神に扮してゐるのは事實であつて、其が火神では無く、太陽神(チダガナシ)若しくはにれえ神(中山曰、常世から來る神。)と考へられてゐる樣である。外間の祝女(ノロ)殿內には、火神さへ見當ら無かつた位である。外間の祝女(ノロ)或は、津堅島の大祝女(ウフヌル)の如きは、其拜を受ける座で床を取り、蚊帳を釣つて寢てゐる。津堅の方は、其處で夫と共寢をする位である。祝女(ノロ)自身が同時に神であると云ふ考が無ければ、斯うした事は無い筈である。云云。(以上、『山原の土俗』(爐邊叢書本)に載せた「續琉球神道記」に遽る。)

 此折口氏の記事を基調として、更に前に引用した『魏志』倭人傳の卑彌呼條を考へ直して見たいと思ふ。

 卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者,以婢千人自侍。唯有男子一人,給飲食、傳辭,出入.居處、宮室、樓觀。城柵嚴設,常有人持兵守衛。云云。

 『魏志』の倭人に關する記事は、恐らく帶方に居た支那人が、自分の見聞と、他人の見聞とを搗混ぜて、書いた物と思ふが、此鬼神に事へ、眾を惑すの一句は、支那人の知識から書いた物で、其實際は、卑彌呼は直ちに神であると信仰されてゐた物と考へられる。當時の支那人の知識から云へば、人が神である事は信ぜられ無かつたであらうし、且つ同じ樣に神と云つても、我國と支那とは、神に對する觀念が異つてゐるので、支那流の巫覡思想で、斯くは鬼道に事へる者と記したに相違無い。卑彌呼が、巫女──然も最高位の巫女である事は、私とても異存は無いが、併し其實狀にあつては、神其の者として民眾に臨んでゐたに違ひ無い。其は王と成つてから、見る者も少く、且つ千人の侍婢有るにも關わらず、唯男子一人有つて、飲食を給し、辭を傳ふとあるのからも、知る事が出來る。
 而して此男弟が在つて、治國を佐けたと有る一事は、當時の倭の國家成立と、社會組織とを考へる上に、極めて重要なる史料とすべき物が有る。即ち其頃の倭國に在つては、神──特に女性に限られた者が主權者として君臨していた事を傳へてゐるのであるが、此れは國家成立が神意に依つて行はれ、社會組織が神掟に依つて定められてゐた事を證據立ててゐる物である。換言すれば、神意を行ふ事が政治であり、神事を行ふのが祭祀であつた祭政一致時代の倭國に於いては、卑彌呼の意は、直ちに神意であり、神事は即ち卑彌呼の事であつた。唯此れを執行する事を男弟が佐けたに過ぎぬのである〔二〕。而して此れが一時代降ると、神其の者であつた女性主權者は、今度は己れが祀る神から託宣を受けて神意を述べる樣に成り、此女性の兄、亦は弟が此れを承けて政治を行ふ事と成るのであるが、茲迄時代が降ると、我が古代にも、其痕跡の在つた事が、やや明白に知られる樣な氣がするのである。
 我國祭政は、崇神朝に於いて分離されたのであるが、其でも齋宮の初めと成られた豐鍬入姬命は垂仁帝の皇姊であり、次の倭姬命は景行帝の皇妹であり、代代の齋宮が概して天皇の姊妹であらせられた事は、其古代の政治組織を殘した物であつて、然も倭國の卑彌呼の其と共通した物が有つたのでは無からうか。

 卑彌呼。事鬼道,能惑眾。年已長大,無夫婿,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者,以婢千人自侍。唯有男子一人,給飲食、傳辭,出入.居處、宮室、樓觀。城柵嚴設,常有人持兵守衛。云云。

 更に、徵証としては、少しく不充分の嫌ひは有るが、『常陸國風土記』行方郡當麻鄉藝都里條に、

 古有國栖,名曰寸津毗古(キツビコ)、寸津毗賣二人。其寸津毗古,當天皇(日本武尊)之幸,違命背化,甚无肅敬。爰抽御劍,登時斬滅。於是,寸津毗賣,懼悚心愁,表舉白幡,迎道奉拜。天皇矜降恩旨,放免其房。云云〔三〕。

 と有るのや、『播磨國風土記』印南郡含藝里條に、

 志我高穴穂宮御宇天皇(成務帝)御世,遣丸部臣等始祖比古汝弟,合定國堺。爾時,吉備比古、吉備比賣二人參迎。於是比古汝弟娶吉備比賣,生兒印南別孃。云云。

 と有るのや、更に『肥前國風土記』彼杵郡條に、

 昔者,纏向日代宮御宇天皇(景行帝),誅滅球磨噌唹,凱旋之時,天皇在豐前國宇佐海濱行宮,勒陪從神代直,遣此郡速來村,捕土蜘蛛。於茲,有人名曰速來津姬。此婦女申云:「妾弟名曰健津三間,住健村之里。此人有美玉,名曰石上神之木蓮子玉(ヒタビダマ)。愛而固藏,不肯示他。」神代直,尋覔之,超山逃,走落石岑,即逐及捕獲。云云。

 と有るのや、未だ此外に、『垂仁記』に有る沙本毘古王と其妹沙本毘賣や、『賀茂緣起』に有る玉依日子と、其妹玉依日賣等を重なる物として、兄妹又は姊弟の一對を物語中心とした物が多く傳へられてゐるのは、或は卑彌呼と男弟との關係の如き事實の在つた事を意味してゐるのでは無いかと想はれる。我が古代に於ける家族相婚は、兄妹又姊弟間に行はれるのが普通であつた〔四〕。古く妻を吾妹(ワギモ)と稱したのは、此遺風であると考へられるのである。

〔註第一〕折口信夫氏は雜誌『民族』第四巻第二號「常世及び客人(マレビト)」の記事中で、明確に天照神は最初の最高巫女也と言はれてゐる。
〔註第二〕卑彌呼が支配した倭國の所在地に就いては、今に學界に定說が無い程の難問題であるが、明治に成つて九州說を主張する者は、白鳥庫吉氏・內藤虎次郎氏・橋本增吉氏を始め澤山有り。畿內說を主張する者は、三宅米吉氏・山田孝雄氏等の外に澤山有る。私は民俗學的に見て、畿內說に加担する一人で、私見は曩に『考古學雜誌』に掲載した。
〔註第三〕寸津毗古・寸津毗賣と有るのから推して、此れを兄妹と見ずして夫妻と見るのは、古代民俗に必ずしも適當した物では無い。現に、『常陸國風土記』那賀郡茨城里條に、「古老曰,有兄妹二人,兄名努賀毗古,妹名努賀毗咩。」と有る樣に、此れは同胞と解するのが妥當である。そして弟(オト)が妹であり、女性である用法も古代には往往有る。
〔註第四〕家族相婚は問題が風紀に關する物が多いので、餘り深く立入つて言ふ事は避け無ければ成らぬが、其でも其大體は拙著『日本婚姻史』に於いて觸れて置いた。參照を望む次第である。



第二節 司祭者としての巫女

 神其の者であつた巫女は、同時に神に齋く祭官であつた。然るに時代の暢達は、神神を發達させた反對に、漸く巫女の社會的地位を引き下げる樣に成り、巫女も後には神託を宣べる時だけが神であつて、他は專ら司祭者としてのみ待遇される樣に成つてしまつた。而して此事象の由つて來たる所は、祖靈信仰に出發した原始神道に於ける神神の機能が、道徳的に解せられる樣に成つて一段の飛躍を為し、此れに反して、神に仕へる者は女性に限られてゐたのが、男子が其に代る樣に成つた為である。換言すれば、此事象は、神の方から云へば、血で繋がれた氏神が、地域を標準とする產土神と成つた事を意味し、巫女の側から云えば、家族的であつたのが、職業的と成つた事を意味してゐるのである。而して巫女が祭祀を司る樣に成つた過程と、職務の內容とに就いては、相當に複雜した信仰と推移が潛んでゐるので、茲には簡明を主とし、項を分けて記述する事とした。

一、墓前祭と巫女の職務

 神に對して行うた祭祀の起源が墓前であつたか、社前祭であつたかに就いては、昔から相當に異說が存してゐる。其と同時に、世の所謂官僚神道家なる者は、兔角に社前祭說を主張して、墓前祭說を排斥する傾きが有る。勿論此れは神道の發生的方面を故意に閑卻して、無理勿體を付けたがる手段なのである〔一〕。併し、我國祭祀は、文獻的に見るも、民俗的に見るも、墓前祭に始まつてゐる事は明確なる事實である。『日本書紀』の一書に、

 伊奘冉尊生火神時,被灼而神退去矣。故(カ)葬於紀伊國熊野之有馬村焉。土俗(クニビト)祭此神之魂者,花時亦以花祭。又用鼓、吹(フエ)、幡旗(ハタ)、歌舞而祭矣。云云。

 と有るのが、祭祀の所見記錄であつて、然も墓前祭である事は、少しも疑ふべき餘地は無いのである。
 更に此れを、民俗學的に見るも、墓前祭が社前祭より古い事が知られるのである。由來、太古民族は、人は死ぬと其靈魂は黄泉國へ往く物と信じてゐたが、(靈魂が地下の黄泉へ往かずして、天上の高天原へ往くと考へる樣に成つたのは、やや進步した信仰である。)茲に考慮して見無ければ成らぬ問題は、其靈魂は何者の導きも待たずに、自然と其處へ往つた物であるか、其とも何者か其處へ往ける樣に導きをしたのであるかと云ふ事である。其と同時に靈魂が果して黄泉國へ往つたか否かと云ふ事を、何者が此れを証明したかと云ふ點である。而して此問題たるや、原始神道に於ける靈魂觀として、相當に關心し無ければ成らぬ事であるにも關はらず、從來の國學者とか、神道家とか云ふ者で、遂に此れに觸れた事の有るのを耳に為ぬのである。私の寡聞にして菲才なる、敢て此問題を說明し得るとは信じてゐぬけれども、茲に管見を記して是正を仰ぐとするが、私の考へを極めて端的に言へば、其等の事を行うた者は、即ち巫女であつたと信じてゐる。
 私が改めて言ふ迄も無く、我が古代に於ける屍體の始末は、素尊の言はれた如く、「顯見蒼生奧津棄戶(アオヒドグサノオキツスタヘ)。」で、野外に放棄する程の原始的の物であつて、未だ葬儀とか、葬禮とか云ふ物が、嚴かに執行はれてゐ無かつたのである〔二〕。斯く屍體が無造作に取扱はれたのに就いては、二つの理由が有る。第一は屍體は靈魂の抜け殻と考へた事で、第二は屍體の腐敗を嫌つた為である。而して此屍體を放棄する事が、巫女の職務なのである。我國で、祝──即ち巫祝の徒をハフリと稱する事に就いては、「羽振(ハフ)りの義であつて、神官が著た淨衣の袖を鳥羽の如く振るので、此名有り。」と云ふ說も有るが〔三〕、元より民間語原說(エスモロギー)であつて採るに足らぬ。此れに較べると、ハフリは投(ハウ)るの意で、古く屍體を投棄てる役を勤めてゐたので、遂に此名を負ふに至つた物と解すべきである〔四〕。而して葬をハフリと訓んだ事も、又此意であつて、『萬葉集』巻二に、高市皇子殯宮時、柿本人麿が詠じた長歌の一節に、

 言((こと))さへく、百濟((くだら))の原((はら))ゆ、神葬((かむはぶ))り、葬((はぶ))り座((いま))して、麻裳良((あさもよ))し、城上((きのへ))の宮((みや))を、常宮((とこみや))と、高((たか))くし奉((たて))て、惟神((かむながら))、鎮((しづ))まりま((座))しぬ、……(0199)

 と有るのや、同集巻十三の長歌の一節に、

 朝裳良((あさもよ))し、城上((きのへ))の道((みち))ゆ、角障((つのさは))ふ、石村((いはれ))を見((み))つつ、神葬((かむはぶ))り、葬奉((はぶりまつ))れば、……(3324)

 と有るのは、其例証であつて、屍體を投棄した事から出た古語なのである。
 然るに、古代に於いては、物を斬斷つ事も同じくハフリと言うてゐた。『崇神記』に、大毘古命が建波邇安王の兵と戰ひ、「亦斬屠(波布理)其軍士,故號其地謂波布理曾能(ハフリソノ)。」と有るのや、『萬葉集』巻十三の長歌の一節に、「劍太刀((つるぎたち)) 磨((と))ぎし心((こころ))を 天雲((あまくも))に 思散((おもひはふ))らし 臥轉((こいまろ))び 泥哭((ひづちな))けども 飽足((あきだ))らぬかも。(3326)」等を始めとして、此外にも斬る事をハフリと云うた例は多く存し、現に屠字をハフルと訓んでゐる程である。然らば何故に、我が古代に在つては、葬る事と斬る事とを同じくハフリと言はせ、併も其を巫祝の上迄及ぼして、此れをハフリと稱したのであらうか。問題は愈愈困難に成つて来たが、此れに對する私の考へは略ぼ左の如き物である。
 私見に依れば、古く我國では屍體を葬る時は──勿論、其の悉くでは無いが、前に辻占の條に舉げた樣な變死を遂げた者の屍體は、此れを其の儘に葬る事無くして、屍體を幾つかに斬つて埋める民俗が存してゐたのでは無からうか。『記』・『紀』の神代巻に、諾尊が迦具土神を三段に斬つたと有るのは、諾尊が此神の為に冊尊を喪うたと云ふ單なる憤怒の餘りでは無くして、斯かる惡神は幾つかに斬つて葬る習はしの有つた事が、神話に反映したのでは無いかと想はれる投(ハウ)るの意で、古く屍體を投棄てる役を勤めてゐたので、遂に此名を負ふに至つた物と解すべきである〔五〕。學友內藤吉之助氏が『史學』第三巻第七號に掲載された「喪かり考」は、此問題に對して、大なる暗示を投じてゐる物であつて、私も此れを披閲して、尠からず教へられた所が在つて存したのである。而して內藤氏に從へば、喪がりとは、從來の國學者が說けるが如き──殯宮の意味ばかりでは無くして、此間に於いて、屍體に何等の處置が加へられたに相違無い。然(さ)れば、喪かりのかりは、必ずしも喪あがりの約語で無く、離す事をさかりと云うた。其かりの意味であるとて、言外に屍體に加へられた處置なる物が、私が茲に云ふ截斷と同じ物である事を論じてゐる。實に卓見として敬服させられたのである。
 我國古代に屍體を幾つかに截つて埋めた民俗の在つた事は、傳說として各地に存してゐる。斯う言ふと、其は支那の蚩尤傳說の輸入であると輕く斥けられるかも知れぬが、併し私としては、必ずしもさうだと許りは思はれぬ點が有る。茲に二三の傳說を舉げて、之に對する私見を述べるとする。屍體截斷の最古の物としては『崇峻紀』二年秋七月條に、物部守屋の資人捕鳥部萬の屍體を梟する狀況を記して、「河內國司,以萬死狀,牒上朝庭。朝庭下符稱:『斬之八段,散梟八國。』」と有るが、其である。若し私をして、想像を逞ふする事を許さるるならば、國史に載つたのは、僅に此一事だけであるけれども、國史に漏れた此種の事實が、他に存したと云つても、決して無稽だとは考へられぬ。
 而して更に此れを民間傳承に覓めんか、先づ最も有名な物として誰でも知つてゐるのは、奥州安達ヶ原の黑塚傳說である。宮廷歌人であつた源兼盛が、「陸奥の安達ヶ原の黑塚に、鬼棲む也と云ふは誠か。」と詠んでから、此傳說は、專ら怪談として人口に膾炙される樣に成つてしまつたが、此れは當時の民俗として、姙婦が分娩に際し、其胎兒を產出せずして死亡した場合には、姙婦の腹を割いて、胎兒を取出して埋葬する事が行はれてゐたのを、居ながらにして名所を知る程の歌人が聽きかぢつて鬼とした為に、遂に怪談として傳はる樣に成つてしまつたのである。而して此民俗は、アイヌ民族の間に近年迄行はれたウフイと稱する物と全く軌を一にした物であつて〔六〕、內地に於いても明治中頃迄は各地に行はれた物である〔七〕。更に時代は降るが、陸奥國南津輕郡浪岡村大字五本松の加茂神社は、延曆年中に坂上田村麿が誅した女首惡路王の首を神體として祀り、隣村五鄉村大字本鄉の八幡神社は、同じ惡路王の片腕を祀つた物で、然も其神體は今に活きて損せずと云はれてゐるのや〔八〕、天慶亂に誅された平將門の首塚・胴塚・腕塚等が、東京を中心として各地に在る事等は〔九〕、共に屍體を分割して埋めた事を物語つてゐるのである。更に、丹波國北桑田郡周山村の八幡宮緣起に至つては、此傳說を最も詳細に盡してゐる。社傳に據れば、康平年中に源義家が安倍貞任の首を獲て歸洛し、此れを埋める場所を占はした所、四つに截つて東に山有り南に川有る池の四ヶ所に埋めよとの神託に依り、其地を覓めて同村に埋めたのであるが、猶ほ貞任の惡靈が荒びるので其を鎮める為に、宇佐八幡宮の分靈を勸請したのだと云うてゐる〔十〕。
 未だ、此外にも、支解分葬の傳說は各地に存してゐるが、類例は別段に多きを以て尊しとせぬから他は省略するも、兔に角、我が古代で特種の屍體を截斷した民俗の有つた事は、事實として認めても差支無い樣に考へられる。勿論、此事實の發足點が、怨靈を恐れた信仰に由來してゐる事は言ふ迄も無く、時代の降るに從つて、此信仰は更に熾烈の度を加へて來たのであるが〔十一〕、後世に成れば、流石に支解分葬と云ふが如き野蠻の態度に出づる事も無く、漸く往來の頻繁なる道の辻に埋めて、惡靈の分散を防ぐ程度に成つてしまつたが、さて是れとても、其源流に溯つて見る時は、此支解の信仰の派生である事が知られるのである。
 而して是等の慘忍なる仕事──即ち屍體を投棄したり截斷したりする役目こそ、當時の巫女の職務の中でも、殊に聖職として考へられてゐたのである。アイヌ民族に行はれた燃剖(ウフイ)の主役は老婆であつて、鎌を揮て妊婦の腹を割く有樣は、凄絶を極めた物だと傳へられてゐる。琉球の洗骨も、此れに從事する者は女性に限られてゐて、然も此れとても凄絶眼を掩ふばかりであつたと云はれてゐる〔十二〕。優柔であるべき筈の女性が、此種任務に服する事は、後世の知識から云ふと、頗る矛盾してゐて、殆ど在り得べからざる樣に考へられるが、更に巫女史の立場から見る時は、此れは一種の性の倒錯であつて、女子に多くの神性を認めた時代に於いては、斯かる慘忍事は女子の役目として、社會も認め、亦女子自身も其を許して來たのである。猶ほ巫女の性の變換及び倒錯に就いては、後章に記す所ろがある。
 靈魂と肉體との關係を、徹底的に二元と信じた原始期思想が、一轉して靈肉一元であると云ふ思想を培ふ樣に成れば、今度は投棄した屍體を大切に始末する民俗を見る樣に成るのは、當然の推移である。而して此思想を養ふに至つた原因は、種種存してゐるけれども、特に重要なる原因と成つた物は夢である。私は茲に原始民族に於ける夢の俗信を記そう等とは思つてゐ無いが〔十三〕、併し我國でも、古代に在つては、夢の信仰は相當に重大なる位置を占めてゐて、國家大事を決定するに夢を以てした例証は尠くなく〔十四〕、現(アキ)つ神と云はれる者にあつては、隨時に夢を見る事の出來る樣に修養したのでは無いかとさへ想はれる程である〔十五〕。
 此夢に於いて、靈魂の遊離を知つた古代人は、其靈魂の宿る所は肉體であつて、然も人間は死後にあつても肉體さへ保存すれば、夢の如く靈魂が再び還宿る物と考へる樣に成り、斯くて肉體を保存させる樣に導いて來たが、其結果は屍體を生ける人間と同じ樣に待遇する迄に成つたのである〔十六〕。記・紀の『神代巻』の終り頃から、奈良朝の終りに至る迄の、所謂、考古學上の古墳時代と云ふのが、其信仰の最も旺盛の期間であつて、大規模の古墳を造り、石棺に斂め、殉死を強ひる等、極めて厚葬に努めた物である〔十七〕。而して此時期──即ち屍體を投棄した時代から、屍體を生ける人間と同じと見た時代迄は、靈魂の宿る所は墓地であつて、此れが祭祀は墓前に於いてのみ執行はれてゐたのである。前方後圓式(別名を瓢型と云ふ。)の墳墓が、後圓部に靈柩を斂め、前方部が祭場に當てられた物である事は、考古學的にも說明されてゐるが〔十八〕、更に民俗學的に言へば現在の名神・大社と云はれる神社の付近には、其祭神を葬つたと思はれる程の古墳を伴つてゐる事からも、此事實の在つた事が裏付られるのである。
 記述が其から其へ脱線するが、墳墓を前方後圓に築き、其形式を瓢型に作つた事は、古く我國に於いて瓢は魂の入れ物と信じた民俗から出發してゐるのであつて〔十九〕、神社の起源が古墳に在る事は疑ふ餘地は無い。『神樂歌』に、「奥津城に、皇神等(すめかみたち)を、齋(いは)いこし、心は今ぞ、樂しかりける。」と有るのも其の証で、古くは墳墓即神社であつた。從つて墓前祭が、社前祭に先つて起り、然も其祭祀は巫女に依つて行はれた事も明確である。


二、靈魂の神への發達と巫女

 萬有精靈(アニミズム)時代に在つては、總ての靈魂は神として崇拜されてゐたが、靈魂に善靈と惡靈と有る物と信ずる樣に成つて、茲に崇拜の分裂が生じ、更に善靈中に神格を認め、惡靈中に魑魅を考へる樣に成れば、靈魂は悉く神では無くして、其中の一部しか神となるべき資格の無い物と想ふ樣に成り、茲に信仰を教理的に解釋する迄に進んで來たのである。
 我が古代で靈魂──即ち善靈を神にするのに就いて、如何なる形式が行はれたか、其は今から稽ふべき手懸りすら無い。現代習俗を基礎として、手近な例を舉げれば、菅原道真が薨去したのを、天滿宮と祭りさへすれば、其で昨日の人は今日の神と成ると云ふ、極めて簡單な物にしか過ぎぬが、此例を以て古代を推す事は妥當で無いと信ぜられるが、然(さ)りとて他に此れを說明すべき資料は寡聞に入らぬのである。然るに、琉球に於いては、靈魂が神に迄發達するには、相當の歲月を要し、併せて複雜なる形式を履んだ樣である。『東汀隨筆』第六回に左の如き記事が載せて有る。

第七 人家七世に神を生ずる事
 我國(中山曰、琉球。)古來の習俗として、人家相繼して七世に及べば、必ず神を生じて尊信す。其神は只二位を設く、蓋し祖老以上始祖に至るの亡靈を以て神とする也。而して親族の女子二名を以て、神コデと稱し、之を任ぜしむ。一名はオメケーオコデと為し、一名はオメナイオゴデと為し、(原註:「方言、男兄弟をオメケーと云ひ、姊妹をオメナヒと云ふ。」)其神を祭る一切の事を掌る。其祭祀は、每年二月には麥穂祭と稱し、麥穂を薦む。三月には麥祭と稱し、酒香酢脯を薦む、五月には稲穂祭と稱し、酒香酢脯を薦む。亦族中課出金を以て祖考・祖妣の神衣を製し、祭祀每に神コデ二人之(これ)を著て神を拜祭す。三月・五月の祭には、族中男女盡く來り、香を焚き禮拜す、コデの酌を受く。而して神の生ずる期月、三年の期月、七年の期月、十三年の期月、二十五年の期月、三十三年の期月には、酒香酢脯麩餅を具へて以て之を薦む。其費用悉く族中課出を為す。三十三年の期月を畢れば、其翌年復神を生じ、及び期月每に祭禮する事舊の如し。其コデの任命は專ら祖宗神靈の命ずる所に因る。豫め祖宗の神靈在り、其コデと為すべき者及び巫婦の身に附著して言語を為し、或はコデと為るべき者疾病を為し、其女コデと成る事を御請すれば即ち癒ゆ。是を以てコデと為る事を得る。コデは終身の職と為す。死する時は即ち其後任を選ぶ事復此の如し。故にコデ職は自ら命ぜられんと欲るも得ず、自ら免れんと欲するも得ざる物とす。云云。(以上、片假名を平假名に改め、句讀點を加へた。)

 此記事は種種なる意味に於いて、關心すべき多くの暗示を與へてゐるが、殊に七世にして神を生ず(或は支那思想の影響かとも思ふが、私の學問力では判然し無い。)と云ふ事は、即ち靈魂が神と成る過程を說明する物として考へたい。而して斯かる民俗が、古く內地にも存してゐたか否かに就いては、私は何等の耳福にも接してゐぬので餘り明白には言へぬけれども、此れに就いて思起される事は、土佐國長岡郡豐永本山等の山村に行はれた御子神(ミコカミ)を祭る神事である。
 茲に『御子神記事』により、其要領を摘記すると、同地方の神職其他の者で、先規に從ひ、御子神を祭つてゐる家筋が有る。其家では人が死んで此れを御子神に祭らうとする時は、此れを旦那寺に斷り、亡父何右衛門事先例を以て後年神に祭る故過去帳に御記し下されまじくと言つて置く。又、當時此斷りをせざりし者は、三年忌或は七年忌法事の節、此者先例を以て今日より神に祭るを以て、過去帳の法名御消し下されと斷り、位牌を墓所へ捨てるのである。位牌を捨て無ければ神に成る事は出來ぬ。斯くて愈愈神に祭るのは、其年十一月氏神祭の日、神事の濟んだ後で、今日は是より何右衛門を神に祭ると云へば、子孫血緣の者が皆集り、村長(ムラヲサ)を上座に招ぎ、太夫(中山曰、神職也。)二三人、又は四五人を賴み、其中の一人を本主の太夫と定め、白幣を振りて楯食(タテクラ)へと云ふ儀式を行ふのである。在生中に正直を第一として惡事を巧(たく)まぬ人は、唯一度の楯食へにて早速神の座に直るが、不正直であつて謀計多かりし者は、楯食へ五六度に及ぶも猶ほ神座に直らぬ事も有るが、其時は先ず此れ迄として置くのである。其より更に本主の太夫へ神を乗程り移すと稱して、何やら舞を舞つてゐると、やがて託宣が有る。曰く:「是より內は木葉の下のオボレ神にてありしが、大小氏子心を揃へ今日伊勢のミコが瀧へ請じられ、ホウメンをさましてやあら嬉しや。」と云ふ。答えに、大小氏子を揃へホウメンをさまします。大氏子小氏子惡事災難來候とも拂ひのけてちがへ守らせ給へと云ひ、やあら嬉しや嬉しやと舞ふ。御子神には名は附けぬが、其者子歲ならば子歲御子神、丑歲なれば丑歲御子神と唱へ、年忌盆彼岸にも祭らず、唯氏神祭の日に作初穂(ツクリハツホ)を出し神樂を舞つて貰うだけである。(以上、土佐群書類從巻十所收。)
 土佐の此記事を讀んで、更に琉球の民俗を考ふる時、何と無く、其間に、一脈相通ずる物が在る樣に思はれる。勿論、土佐の其は、佛教や修驗道の影響を多く受けてゐて、其の元の相(スガタ)は判然せぬ迄に雜糅してゐるけれども、仔細に其神事を檢討すると、琉球と同じく、靈魂の神への進化の過程と、儀式とを說明してゐる事が、會得されるのである。而して斯うした場合に其神事の中心と成つた者が巫女であつた事は、改めて言ふ迄も無い事である。
 靈魂が神へ進化すると云ふ事は、他の語を以て云へば、即ち靈魂が神國(此處では黄泉國よりは高天原の意。)へ安住する事を得たと云ふ意味である。而して此靈魂を安住の國へ導く事が巫女の職務の一つであつた。記述が傳說から假說へと脱線する樣で少しく恐縮する次第であるが、全體、我が古代に在つて、人が死亡した折に、靈界に在る祖先に對して、此死人は其子孫であると云ふ事を、如何なる方法を以て證明したか、其を考へて見たいと思ふ。ずつと後世に成れば、旦那寺から授ける血脈なる物が、此代用を辨じてゐるのであるが、古代にも此れに似通つた信仰が在りさうに思はれる。勿論、佛教の血脈信仰の影響を受けた物に相違無いが、『熱田舊記』に熱田宮の神詠として、「彼世にて何處(イヅク)の人と問ふたらば、熱田宮の者と答へよ。」と有るのは、神詠に假託した後世の俗歌ではあるけれども、斯うした信仰は我國にも存した所が、決して不思議では無いのである。我國に於けるトーテムの研究が進んでゐれば、此種問題も容易に解決される事と思うが、此れれは當分研究されさうにも見えぬので〔二十〕、彌(イヤ)が上にも其解決に困難を感するのであるが、併し私に強辯する事を許さるるならば、我國の家紋起源は、實に此信仰と交涉を有してゐるのでは無いかと考へたい。
 アイヌ民族間に行はれてゐる神標(カムイシルシ)信仰は、極めて神聖なる物であつて、家長以外には絶對に知らせぬ事として、今に嚴重に秘密を守り、家長が死ぬ時に始めて相續人に告げ知らせる程の大切な物であるが、然も其神標(カムイシルシ)とは、死者に持たせてやる其家の合標(アイジルシ)であつて、アイヌは死人が出來ると、急いで家家に傳はる神標(カムイシルシ)を木板に彫付けて死者の肌に付ける。此れさへ持つて往けば、靈界に於いて祖先が己の子孫である事を知つて保護してくれると信じてゐるのである〔廿一〕。
 而して此れに似た思想は、南嶋の極地である琉球の與那國嶋にも現存してゐて、『與那國嶋圖誌』に據ると、「嶋家には夫夫ヤーハンと云ふ物が有つた。蓋し『家判』の意であらう。其は家紋よりもずつと廣い意味に用ゐられた。一方では屋號でもあり、又其家を表示する記號でもあつた。以前は郵便物を配達するにも一一ヤーハンを封筒に記入して配つたと云はれてゐる。」と載せて有る。
 此等の事を併せ考へる時、我國に行はれてゐる輪鼓(リウゴ)や入山形(イリヤマガタ)等と云ふ家家の記號も、其元形は斯うした思想をも含めてゐた物で、此れが始めはアイヌの神標(カムイシルシ)の樣な物では無かつたかとも思はれる。そして此記號の意匠化された物、圖案化された物が、現時の家紋であると信じてゐる。胎兒の胞衣に父の紋所が現はれると云ふ俗信も、又此れと交涉が有るのでは無いかと考へる。而して是等合標を工夫したり、又は合標を死者に與へる事が、巫女の職務の一つであつたに違ひ無い。
 死者が果して神國に安住したか否かを、知る──と云ふよりは占ふ方法は、古くから種種なる民俗が傳へられてゐる。此れも後世に成ると佛教に附會されてしまつて、成佛の印(シルシ)とのみ解釋されてゐるが、其方法の如何にも原始的である所から推すと、卻つて我が古俗が佛教に取入れられた物と思はれるのである。而して其方法として、殆んど全國的に行はれた物は、死者を葬りし際に、墓上に青竹を三本サギテフ型に立てて結び、其中央から繩を下げ其先端に石を付けるのであるが、此繩が自然に腐朽して石が池上に落ちた時が、其死者の神と成つた時であると云ふ民俗である。更に此れを產婦の死の場合には、流れ灌頂とて、俗にサイミと稱する麻の粗布へ名號を記し、此れを竹にて低く四方に張り、通行者に水を掛けさせ、其布が腐れて穴が明けば成佛したと云ふのが、其である。元より私の寡聞かは知らぬが、斯くの如き原始的民俗は、佛教の渡來等よりは迥かに古き時代から在つた物と思はれるので、其起源は巫女が死者を取扱うた時分に工夫した物だと信じたいのである。
 琉球各地では今に死人が有ると、四十九日目に別靈(マブイワカシ)と云ふ事をするが、此れに就き故佐喜真興英氏の記された『嶋(シマ)の話』に據ると、

 七七日迄は亡者は未だ現世に殘ると信じられ、嶋人は每度食事を供へ、佛間に亡者の衣類を疊んで置いた。四十九日の供物を受け亡者は完全にあの世に行くと考へられた。四十九日の晚、マブイワカシ(靈魂別れ。)と云ふ儀式が行はれた。ユタ(中山曰、內地の市子。)が來て亡者の口寄せを為し、生者と別れを告げるのである。亡者の告別辭は固より種種雜多であるが、其內容は略同一で、何故に自分は死な無ければ成ら無かつたかと云ふ運命物語が其前半で、然(サ)れば此れ此れ云云の事を宜しく賴む、去來(イザ)さらばと云ふのが其後半であうた。(中略。)古くは此マブイワカシの儀式は、非常に重大なる意味を持つて居つたが、嶋人の知識が漸次進むに從つてユタの信用が薄く成り、マブイワカシも次第に形式化して來た。云云。(爐邊叢書本。)

 と有るのは、蓋し我が古俗を貽した物と考へる。今に內地の各村落でも、死人が有ると、初日に市子を賴んで死口を寄せて貰う事のあるのは、彼之(カレコレ)共通の信仰を物語つてゐるのである。


三、社前祭と巫女の職務

 神に對する觀念が固定するにつれて、神を祭る場所も固定した。此れが即ち神社の起源である。併しながら、我國の神神は、常には高き所に坐して、人の祈(コ)いにより、(又は突然に。)或は定時に、或は臨時に、此世へ降つて來るのであつた。其と同時に、我國の神神は、分靈と云ふ事には殆んど無關心であつて、一神が百にも千にも分靈すると云ふ思想は、古文獻にも、原始信仰にも、曾て存してゐ無かつたのである。其であるから、我國の神社は、神が降つて來た時だけ宿る所であつて、神は何時でも社殿の奥に坐する者では無いのである。換言すれば、如在の神であつて常在の神では無いのである。祭禮の民俗に宵宮が有り、祭祀儀式に歸神神事が有るのは、良く此事象を說明してゐるのである。
 然るに神社が固定するにつれて、巫女の社會的地位は、其と比例して、段段と低下せざるを得ぬ樣に成つて來た。此れは、神が其の時時に巫女に憑つて託宣をして祭らせた物が、日時と場所が一定する樣に成れば、一方に於いて男子神職が用ゐられる樣に成り、一方に於いては巫女本來の職務は、此れが為めに大半迄失ふ事と成るので、低下すると同時に、輕視される樣に成るのは、止むを得ぬ次第であつた。
 例へば、『尾張國風土記』逸文丹波郡條に、

 吾縵鄉(アヅラノガウ)。卷向朱城宮御宇天皇(垂仁帝)世,品津別皇子生七歲而不語。傍問群臣,無能言之。乃後,皇后夢有神告曰:「吾多具國之神,名曰阿麻乃禰加都比女(アマノミカヒメ)。吾未得祝(ハフリ),若為吾宛祝人,皇子能言,亦是壽考。」帝卜人覓(マ)神者,日置部等祖建岡君卜食。即遣覓神時,建岡君到美濃花鹿山,攀(ヲ)賢樹枝,造縵誓(ウケヒ)曰:「吾縵落處,必有此神。」縵去落於此間(ココ)。乃識有神,因(カ)豎社。由社名里。後人訛言阿豆良(アヅラ)里也〔廿二〕。

 と有るが、此れが一段と古い所に溯れば、此祝は當然巫女で無ければ成らぬのに、斯く覡男が卜食(ウラア)ふ事は神社の固定が神の觀念の固定から出發し、併せて覡男が巫女に代る樣に成つた事を暗示してゐるのである〔廿三〕。
 斯う成れば神社にお於ける巫女は、祭神の朝夕御饌を供へるとか、神衣の世話をするとか云ふ、極めて輕い職務にしか與からぬ樣に成り、(宮中の御巫に就いては第三篇に述べる。)延いて社前祭にあつても神樂を奏するか、湯立をするか、其役割りは是亦輕からざるを得ぬ樣に成つてしまつて、纔に伊勢齋宮、賀茂齋院に、古い面影を留める迄に成り、遂に其結果は、多くの巫女は神社を離れて、古き傳への呪術を以て世に處す樣に成つたのである。

〔註第一〕平田篤胤翁は、神社神道を國體神道に引揚げるに急であつた為に、どちらかと云へば、多分に原始神道の面影を殘してゐる物を、鈴振神道の、乞食神道のと賤めてゐる等は、其の一例である。現代神道觀にも、特に發生的方面を忘れて、發達的方面ばかり說く傾きが有るが、其は決して穏當だとは思はれ無い。
〔註第二〕雜誌『民族』第二巻第五號に載せた伊波普猷氏の「南島古代葬儀」及び同誌次號の「南島古代葬儀補遺」に、琉球の墳墓の事が詳記して有るが、殊に野墓(ヌバカ)の如きは、全く古代の奥津棄戶を偲ばせる物が有る。而して斯かる民俗は、內地に於いても、近世迄各地に存してゐた。『出羽國風土略記』に載せた「みさき」と云ふ葬法は、山林中へ屍體を投棄するのである。更に「阿波志」に在る麻植郡宮島村の極樂壙の如きも、又た俗に「投げ込み」と稱する埋め方であつた。
〔註第三〕『增補語林倭訓栞』。而して羽振りの意に解したのも古い事で、『萬葉集』にも其証歌と見るべき物が三四載せてある。
〔註第四〕山本信哉氏から承つた所である。猶ほ同氏の研究に據ると、信州の姥捨は小泊瀬(ヲハツセ)の訛語であつて、古く墓地だとの事である。卓見として敬服すべき物と考へてゐる。
〔註第五〕從來の學說に據れば、神話が元と成つて民俗が起る物だと云はれてゐたのであるが、現今では此の反對に、民俗が在つたので神話に反映したのだと云はれてゐる。私も此說に從つて、民俗と神話との關係を見てゐるのである。
〔註第六〕『アイヌの足跡』に此事が詳記して有る。此れに據ると、氣丈夫な老婆が其に當るのであるが、老婆は葬禮が濟むと、鎌を以て姙婦の腹を割き胎兒を引出すが、慘狀目も當てられず、老婆の著衣は血で染まると有る。然も此野蠻事は、明治の終り頃迄行はれてゐた。私は安達原の鬼とは、此民俗の傳說化であると考へたので、管見は『東北文化研究』第二號の餘白錄に投じて採錄されてゐる。
〔註第七〕私の宅に五ヶ年間行儀見習に來てゐた磐城國石城郡植田町生れの松本かう子の談に、姊が難產の為に入院したが、其時親戚の者が集つて、若し死亡したら胎兒を引出して、其を母に抱かせて葬ら無ければ成らぬと相談した事を聽き、同地方には昔から斯うした習俗の在し事を語つてくれた。更に學友長山源雄氏が來宅された時の談話に、氏の鄉里なる愛媛縣地方では、其場合には胎兒を引き出し、亡母と背中合せにして埋葬すると聞いてゐるとの事であつた。而して是等の習俗がアイヌ族のウフイに交涉有る事は言ふま迄な無。
〔註第八〕『浪岡名所舊跡考』。
〔註第九〕雜誌『旅と傳說』第三巻十一號に掲載した拙稿『將門神社考』は極めて粗笨の物であるが、此問題に觸れてゐる。敢て參照を望む次第である。
〔註第十〕『京都府北桑田郡誌』。
〔註十一〕我國の怨靈崇拜は、平安朝時代が最も猛烈を極めてゐた。此れは同時代の文弱が、天下を舉げて神經衰弱時代たらしめた結果であって、就中、その代表的のものは、菅公を北野神社と祭ったことである。併して此の怨靈崇拜は、明治時代まで繼續したのである。
〔註十二〕琉球の石垣嶋測候所長を三十餘年間勤續してゐる岩崎卓爾翁が、私に語つた所に據ると、昔同島では、死者の埋葬後三年目に洗骨をするのが常規と成つてゐるが、若し此三年間に死亡者が有ると、前の死亡者が一年か一年半しか經過してゐ無くとも、洗骨し無ければ新な亡者を墳墓に斂める事が出來ぬ習俗なので、未だ生生しい亡者の洗骨をするのであるが、實見した岩崎翁の言ふには、其は眼を掩ふばかりの慘忍事で、女子達は手に包丁とか鎌とか攜へて、屍體を引出して、骨に付いてゐる肉を削取り、其を申譯ばかりの酒(水一升に酒一合位の物。)で洗ふのだが、殘酷と臭氣で堪へられぬと言ふ事であつた。
〔註十三〕夢で古代人が肉體の外に靈魂の在ると信じた事は、先覺も說いてゐるが、其と同時に、高熱の有る病氣も又た錯覺や幻聽を起させる物で、此れにより靈魂が自己の身體から抜け出る事の有ると云ふ俗信を得た事も注意せねば成らぬ。
〔註十四〕『日本書紀』に崇神帝が、夢に依つて太田田根古をして大物主神を祭らせた事、及び同帝が豐城・生目二皇子に命じて夢を見させ、其を判じて皇太子を定められた皇太子を定められた事等を始め、國家大事を夢に依つて決定した事例は頗る多く存してゐる。古代人にとつては、夢は神人交通の方法として、殊に重大視せられてゐたのである。
〔註十五〕我が古代の權力者が臨時に夢を見る事の出來る樣修養されたのでは無いかと論じたのは、心理學者の小熊虎之助氏の創見に掛かる所で、氏は『心理學研究』誌上に於いて、此事を說かれてゐる。
〔註十六〕私が改めて言ふ迄も無く、死後の生活を信じたればこそ、棺內に死者の手迴りの道具を入れてやるとか、更に經帷子を著せてやるの、杖を持たせてやるのと云ふ俗信は、皆此れから起つた物で、墓參り等も、又此俗信に據る物である。
〔註十七〕殉死の蠻習が我が古代に在つたか、無かつたかに就いては、今に定說を聞かぬ所であるが、私は存在說を主張する者で、現在では記錄や傳說ばかりで無く、考古學的に遺物の上からも說明出來ると考へてゐる。
〔註十八〕梅原末治氏著『佐味田及新山古墳の研究』に其事が論じられてゐる。
〔註十九〕瓢が魂の入れ物であると云ふ俗信に就いては、柳田國男先生が『土俗と傳說』第一巻第二號から連載された「杓子の信仰」に詳說されてゐる。參照を乞ふ。
〔註二十〕我國に於けるトーテムの問題に就いては、餘り學界の注意を惹いてゐぬが、私は此れに就いて短見を發表した事が有る。拙著『日本民俗志』に收めた「本邦に於けるトーテミズムの考察」が其である。
〔註廿一〕アイヌに生れて和歌を良くした故違星北斗氏から承つた。猶ほ此機會に言ふが、アイヌ民族は立派にトーテムを有してゐて、今に其信仰を貽してゐる。而して違星氏の談に據れば、其カムイシルシを見ると、本家・分家・新宅等の關係が良く判然し、更に溯れば其家家のトーテム迄判明するとの事であつた。故違星氏は、手宮驛頭の古代文字と稱せらるる物は、アイヌの神標(カムイシルシ)であるとて、此研究にも手を著けられてゐたのであるが、完成せぬ內宿痾の為に不歸の客と成られたのは遺憾の事であつた。
〔註廿二〕大岡山書房から發行された『古風土記逸文』に據つた。猶ほ此假名交り文は、栗田博士の旁訓を移した物である事を付記する。
〔註廿三〕『肥前國風土記』の基津郡姬社鄉條に、此れと同巧異曲の文が載せて有るが、此れも巫女の勢力が漸く劣へて、男覡が此れに代つた傾向を知るべき史料である。
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