第三章、巫女の用ゐし呪文と呪言

 古代の巫女が、呪術を行ふに際して用ゐたる物に、呪言と呪文との區別の有つた事は、極めて朧げながらも、看取する事が出來る樣である。私は此の標準を、呪文は巫女が神に對して用ゐし物、呪言は人に對した物として區別したいと思ふ。勿論、此區別は、國語を有してゐても、國字を有してゐ無かつた古代の分類法としては、全く無意味であつて、呪文と云ひ、呪言と云ふも、共に言語を以て現はされてゐるのであるから、廣義に見れば、二つの間に區別を立てる事は困難なのである。併しながら、巫女の有してゐた言語感情──獨り巫女ばかりで無く、當時の社會が一般に有してゐた言語感情から云ふと、一種の歌謠體を借りて、三・四句又は五・六句の辭を續け聯ねて言ふ物は呪文であつて、後世の祝詞は此れより生まれたと考へたい。此れに反して、一語か二語で獨立してゐる物は呪言であつて、後世の「呪(のろ)ひ」又は「詛(とご)ひ」等云ふ物は、是れに屬する物と考へられぬでも無い。
 以上は、呪文と呪言とを形式上から見た分類であるが、更に內容上から分類すると、概して呪文は善惡の兩方に用ゐらるるも、呪言は惡い方に多く用ゐらるる傾きを有してゐる。私は、不充分ながらも、斯うした態度で、巫女の用ゐた呪文と呪言との考覈を進めたいと思うてゐる。唯、實際問題として、困惑を感ずる事は、私の寡聞から、古代の徵證が男覡に多くして、巫女に尠いと云ふ點である。が、此れは我國の文獻なる物が、母權時代を迥かに過ぎた父權時代に製作された為に、巫女に薄くして覡男に厚いのは、何とも致し方の無い事と考へるのである。

第一節 古代人の言靈信仰と其過程

 言語が人類の間に發達して行くに連れ、人は此れに對して一種の威力を感ずるに至つた。而して此言語感情は、言語を善用するに依つて幸福を齎し、此れを惡用するに依つて災禍を受ける物と考へさせる樣に成つた。茲に言語の善惡が生じ、禁忌(タブー)が起り、善言は祝言亦は壽辭と成り、惡語は忌詞と成り、詛言と成り、遂に言語には靈在る物と信ずる所謂言靈(コトダマ)信仰を生む樣に成つたのである。
 我が古代人が如何に言語に對して神經過敏であつたか、其れを證據立てる史料は夥しき迄に存してゐる。伊勢皇大神宮に於ける忌詞や〔一〕、國造でありながら、用ゆべからざる言語を用ゐた為に、極刑に行はれんとした事件等は〔二〕、共に其の一証として舉げる事が出來る。殊に、民間に於いては、此忌詞の禁忌(タブー)は、嚴重に守られてゐた物と見えて、旅行の留守に遣つて成らぬ忌詞とか、狩獵する折に用ゐるを避ける去り詞等が存し、殊に男女關係に在つては離れるとか切れるとか云ふ語を特に嫌つた物である。『萬葉集』卷十三に、「菅根の、慇懃(ネモコロゴロ)に、吾が思へる、妹によりては、言(コト)の禁(カミ)も、無くありこそと、齋瓮を、齋ひ掘据ゑ、竹珠を、間無く貫垂り、天地の神祇(カミ)をぞ、吾が祈(ノ)む、甚(イト)も術無(スベナ)み。(3284)」と有るのは、即ち其れである。
 言靈に關しては古くから說を立てた者が頗る多く、遂に原始神道を此方面から說かうとする言靈學とも云ふべき物の一派を出す樣に成つたが、所詮は言語に靈が在る物とする信仰に外成らぬのである〔三〕。而して此言靈が文獻に現はれた物では『萬葉集』卷五の山上憶良の好去好來の長歌の一節に「神代より、言傳(イヒツ)て來らく、虛空見(ソラミ)つ、大和國は、皇神の、嚴(イツク)しき國、言靈の、幸ふ國と、語繼ぎ、言繼がひけり。(0894)」と有るのや、同集卷十三に柿本人麿の長歌の反歌に「敷島の、大和國は、言靈の、たすくる國そ、まさきくありこそ。(3254)」と有るのが、其れである。併しながら、是等は一般的に、且つ消極的に、言靈の存在を信仰した迄であつて、未だ此言靈を呪術に利用すると云ふ積極的の思想は現はれてい無いが、前に載せた同集第十一の「言靈の、八十衢に、夕占問ふ、占正に告(ノ)れ、妹に逢はんよし。(2506)」と有るのは、此れを呪術に用ゐた一例である事は既記の如くである。而して斯く言靈信仰から導かれた當然の結果として、祝言と呪言との區別を生じ、前者は吉事に用ゐられ、後者は凶事に用ゐられる樣に成つたのである。

〔註第一〕 延曆の『皇大神宮儀式帳』は、仔細に內容を檢討する時、延曆よりは時代の降つた頃の編纂と考へられるが、其の詮索は本問に關係が少いので姑らく措くとするも、神宮の忌詞にあつては、『延喜式』にも載せて有る事故、先づ正しい物と見て差支無い樣である。而して其忌詞は、「齋宮式」に據れば:「內七言,佛稱中子(ナカコ)、經稱染紙、塔稱阿良良岐(アララキ)、寺稱瓦葺、僧稱髮長(カミナガ)、尼稱女髮長、齋稱片膳(カタシキ)。外七言,死稱治(奈保留)、病稱休(夜須美)、哭稱鹽垂(シホタレ)、血稱汗(阿世)、打稱撫、宍稱菌、墓稱壤。又別忌詞,堂稱香燃、優婆塞稱角筈。」と有る。
〔註第二〕『允恭紀』二年春二月條に、闘雞國造が皇后忍坂大中姬命が未だ入內せぬ以前に、蠛(マクナキ)の一語を發した為に、昔日の罪を數へて死刑に行はれんとし、國造の陳謝に依り、死を許し、姓を貶して、稻置とした事が載せて有る。
〔註第三〕言靈語學の發生や、沿革に就いて、茲に言うてゐる餘裕を有たぬが、雜誌『藝文』第十二年第三號に載せた佐藤鶴吉氏の「言靈考」は、其等に及んでゐるので參照を望む。



第二節 祝詞の呪術的分子と呪言の種類

 我國の祝詞(『延喜式』に載せた物及び『台記』の別記に在る壽辭を含めて。)なる物が、其本質的に呪文としての思想が多分に盛られてゐる事は、深い說明の要はあるまいと思ふ。一二を言へば、新年祭に、御年神に、「白き馬、白き豬、白き雞」を備へた事は、即ち古き呪術が祝詞に殘つた物である。朝廷で、白き豬の捕れぬままに、祈年祭を延期した例は幾度も有る。後には白き豬が如何にするも捕れぬので、普通の豬を白く染めて祭儀を舉げた事すら有る〔一〕。是等は呪術の一種であるが、其れを稱へる事は直ちに呪文と云ふ事が出來るのである。出雲國造神賀詞に、

 白鵠(しらとり)の生御調の玩物と、倭文の大御心も術むに、彼方(をち)の古川岸、此方の古川岸に生立てる、若水沼の間彌若叡に御若え叡坐し、濯ぎ振りさく淀みの水の、彌變若(ヲチ)に御變若(ヲチ)まし。

 と有るのも其れであつて、即ち變若水(ヲチミヅ)を飲んで、永久に御彌若(イヤワカ)えにませとの呪文である〔二〕。更に中臣壽詞に有る、

 天玉櫛を事依(コトヨザ)し奉りて、此玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照るに至る迄、天津詔詞の太詔詞言(フトノリトゴト)(中山曰、此事は次節に述べる。)を以て告れ、斯く告(ノ)らば、兆は弱蒜に由都五百篁生出でむ、其れより下天の八井出でむ、ここを持ちて、天つ水と聞し食せと事依し奉りき。

 の一節の如きは、呪文其のままとも云へるのである〔三〕。
 併しながら私は、決して、祝詞は呪文から發生した物だと、斷定する者では無い。成程、呪文本位の立場から祝詞を見れば、呪文の本質に、祝言(ホガヒ)の衣服を著せた物が、祝詞であると云へる樣でも有るし。更に祝詞本位の立場から呪文を見れば、祝詞の中から、呪文の分子を取除いた物が、祝詞であるとも云へる樣であるから、古代に溯る程、兩者の關係が頗る密接なる物であつて、殆ど嚴格には區別する事が出來ぬ程に成つてゐる樣である。而して兩者が斯くの如き關係に置かれて有るのは、恐らく巫女の呪術を母胎として生れた兄弟が、用途と時勢との影響を受けて、一方は呪文として發達し、一方は祝言として發達し、遂に別別な物と成つたのであらうと考へてゐる。

一、祝言から祝詞へ

 祝言(ホガヒ)の古い物は、「新室祝言(ホガヒ)」とて、新築の家屋を祝ひ、併せて其家の主人の幸福を祝する物で、次には「酒祝言」とて、新しく釀せる酒を祝ひ、併せて此酒を飲む者の榮光を祝する物である。而して前者に在つては『古事記』卷上に、出雲の多藝志の小濱に、天御舍(ミアラカ)を造りし時、櫛八玉神が神火を鑽りて言祝(コトホギ)し、

 此吾が燧(キ)れる火は、高天原には、神產巢日御祖命のとだる天の新巢の凝煙(スス)の、八掌垂る迄燒舉げ、地下は、底津石根に燒凝して、栲繩の千尋繩打延へ、釣らせる海人が大口の尾翼鱸、澤澤に控きよせ騰(ア)げて、折坼(サキタケ)の十撓十撓に、天の真魚咋獻らむ。

 と有るのが初見である。そして『顯宗紀』に、天皇が潛龍の折に、播磨國縮見屯倉の新室を壽(ホ)ぎて、

 築立稚室葛(ツナ)根,築立柱者,此家長(キミ)御心之鎮也。取舉棟樑(ムネウツバリ)者,此家長御心之林也。取舉椽橑(ハヘキ)者,此家長御心之齊(トトノホフ)也。取置蘆萑(エツリ)者,此家長御心之平(タヒラナル)也。取結繩葛(ツナネ)者,此家長御壽(ミイノチ)之堅也。取葺草葉者,此家長御富之餘也。出雲者新墾(ニヒハリ),新墾之十握稻之穗,於淺甕釀(サラケカ)酒,美飲喫(ウマラヲヤラフル)哉。吾子(ヒトコト)等,腳日木此傍山(カタヤマ),牡鹿之角,舉而吾儛者,旨(ウマ)酒,餌香市不以值(アタヒ)賣。手掌憀亮(タナソコモヤララ),拍(ウチ)上賜,吾常世(トコヨ)等。

 と有るのは、最も有名であるだけに、又良く古代の室壽(ムロホギ)の信仰を具現してゐるのである。而して後者に在つては『神功記』に、

 此御酒(ミキ)は、我が御酒是らず、奇(クシ)の首長(カミ)、常世(トコヨ)に坐す、石立たす、少名御神の、神壽(カムホギ)、壽(ホギ)もとほし、豐壽(トヨホギ)、壽(ホギ)もとほし、獻(マツ)り來し、御酒ぞ、涸(ア)さず飲(ヲ)せ、ささ。

 と酒祝ひして、應神帝に獻りし時、武內宿禰が帝の御為に答へ奉りし歌に、

 此御酒を、釀みけむ人は、其鼓、臼に立てて、歌ひつつ、釀みけれかも、舞ひつつ、釀みけれかも、此御酒の、御酒の、妙(アヤ)に、轉樂(ウタタヌ)し、ささ。

 と有るので、其事が良く知られるのである。
 斯うした祝言は、吉を好み、凶を嫌ふ人情と共に發達して、後には此祝言を言ひ立てて渡世する「祝言人(ホガヒビト)」なる者を生む様に成つた。『萬葉集』卷十六に載せてある長歌二首は、是等の徒が謠うた物である〔四〕。而して此祝言は、神道が固定すると共に祝詞(ノリト)に取り入れられて、遂に祝詞の中心思想を為すに至つたのである。大殿祭の一節に、

 皇御孫之命の天之御翳(ミカゲ)、日之御翳と,造奉仕れる瑞之御殿(ミアラカ)。汝屋船命に天津奇護言を以て,言(コトホ)壽鎮白さん。此れの敷坐大宮地は,底津磐根の極み,下津綱根這ふ蟲の禍無く。高天原は青雲の靄(タナビ)く極み。天の血垂飛鳥の禍無く,堀堅たる柱桁梁戶牖の錯(キカ)ひ,動鳴事無く。引結べる葛目(ツナメ)の緩ひ,取葺ける草の噪ぎ無く,御床邊の喧ぎ,夜女のいすずき,いづつきし事無く,平けく安らけく奉護(マツ)る。

 と有るのや、廣瀨大忌祭の一節に、

 如此奉宇豆の幣帛(ミテグラ)を安幣帛の足幣帛 と,皇神御心平けく安けく聞食て,皇御孫命の長御膳(ナガミケ)の遠御膳と,赤丹の穗に聞食さむ。皇神の御刀代(ミトシロ)を始て,親王等、王等、臣等、天下公民(オホミタカラ)の,取作奧つ御歲者,手肱に水沫畫垂り,向股に泥(ヒヂ)畫寄て,取將作奧つ御歲を,八束穗に 皇神の成幸賜者,初穗者汁にも穎(カヒ)にも,千稻八十稻に引据ゑて,如橫山打積置て。秋祭に奉らむ。

 と有る等、祝詞(ノリト)は祝言(ホカヒ)の連續とも言ふべき迄に修正されてしまつたのである。


二、呪文より呪言へ

 呪言と云ふも、呪文と云ふも、其れは文字上の差別で、其內容に在つて殆ど共通してゐるのであるが、私は便宜上此れを二つに分けて、言句の短き物を呪言とし、やや長き物を呪文として見たのであるが、其れが極めて非學問的である事は、私も認めてゐる。取捨は元より讀者の自由である。而して此れには、種種たる固有名詞が有るので、其れに從つて左に舉げるとした。

詛(トゴヒ)

 古く「詛」をトゴヒと訓ませてゐるので之に從ふが、其意は己れの憎しと思ふ者を凶言(マガゴト)して、禍(マガ)あらしむる樣行ふ術である。『日本書紀』神代卷に、天稚彥が天津神の使なる雉を射殺せし矢が天津神の所に至りし時、

 時天神見其矢曰:「此昔我賜天稚彥之矢也,今何故來?」乃取矢而呪(トゴ)之曰:「若以惡心射者,則天稚彥必當遭害(マジラ)。若以平心射者,則當無恙。」因還投之。即其矢落下,中于天稚彥之高胸,因以立死。

 と有り、更に『古事記』には、此事を敘して、天神が、「或有邪心者,天若日子於此矢禍(マガレ)云。」云云とある。即ち此「禍(マガ)れ」と宣(ノ)られた事が、詛(トゴヒ)なのである。同じ。『日本書紀』神代卷に、天孫瓊瓊杵尊が、大山祇命の姊女磐長媛を斥けて、妹女木花開耶媛を召されし時、

 故磐長姬大慙(ハヂ)而詛(トゴヒ)之曰:「假使天孫不斥妾而御(メ)者,生兒(ミコ)永壽(イノチ),有如磐石(トキハ)之長存(カキハ)。今既不然,唯弟(イロト)獨見御(メ),故其生兒必如木花之移落。」

 と有るのも、又其れである。更に同じ神代卷の一書に、火火出見尊が、兄火酢芹尊と、海幸・山幸とを易へて鉤(ハリ)を失ひ、海宮に至りて其鉤を獲た時、海神尊に教えて、

 以鉤與汝兄時,則可詛(トゴヒ)言:「貧窮(マチ)之本(モト)、飢饉(ウヱ)之始、困苦之根。」而後與之。

 と有るのも、良く呪言の本質を說明してゐる。其れから『雄略紀』冬十月條に、御馬皇子が三輪磐井の側で站つて捉はれ、刑に臨んで、

 指井而詛(トゴヒテ)曰:「此水者,百姓唯得飲焉。王者獨不能飲矣!」

 と有るのや、『武烈紀』冬十一月條に、

 真鳥大臣恨事不濟,知身難免,計窮望絕,廣指鹽詛,遂被殺戮,及其子弟。詛時,唯忘角鹿海鹽,不以為詛。由是角鹿之鹽,為天皇所食。餘海之鹽,為天皇所忌。

 と有る等〔五〕、咸(み)な詛(トゴヒ)の例として見るべき物である。



呪(ノロヒ)

 伴信友翁は、呪(ノロヒ)に定義を下して、「呪(ノロヒ)とは怨み有る人に禍を負ふせむと、深く一向に念(オモ)ひつめて物する所為と聞こゆ。」と為し、更に詛(トゴヒ)と呪(ノロヒ)の區別を說いて、「詛(トゴヒ)は言靈に依りてする術、呪(ノロヒ)は言に云はず、念ひつめて物する也」としてゐる〔六〕。良く我が古代の呪術の本質を盡してゐる物と思ふ。而して呪(ノロヒ)の方法に就いては、『日本書紀』神代卷の一書に、

 及至(イタ)日神當新嘗之時,素戔嗚尊則於新宮御席之下,陰自送糞(クソマ)。日神不知,徑(タダ)坐席上。由是日神舉體不平(ヤクサ)。

 と有るのに對し、『釋日本紀』卷七に公望の私記を引いて、

 凡欲詛人之時,必有送糞其坐。若染其糞者,必有憂病。故日神染糞有病,若是古代之遺法也。今代人之欲詛人者,亦有放失者,倣此耳。

 と有るのが、其の徵證であるが〔七〕、如何にも原始的の呪法として納得されるのである。『神功紀』四十七年夏四月條に、百濟使久氏等が、我國に來る途中にて、新羅に捕はれし事を記して、

 新羅人捕臣等,禁囹圄,經三月而欲殺。時久氐等向天而呪詛(ノロヒトコフ)之。新羅人怖其呪詛而不殺。

 と有る。此れは、言ふ迄も無く、百濟の呪(ノロヒ)の事を記した物であるが、其方法なり、內容なりに於いては、古く我國と共通した物が有つたので、斯く載せた物と考へられるのである。



咒詛(カジリ)

 咒詛(カジリ)と、詛(トゴヒ)とは、殆んど同義の物であつて、僅に其呪術の程度に依つて、差別する程の物である。而して兩者を形式の上より區分すれば、咒詛(カジリ)の場合は、何か物實(モノザネ)を置き、其へ呪力を憑依せしめる物であるのに反して、詛(トゴヒ)は既述の如く、專ら言靈の活用により呪術を行ひ、必ずしも物實を要さぬ點が兩者の相違である。
 『神武紀』戌午年秋九月條に、

 天皇惡之。是夜,自祈而寢。夢有天神訓之曰:「宜取天香山社中土,以造天平瓮八十枚,并造嚴瓮而敬祭天神地祇,亦為嚴呪詛(イツノカシリ)。如此則虜自平伏。」(中略)祭天神地祇,則於彼菟田川之朝原,譬如水沫而有所咒著(カジリツケ)也。

 と有るのは、良く其事象を現はしてゐる。而して咒詛(カジリ)に就いて、伴信友翁は、

 武藏の或る田舍人、山伏の憑術行(ヨリワザシ)て、口寄せと云ふ事を為る由を話せる詞に、憑(ヨリ)に立たる人に、生靈を「咒詛憑(カジリツ)けて」云云。其の「咒詛憑(カジリツ)かれたる」人は云云と言へり。又其が平常の詞に、人に對ひて只管に念ひ入たる事を言ふとて、咒詛憑(カジリツ)きて云云すべいと云ひ、又た硬き物喰ふを「カジル」とも「カジリツク」とも云ひて、同詞の遣ひ樣に言へり。思ひ合せて言の意を知るべし。

 と說かれたのは、極めて要領を得た物である〔八〕。其れから、『欽明紀』二十三年六月條に、

 是月,或有譖馬飼首歌依。(中略)即收廷尉,鞫問極切。馬飼首歌依乃揚言誓曰:「虛也,非實。若是實者,必被天災。」遂因苦問,伏地而死。死未經時,即灾於殿。廷尉收縛其子守石與名瀨冰,將投火中,呪(カジリ)曰:「非吾手投,以祝手投。」呪(カジリ)訖,欲投火。守石之母祈請曰:「投兒火裏,天灾果臻。請付祝人使作神奴。」

 と見えてゐる。此記事には、文字の脫落が二ヶ所程在つて、事由を解するに苦しむ所が有るも、茲には歌依が咒詛(カジリ)をしたと云ふ事だけが確實であれば、其他は姑らく措くとするも差支無いと考へたので、敢て抄錄した次第である。



誓(ウケヒ)

 谷川士清翁は、誓(ウケヒ)の意義に就いて、

 『日本紀』に誓約字、誓字、祈字等を訓(ヨ)めり、又盟をうかうと讀むも同じ。請言の義いのりちかふ事を云へり。『源氏物語』の弘徽(こき)殿等のうけはしげにの給ふと云ひ、『伊勢物語』に罪無き人をうけへはと云へるは詛(ノラ)ふ方に云へり。依て真名本に呪詛と填たり。『古事記』にも宇氣比死(ウケヒコロス)と見えたり。(浦木按、『古事記』にで、該當記事を見つかれず。)

 と言うてゐるが〔九〕、此れで誓(ウケヒ)の本質を知る事が出來る。而して誓(ウケヒ)の事例にあつては、『崇神紀』十年七月の武埴安彥が、謀反の條に、

 天皇姑倭跡跡日百襲姬命,聰明叡智,能識未然。乃知其歌怪,言于天皇:「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞,武埴安彥之妻吾田媛密來之,取倭香山土,裹領巾(ヒレ)頭而祈曰(ウケヒテ):『是倭國之物實(モノシロ)。』則反之。是以知有事焉。非早圖,必後之。」

 と有る。此外にも、記・紀に載する所尠く無い。『冠辭考』に『萬葉集』卷四、大伴家持の歌に「都路を、遠みや妹が、此頃は、誓約(ウケ)ひて寢れど、夢に見え來ぬ(0767)」と有り、更に誓(ウケ)ひ狩、又は誓ひ釣とて、神意を占ふ為に或は獸を狩り、或は魚を釣る事等も行はれた〔十〕。殊に神功皇后が征韓に際し伊覩縣に到りし時、「適當皇后之開胎,皇后則取石插腰而祈之曰:『事竟還日,產於茲土。』」と有るのは、誓(ウケヒ)が一種の呪術として用ゐられた例證である。



諷歌倒語(オヨヅレゴト)

 『神武紀』にある「諷歌倒語」の意義に就いては、古くから國學者の間に異說が有つて、今に定說を聞かぬ程の難問であるが〔十一〕、私は飯田武鄉翁が此語の細註に「『萬葉集』に、『狂言香逆言哉云云。』と有る逆言を、古くサカシマコトと訓(ヨメ)り。此逆言はオヨヅレゴトと訓べき由、先達云はれたる、さる事也。」と有るを論據として〔十二〕、諷歌倒語は即ち古きオヨヅレゴトの當て字と斷定する者である。而して此れの用例は『天智紀』九年春正月條に「禁斷誣妄妖偽(タハコトオヨヅレコト)」と載せ、『天武紀』には「妖言(オヨヅレゴト)」と見えてゐる。『萬葉集』卷三石田王の挽歌の一節に、「妖言(オヨヅレ)か、吾が聞きつる、狂言(タハコト)か、我が聞きつるも。(0420)」と有り、同集卷一七に長逝せる弟を哀傷(カナ)しむ長歌の一節に、「玉梓の、使の來れば、嬉しみと、吾が待問ふに、妖言(オヨヅレ)の狂言(タハコト)かも。(3957)」と有るのは、共に此語の呪言としての內容を考えさせる物があ有る。私は『神武紀』の諷歌倒語は、斯の流言蜚語の意とは全く趣きを異にし、呪言とあるべき(殊更に語を倒(サカシ)まにする事も有る。)を斯く記した物と信じてゐるのである。
 此の一節の擱筆に際し、特に言うて置かねば成らぬ事は、以上に列舉した呪言なり、呪文なり、又は祝詞なりは、必ずしも巫女に限り用ゐた物で無いと云ふ點である。否、此の反對に文獻の示す所に據れば、巫女よりは覡男が卻つて多く用ゐてゐた事を證明してゐるのである。從つて此の一節は嚴格なる意味から言へば、巫女史の埒外を越えた點が尠く無いのであつて、廣義の呪術史の一節たるが如き觀を呈するに至つた。
 併しながら、巫女が覡男に先立つて發生し、後世迄巫覡と並び立つてゐた事は事實であるので、此れ等の呪言や、呪文や、祝詞等も、其始めに在つては、巫女が創作して、覡男が後唱した物かも知れぬのである。且つ如上の呪言や、呪文、其他の一一に就いて言ふも、どれが巫女の唱へた物で、どれが覡男が唱へた物か、其區別は、今日からは到底知る事が出來ぬので、姑らく併せ揭ぐる事としたのである。萬一の誤解を虞れて、此事を附記する次第である。

〔註第一〕『明月記』に其事が詳記してある。カードを探したが見當らぬので、記憶の儘(ママ)で記した。
〔註第二〕白鵠は『垂仁記』に有る曙立王の故事であつて、其れが呪術的である事は、言ふ迄も無い。更に「變若(ヲチ)水」とは、天上の靈水を飲めば、精神も肉体も更新すると云ふ信仰から來た物で、典據は『舊事本紀』に載せてある。(浦木按、『舊事本紀』にで、該當記事を見つかれず。)現行の正月の若水は、此信仰の名殘りを留めた物で、折口信夫著の『古代研究』民俗篇第一冊「若水の話」に詳述してある。參照を望む。
〔註第三〕兆とは太占のマチの事で、五百篁生出でむとは、既述した諾尊が精靈を逐ふ時に櫛を投じたら筍に成つたと云ふ故事を寓した物である。此祝詞が呪術的意味を多大に含んでゐる事は、此一事でも知れるのである。
〔註第四〕折口信夫氏の研究に據れば、元來「祝言」なる物は、神神が民人を祝福した事に始まる物で、從つて後世の「祝言人(ホガヒヒト)」なる者は、神神の代理として民人に蒞んだ者だと云ふ事である。後世の千秋萬歲、大黑舞等を始め、民間行事の奧州のカワハギ、山陰のホトホト等は、悉く此信仰を殘している物である。
〔註第五〕此紀の詛を、一般にはノロフと訓んでゐるが、私は伴信友翁の『方術源論』に從ひ、トゴヒと訓む事とした。
〔註第六〕伴信友翁の『方術源論』に在る。猶ほ此機會に言うて置くが、私の此一節は專ら伴翁の『方術源論』に據り說を試みた物である。茲に其事を記して、伴翁の學恩を深く感謝する次第である。
〔註第七〕誠に比倫を失ふ事ではあるが、今に盜賊が家に忍び込む時糞まるのは、此呪術の一片を傳へた物と想はれる。民俗の源流の遠き、學問に志す者の注意すべき事である。
〔註第八〕同上の『方術源論』。
〔註第九〕『增補語林倭訓栞』其條。
〔註第十〕「祈(ウケヒ)狩」も「祈(ウケヒ)釣」も、共に『神功紀』に載せてある。此れに就いては、後章「巫女と狩獵」の項に全文を引用する機會があらうと思ふので、今は省略に從ふにした。
〔註十一〕伴信友翁の『比古婆衣』を始め、各書に見えてゐるが、茲には煩を厭うて一一の書名は預るとした。
〔註十二〕飯田武鄉翁の『日本書紀通釋』の其條。
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