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第四節 醫術者としての巫女

 荒木田久老の『くし考』を讀むと、くしは酒の古名であつて『神功記』に、「此御酒は吾が御酒ならず、酒神(クシノカミ)、常世に坐す、石立たす少名御神の。」云云と有るくしが其であつて、病人に與へて治癒の效が有つたので、後に此れを藥(クスリ)と云ふ樣に成り、且つ少名彥神を醫藥の神として崇めた物であると云ふ意味が記されてゐる。然るに、此れに反して、伴信友翁は『方術原論』に於いて、病氣を禁厭(マジナイ)除く術を行ふ事をクスルと云ひ、其術に依つて食ふ物をクスリと云ふと考證してゐる。此れを要するに、前の久老翁は、酒藥一元說を主張し、後の伴翁は、醫術方術同根論を唱道してゐるのである。
 藥の語原が其の各れであるか、其を究むる事は本書の埒外に出るので茲に略すが、兔に角に、「迷信は科學の母也。」と西諺にも有る如く、古く醫術と方術(即ち呪術の意。)とが同じ源流から出た事だけは疑ふ餘地は無い。そして藥の初めが酒であつた事も同斷の樣に考へられる。誰でも知つてゐる事ではあるが、『周禮』及び『說文』を見ると、醫の字は古く毉とも書いた物で、此れは神神に仕へた巫覡の徒が、專ら療病の事に與つてゐたので、斯く殹の下に巫を加へて、毉と訓ませたのである。然るに時代が遷り、酒と云ふ物が發明されて以來は、此れを藥劑として用ゐる樣に成つたので、今度は殹の下を酉に作る事と成つて醫の字と成り、茲に呪術と醫術とが分離する樣に成つたのである。
 而して此事象は、我國の古俗にも覓める事が出來るのである。『古語拾遺』に、

 大己貴神,【一名大物主神、一名大國主神、一名大國魂神者。大和國城上郡大三輪神是也。】與少彥名神,【高皇產靈尊之子。遁常世國也。】共戮力一心,經營天下。為蒼生畜產,定療病之方。又為攘鳥獸、昆蟲之灾,定禁厭之法。百姓至今,咸蒙恩賴。皆有效驗也。

 と有るのが、其である。勿論、私は斯う言つたからとて、決して大少二神を男覡であると申すのでは無くして、巫覡の徒が大少二神の定められた療病の法を傳へ、此れに由つて醫術的所作を行うた物であると云ふのである。其では、是等二神の定めた醫方は、如何なる物であつたかと云ふと、私の寡聞の為か判然と此れを知る事が出來ぬのである。尤も坊間に流布してゐる『大同類聚方』と稱する書物を見ると、大少二神の遣方と云ふのが、夥しき迄に記載されてゐるけれども、此書が後人の偽作なる事は、既に學界の定說と成つてゐるのであるから、此書を典據として說を試みる事は不可能である。其處で私は、專ら資料を記・紀等の古文獻に覓め、此れを數項に分類して、巫女が醫療として行つた呪術に就き略述するとした。
 猶ほ其を記す以前に、巫女の行うた醫療的呪術の概念に就いて述べて置く必要が有る。其は外でも無く、巫女の醫療的方面は、大別して二つとする事が出來る。即ち第一は、藥劑とも云ふべき物を用ひずして、單なる祈禱か又は呪術に由る物と、第二は、是等の祈禱を行ふと同時に、藥劑とも稱すべき物を用ひた物とに區別されるのである。而して此區別は、更に細別する時は、第一の祈禱呪術は、刺傷・封結・驚壓・呪物等に分れ、第二の藥劑は、供物を藥劑に代用せる物と、純藥劑とに分ける事が出來ると考へるので、不充分ながらも姑らく此分類に從ふ事とした。
 因に言ふが、發病以前に難病を排除する呪術を巫女が行うた事は勿論であるが、此れは本節に交涉する所が尠いので除外した事である。

一、身體を刺傷する醫療的呪術

 『人類學雜誌』第四二卷第十號に揭載された、清野謙次・平井隆兩氏の「日本石器時代の穿顱頭蓋に就いて」と題する論文は、我國にも顱頂骨を刺傷する施術の行はれた事實を科學的に証明した物である。而して穿顱の目的に就いて、清野氏等は、

 生前の穿顱は頭蓋骨の外傷、頭蓋內外の腫瘍、頑固なる頭痛、精神病、癩病、神經痛、憑依等の場合に施行せられ、死後の穿顱は頭蓋骨の崇拜、或は護符の宗教的觀念の下に行はる。

 と說かれてゐる〔一〕。茲に憑依とは、神憑(ガカリ)とも云ふ程の意であらう。而して更に『史苑』第二卷第一・第二號に連載された岡田太郎氏の「新石器時代の穿顱術について」と題せる論文には、

 此種の外科手術が、先史時代に行はれた事については、種種なる假說が試みられた。プロカ(Proca)は、癩癇患者に對する治療法として行はれた物で、惡靈が頭蓋骨の穿孔から逃げる物と信じられてゐたと言つてゐる。多くの場合、前頭骨に手術が行はれ無いで、顱頂部に行はれる故に、此迷信が主要原因であつたと力說してゐる。ミュニツワ及びマック・デイは、穿顱術が呪術的起原を有する物で、本來治療的な物では無いと迄極言してゐる云云。

 と說かれてゐる。而して是等の研究に從へば、我國の古代に顱頂骨を穿つ事が、醫療を目的とした呪術として行はれた點は先づ疑ひ無い樣であるが、其では此の施術者は何者であつたかと云ふ點に成ると、兩論文とも少しも此れに觸れてゐ無いのである。私は例の獨斷から、此施術者こそ巫女であつて、然も施術の場合には、神意を窺うて行つた物と想像するのである。妊婦の屍體を開腹する程の蠻勇(勿論其は神の命ずる事として行つたのであるが。)を有してゐた巫女にとつては、當然有り得べき事實と信じたいのである。


二、物件を封結する醫療的呪術

 此れは或る物を封じ、又は結ぶを以て、醫療の目的を達せんとする呪術である。前に引用した『貞觀儀式』の鎮魂祭儀條に、

 大藏錄以安藝木綿二枚實(イレテ)於筥中,進置伯前。御巫覆宇氣槽,立其上以桙撞槽。每一度畢伯結木綿云云。

 と有るのは、此信仰に由來する物と思ふ。勿論、鎮魂の祭儀の所見である『天孫本紀』には斯かる手續きは記して無いが、併し極めて嚴肅なるべき此祭儀は、神代以來少しも渝る事無く保存されたに相違無いので、其が初めて行はれた際にも、此手續きの存した事と拜察すべきである。而して後世に成ると、此れを「御玉緒絲」とも「御玉結絲」とも申した樣である〔二〕。『三代實錄』貞觀二年八月二十七日條に、

 夜,偷兒開神祇官西院齋戶神殿,盜取三所齋戶衣,并主上結御魂緒等。

 と有るより推測するも、絲を結ぶ事が此祭儀の要點であつた事が窺はれるのである。唯研究の餘地の在る所は、由來、鎮魂祭なる物は、龍體の御健やかに坐(オハ)します時に行ひ、御惱の折に行ふ事が尠いので、必ずしも此れを以て醫療と云ふ事が出來ぬと論ずる者が有るやも知れぬが、併し僅少の場合にせよ、御惱の場合に行はせられた例證も存してゐる。此れも前に引用したが、『天武紀』十四年冬十一月丙寅條に、

 法藏法師、金撞鍾,獻白朮煎。是日,為天皇招魂之〔三〕。

 と載せ、更に後世の記事ではあるが、『日本後紀』延曆二十三年二月條に、桓武帝不豫の為に奈良より巫女を召して鎮魂された(此全文は第二篇に載せる。)事が記されてゐるのを見ても、鎮魂に醫療的の信仰が含まれてゐた事が窺知されるのである。


三、病魔を驚壓する醫療的呪術

 古代人は、總ての疾病は、病魔の(古く此れを物氣(モノノケ)と云ふた。)の襲う事が原因であると信じてゐたので、此れを回復せんには、其病魔を驅除する事が肝要とせられ、此驅除法には種種なる呪術が行はれた樣である。例へば、病者の身體や、病室を毆打する事や、病魔が嫌ひさうな異臭のある物を病者に食はせたり、又は室內に焚いたりするのや、其他にも樣樣な物が工夫されてゐた。而して此驅除呪術は、斯くして病魔を驚駭させ、壓服すると云ふ信仰から出發してゐる事は、言ふ迄も無い。屢記を經た天鈿女命が磐戶の齋庭に於いて、「手持茅纒之矟(ホコ)。」神懸(ガカリ)したのは、葬宴に際して疎び荒び來る物の氣を攘ふ為であつたとも思はれる。換言すれば、矟と云ふ武器に依つて、物氣を強壓する手段とも見られるのである。漢字通の後藤朝太郎氏から聽いた話に、支那の弔と云ふ字は、葬禮の時に人が弓を攜へて往つた民俗が有つたので、其の象形文字だと云ふ事である。此れと此れと、思想上に共通が有るか否かは、斷言出來ぬけれども、我國にも葬儀に弓を攜へて往く例は、各地に行はれてゐる〔四〕。或は此民俗等も遠くに溯ると、鈿女の矟の樣に物氣を攘ふのが目的であつたかも知れぬ。『神樂歌』の採物に、弓・剣・鉾等の有るのも、又此信仰の在つた事を想はせる物が有る。
 病魔の嫌ふ異臭を以て、醫療的の呪術を行つた物としては、『景行紀』に在る倭尊の故事を例證として舉げる事が出來ようと思ふ。即ち、

 日本武尊披煙凌霧,遙徑大山。既逮于峰而飢之,食於山中。山神令苦王,以化白鹿立於王前。王異之,以一箇蒜彈白鹿,則中眼而殺之。(中略。)先是度信濃坂者,多得神氣以瘼臥(ヲヱフセリ)。但從殺白鹿之後,踰是山者,嚼蒜而塗人及牛馬,自不中神氣也。

 と有るのが、其である。而して此記事には注意すべき物が二つ有る。第一は、倭尊が白鹿に化した惡神の不意に出でて、蒜を彈き掛けて驚駭させた事と、第二は蒜が邪氣を攘ふ呪力を有する物と信仰されてゐた事である。現時でも門戶に蒜を懸けて病魔を追ふのは、蓋し此信仰に基いた物であらうが、更に一段と步を進めて考へる時は、此種の信仰は東方亞細亞(アジヤ)の文化圏に共通してゐる物であつて、古くは支那から渡來したのかも知れぬのである。そして倭尊が蒜に病魔を攘ふ呪力有る事知られてゐたのは、恐らく姨であり、當時最高位の巫女であつた倭媛命から教へられた物と想像される〔五〕。必ずや其の頃の巫女は、蒜(蓬亦は毛等を燒く事も行はれた物と思ふが古い文獻には見えぬ。)を用ひて此種の呪術を行うた物と考へられる。そして此時の呪術が、醫療的であつた事は、病臥の用語からも察しられるのである。


四、神靈の力で病魔を驅除する呪術

 此れは巫女の醫療的呪術としては、極めて普通な物であつて、別段に取り立てて言ふ程の事も無いのであるが少しく心附ける物を記して參考に資せんに、注連繩を張る事は、其一であつた。鈴を振る(神の聲として。)事は其二であつた。社の周圍を匝る事(寛文頃の記錄を見ると、宮中では刀自と稱する女官が、主上御惱の時に、御千度と稱して、內侍所の周りを千度匝ると載せてある。)は、其三であつた。
 而して猶ほ此場合に考へて見たい事は、木花開耶姬命が皇子三柱を產みます時に、產室に火を放つて焚き、火中に於いて分娩されたと云ふ有名なる神話の醫療學的解釋である。勿論、出產は生理的の事であつて、病氣では無いが、古代に於いてはさる區別は意識し無かつたので、姑らく出產を病氣として見る事としたのである。此神話は皇孫が妹神に對して、「雖復天神之子,如何一夜使人娠乎?抑非吾之兒歟。」と仰せられたに對して、誓(ウケヒ)の考へを以て火中に入られたと云ふのが骨子と成つてゐるのではあるが、現に琉球の各地方に行はれてゐる民俗として、妊婦が產に臨むと、室內に數個の大火鉢に火を焚き、其熱に依つて產婦に發汗させる事を、安產の呪術と信じてゐるのに比較すると、木花開耶媛の場合も、何か斯うした呪術的の民俗が、神話の成立要因と成つてゐたのではあるまいか。敢て後考を俟つとする。
 以上で私の謂ふ所の第一の祈禱及び呪術に依る巫女の醫療的職務は大體を盡したのである。此れから更に第二の藥劑を用ひた醫療的呪術に就いて述べるとする。


五、供物を藥用とした醫療的呪術

 我國でも藥の初めが酒であつた事は既述した。然も此酒が、刀自と稱する巫女に依つて造られる事は〔六〕、又た我國に於ける古き習俗であつた。神樂の「酒殿歌」に、「酒どのは、今朝はな掃きそ、うれりめの、裳ひき裾ひき、今朝は掃きてき。」と有るのは、其徵證である〔七〕。而して古代の造酒法は、即ち嚙み酒であつて、其の嚙む役は、主として女性が其に當つてゐたのである。『大隅國風土記』逸文に、

 一家水米を設け、村に告げめぐらせば、男女一所に集りて、米を嚙みて酒糟へ吐き入て、ちりぢりに歸りぬ。酒香出で來る時、又集りて、嚙みて吐き入れし者ども是を飲むを、名付けて口嚙みの酒と云ふ。(大岡山書店本。)

 と有るのは、良く古代の造酒法を傳へた物であつて、琉球の各地方では、近年迄神に供へる酒だけは、村內の處女(經水の無い者に限る。)が集つて嚙んで造つた物である〔八〕。更に琉球では酒の事を「おくすり」と云つてゐるが、此れは即ち藥の意で、別に「むしやく」と稱するのは、嚙むの意であると傳へられてゐる〔九〕。是等に由るも酒が巫女の手で作られ、專ら藥として用ひられた事が知られるのである。『萬葉集』に「 味酒(ウマザケ)、三輪祝(ハフリ)が、齋杉、手觸れし罪か、君に逢ひ難き。(0712)」と有る短歌を始めとして、三輪の冠辭に味酒の語を撰んだのは、三輪を酒の實湧(ミワ)く(嚙んだ米が唾液中の酸素と化合して、沸沸として釀(ワ)く事。)に思ひ寄せた物ではあるが〔十〕、然も其米を嚙んで酒を造つた物は、三輪社に仕へた巫女の仕事であつた。
 唯此場合に考へて見無ければ成らぬ問題は、古代に在つては、神を祭る時以外には、殆んど絕對的に酒を飲む事を許されてゐ無かつたと云ふ事である。其は恰も、種族を異にし、民俗を別にしてゐるアイヌでは、現在でも酒を飲む時は、如何なる場合でも、先づ神飲(カムイノミ)と稱する儀式をして、神に供へたお流れを頂戴すると云ふ信仰の下に飲酒するのを常禮としてゐるが、我が古代人の酒に對する信仰も、又此れと相擇ばざる物が存してゐたのである。『神功記』に神功皇后が皇太子譽田別の為に、「釀(カ)待(マ)酒以獻。」と有る待ち酒は〔十一〕、まちの語に祭る事と、占う事との二義が含まれてゐて〔十二〕、酒を飲む事は、神を祭る場合に限られてゐた事を示唆してゐるのである。而して後世の記錄ではあるが、『延喜』の「玄蕃寮式」に、「凡新羅客入朝者,給神酒。」と載せ、更に此神酒の材料と成るべき稻は、大和國の賀茂意富、纏向倭文、河內國の恩智、和泉國の安那志、攝津國の住道、伊佐見等の各神社より出させて是れを住道社に送り、別に大和國片岡、攝津國廣田、生田、長田等の神社より出せる物は生田社に送り。共に其社の神部をして造らしめたとあるのも、又此間の消息が推知されるのである。
 而して、斯く酒なる物が重く扱はれてゐたのは、其醉心地が神の作用に因る物と信じてゐたに原因する事は言ふ迄も無いが、更に此酒が藥劑として用ひられたのは、神に供物として獻げた餘瀝を飲む為に、一段と效驗が有ると考へたからである。誰でも知つてゐる事ではあるが、奈良の正倉院に砂糖若干が秘藏されてゐる。此れは奈良時代に在つては、砂糖は貴重品であつたと同時に、又た大切なる藥劑なのであつた。今日でこそ砂糖は苦も無く手に入れる事が出來るけれども、僅に二百四五十年前の江戶期の初葉迄は、甘味と云へば、甘草の煎じ汁か、柿の甘みより外には無かつた事を知れば、一千餘年を隔てた奈良時代の砂糖の尊さが、想ひ遣られるのである。藥用としての酒も、又此事由と同じ物と見るべきである。
 後世に成ると、神に供へた總ての物が、醫療的呪術を有する樣に考へられてゐるが、古代に於いては、其供物が果して如何なる物であつたかが判然し無いので、其を明確にする事が困難なのである。勿論、祝詞を見ると海物、山物、野物等が供へられてゐるが、此れは單なる供物では無くして、寧ろ神に對する禮代(ヰヤジリ)と思はれるので、茲には姑らく省略に從ふとした。


六、藥劑を用ゐた醫療的呪術

 諾尊が黃泉軍に追はれ、桃を投げて撃退した時、

 爾伊邪那岐命告桃子:「汝如助吾,於葦原中國所有現しき(宇都志伎)青人草之落苦瀨而,患惚時,可助告。」賜名號意富加牟豆美(大神ヅ實)命。

 と『古事記』に載せて有るが、桃に避邪治病の效驗有りとしたのは、支那の思想であつて、諾尊の此記事が『古事記』の編纂された折に追記された物と思はれるので、從つて純粹なる我國の信仰とは考へられぬ。
 此れに較べると、同じ『古事記』に、大國主命が稻羽の菟の傷けるを憐み、

 今急往此水門,以水洗汝身。即取其水門之蒲黃(カマノハナ),敷散而輾(マ)轉其上者。汝身如本膚必差(イ)。

 と教へし物こそ、卻つて我が古代の民間療法を其のまま傳へた物と信じたいのである。更に此大國主命が、兄弟の八十神達の為に伯耆の手間の山本にて遭難せる事を『古事記』に、

 大穴牟遲神,(中略。)即於其石所燒著而死。爾其御祖命哭患而,參上于天,請神產巢日之命時,乃遣螫貝(キサガヒ)比賣與蛤貝(ウムキガヒ)比賣,令作活。爾螫貝比賣刮(キサゲ)集而,蛤貝比賣待承而,塗母乳汁者,成麗壯夫而出遊行(アル)。

 と記したのも〔十三〕、亦我が古俗の治療法であつたと信ずべきである。而して蛤が永く藥劑として用ゐられた事は、『色葉字類抄』に此字をクスと訓ませたのでも知られるのである。
 斯うして動植物を藥用とした事は猶ほ此外にも相當に存してゐる。何の事か私にも良く判然せぬが、『諏訪大明神繪詞』卷下の、十二月二十四日神長官がしんふくらを祭る折に唱ふる詞に、

 陸奧國せんせんつかふしの一人姬御前、腹を病(ヤ)ませ給ふに、(中略。)東山信濃諏訪郡武居の御里に、居籠坐(イコモラオワ)します大明神の御室中に有る、しんふくらと云鳥を御藥に使はせ給はば、御腹治(ナホ)らせ給ふべし。

 と有るのは、察するに諏訪社に傳へた鳥藥と思はれるのである。後世の書物(延喜頃の物か。)ではあるが、『本草和名』を見ると、左の記事が有る。

 石斛(イハグスリ)。○一名林蘭。(中略。)○石斛者,山精也。云云。○和名スクナコノクスネ(須久奈比古乃久須禰),一名イハクスリ(以波久須利)。

 是に據れば、石斛を少名彥命の遺方として藥用とした事が窺はれ、更に同書には、此外に幾多の呪術から出發した民間療法藥を載せてゐる〔十四〕。而して『醫疾令』に據れば、醫師の外に、呪禁師と呪博士とが有つて、古き醫呪同根の面影を殘し、未見の書ではあるが、伴信友翁の『方術原論』に引用された『醫心方』には、一劑每に一首の呪歌が添へて有ると云へば、此れも呪術が醫藥の先驅を成した事を示してゐるのである。そして是等の施術者が巫女であつた事は言ふ迄も無く、然も永い間を──醫術と呪術とが全く分離した後迄も〔十五〕、此事に關係を有してゐたのである。

〔註第一〕清野氏等の報告に據ると、穿顱頭蓋は、廣島・岡山・愛知の三縣から發掘され、男女の遺骨ともあるとの事である。
〔註第二〕御玉緒絲は『深山御記』に御玉結絲は『宮主秘事口傳』に有ると、伴翁の『鎮魂傳』に載せてある。
〔註第三〕『天武紀』の招魂が、鎮魂と同じ物である事は既述を經た。そして此事が天武帝の不豫の為に行はれた事は此の翌年に崩御された事からも拜察されると伴翁も『鎮魂傳』に於いて述べてゐる。
〔註第四〕葬儀に、弓を攜へて往く民俗は各地に在るが、殊に奇拔なのは、土佐群書類從本『豐永鄉葬事略記』に有る物である。即ち同國長岡郡豐永鄉では、死人が有ると、弓持と稱する者、竹弓矢を攜へて、棺後に附添うて往き、墓穴に棺を納める時、弓持は棺を覆ひし衣物を、弓の先にて取退け、穴內に納め、其より弓持は直ちに喪家に立歸り、大音にて、「宿かり申さう。」と言へば、留守居の者內より、「三日跡に人質を取られて宿かす事は出來申さぬ。」と答へると、又弓持、「然らば、艮鬼門の方へ世直り中直りの弓を引く。」と云ひつつ、矢を番ひて、家の棟を射越し、弓も踏み折り、投げ越すと有る。更に『年中故事』卷三に肥後米良山の『栃木縣河內郡豐鄉村鄉土誌』に同村の、共に弓を攜へて葬禮に行く事が載せて有る。
〔註第五〕神話と民俗との關係に就いては、前にも一度記した事が有るも、此れは神話に在る事實が先に行はれて、後に民俗が生じたのでは無くして、既に民俗が存してゐたのが神話に反映したのであると解すべきである。
〔註第六〕從來、酒を造る者を刀自(トウジ)と云ひ、此れに杜司(トウジ)の字を當ててゐたので、杜司(トウジ)は支那を學んだ物であらう等と、江戶時代の好事家なる者は氣樂な考証をした物であるが、此れは橘守部が『神樂歌入文』で創說した如く、刀自(トウジ)即ち巫女である。延喜の『神名式』に、「造酒司坐神六座。(大四座,小二座。)大宮賣神社四座。」と有るのも、更に『文德實錄』齊衡三年九月辛亥條に、「造酒司酒甕神從五位下大邑刀自、小邑刀自等,並預春秋祭。」と有る等、咸な古代の巫女が造酒してゐる事を証明してゐるのである。
 猶ほ刀自(トウジ)を巫女と云ふ證據は、宮中の內侍所に仕へる女官を、古く御齋(オサイ)・采女(ウネメ)・刀自(トジ)・命婦(メウブ)等に區別してゐるが、是等の女官が古き御巫の末である事は勿論である。
〔註第七〕僧顯昭の『袖中抄』に據ると、賀茂社のうれりめは酒殿に仕へた造酒の巫女である。猶ほ各地の名神大社の酒殿の巫女に就いては『民族』第四卷第二號に揭載した拙稿「御左口神考」が、多少とも此問題に觸れてゐるので參照を望む。
〔註第八〕此事は琉球の古い事を書いた『遺老說傳』等にも見え、又た同地出身の伊波普猷氏からも聽いてゐる。更に同國石垣島の皿濱出身で、橫濱高等女學校の教職に在る前泊克子女史の談に據ると、同地では酒を「んさく」と云ふが、是れも嚙み酒の意だと云ふ事である。
〔註第九〕伊波普猷氏の『古琉球』第□版の附錄「混效驗集」に有る。因に同集は古い同國の辭書である。
〔註第十〕碩學南方熊楠氏の談に、大和の三輪が酒の□所として知られたのは、酒を容れる樽材として、三輪杉が理想的であつたばかりで無く、更に古く同地の杉の脂から、酒を製した事が有つた為では無いかとの事であつた。附記して參考に資するとする。
〔註十一〕待ち酒は『萬葉集』卷四にも、「君が為、釀みし待酒、安野に、獨や飲まむ、友無しにして。(0555)」と有る。
〔註十二〕祭をマチと云うてゐる所は、今に各地に在る。待ち酒のまちは、祭のマチであつて、此れに待つ人の來るか來ぬかを占ふ意も含まれてゐると、折口信夫氏から教へられた事が有る。
〔註十三〕此一條は、我國に於ける神の復活の信仰を記した物にして見る時、一段の意義が有る。併し其は姑らく措くとするも、此處に螫や蛤を人格と見たのは、其效驗から來た事で、古く此種の貝類や母乳を藥用とした事を暗示してゐると見るも又た意味が深い。
〔註十四〕私の見た『本草和名』は「日本古典全集」本であるが、其底本と成つたのは、解題に據ると、森枳園の書入れ本である。そして此書入れを見ても、『醫心方』を引いた處が有るが、此等に據ると、我が古代に種種な動植物及び其他の庶物迄藥用とした事が窺はれるのである。
〔註十五〕琉球に關する書物を讀むと、同地には近年迄「醫者巫女(ユタ)」と稱する者が有つた。此れは巫女(ユタ)と稱する下級巫女が醫者を兼ねてゐたので、此語が生じたのである。更に伊豆七島の事を記した寫本類には、八丈・三宅・大島等の島名主は、一人で名主と云ふ行政者の外に、神官と醫者とを兼ねるのが普通であつたと載せてゐる。是等は共に古俗を其のままに保存した物である。



第五節 收稅者としての巫女

 此れも漢字通の後藤朝太郎氏から聽いた話であるが、稅と云ふ字は『說文』に據ると、扁の禾は稻を意味し、作りの兌は冠を被つた人の意味で、即ち神に仕へた巫覡が、民眾から稻を收めさせたのが稅字の起りであるとの事であつた。併し斯うした原始的の社會事象は、人間が橫目縱鼻である限りは、何處にでも共通的に發明され、且つ實行されてゐた事と思はれるので、此れを我國の古代に移して考へて見たのが、此一節である。由來、此れ迄の學者は、餘りに文化移動說に捉はれてゐて、支那(其他の國。)と我國と類似した思想や民俗が有ると、直ちに我國の其は、支那の輸入(又は模倣。)だと言つた物であるが、此れには相當の缺陷が伴うてゐる事を知らねば成らぬ。私に言はせれば、勿論、支那から輸入された物も尠くは無いが、其と同時に支那で考へさうな事は、我國でも考へらるる事で、似てゐるから輸入だ、模倣だとばかりは云へぬのである。殊に自然科學の發明ならば去來知らず、人文科學に關する事象等は、彼我類似な物が有るからとて、少しも不思議とするには足らぬのである。茲に言ふ巫女と收稅の如き、又其の一例として見るべきである。
 我國で國民から徵稅したのは『崇神紀』の「男之弭調(ユハヅノミツギ),女之手末(タナスヱ)調。」が、其の最初であると傳へられてゐるが、此れは同朝に於いて、國法的に定めたと云ふ意味であつて、其實際に於いては、ずつと古くから行はれてゐた物と考へる。而して私が言はうとする巫女が收稅者として働いたのは、國法的に治定されぬ以前の時代である事は勿論である。
 我國では神へ供へる物を幣(ヌサ)と稱してゐるが、現今では幣(ヌサ)と言へば御幣の意味にのみ解釋されて〔一〕、其範圍も頗る狹義の物と成つてしまつたが、古代の幣(ヌサ)は決して斯かる物では無く、神へ捧げた布帛其他を稱した廣義な物であつた。而して古代の幣(ヌサ)は、後世の幣帛(ミテグラ)と同じ物であつて、『遷卻崇神祭』の祝詞に有る如く、

 進幣帛(ミテグラ)者、明妙・照妙・和妙・荒妙に備奉て、見明物と鏡、翫物と玉、射放物と弓矢、打斷物と太刀、馳出物と御馬、神酒者瓺(ミカ)戶上(ヘ)高知・瓺腹滿て雙て、米にも頴(カヒ)にも、山住物者毛和物・毛荒物。大野原に生物者、甘菜・辛菜。青海原に住物者、鰭廣物・鰭狹物、奧つ海菜・邊つ海菜に至る迄……

 在らゆる物が、即ち安幣帛(ヤスミテグラ)の足幣帛(タリミテグラ)であつたのである。そして茲に舉げた物資は言ふ迄も無く、當時の生活に於いては、缺く事の出來ぬ物ばかりであつて、然も是等の物を神へ供へる事は、即ち古く此幣帛なる物が、神の生活の基調であつた事が知られるのである。一個の勤勞に對する一個の報酬と云ふ事は、人と人との間には行はれ得べきも、神と人──即ち治者と被治者との間は、此經濟關係を以て律する事が出來ぬので、神に捧げる幣帛は、其實質に於いては、租稅と同じ物であつたと考ふべきである。
 巫女の收稅は、神への「禮代(ヰヤジリ)」の名で行はれたのである。後世に成ると「ゐやじり」に禮代の漢字を當てて訓ませる樣に成つたので、專ら神に對する御禮とか、報賽とか云ふ意味にのみ解釋されてゐるが〔二〕、此れは本末を顛倒した物であつて、神の保護を受ける為に捧げる誠意の發露で、神の冥助を受けた御禮に供へる報酬では無い。結果に於いては同じ樣に見えるけれども、動機に在つては、決して同じ物では無い。此れを手取り早く卑近の例を以て示せば、後世の國民は納稅した為めに權利を與へられるので、權利を與へられた為めに納稅するので無いのと同じである。
 我國の租稅が神への「禮代(ヰヤジリ)」に起原せる事を有力に示唆してゐるのは、荷前(ノサキ)の制度である。伴信友翁は『比古婆衣』卷七に於いて、

 荷前とは、諸國の御調(ミツギ)の絹布の類を始め、種種の中の最物(ハツモノ)を撰びて取分置て、其を先づ天照大御神宮に奉給ひ、又相嘗に預給ふ神達の幣物にも奉給ひ、亦御世御世の山稜に奉給ひ、さて其殘りを天皇の受納領す御事になむありける。

 と定義し、更に翁獨特の、微に入り細を穿つ考証を試みてゐる〔三〕。而して此れに據れば、神に捧げし御調の殘りを主權者が受領するとは、即ち古く納稅は神に對して行はれてゐた物が、其神の後を承けた天皇に繼がれた物と解釋すべきである。
 少しく後世(桓武朝延曆十一年書上。)の記事ではあるが、『高橋氏文』に、景行帝が六獦命を膳夫に任じ、山野河海の雜物を兼攝(フサネ)取持ちて仕へ奉れと敕し、

 如是(カク)依賜事は(波),朕我獨心に(耳)非矣,是天坐神乃(の)命敘,(中略。)諸友・諸人を(乎)催率て(天),慎勤仕奉と(止)仰賜。云云。

 と有るのは、良く此間の事情を盡してゐる物と信ずるのである。斯くて時代が進み、租調庸の法が確立し、收稅の官吏が設けられる迄は、巫女が主として此職務に服した事は、彼等が神に仕へる當然の仕事であつたと考へるのである。琉球の神歌(オモロ)『首里(シヨリ)ゑとの節(フシ)』の一節に、

 租稅積(カマヘッ)で、みおやせ、朱陽(アケシノ(地名))の、大祝女(オヤノロ)

 とて、同地の巫女(ノロ)が租稅を取立てて步いた事を語つた物が有るが〔四〕、此等は內地の古俗を其のまま化石させて殘した物である〔五〕。

〔註第一〕增補語林『倭訓栞』の附錄『桑家漢語抄』(中山曰、此書は『和名抄』に引ける『揚氏漢語抄』とは異るも、同抄の序に載せたる其餘の漢語抄の一なるべしとの說が有る。)卷三に、「幣,ヌサ(沼佐),可書貫棒。有可神納,則貫捧(都良奴幾佐佐具流)之義也。」と有る樣に、幣の本質は、相當に容量に於いて、多く、品質に於いて種種なる物が在つたと見るべきであつて、現今の幣束は幣の後身ではあるが、此れを以て古代の其を推す事は出來ぬのである。
〔註第二〕「禮代(ヰヤジリ)」の語に、『文德實錄』天安元年二月乙酉改元の宣命に、「禮代の(乃)大幣帛を(乎)令捧持。」と見え、『三代實錄』貞觀三年五月十五日の祈雨の告文に、「禮代の(乃)大幣帛を(乎)令捧持。」と有る。而して是等の記事には、やや「禮代(ヰヤジリ)」が第二義的の御禮の意味に使用されてゐる。
〔註第三〕荷前の起原に就いては、伴翁の記事細註に引ける『皇代略記』持統天皇段裡書に、荷前事初此代云云と有るが、此れは伴翁も言はれた如く、單に此れだけでは、徵證が不充分であるばかりで無く、『萬葉集』卷二に、久米禪師の歌として、「東人の、荷前の箱の、荷の緒にも、妹は心に、乘りにけるかも。(0100)」と有り、然も此禪師は、持統朝より古き天智朝の人であるから、其起原はずつと以前に在つたと見るべきである。
〔註第四〕前に引用した事の有る伊波普猷氏の『歌草子(おもろさうし)選釋』に據る。猶ほ同書に據れば、「歌(おもろ)」の中には、此外にも覡や、ヨタ(下級の巫女。)や、祝女(ノロ)(巫女。)の連中が租稅を取立てるのを謠つた物が有るとの事である。
〔註第五〕本庄榮次郎氏の『日本經濟史』租稅の起原の條に、『日本書紀』の一書に有る天照神が、天兒屋・太玉の兩命に敕して、「以吾高天原所御齋庭之穗,亦當御於吾兒。」と有るのや、『神武記』の「贄持」を租稅と見られてゐるが、私には後者は兔に角として、前者は遽に左袒する事が出來ぬので、わざと執らぬ事とした。



第六節 航海の守護者としての巫女

 『魏志』の倭人傳の一節に、

 其行來渡海詣中國,恒使一人,不梳頭,不去蟻蝨,衣服垢污,不食肉,不近婦人,如喪人,名之為持衰。云云。

 と有る。此持衰と稱する者の民俗學的研究は、相當に興味の多い問題ではあるが、其は茲には預るとして、此記事の「不近婦人」とは、船中に居る婦人を近付けぬと云ふ意味か、其とも陸上に在つても婦人を遠ざける程に慎んでゐるのかに就いて異說が有る〔一〕。併し、其異說も、直接本問には交涉する所が尠いので、深く言ふ事を避けるが、唯我が古代の遠洋航海の船中に、婦人が乘組んでゐた事だけは、明白なる事實である。倭武尊の妾(ヲウナメ)であつた橘媛が、走水海を渡る時入水された事は、有力に此事を證示してゐる。更に前に舉げた『欽明紀』に有る河邊臣瓊缶が婦甘美媛を、調吉士伊企儺が妻子葉子を、共に帶同して渡韓せる事も、此事實の存在を物語つてゐるのである。迥かに後世の記錄ではあるが、紀貫之の『土佐日記』等を見ても、女性が同船してゐた事は疑ふべくも無い。
 其では、此女性は、既述した如く單なる御陣女臈としての任務に服すだけであつたかと云ふに、其條でも言つた如く、實際は巫女の聖職に遵ひ、航海安全を守護すべき大役が負はされてゐたのである。我國でも、後世に成ると、血忌みの信仰から、女性を穢れた者として、乘船を拒んだり、又は乘客の數の奇偶に依つて吉凶を云ふ樣な習俗を生む樣に成つたが〔二〕、古代に在つては、此の反對に、遠路の航海には、必ず女性を同船させる慣習と成つてゐた樣である。而して此事を間接的にも示唆してゐる物は、(一)燒火明神の由來、(二)各地の御船神事に巫女が主役を勤める事、(三)俚俗に船靈と稱する信仰の民俗が其である。私は此れに就いて記述したいと思ふ。

一、燒火明神の由來と巫女

 我國各地に在る龍燈松の正體は、柳田國男先生に據つて、燈台の代用として、火を焚きし事が傳說化された物と判然した〔三〕。更に航海中暴風雨に遇ひ、難船を免がるる為に神に祈り、空中に火光を認めて救はれた物語は、聖火系(セントエルナ)の說話として、世界的に分布されてゐる事も判然した〔四〕。既に此二つの問題が解決されてゐる以上は、隱岐國知夫郡黑木村大字美田に鎮座する燒火神社(祭神は神名帳に有る比奈麻治比賣命。)の由來も、簡單に說明する事が出來るのである。而して茲に先づ燒火の神名を負へる事由を載せ、其後に祭神の正體を突き留めたいと思ふ。即ち『類聚國史』卷十延喜十八年五月丙辰條に、

 前遣渤海使外從五位下內藏宿禰賀茂麻呂等言:「歸鄉之日,海中夜暗,東西掣曳,不識所著。于時,遠有火光。尋逐其光,忽到嶋濱。訪之,是隱岐國智夫郡。其處無有人居。或云:『比奈麻治比賣神常有靈驗。商賈之輩,漂宕海中,必揚火光。賴之得全者,不可勝數。』神之祐助,良可嘉報。伏望,奉預幣例。」許之。

 と載せて有り、更に『諸社一覽』第七に、

 此社を離火(タクヒ)社と稱し奉る事、往還の船、闇夜の比惡風に遭ひ、或は潮に蕩ふに、船人身を清めて、此神社の方に向ひて離火を祈念すれば、忽然と火起て大なる炬火の如く成り、其時東西を辨(ワキマ)へ、船を直して岸に著る事を得る也、誠に奇異の神功也(續續群書類從本)。

 と有るので、神名の由來は明瞭と成つた。然らば此神火は何物かと云ふに、此れは『神名帳考証』四十四に、「此地邊號大山腰。此山上燒火之神歟。」と有る樣に、日本海に臨める山上で、火を焚いて燈台の代用をした物で〔五〕然も古く此燒火の役を勤めた物が即ち比奈麻治比賣命と呼ばれた巫女なのである。猶ほ知夫の郡名も、僧顯昭の『袖中抄』に據れば、知夫利(チフリ)神──即ち海中の道振の神に由る物である。


二、御船の神事と巫女

 神社の恒例と成つてゐる御船神事に、巫女が中心と成つて祭儀を行ふ習禮は夥しき迄存してゐるが、茲には重なる物二三だけを舉げ、以て古代に於けるる巫女が航海の守護者であつた事を証明する。而して是れが代表的とも思はるる物は、紀伊國新宮町の熊野速玉神社に行はれるハリハリ踊神事である。此祭は、每年十月の十五日を宵宮とし、翌十六日を本祭とするが、其十六日に神靈を龍頭鷁首の朱塗船(國寶。)に遷して、熊野川を溯航し、河心の御舟島と云ふ小島を巡幸する儀式有り、此神船を曳航するのが有名な熊野の諸手船である。此船は、大昔から同國南牟婁郡鵜殿村の迴船組合から出す事に成つてゐて、然も諸手船は赤い衣服に赤い頭巾を被つた老媼に扮した男子(插入の寫真參照。)が操るのであるが、其際に、女裝の者が一本の櫂を持つて船を漕ぐ樣な舞踏を為し、船中に居る他の二十餘人は囃し詞を合唱する〔六〕。そして此女裝の者が、古く巫女であつた事は言ふ迄も無い。斯うして一方に於いては神靈に祈つて加護を仰ぎ、一方に於いては舞踏して水手の勇氣を勵ましたのである。
 安藝の嚴島神社の延年祭は、昔は七月十四日の夜に執行された。地盤(船型。)と稱する臺中に、三尺餘の人形を裝束美しく飾り、人形の頭は例年七月二日に座主が拵へる。台の四方には、梅松櫻等を造り、幣を切り掛ける。薄幕に社役が鳴らす鐘を合圖に、東町・西町兩方より男子皆裸體散髮にて鬨聲を舉げ、我れ先にと釣り上げたる地盤の下に集り、伶官の曲が終ると地盤を下ろす。裸體の者、爭つて彼の人形を取らんとて、大混雜を極む。人形の首を取ると式を終るが、此首を取つた者は福が有ると云つてゐる〔七〕。此神事は他にも類例の多い年占の一種と見る迄に民俗化されてしまつたが、其でも其船型した地盤に飾られる人形が、巫女(嚴島社では此れを內侍と云ひし事は既述した。)の面影を殘してゐる事が偲ばれる。恐らく古い時代に在つては、巫女が關與した船祭であつたに相違無い。
 出雲の美保神社の青柴垣神事は事代主命の故事を傳へた物だけに、祭儀も嚴肅を極めてゐる。今に頭人を定めて四月一日から六日夜迄前義を營み、愈愈七日の祭日に成ると朝から神事が有り、やがて奏者番が御船が著いたと知らせが有ると、猿田彥・鈿女命に扮せる者が船迎に出て、續いて巫女二人(綾笠を被る。)が八乙女を從へ、編札(ササラ)・笛等の役向の者も御船に分乘して、古式の巫女舞をする。此れが終ると、總員御船より上陸し、初列は編札の田樂舞を先頭に、鼓笛の音に連れて、徐徐に巫女八乙女が進み、當屋の妻は屈竟の男の背に懸けた負棒(モリギ)を踏まへ、負はれながらに參社し、此外にも種種なる祭儀が有つて終るのである〔八〕。そして此神事は頭屋の妻が古代の巫女の名殘りを留めてゐるのであらうと思ふが、其を言ひ出すと長文に成るのと、且つ其れ迄言は無くとも、航海と巫女の關係が克明に存してゐるので、今は略すとした。


三、船靈信仰と巫女

 現に我國に行はれてゐる船靈(フナダマ)信仰は、支那に於いて發達した天妃信仰が、かなり濃密に織り込まれてゐる樣である〔九〕。其で茲には、出來るだけ我國固有の信仰を討(タヅ)ねて見たのであるが、其でも幾分か、天妃信仰の匂ひがする樣な氣がして成らぬ。私の學問の力では、此れ以上は及ばぬ所故、敢て陳吳と成つて後考を俟つとする。
 船靈──即ち船舶を守護する神に就いては、昔から學者の間に異說が有るも、良く是等の異說を舉げて考証した物は、高田與清翁の『松屋筆記』卷九に載せた『船靈神記』と思ふので、左に摘錄し、其後に私見を加へる事とする。曰く、

 船靈神は、何れの神に坐すと云ふ事定かならず、神名帳に津の國住吉郡船玉神社を載す、此れ、「船玉命と申す神也。」と云へど、確かなる書には見ゆる事無し。『續日本紀』(中山曰、天平寶字七年八月壬午條。)に、能登と云ふ船の船靈に、從五位の錦冠(カウブリ)を授けられし由(ヨシ)(中山曰、此れは船其の者を神格化したのである。)有り、『日本紀』神功皇后の卷には、住吉の和魂「往來の船を見ん。」と宣(ノリゴチ)給ひ。延喜式の使を唐に遣さるる時の祝詞には、船路の平かならん事を住吉の神に祈る由見え。『萬葉集』には「墨吉の、吾大御神、船舳に、領(ウシハ)きいまし、船艫に、御立たしまして。(4245)」と詠みたる等思渡すに、舟の守りの神は住吉の大神にて、(中略。)神功皇后の御魂を申すなるべし。亦廿二社注式の異本には、豐玉姬を申すとも海童を申すとも見え、(中略。)甲斐國吉田の神官達注式の異本の說を諾(ムベナ)いて、豐玉姬を船靈の神とし齋き祭(マツ)る事久しく、此祈りの驗(シルシ)を斯う觸れる物多かりとなん。豐玉姬は海神の女にて彥火火出見尊の御妃也。此度其御方を畫き、余に事書添へてとこふままに、文政の初めの年十二月朔日。(中略。)高田與清記す。(以上、國書刊行會本。但し句讀點を加へ假名を真字に書き改めた所が有る。)

 此れに據ると、與清翁自身は、船靈神とは住吉三社に神后の御魂を添へたる物と信じてゐるのであるが、依賴せる者は豐玉姬の御姿を畫いて持參したので、姑らく此姬を船靈神としたと云ふ結論に達するのである。斯く船靈神は大昔から一定せぬ上に、佛家では『元亨釋書』に有る如く、華嚴經の守夜神を船神とし、叡山では新羅明神が僧最澄の船を守護したので、此れを船神と為し。更に俗神道家は猿田彥命を船靈と稱し、此れに加ふるに支那の道家の天妃が持ち込まれたのであるから、其混雜は一通りや二通りでは無いのである。併しながら、此混雜中にも、やや一貫してゐる信仰は、豐玉姬と云ひ、神后と云ひ、畏き事ながら、兔に角に女性が其中心と成つてゐる事は關心すべき點である。
 『松屋筆記』卷六九に引用せる『船長日記』卷上に、

 船玉とは船の主(ヌシ)也。帆柱を立る筒の下に納め置く事也。神雛一對、其の船主の妻の髮毛少し、雙六の賽二(原註。賽(サイ)目の置方在り。)此三品を納め置くを船玉と云ふ也。

 と記し。更に同書の他の一節とて同卷に引用せる物には、

 紙鬮を以て大神宮の神敕を伺て事を圖る也。此の紙鬮と云ふは、一升桝に米八合程入れ、紙を一寸四方に切て思ふ事を書付け、丸めて其上に置き、扨大神宮を念じて一萬度の御祓を其上に翳(カザ)さば、丸めたる紙の中一つ飛び上がりて御祓へ付也。其を見て知る事也、此御告は些(イササ)かも違ふ事無し。されば日本の船頭は、大神宮の神託のみにて、船を乘り侍る也。

 と有るのは〔十〕、此れ又畏き事ながら、大神宮が女性であらせられる為に、斯うした信仰が生れた物と察しられるのである。而して更に一段と想ひを潛める時、斯く女性である神神が船を守護し、延いて船靈と迄崇拜される樣に成つた根本的の理由は、古く巫女が船に乘つてゐた事を示唆した物と考へるのである〔十一〕。 船靈の象徵である賽の置き方に就いては、『天野政德隨筆』卷一に載せて有るが、此れは左程に必要の事とも思はれぬので省略するが、同書に『秉穗錄』を引用して、

 船中に祭る船靈は十一面觀音也。女人の白髮數莖と雙六の采二つ。(中略。)大觀通寶四五錢、同じく箱に入れて檣の下に納め置く、大觀は觀音に象ると云ふ。(隨筆大觀本。)

 と有るのは、少しく注意すべき記事である。女人の白髮と共に、十一面觀音を併せ信じたのは、此觀音が女性であつたからで、佛教の渡來等よりはずつと以前から船靈は女性であると考へられてゐるので、後に觀音が附會されたのである。但し大觀通寶を觀音を象る物と見たのは『秉穗錄』の筆者の思ひ過しで、此れは單に、錢には除魔の呪力有る物と信じたと見るべきである〔十二〕。
 而して此信仰が、民俗として現存してゐるかと云ふに、『民族』第二卷第五號に、

 陸中大槌地方船(櫓船でも發動機船でも。)を新造すると、必ず御船靈樣を奉祀する。船靈には無邪氣で健康な女の子(十五歲以上は無い、七・八歲位が多い。)を申請ける。そして其子の髮の毛を貰うて來て、人形(紙製三四寸位。)と錢(以前は天保錢一枚位であつたが、今は五十錢銀貨位を用ゐる。)と共に、船靈座(船の中央龍骨に張れる橫木に帆柱を立てる基底を為す處。)に納めて奉祀する。そして漁に出てしけ(荒天。)でもすると、船靈に祈願を込める。漁が有ると、先づ船靈へ捧物をする。例へば、鰹であると、其のホツキ(心臟。)二つを捧げる。船靈樣に申請けた女の子には、船降し(進水祝。)の時は、反物位、漁有る每に魚の付け届をする。

 と有るので、其大體を知る事が出來る〔十三〕。猶ほ筏乘りの信仰にも女性を考へさせる習俗が有るも、其には及ぶまいと思ひ、總てを省略した。
 斯くの如く、船の守護神であつた巫女も、後には時勢の變遷に依つて船から下りる樣に成つたが、猶ほ其でも津口埠頭に於いて、航海者の安全を祈る事を忘れ無かつた。やや後世の記事ではあるが、平安朝に編纂された『本朝無題詩』卷七(群書類從本。)に、左の如き詠詩が載せて有る。

於室積泊即事 釋蓮禪

 扁艇東行隋汎乎      此津波泊悉名區
 煙郊寺裡轉經聲【※註一。】  水市社前賣卜巫【※註二。】
 潮潟暮松青滉瀁      嶺銜曉月白崎嶇
 可憐漁釣罪根重      千介萬鱗民戶租

※註一:○原註略。
※註二:此泊有古社,稱八幡,別當止住。老巫叩皷賣卜,往反之船問安否仍與糧。故云。

 室積は周防の一要津であつて、然も瀨戶內海に於ける殷賑の地であつた。されば古代より、巫娼の定住所として聞え、彼の有名な播州書寫山の僧性空が、生身の普賢を拜まんとて神崎に赴き、遊女普賢を見し時長者が唱えた今樣にも、「周防室積(ムロヅミ)の中なる見たら井に、風は吹かねども細(サザ)ら波立つ。」と有る程で、此處に巫女の落伍者が、卜を賣つて渡海の平安を祈つたのは、當然、有り得べき事象なのであつた。

 固有呪法時代に於ける巫女について、其全體を盡すには、未だ幾多の問題が殘つてゐる事と思ふが、以上で其概略を述べたと信ずるので、此處に第一篇を終る事とした。猶ほ、缺けたる所は、第二篇以下で補ふ事は言ふ迄も無い。

〔註第一〕昭和四年三月發行の『考古學雜誌』に於いて、橋本增吉氏は、倭人傳中の生口(中山平次郎氏の論文を反駁せる物。)に就いて論じた際に、此の「不近女」の一句に對して、船中に婦人は居ぬと云ふ意味の事を述べられたが、併し倭人傳の記事から云へば、船中に女は居ても、近付けぬと見る方が穩當の樣である。
〔註第二〕後世に成ると、乘客以外の女性を船に置く事は絕對に禁じられ、稀には乘客でも女性なるが故に謝絕される事すら有つた。室町末期に書かれたと思ふ『奇異雜談集』には、乘客の奇數を忌んだ事すら載せてある。
〔註第三〕柳田國男先生の『鄉土研究』第三卷第四號に揭載した「龍燈松傳說」の考覈は、古く臨時燈臺として、山頂亦は水邊で柱松を焚いた事を明確にされた有益なる記事である。
〔註第四〕航海中の船が暗夜暴風雨に遇ひ、金毘羅神を祈つた所が、空中に火を認めて助かつたと云ふ說は、屢屢耳にする處であるが、此事は殆んど世界的に存してゐて、科學上では空中電氣の發光だと說明し、今では聖火(セントエルナ)系の傳說として取扱はれてゐる。
〔註第五〕隱岐の燒火明神は、其祭神が女神である事から、此神が古く巫女として船舶を守護したので、斯かる信仰を生じた事と思ふが、更に想像を逞うすれば、此地の山上で火を焚く事の起原は、或は對韓關係から發火を以て信號とした古俗の殘つた物かも知れぬ。
〔註第六〕雜誌『民俗藝術』創刊號の口繪說明及其他。
〔註第七〕『藝藩通志』卷一四。及其他。
〔註第八〕前揭『民俗藝術』第一卷第四號。
〔註第九〕天妃信仰に就いては、各地の地誌類に見えてゐるが、支那と內地との物を併せ記した物では『松屋筆記』卷六九「船靈」條が詳細を盡してゐる。
〔註第十〕『船長日記』は、私は未見の書であるが、『松屋筆記』卷六〇に記す所に據れば、文化十年十月に尾張の船頭重吉が航海中難風に遇ひ、異國に漂いし始末を、文政五年十一月に池田寬親が聞書した上・中・下の三卷本との事である。
〔註十一〕女子の性器から連想して、船は女性であると、外國では言つてゐるさうだが、我が古代には、此思想の存在は積極的には發見されぬ。性器崇拜としても、船を女陰の象徵とした事は、私の寡聞の為か、日本の古代には見出されぬのである。
〔註十二〕通貨に除魔の呪力有る物と信仰した事は、古くも有り、且つ廣く行はれてゐた。寺社の建築に繪錢を撒いたり錢を持つてゐれば邪氣を防ぐとか言うたのは、皆此れが為である。從つて大觀通寶を觀音と考へるのは、觀の連想以外には根據の弱い說である。
〔註十三〕喜多村信節翁は其著『嬉遊笑覽』卷二器用部船玉の腳註に於いて、「本邦にて今俗に船玉を女とするは非也。」と言ひ、「此俗は、支那の天妃信仰を受け容れたる物にて、古くは住吉神が船玉也。」との意を述べてゐるが、私には承認出來ぬ。其理由は本文に述べた如くである。
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