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第四章、巫女史の材料と其採集方法
 巫女史は、各種學問に關係を有してゐるので、其材料の如きも、寧ろ多きに過ぎはせぬかと豫想したのであるが、さて、其等の材料を蒐集して見ると、此予想は全く裏切られて、卻つて其乏しきに一驚を喫した。此れは勿論、私の寡聞と、尚涉獵の足らぬ事に由來するのであるが、今の所では奈何にもする事が出來ぬので、不十分な材料を以て、自ら揣らず、敢て此稿を起した。而して私が、本史に採用した材料は、(一)巫女の遺跡から得た物、(二)巫女の使用した遺物から得た物、(三)巫女に關する記錄、(四)學友に設問して得たる報告又は談話、(五)巫女に關する慣習等であつた。以下此れに就いて、猶ほ詳しく記述したいと思ふ。



第一節 巫女の遺跡的材料

一、集團生活地たる巫女村

 江戶期に編纂された地誌類を繙くと、各地に巫女村(ミコムラ)と稱する部落の存した事が載せて有る。就中、信濃國小縣郡禰津(ネツ)村には、四十八戶の巫女の親分とも云ふべき者が家を並べて住んでゐた。俚稱は此所を禱巫(ノノウ)小路と呼んでゐた。紀伊國西牟婁郡田邊町にも巫女が多く、近郊の西谷字中西の下から西へ十五六軒、港村字小泉・三栖村字岡・萬呂村(以上同郡。)等を數へると、四十軒以上も在つたと云ふ。壹岐國等でも、あの貓の額程の所で、命婦女(イチジョウ)と稱する巫女が、四十八竃有つたと稱してゐる。更に大阪天王寺の巫女町(ミコマチ)や、東京龜井戶の巫女町等も、共に軒を並べて營業してゐたのである。斯うして、巫女が集團的に生活を營んでゐた事に就いては、段段と說明すべき理由も存してゐるが、其は後の機會に讓るとして、兔に角に斯く密集してゐた土地は、先づ遺跡として、巫女に關する幾多の材料が殘されてゐるのである。


二、巫女が開拓した村落

 漂泊を續けて來た巫女が、其生活に倦怠を感じ、背に負ひたる笈を、神箱に托して土に下(オロ)して、芝を起し、草分けと成つた村落も有る。更に、巫女が開墾したので、其土地を神子垣內(ミコカイト)と稱する地方も有り、巫女の居所を巫女(イタコ)屋敷と云ふ土地も有り、巫女が呪術を行うた場所を神子塚(ミコヅカ)と稱して保存した地方も有り、此外に、巫女を人身御供として水底に葬つた場所とか、巫女が行路に死をを遂げて祟りをするので塚を築いたとか云ふ種の物も、各地に涉つて相當に存してゐる。而して是等の一一が巫女史の材料として相當に役立つてゐる事は言ふ迄も無い。


三、巫女關係の神社と寺院

 巫女の最初は神其(ソレ)自身であり、降つて神と人との間に立つ靈媒者と成つたが、何れにしても、巫女が神性を多分に有してゐた事は明白である。從つて、是等の巫女が、或は神妻として、又は神母として、神に祭られ、社に齋かれるのは少しも不思議は無い。各地に殘つてゐる神子神(ミコカミ)、又は姥神(ウバカミ)なる物は、概して巫女關係の物である。而して、巫道が佛教と習合して、巫女が比丘尼と呼ばれる樣に成り、呪具に珠數を用ゐる樣に成れば、自然と寺院に關係を有つ樣に成るのは當然である。殊に、其以前から、社僧と稱する者が、神前に於いて讀經する程に神佛が混糅し、神宮寺が名神大社を支配する樣に神佛が合一され、法師巫(ホウシミコ)と云ふ兩性的の呪術者さへ出してゐるのであるから、巫女と寺院の交涉も、又少しも不思議では無いのである。而して是等の遺跡が、多少とも巫女史の材料を提供する事は勿論である。


四、巫女の化石傳說

 我國には巫女が化石したと云ふ傳說が各地に有つて、然も其化石なる物が、今に殘つてゐる。巫女が多く化石したと云ふ傳說を生むに至つた理由に就いては、後段に詳述する機會もあらうと思ふので、此處には略すが、猶ほ化石せぬ迄も、巫女石(ミコイシ)と稱する物も、各地に在る。是等の怪石譚は、元より傳說であるから、巫女史の材料としては、必ずしも信用すべき限りでは無いが、併しながら、是等の傳說を生んだ時代の、民間信仰なり、又は民族心理なりを察知する上に於いて、相當の役割を勤めてゐる。此れ私が、傳說だからとて無下に棄て去らず、好んで材料として採用した所以である。



第二節 巫女の遺物的材料

 巫女の遺物的材料も、猶ほ左項に分けて記述する事が出來る。



一、巫女の使用した遺物

 巫女が使用した呪具には、其師承の流儀に依つて種種なる物が有るも、就中、外法箱(ゲホウバコ)、弓、珠數等を舉げる事が出來る。外法箱(壹岐の巫女が用ゐる此種の物をユリと稱してゐるが、此れは我國の古き面影を殘した物である。)の大小とか、製作の精粗とか云ふ事は、其流儀により、階級に依る物で、學問的には、元より價值の尠い物であるが、此箱の中に納めた呪神に就いては、相當に考慮を要すべき幾多の問題が伴つてゐる。弓は、巫女の一名が梓巫女(アヅサミコ)と言はれる程であるから、梓弓を最も古い物とし、桑弓、南天弓、竹弓等六種有ると傳へられてゐる。一般には竹弓が用ゐられてゐたが、其弓も、巫女の俚稱に、大弓、小弓と有る如く、二三尺程の物も有れば、六尺二分のも有り、更に壹岐の巫女は、八尺のを用ゐたと有る。弦は婦人の髪の毛を麻へ撚合せた物を用ゐたと云はれ、撥は柳木を一本用ゐるのと、竹棒を二本用ゐるのとの別は有るが、學問的には深い意義が無いので略述する。珠數には、東北地方のイタコ(巫女)が專用した最多角(イラタカ)の珠數と稱した物と、江戶の田村八太夫とて、關八州及び甲信奥の一部の巫女の取締をしてゐた者の流儀に屬する巫女の用ゐた切り珠數との二種有る。此れは呪具としても、遺物としても、相當に價值有る物で、其詳細は後段に記述するが、是等の遺物が直ちに巫女史の材料である事は言ふ迄も無い。


二、巫女に關する墓碑

 琉球の祝女(ノロ)が死ぬと、其葬儀にも、墓地にも、更に埋葬の方法にも、常人と異る物が有ると、記錄に見えてゐるが、內地に在つては、斯かる區別は無い樣であるが、私の乏しき知識から云ふと、巫女の墓碑は、其形式に於いて、更に之(コレ)に彫刻して有る戒名に於いて、少しく常人と異る所が存してゐる。是等は材料としても量が少く、質も亦餘りに價值有る物とは思わぬけれども、多少とも參考と成る物が有るので敢て採用した。


三、巫女の呪言を留めたレコード

 明治期に人情噺の大家として聞えた故三遊亭圓右は、良く「とろろん」と題せる落語を高座で演じた者である。此噺の中(ウチ)には、巫女の神降し文句が、巫女獨特の調律(リズム)で述べられるので、私の樣に巫女に興味を有してゐた者にとつては、相當に趣(オモムキ)の深い物であつた。然るに圓右が殁し、落語が衰へる樣に成つてから、之(コレ)を演ずる者も無く成つて了(シマ)い、今では全く泯びて了つた物と思ふと、少しく殘り惜しい樣な氣がする。
 信州に巫女の流行した時代の老人から聞くと、巫女が調律的(リズミカル)に唱へる呪言は、恰も今日の浪花節の樣に面白く、愉快に耳に響いた物であると言つてゐる。殊に同地方の巫女は、概して年若の美人であつて、旁ら賣笑を兼ねてゐた位であるから、嬌音を滑かに朱唇より漏らす所、かなり若人(ワコウド)の意馬を狂はせた物らしい。更に常陸の持方で聞いた話に據ると、巫女の呪言は明治初期の軍歌を聽く樣で、誠に勇壯であつたと云うてゐる。巫女の呪言の文句も、調律も、其流儀により、元より一樣では無いが、兔に角に斯うした聲調も段段と聽く事の出來無く成つた所へ、富士松加賀太夫が、富士松節(俗に新內節と云ふ。)で東海道膝栗毛の「日坂宿巫女の神降しの段」の一節を蓄音器のレコードに吹込んで殘してくれた事は仕合せであつた。加賀太夫の節調は、私の耳聞した物とは趣を異にし、聽く人を夢中に誘込む樣な眠むたい物であるが、併し其が故圓右の物と稍(ヤヤ)同じ調子である事を知る時、江戶を中心として行はれた巫女の呪言の節調(勿論長い間に多少とも詰り歪(ユガ)められてはゐようが。)であつた事が察知されるのである。



第三節 巫女の記錄的材料

 巫女史學に關する史料に就いては、前章に於いて略述したが、此處には更に補足として、記錄の材料に關して述べるとする。



一、直接的と間接的との材料

 獨り巫女史に限つた事では無いが、史學の記錄には、直接的の物と、間接的の物とが存してゐる。此れを巫女史に就いて考へて見るも、(一)直接的の物としては、前記の巫女關係の記錄は言ふ迄も無く、更に雜誌にあつても『人類學雜誌』や『風俗書報』や、其他『鄉土研究』や、『歷史と民族』や、『民族』等に揭載された物の中には、かなり多數の材料が存してゐる。(二)間接的の物に在つては、古くは『令義解』や『集解』に收めて有る巫覡に關する法令、及び歷代の是等に對する取締の條文等を始めとし、新しい物では西村真次氏の『萬葉集の文化的研究』中の「土俗學的考察」と題する一章や、武田祐吉氏の『神と神を祭る者との文學』や、坂野健氏の『記紀時代歌謠の呪的宗教的要素に就て』や、更に加藤玄智・中村古峡氏共著の『豫言者と憑依』や、南方熊楠氏の『詛言に就いて』等は、又相當に材料が載せて有る。私は以上の直接間接の材料を按排して、本史の骨子を組み立てたのであるが、此點に關しては、深く先輩の研究に敬意を拂ふ者である。


二、巫女に關する新聞記事

 新聞記事は、日日の社會現象を報道するに留まる物であつて、其が直ちに、學問の資料として幾何の價值を有してゐるかに就いては、異論も有る事と思ふが、私が本史に引用した新聞記事は、其性質に於いて、單純なる報道記事とは多少とも趣を異にしてゐる物と考へたので、私は何の躊躇も無く(勿論其內容を嚴重に批判して。)之(コレ)を採用する事とした。
 新聞は概して日刊であるだけに、雜誌に比較すると、紙面が多いので、かなり詳細に、委曲に、幾日かに亘つて、連載する便宜を有してゐる。記事が學問的で無い欠點は有るけれども、眼前の事象を書く物故、作為の加はらぬ所に長所が有る。主要記錄とは成らぬ迄も、補助記錄として重要な物が有る。私が採用した『都新聞』連載の「巫女の話」や、更に『長野新聞』連載の「巫女の話」等は、此れ以外には殆ど絕對的に知る事の出來ぬ內容が盛られてゐるので、實に尊むべき記錄であると信じてゐる。


三、學友から集めた資料

 此れは私が今回試みて見た一種の便法であつて、自分ながら、稍(ヤヤ)非學術的である事は承知してゐたが、材料の不足を補ふ為と、廣く各地の狀態を知りたいと思うて、餘儀無く此窮策に出た次第である。私は敢て辯解をするのでは無いが、巫女に關しては、長い年月を要して絕えず材料を集めてゐたが、遂に思ふ十分の一も集める事が出來無かつた。
 併し此れは、其集まらぬのが當然であつて、集めようとした私に無理のある事を自覺した。從來の文獻學者の弊は、何事でも書物さへ見れば釋然すると云ふ、誤つた態度である。換言すれば、書物に書いて無い事は、悉く信用出來ぬと云ふ、書物萬能論であり、文獻過重主義の短見である。實は、私も此僻見に捉はれてゐて、巫女に關する事も、書物さへ讀めば判明する物と盲信して、自ら老體に鞭打ちつつ、日頃手から書物を釋く閑も無い程に讀み續けて來たのであるが、さて、其結果は如何であつたかと云ふと、巫女の地方稱すら、完全に集め得ぬと云ふ結果であつた。私は自分の態度の誤つてゐる事に、遲まきながら氣が付いたので、各地方に現存してゐる巫女の材料を集めようと企てたが、併し私には、馬可波羅(マルコポーロ)や、弘法大師程の大旅行家たる資格は無く、良し資格が有つたとしても、一一實地に就いて調査する事等行はれぬ事と考へたので、餘儀無く各地に在る未見及び曾識の學友に訴へて、

一、貴地方では巫女の事を方言で何と云ふか。
二、巫女は盲人か晴眼者か、土著の者か漂泊の者か。
三、巫女の神降しの文句、及び呪術の作法。
四、巫女の修業と師匠との關係。
五、民家で巫女を賴むのは如何なる場合か。
六、巫女の生活及び社會的地位。

 等の設問を發して、此れが報告を煩した次第なのである。
 私の此不躾なる質問に對し、微意の有る所を高諒されてか、多くの未見及び曾識の學友が、多忙の間を割いて詳細なる報告を寄せられた事は、私として寔に感謝に堪えぬ次第である。就中、磐城國石城郡上遠野村の上遠野小學校長佐坂通孝氏は、大正十五年の初夏五月と云ふに、私の為に三里餘も有る山路を二度迄も巫女を訪ねて、貴重なる材料を惠與された。信州上田中學に在職中の角田千里氏は、同じく私の為に數里を隔てた小縣郡禰津(ネツ)村迄出張されて、委曲を盡した報告を二回迄惠投された。そして筑前國嘉穂郡宮野村の桑野辰夫氏は、數回に及んで巫女を尋ね、私としては到底手に入れる事の出來ぬ有益なる材料を惠送された。私は唯唯、感涙に唳ぶより外に御禮の言葉も無いのである。
 併しながら、友情と學問とは、全然區別し無ければ成らぬ。學友から寄せられた報告であつても、其が學術的で無いと信じた物は、斷乎として排拒するに吝なる物では無い。好意に反くの罪は大なるも、學問の為には代へられぬので、私としては材料を批判し、嚴選するに就いて、充分の注意を拂つた事は勿論である。此點に關しては、遍へに學友各位の賢諒を冀ふ次第である。



第四節 巫女に關する慣習的材料

 巫女の慣習に關しては、此れを三つに區別して見る事が出來る。(一)巫女自身に關す物と、(二)同じく巫女の性的方面の物と、(三)巫女に對する社會との其である。私は此觀點から、此れに就いて記述する。



一、巫女自身に關する慣習

 巫女は代代母子相續──即ち母系相續を以て原則とし、必らず血液の繼承を基調としたのであるが、此慣習は夙く泯びて、後には師匠・弟子の關係で相續する樣に變遷した。此れには又、相當の社會的事情が存してゐるのであるが、其より更に考へて見無ければ成らぬ問題は、古く巫女は晴眼者であつたのが、中世からは盲女が多きを占める樣に成り、殊に東北地方に在つては、巫女は盲女に限ると云ふ慣習を生んだ事である。由來、感受性に富み、神經的(ヒステリカル)な性情を多分に有してゐる女性が、男性に比して靈媒者たる可能性を有つてゐる事は言ふ迄も無いが、其を盲女が好んで營む樣に成つたのは、(一)盲人なるが故に、雜念を去り、精神を統一するに一段と都合が宜かつた事、(二)婦人──殊に盲女の職業が乏しかつた事、(三)師匠と云はるる者が、後繼者として、幼き盲女を養子として迎えた(實際は人身賣買的に買入れたのも多いらしい。)事等が、此慣習を根強くしたのと思はれる。中世以降は、婦人の職業と云へば、晴眼者なれば、賣笑婦と成るか、下婢と成るか、其以外には無かつたとも云へるのである。盲女にあつては、音樂が普及されず、按摩導引の道が開けてゐ無かつたので、斯うした營みをするより外に致し方が無かつたので、遂に是等の事情が步み寄つて此慣習と成つたのである。


二、巫女の性的方面の慣習

 巫女は神と結婚すべき約束が有つたので、人間である男子を夫とする事は許されてゐ無かつた。從つて獨身を原則とし、桂馬式に、(此事に就いては本文に詳述する。)姪を以て相續させるのを慣習とする時代さへ有つた。此處に巫女の性的方面に於ける幾多の民俗學的の慣習が生じたのである。而して神寵の衰へた巫女や、神戒に反いた巫女が墮落して、所謂巫娼なる者に變つたのは、彼等としては當然過ぎる程の歸結であらねば成らぬ。殊に、若い女性が、減退した古い信仰を言ひ立てて、漂泊の旅を重ねてゐるのであるから、男性の方から誘ふ水が無くとも、彼等の方から謎を掛け無ければ成らぬ程の、物質上又は肉體上の要求が有つたかも知れぬ。僧無住の『沙石集』に、熊野巫女が山中で山伏に會うて不淨を為し、巫女は鼓を鼕鼕と打鳴らして、「再び斯かる目に遇はせ給へ。」と神を念じたと有る光景は、或は隨所に行はれた茶飯事に過ぎ無かつたであらう。平田篤胤翁が此種の材料を蒐集して著した『古今妖魅考』等を讀むと、私が斯う云ふ事の決して誇張で無い事が知られるのである。巫女が「旅女郎(タビジョラウ)」の俚稱を負うたのも、強ち冤罪とばかりは言へぬのである。


三、社會の巫女に對する慣習

 巫女は一般社會から恐れられてはゐたが、決して親しまれたり、愛せられたりしてはゐ無かつた。而して其理由は三つ舉げる事が出來る。

 第一は、巫女は神に仕へてゐる為に、自由に神を驅使する者として、換言すれば、犬神(イヌガミ)なり、管狐(クダキツネ)なりを、(是等の詳細は本文に述べる。)思ふがままに他人に依憑せしむる事が出來る者、更に換言すれば、巫蠱の厭魅を行ふ者として恐れられた。

 第二は、漂泊者なる故を以て恐れられた。昔の世間は旅の者には油斷をし無かつた。何處の馬骨だか知れぬと云ふ者に對しては、常に警戒と疑惑の眼で見るのであつた。又實際に旅者は何をするか知れた物では無かつたのである。村民の多數の生命を奪ふ樣な惡疫も、概して旅の者が持込んだ物である。平和な村人の心持を不安に陷れる樣な蜚語も、多くは旅者が齎らした物である。此れでは田舍度會(ワタラヒ)する巫女が恐れられたのも無理からぬ事である。其では巫女も漂泊を止めて、早く土著したら宜からうと云ふに、此れには又さうさせぬ事情が潜んでゐたのである。其は古い俚諺に、「他國坊主に國侍」と有る樣に、靈界の仕事に從ふ者は、餘りに素性が知れてゐたのでは有難味が薄い。遂(ツイ)二三年前迄青鼻汁垂(アヲバナタ)らして子守りしてゐた少女が、僅かの修業で巫女に成つたと云うても、其では世間の人が信賴してくれぬ。理窟では承認しても感情が許容せぬ。少しく比喩が大き過ぎて、鰯の譬(クセ)に鯨を出す樣であるが、豫言者が故鄉に容れられぬのも、此理由に過ぎぬのである。而して此理由は巫女の身の上にも移して言ふ事が出來るので、彼等が他國人として嫌はれ、漂泊者として疎(ウトマ)れながらも、猶其生活を續けて來た所以である。

 第三の理由は、巫女は病毒の傳播者たる故であつた。即ち惡種の性病の持主として恐れられたのである。出雲の巫女お國に關係した結城秀康が、狂死したと云ふ史實が雄辯に總てを物語つてゐる。古川柳に、「竹笠を被りXXXを寄せる也。」と有るのは、巫女の性的方面を喝破した物である。

 以上の三つの理由を主たる物とし、此れに幾多の從たる理由が加つて、遂に巫女を趁うて特種階級の賤民と迄沈落させたのである。猶ほ巫女の慣習に就いては、民俗學的に記すべき問題が殘されてゐるが、其は本文に於いて機會の有る每に述べるとして今は省筆する。
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