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第三節 漂泊巫女の代表的人物八百比丘尼

 若狹國の八百比丘尼──苟くも我國の民間傳承に興味を有つた者で、更に巫女の考察に趣味を有つた者で、恐らく此名を知らぬ者は無からうと思はれる程の有名な人物であるが、さて其正體はと云ふと、恐らく誰でも突き留めた者は無いと云程の厄介な人物なのである。此れに關しては、古く山崎美成翁も記述を殘し、近くは西川玉壺翁も考證を試みたが〔一〕、前者は斷片的で報告に留まり、後者は言筌に落ちて、失敗に終つた。私は此怪談に包まれた八百比丘尼こそ、漂泊巫女の代表的人物と考へてゐるので、茲に稍(ヤヤ)詳しく短見を述べるとする。
 八百比丘尼の傳說は、室町期に大成された物であるが、其出自が、怪奇を極めてゐる上に、此傳說を運搬した物が、漂泊を續けた巫女だけに、殆んど全國に分布されてゐる。加之、運搬の際に、幾らづつか語り歪(ユガ)めた物も見え、時に依り、處に依り、話の筋に多少の出入が有つて、頗る複雜な物と成つて了つた。然ればと言うて、其傳說を一一舉げて、此れが異同を究めるのは、容易な事では無いし、又其迄に廣く探す必要も有るまいと信ずるので、先づ傳說の本筋とも見るべき物を示し、此れを基調として、二三の異說を對照して、次に私見を述べるとする。
 林道春の『本朝神社考』卷六都良香條に、

 余先考嘗語曰:「傳聞,若狹國有號白比丘尼者。其父一旦入山遇異人,與倶到一處,殆一天地,而別世界也。其人與一物曰:『是人魚也。食之延年不老。』父攜歸家,其女子,迎歡而取衣帶,因得人魚于袖裏,乃食之。【蓋肉芝之類歟。】女子壽四百餘歲,所謂白比丘尼是也。」余幼齢,嘗聞此事而不忘。云云〔二〕。

 と有るのが、先づ傳說の本筋である。若者道春が幼齢で此事を聞くと有るのは、室町期の末葉天正十五六年の交と思はれるので、此頃は既に立派に傳說は完成されてゐたのであらう。尤も八百比丘尼が京都へ來て俗信を集めた事は、信用すべき史料なる『康富紀』及び『臥雲日件錄』の文安六年五月から七月迄の記事に見えてゐるので、此比丘尼の出沒は、天正頃よりは更に百五六十年も前の事であるのは疑ひ無いが、其傳說が稍纏つて物の本に記されたのは、『神社考』が最古の樣に考へたので、先づ此れを典據として說を試みる次第なのである。而して此れに由ると、(一)若狹國の生れであつて、(二)白比丘尼と稱した事、(三)人魚を食うて長壽を保ち、(四)四百歲を生存した事が知られるのであるが、然るに是等に就ては、其一一に異說が有るので、其を揭げて見ようと思ふ。元元、巫女が持步いた傳說に過ぎぬ物を、力瘤を入れて詮議するのも心無い事の樣に考へる者も有るかも知れぬが、巫女の漂泊者が、極めて小さな意味の文化ではあるが、傳說や歌謠や物語等を、足跡の留まる所に植えつけて往つた事を知る上に、相當の意義が潛んでゐると信ずるので、敢て此態度を執るとした。
 第一の生地に就いては、若狹と云ふのが通說と成てゐるが、併し『若狹郡縣志』にも『向若錄』(同國の地誌。)にも、八百比丘尼は遠敷郡の後瀨山麓の空印寺に在る洞窟に隱栖したとは記して有るが、決して同國で生れたとは載せて無い。『勢陽五鈴遺響』鈴鹿郡平野村八百比丘尼塚條に、

 白比丘尼俗に八百比丘尼と稱す、若狹に神に祭りて八百姬神明と崇めたり。和漢三才圖會引若狹國風土記云、「昔此國有男女,為夫婦,共長壽,人不知其年齢。容貌若如少年。後為神,今一宮是也。因稱若狹國。」云云。

 と載せて有るが、流布本の『三才圖會』には斯かる記載無く、且つ若狹風土記等云ふ書物は寡見に入らぬ。良し又、此れが記載して有つたとしても、單に此れだけでは、若狹生れの證據とは成らぬ。
 然るに此れに反して、若狹以外の生地に就いては、段段と各地に資料が殘されてゐる。奧州會津地方の俗傳に據れば、秦勝道なる者、元明朝の和銅元年に岩代國耶摩郡金川村に來て、里長の娘と相馴れて、養老二年元朝に一女を儲けた。勝道豫て庚申を崇信し、村の父老を集めて庚申講を營むと、或日、駒形岩の邊りなる鶴淵から龍神が出て、大眾を饗應した。其中に九穴貝有り、人怪んで食はず、道に棄てたのを、勝道拾つて歸宅し、女其を食して(中山曰、人魚で無い事に注意されたい。)長壽を保ち、八百比丘尼と成つた〔三〕。美濃國益田郡馬瀨村大字中切に治郎兵衛と云ふ酒屋が有つた。龍宮に至り「キキミミ」と稱する蟲鳥獸の物言ふ事を聽き分ける物を貰つて來た所、其娘が此れを開き、中に在つた人魚の肉を食ひ、八百年の長壽を得て、諸國を遍歷した。死ぬる時に、黃金の綱三把を埋め、杉を折つて墓標とし、「漆千杯、朱千杯、朝日輝き夕日映(ウツ)らふ其木下に、黃金の綱三把有り。」と記して死んだ。杉木は枯れたが、根は今に殘つてゐる〔四〕。此の末節の謎の樣な歌は、墓所の地相を詠んだ物で〔五〕、後から比丘尼に附會した話である。同國稻葉郡蘇原村字三柿野に、昔アサキと云ふ長者が有り、娘一人を殘して死んだ。娘は麻木の箸で食事を為し、其箸に付いた飯粒を池魚に施した功德で、八百歲の永生きをした。後に各務村に住み、古跡今尚六字の名號の碑を存してゐる〔六〕。此話も箸信仰に關する物を〔七〕、後人が繼ぎ合せた物で、前の話と共に、八百比丘尼の傳說としては價值の少い物である。飛驒國吉城郡阿曾布村大字麻生野字森之下で、八百比丘尼は生れた物で、本名は道春と云うた。同郡上寶村大字在家の桂本神社に在る七本杉は、比丘尼が鎌倉から持ち來つて栽ゑた物である。根は一本で、六尺ばかりの所で七本に分れ、根の圍り十抱へある大杉で二本有る〔八〕。
 其から越後國三嶋郡寺泊町大字野積字岩脇の漁家納屋事高津某に一女が有つた。妖色仙姿にして、年を經るも齢傾かず、常に十六七歲の處女に等しく、三十九度他家へ嫁し、(中山曰、婚數が諸書必ずしも一致し無い點に、傳說の成長と云ふ事が考へられる。)後に剃髮して諸國を巡り、若狹小濱の空印寺境內に草庵を結んで止住した。既に八百年を生存するも、處女の如かりし故に、八百比丘尼と稱した。諸方の候伯に召されて、往事を語るに確然たり、世に八百比丘尼物語と云ふ書物が有る。尼は天然に死ぬ事が出來ぬと悟り、元文年中境內に入定し遺品が有る。尼の生家は、高津金五郎と稱し現存し、遺物とて越後の古繪圖一枚有る〔九〕。此傳說は、八百比丘尼が名の如く八百年生きた者と信じて書いた所に、古人の質朴さが窺はれ、且つ尼の生家が殘つてゐる等は、益益以て面白い事である。傳說と歷史との相違を判然と知ら無かつた著者には、無理も無い事であるが、其にしても元文と云へば僅に百五十年前ばかりの頃であるのに、此不思議な尼が生きてゐたと信ずるとは罪の無い事である。殊に尼が天然に死す能はずと悟つて入定したとは、愈愈以て傳說の世人を迷はす事の大なるを感じた。播州神埼郡寺前村大字比延に、八百比丘尼が投身した場所が有ると傳へてゐるが〔十〕、是等も餘り長く生きるのに呆れて飛び込んだ所かも知れぬ。
 能登國には、何故か不思議に、八百比丘尼に關する遺跡や、傳說が多いので、茲に其總てを舉げる事は出來ぬが、一つだけ揭げると、『能州名跡志』卷一に、

 羽咋郡富來より二里の間八百比丘尼の植し椿原と云ふ有り。按ずるに若狹の白比丘尼の舊跡は所所に在り。是は伊勢國白子の產故に、白比丘尼とも、又八百比丘尼とも云ふ。又越中黑部の庄玉椿の產とも云へり。(中略。)迴國して若狹の白椿山に在りしとて今に繪像有り。手に椿枝を持てり。(中山曰、椿枝を持つ事が、尼の巫女であつた一證である。注意せられたい。)云云。土地の傳に、昔越中黑部川港に玉椿の里とて幽なる所有り、以前は玉椿千軒とて繁昌なる土地也しが、此處の里長友と共に上洛の途中武士と道連れと成れり。此武士は越後國妙高山の麓に住む三越左衛門と云ふ千年經たる狐也。馳走すべしとて長を伴往き、人魚の料理を出す、長は食はず、長の友は懷中して歸宅し、其女土產と思ひて食し八百比丘尼と成る。(中略。)又能登國鳳至郡繩又村の產れとも云ふ。

 と有る。人魚を食はせた物を、非類の狐にするとは、傳說を合理化しさうとした、昔の人の苦心する所である。佐渡國佐渡郡羽茂村大字大石字田屋に、八百比丘尼誕生の屋敷跡と云ふが有る。昔庚申待の折に、田屋の爺さんが、人魚の肉を持歸り、家の少女に食はせたのであると傳へてゐる〔十一〕。因幡國岩美郡には八百比丘尼の生地を二箇所傳へてゐる。前者は稻葉村大字卯垣の古城主が、河狩の時竹ヶ淵で人魚を獲て食し歿したが、其後落城の折に男子は悉く討死し、女子一人殘りて長壽を保つたと云ひ、後者は面影村大字正蓮寺の老婦が、人魚の馳走を持歸り、娘が食つて八百比丘尼と成つたと云うてゐる〔十二〕。父が食つて娘が長生したと云ふ話も可笑しいが、更に此事を記した著者が、「惣じて比丘尼屋敷又は比丘尼城等云ふは、國中所所に在り、皆毛無山の俗稱也。」と論じてゐるのも、比丘尼と稱する者が漂泊し土著した事を閑卻した說である。
 紀伊國那賀郡丸栖村大字丸栖の村老相傳へて、八百比丘尼は、此村の產と云うてゐる。今其證據となるべきは何も無いが、此事は若狹でも信じてゐると云ふ〔十三〕。土佐國高岡郡須崎村多之鄉の鴨神社の華表の傍に、八百比丘尼の塔と云ふが有る。白鳳年間の事であるが、漁人が大坊海で人魚を獲て娘が食ひ、長壽を享け、諸國を遍歷し、若狹に留りしが、後に歸鄉して死んだ〔十四〕。筑後國山門郡東山村字本吉の俚傳に、奈良朝頃に唐人竹本翁と云ふが住み、其娘が同郡舞鶴城主牡丹長者に仕へた。或る時、肥後の桑原長者から稀有の螺貝の肉を贈つたのを、娘盜み食つて長壽を保ち、一良人に二三十年。又は六七十年仕へしも、合計二十餘人の多きに達したと云ふ〔十五〕。此話は「仙女物語」の骨子と成つてゐるのであるが、其を言出すと長くなるので割愛する。猶ほ筑前遠賀郡芦屋町庄浦にも、長壽貝を食つた八百比丘尼系の傳說を載せてゐるが〔十六〕、此れも埒外に出るので省略した。
 第二の白比丘尼と稱した事は、既載の中(ウチ)伊勢、若狹、能登の記事にも見えてゐるが、未だ此外にも存してゐる。相模國足柄下郡元箱根塞河原に白比丘尼の墓が有る。文字數十字を鐫れど漫滅して讀めぬ。武藏國足立郡植田谷領にも白比丘尼の舊蹟が殘つてゐるさうだ〔十七〕。伊勢國鈴鹿郡關町の地藏堂に、白比丘尼が寶藏寺と自筆した額が什物として殘つてゐる〔十八〕。詮索したら、猶ほ幾らでも出て來ると思ふが、此事は八百比丘尼の一名を白比丘尼と稱したと云ふ點が明確に成りさへすれば、宜しいのであるから、今は詮索の手を餘り延さぬ事とする。
 第三の人魚を食つたと云ふ點であるが、此れは既記の如く、多數は此れに一致し、僅に九穴貝と螺貝を食つたと云ふのが一二有るだけ故、此れも深い詮索は差控へるとする。殊に傳說の本筋から言へば、人魚でも長壽貝でも、更に林道春の考へた如く肉芝であつても差支は無く、要するに、長命を合理化させん為に、異物を食した事に假托した迄の事である。
 第四は尼の長壽の年數であるが、『神社考』には四百歲と云ひ、他は概して八百歲と云ひ、然も八百比丘尼の名の起りは、此年壽に由る物だと稱してゐる。此問題も、武內宿禰の三百六十歲や、浦嶋の年數と同じく、四百歲と云ふも、八百歲と云ふも、傳說の事故どうでも宜しいのであるが、更に考へて見無ければ成らぬ事は、八百比丘尼の名の由來が、果して年壽から負うた物か否かと云ふ點である。曾て南方熊楠氏は、此れに就いて、

 八百比丘尼と云ふ事、劉宋天竺三藏求那跋陀羅譯『菩薩方便境界神通變化經』中卷に、「世尊說是經時、八百比丘尼脫優多羅僧衣以奉上佛。云云。」文字麁なる時代には、こんな事を說解して、八百人を八百歲と合點し傳說出來しかとも覺ゆ。「標芽原(シメジヶハラ)の指燃草(サシモグサ)は眾生の事なるを。」(中山曰、此歌は新古今集に清水觀音の詠として有る。)標芽原(シメジヶハラ)の艾(モグサ)は名產と心得、例の瀉を波(ナミ)から片男波も名所と成り、蜀山人の書きし物に、松年と云ふ女郎に聞(キ)かばやと云ふ舞妓も出來し由の類か〔十九〕。

 南方氏一流の考察を試みられてゐるが、私は別に稚見を有してゐるので、後で纏めて述べる事とする。
 而して尼の在世時代に就いては、諸說全く區區としてゐる。遠く奈良朝の白鳳年間と云ふのが有るかと思へば、或は近く江戶期の元文年中と云ふのも有り、更に越後柏崎町の十字街路に在る石佛には、「大同二年八百比丘尼建之」と彫刻して、今に文字鮮明也、と云つてゐる〔二十〕。殊に馬鹿げた物には、尼が若狹に居る時、源義經主從が山伏姿と成つて、奧州へ落ちて行くのを、目撃したと云ふ話の傳へられてゐる事であるが〔廿一〕、是等は共に、傳說が持ち運ぶ人に依り、移し植ゑられた所により、如何樣(ヤウ)にも變化し、成長する物であると云ふ事を示唆する以外には、學問上、差して價值の有る問題では無い。要するに此傳說は、室町期に於いて大成された物と思へば、間違ひ無いのである。
 私案を記す前に、猶ほ八百比丘尼の足跡が、如何に廣汎に印されてゐるかに就いて、極めて大略だけを(前載の地方と重複する物は省筆して。)述べて置きたい。此れは中古の巫女が、漂泊生活を送つた旁證として、多少の參考と成る物と信ずるからである。武藏國には、此尼の由緣の地が數十箇所程有るが、殊に有名なのは、北豐嶋郡瀧野川町大字中里に庚申碑三基有るが、其中央に建てるは、尼の建てし古碑と稱し、高さ四尺程ある。又之(コレ)より東北十丁餘の田の中に、雜木の茂れる森が有るが、俗に比丘尼山と云ひ、八百比丘尼の屋敷跡と傳へてゐる〔廿二〕。北足立郡新鄉村大字峰の八幡宮境內に、銀杏の老樹が有る。尼の手植ゑと云ひ、更に尼は同郡貝塚村の人とも云うてゐる〔廿三〕。猶ほ此外に、尼の守護佛であつた壽地藏を祀つた土地も有るが省略する。下總國海上郡椎柴村大字猿田に、比丘杉とて樹齢一千年以上を經た老木が有る。八百比丘尼が植ゑた物と傳へてゐたが、明治三十八年六月に伐採された〔廿四〕。駿河國沼津市に八百姬明神と云ふが有る。來由未詳だが、一說には尼と關係有るとも云ふ〔廿五〕。隱岐國には尼の手植ゑの杉が三本有つたが、其中一本大風に吹き折られ、其木だけで一宮の本社拜殿の普請が出來たと云はれてゐる〔廿六〕。未だ各地に殘つてゐるが、概略に留めて、愈愈結論に入るとする。
 さて長長と書續けて來た八百比丘尼の正體は、聰明なる讀者は既に氣付かれた事と思ふが、一言にして云へば、大白(オシラ)神を呪神とした熊野比丘尼の、漂泊生活の傳說化に外成(ホカナ)らぬのである。大白(オシラ)神の發生や、分布に就いては、後に述べるが、此尼が古く白比丘尼と稱したと有るのは、即ち白(シラ)神を呪力の源泉として捧持したのに所以するのである。其を白の字を充て嵌めた為に、伊勢の白子で生れたとか、更に白ッ子と稱する女性で、何年經つても處女の如しとか云ふ傳說を生む樣に成つたのである。
 尼が長壽を保つたと云ふのに就いては、室町期に於いて發生した他の長壽譚を併せ考へて見る必要が有る。此れに關しては、既に柳田國男先生が說かれた如く、常陸坊海尊、殘夢和尚、鬼三太等が、三百年・五百年の長命をしたと云ふ物語が、一般民眾の間に歡迎されてゐた事である〔廿七〕。然るに、大白(オシラ)神を持つて諸國を漂泊した白比丘尼が若狹國の八百姬神社に附會される樣に成つた。『鹽尻』卷五に、

 俗間に八百比丘尼の影とて、小兒の守にも入れる物有り、此れ何人ぞ。曰く、八百姬明神の事也。祠若州小濱に有り、姬の歌に、「若狹路や白玉椿八千代へて、復(マタ)も越しなむ矢田坂(ママ)かは。」其緣起は實に妖妄の事也。

 と有る如く、此れに附會されると同時に、一方長壽譚の影響を受けて、此處に八百姬から思付いた八百歲說が唱へられる樣に成り、更に長壽を合理的に考へさせる為に人魚や九穴貝の事が〔廿八〕、段段と工夫され、追加される樣に成つたのである。 室町期は、暗黑時代と云はれるだけに、民眾は政治的にも、經濟的にも、塗炭の苦杯を續け樣(サマ)に滿喫させられた。其だけに迷信が猖んであつて、巫覡の徒は其間隙に乘じて跋扈跳梁した。江戶期から明治期の後半迄民間に行はれてゐた有らゆる迷信は、殆んど室町期に大成された物であつて、我國の迷信史に於いては、平安期と對立して重要なる位置を占め、殊に前者が貴族的であるに反して、後者が民眾的であつただけに、一段と關心すべき內容を有してゐるのである。斯うした世相に於いて、巫覡の徒が、民間信仰に培はれた八百比丘尼を利用し、此れを言ひ立てて、漂泊と收入の便とした事は見易い事である。『康富記』文安六年五月條に[若狹白比丘尼上洛、又東國比丘尼於洛中致談議事。]と記し、(中山曰、目錄のみ本文は缺けてゐる。)更に『臥雲日件錄』文安六年七月二十六日條に、「近時八百歲老尼、若州より洛に入る。洛中の者爭ひ觀んとす。堅く居る所の門戶を閉て、人に容易く看せしめず、斯かれば貴者は百錢を出し、賤者は十錢を出す、然らざれば門に入る事を許さず』と有るのは〔廿九〕、全く傳說を利用した計畫の圖星に當つたものと云へるのである。
 而して此尼が手にした椿こそ、(又尼が植ゑたと云ふ椿山は既記の能登の外にも各地に有る。)古き熊野神が諾尊の唾液(ツバキ)から化生した事を象徵した物であつて、然も此椿が(我國のと支那のと同字異木である事は既述した。)嘉樹瑞木としてよりは、更に我國に於ける生命の木と迄信仰される樣に成つたので、此れを持つ事が、彼女の巫女であつた事を物語つてゐるのである。猶、八百比丘尼と對立して考ふべき物に、七難の揃毛(ソソゲ)を有した巫女の在つた事である。此れは後段に述べるが、彼之を參照する時、此種の巫女が室町期に出現するのも、決して偶然で無い事が知られるのである。

〔註第一〕山崎翁の說は『海錄』に、西川翁の說は『上毛及び上毛人』に連載された。西川翁には、生前二三度御目に掛かつた事も有るが、私の所謂ブルジョア神道の、更に化石した樣な說の持主であつた。
〔註第二〕『本朝神社考』は、原本は漢文であるが、此處に『大日本風教叢書』本の譯文を引用した。(浦木按、本テキストでは原本の漢文に還原す。譯文は巫研 Docs Wiki を參照すべし。)
〔註第三〕『新編會津風土記』卷五十五。
〔註第四〕『岐阜縣益田郡誌』。
〔註第五〕朝日夕日の歌が、墓所の地相を詠じた物である事は、故坪井正五郎氏が夙に『東京人類學會雜誌』で論じてゐる。
〔註第六〕『美濃國稻葉郡誌』。
〔註第七〕青萱の箸、竹の箸、南天の箸等、箸に關する俗信は多く存してゐる。併し今は其を言はぬ事とする。
〔註第八〕『飛驒遺乘合府』。
〔註第九〕『溫故の栞』第十八篇。
〔註第十〕『增補播陽俚翁說』。
〔註十一〕『日本傳說叢書』佐渡之卷。
〔註十二〕『因幡志』。
〔註十三〕『紀伊續風土記』卷三十五。
〔註十四〕『土佐古跡巡覧錄』。
〔註十五〕『耶馬台探見記』。
〔註十六〕『諸家隨筆集』(鼠璞十種本)。
〔註十七〕『新編相模風土記稿』卷二十七。
〔註十八〕『參宮圖繪』卷上。
〔註十九〕『南方來書』卷十(明治四十五年四月十二日附)。
〔註二十〕『笈埃隨筆』卷八(日本隨筆大成本)。
〔註廿一〕『提醒紀談』卷四(同上)。
〔註廿二〕『十方庵遊歷雜記』四編下(江戶叢書本)。
〔註廿三〕『新編武藏風土記稿』卷一三八。
〔註廿四〕『千葉縣海上郡誌』。
〔註廿五〕『駿河志料』卷六十二。
〔註廿六〕『西遊記續篇』卷一(帝國文庫本)。
〔註廿七〕『雪國の春』の附錄「東北文學の研究」に見えてゐる。
〔註廿八〕九穴貝の俗信も古くから有つた。『雲陽秘事記』に據ると、出雲大社の御神體も此れだと有る。元より信用すべき限りで無いが、斯うした俗信の有つたと云ふ證據だけには成る。
〔註廿九〕『臥雲日件錄』の分は、カードを藏ひ無くしたので、前載の『提醒紀談』卷八から轉載した。
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