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第五節 神妻より巫娼への過程

 『萬葉集』卷十六に、「我(ワ)が門(カド)に、千鳥繁鳴(チトリシバナ)く、起(オ)きよ起(オ)きよ、我(ワ)が一夜妻(ヒトヨヅマ)、人(ヒト)に知(シ)らゆ勿(ナ)。(3873)」と云ふ短歌が載せて有る。而して此短歌は、平安期に刪定を經て、「庭鳥(ニハトリ)は、翔(カケ)ろうと鳴(ナ)きぬ、起(オ)きよ起(オ)きよ、我(ワ)が一夜妻(ヒトヨヅマ)、人(ヒト)に知(シ)られ莫(ナ)。」として、神樂歌に採用されてゐる。然るに、從來の物識りと稱せられた好事家は、此「一夜妻」を以て、後世の其の如く解釋して、直ちに性的職業婦人と同視してゐるが、此れは言ふ迄も無く、驚くべき速斷である。即ち、私は此「一夜妻」を以て、巫女──同集に散見する遊行女婦よりは時代に於いて古く、實質に於いては純なる一時的巫女──即ち一夜だけ神に仕へる家族的巫女であると考へてゐる。換言すれば、或る定められた一夜(神樂の夜。)だけ神に占められる役目(古代に在つては此役目は義務では無くして、卻つて名譽として悅ばれてゐた。)を有つてゐた女性を、斯く呼び習はした物だと信じてゐる〔一〕。
 更に換言すれば、古代の女性は其悉くが殆んど巫女的生活を送つてゐた事は既述した。其と同時に、我國の巫女の起源が、此家族的巫女に在る事も、是れ又た既載した。而して後世の傳說ではあるが、神の使の標(シルシ)である白羽の矢が家の棟に立ち、其家の女子が、人身御供に舉がると云ふ思想の最初の相が、此一夜妻であつたのである。傳說の通俗化は、我國の「生贄(イケニエ)」と、支那の「犠牲」とを混同させ〔二〕、人身御供と云へば、邪神か惡神の為に、忽ち餌食として、取殺される樣に盲信させて了つたが、古き人身御供の內には、單なる神寵であつて一時的の神妻であり、神ノ采女(ウネメ)に過ぎ無かつた物の在る事を知らねば成らぬ。此れが一夜妻の正しい解釋であつて、然も此れを勤めたのが、私の謂ふ所の家族的巫女なのである。
 そして私の此解釋が、我が古代の實狀であつた事を裏書きする證左として想起される物は、各地の神社の祭儀に、一時女臈(一夜官女とも云ふ。)と稱する女性が參加する事と、併せて一夜妻と成り得べき──即ち神寵を受ける資格を定むる儀式の存してゐた事である。茲には、例の如く、僅に一二を舉げるに留めて置くが、攝津國西成郡歌嶋村大字野里の氏神祭には、每年、宮座二十四軒の內から〔三〕、六名の少女を選出し、之を一夜官女と名付け、夏越桶(ゲコシオケ)と稱する飯櫃樣(既述した洛西七條のオヤセの頂く盒子(ユリ)と同じ樣な物。)の物を供の者に持たせ、夜中に參拜するのを古式とした〔四〕。前揭の攝津國兵庫郡鳴尾村の岡神社は、俚俗「可笑(オカ)しの宮」と云ふが、同社の例祭には、祭主と成る村男が、其年に村內へ嫁した新婦の衣裳を著て、一時女臈と云ふを勤める。其折に氏子が大勢集つて手を叩きながら、「一時女臈、嗚呼可笑(アアオカ)し。」と囃し立てるので、此名が有ると云ふ〔五〕。常陸國西茨城郡笹間町の氏神祭には、新婦が鍋を被つて參列するが、其鍋の數は、恰も近江筑摩社の鍋被り祭の如く、初婚なれば一枚、再婚なれば二枚と、結婚した數だけ被るのである〔六〕。攝津國豐能郡中豐島村大字長興寺の氏神祭にも、其年に此村へ嫁した新婦は、鍋を頭に頂いて參列する役目を負はされてゐた〔七〕。而して是等の記事を親切に讀まれた方ならば、私が改めて說明する迄も無く、是等の祭儀に參加した女臈や、新婦の最古の務めが、神に占められる一夜妻であつた事を既に氣付かれた事と思ふ。其と同時に、男子が花嫁の衣裝を著けて代つて勤める事が、此最古の信仰が崩れて後に工夫された新儀であつて、且つ飯櫃樣の物が後に鍋に代つた事も、併せて氣付かれたに相違無い。然らば、其神寵を受くべき女性の資格は、如何なる方法を以て決するか、今度は其に就いて說明すべき順序と成つた。
 琉球の久高嶋では、十二年目每に皈內祭(イザイホウ)と稱して、島中の處女をカミアシャゲ(神事を行ふ齋場。)に集め、其庭に、高さ二尺程、長さ二間許り、幅一尺五寸位の、小さく低い橋の樣な物を作り、處女をして其を一人一人と渡らせる儀式を行ふ。然るに、同嶋古來の信仰として、一度でも異性に許した事の有る女子は、此橋を無事に渡り得ず、必ず途中で墜落して死ぬと傳へられてゐるので、身に暗い所を有つてゐる女子は、其以前に姿を隱くして了う(此れは女子としては最上の不名譽であつて、此者は島內では結婚する資格の無い者とされてゐる。)か、又は其暗い所を押隱して出場しても、神の祟りを恐れて、僅に二尺程の橋から(然も下は平地である。)落ちて、氣死する者さへあると云ふ事である〔八〕。而して、此皈內祭(イザイホウ)なる物が、處女であるか否か──即ち神寵を受くべき資格が有るか否かの、試驗である事は言ふ迄も無い。此試驗を無事に通過して、始めて神人(カミンチュ)(內地の家族的巫女と同じ意である。)と成る事を許されるのである。だから、此橋が滯り無く渡り得られたと云ふ事は、久高島の女性にとつては、社會的にも、信仰的にも、深い意義が含まれてゐたのである。
 內地に於いては、私の寡聞の為か、此れ程明確に女性を試驗する民俗の存する事を承知せぬが、併しながら、久高島の其と共通した物の曾て在つた事を思はせる手掛りだけは殘つてゐる。即ち各地に傳へられてゐる「裁許橋」の由來が其である。肥後の官幣大社阿蘇神宮の奧宮に詣でるには、阿蘇山(往古は此火山が神として崇拜された。)から噴出する硫黃の臭いを嗅ぎながら、左京ヶ橋と云ふ小さな橋を渡ら無ければ往けぬ樣な道順に成つてゐるが、古くからの言傳へに、邪慳の女が此橋を渡ると、神の祟りで結髮が自然と解けるとあるので、此橋が無事に渡れるか否かで、其女の心の曲直が判るとて、誰もが純真の心持と成り、敬虔の態度で橋を渡る。古歌に、「音に聞く左京ヶ橋に來て見れば、誠いはふ(硫黃)の心地こそすれ。」と有るのは、此事を詠んだ物である〔九〕。此左京ヶ橋が裁許橋の轉訛である事は改めて言ふ迄もあるまい。遠い昔に在つては、久高島の其の如く、處女か否かを試驗した神聖なる場所であつた事が知られるのである。而して各地の裁許橋に就いては、夙に柳田國男先生が「西行橋」と題して高見を發表されてゐるが〔十〕、是等の橋橋が、女性の試驗所であつた事は、直ちに點頭(ウナヅ)ける問題である。近江國筑摩神社の鍋被り祭は、宮廷詩人の歌枕に好んで用ゐられた為に有名と成り、江戶期の物識り連は、筑摩社の祭神が穀物神であるから、祭儀に鍋を被つたのであらう等と、例の理窟に合はねば承知せぬと云ふ態度の詮索をして得意がつてゐるが、此れは折口信夫氏の言はれた如く、鍋一枚を被る女性にして始めて神寵を受くる資格有る者とした、內地に於ける皈內祭(イザイホウ)の一種であつたと考ふべきである。
 斯うして神寵を受けた女性が、神社に常住する樣に成れば、家族的巫女から離れて、職業的巫女と成るのであつて、更に此職業的巫女を世襲した者を神ノ采女と稱したのである。然るに、神も感情に支配される事も有るし、又往往にして、氣紛れの事も為さる。其と同時に、神寵を受けてゐる巫女にあつても、神戒に背き神社の掟を破る樣な事もする。斯くて神母であつた者や、神妻であつた者が、社を離れて身の振り方を如何にしたか、──其には古信仰の衰へた事や、世相の變遷等も手傳つて、斯うした女性の落ち往く先は、殆んど言ひ合はせた樣に、倫落の淵であつたのである。巫女は斯くして、巫にして娼を兼ねる樣に成り、此處に巫娼として新しい生活の道を覓める樣に成つたのである。



一 巫娼の宗家であった猨女君

 我國に於ける賣笑の起源を說く事は簡單には往かぬが〔十一〕、巫娼が其先驅者であつた事だけは明白である。而して此巫娼の宗家は猨女君(サルメノキミ)であつた。猨女の出自や、職掌に就いては、屢記したので再び言はぬが、猨女の名が職業上から常に戲謔を敢てした所から、ヂャレメ──即ち戲女(ヂャレメ)から負うた事を知る時〔十二〕、更に現時でも用ゐてゐる御洒落(オシャレ)と云ふのは、遊里に緣の有る語で、娼婦をオシャレ、又はオシャラクと呼んでゐた所の尠く無い事を併せ考へると〔十三〕、猿女君と巫娼との關係は決して淺い物では無かつたのである。源順の『和名抄』に、巫覡を乞盜部に載せ、遊女と同列に見た事は、當時の性的生活の反面が窺はれ、『新撰字鏡』に、「妭(屮屮)、妭、魃。」の三字を舉げ、共に、「巧也,治也,遊也。巫(加牟奈支)也。」と記し、『倭訓栞』に、「巫(カンナギ)、神和の義也。(中略。)縣巫女は娼婦を兼ねたり。」と有るのや、『風來六部集』に娼女の異名を列ねた內に、「長崎にてはハイハチ。」と有るのを、『賤者考』の、「關西にて巫女をハイチと云う。」と有るに對照すると、兩語源が同一であつて、然も巫娼の意である事が、容易に看取される。『中右記』元永二年九月三日條に、神崎の遊女小最の名が見えてゐるが、柳田國男先生に據れば、此れはコサイと訓み、小道祖の義であつて〔十四〕、神名を用ゐた所から推すも、古い巫娼に緣を引いてゐる事は疑ひ無い。『日吉神道秘密記』に、「令託寄妓(ヨリマシ)御歌」と端書して、「此處に來て此處に在りとは思へども、目に見ぬ程ぞ戀しかりける。」と有るのも、前に載せた『將門記』の巫倡と同じく、倡や妓の字に曰くがありさうに思はれるし、陸中國稗貫郡地方では、巫女を傀儡子(クグツ)(傀儡女が娼婦であつた事は明確である。)と稱した事〔十五〕、及び近年迄箱根其他の修驗派の道場に於いては、山伏の女房は凡て比丘尼と稱して即ち巫女であり、然も其巫女の最下級者は倡を兼ねてゐた事を想ひ合せると〔十六〕、巫女が娼妓と成つた事も古い事で、且つ其が廣く行はれてゐた事が知られるのである。而して江戶期に於ける巫女の大半迄は、表藝の呪術よりは、裏藝の賣笑で繁昌したのも、又遠い夤緣から來てゐるのである。


二 浮世の果は皆小町の采女達

 神母の末路と共に、併せ考へ無ければ成らぬのは、采女と云はれた女性の身の行末である。采女の制度が神妻に起り、後に蕃客を待遇する貸妻に遷つた事は、曾て私見を發表した事が有るので省略する〔十七〕。而して宮中の采女は、地方郡領の子女を召す事に成つてゐたが、其人員は今から明瞭に知る事は出來ぬ。其を新井白蛾翁は、何に依つて計算したか、平安朝の小町の局にゐた采女だけでも六十名在るから、小町を一人の名と特定するのは無理だと云つてゐる〔十八〕。勿論、私も世に謂ふ小野小町が一人で無かつたと云ふ說には異議は無いが、併し此計算だけは、甚だ覺束無い物として、賛成し兼ねるのである。私は古代に遡る程采女の數は多く、恐らく六十名等よりは遙に夥しゐいた事と思つてゐる。郡縣の制は、大化期に完成されたのであるが、國郡の區劃は、遠く成務朝に行はれ、其數は相當多數に達してゐたと思はれるので、當時宮中及び各神社(神社の采女は百姓から召募した。其は後で述べる。)に召された采女の數は、意外の多數であつたと信じたい。
 果して然らば、是等多數の采女達が、其任期を無事に終へてからの殘生涯を、何處の地で如何なる方法で送つたであらうか。勿論、采女は神母とは違ひ、由緒も有り地位も有る郡領の子女であるか、さうで無ければ、相當に生活してゐた百姓(當時の百姓とは必ずしも農民では無く、種姓の稍(ヤヤ)低き者を斯く稱したのである。)の子女である。任期の盡きた後は、都の手振り神の宮仕へに馴れた身を故鄉の者に羨れつつ、幸福なる生活に惠まれた者も多かつたらうが、此中には『雄略紀』九年二月條に有る樣な、重臣の為に傷けられた采女も、尠く無かつたであらうし〔十九〕、更に奈良猿澤池の衣掛柳の故事として傳へられた樣な采女も多く存してゐたであらう〔二十〕。否否、私の想像する所では、多年宮中の生活を送り、久しく社內の起居を習うた采女は、恰も現代の女學生が、一度都會生活に親しむと、土臭い田舍を嫌ふのと同じ樣に、草深い故鄉に歸る事を好まず、次手を求めて京洛の地に留るか、其で無ければ、神社の付近に居を占めたのでは無からうかと考へる。都會が常に地方の人口を集める事は、昔も今も渝りは無い。然も當時の神社が、或は國府に近く、又は景勝の地に鎮座して、文化の中心と成つてゐた事は言ふ迄も無い。是等の事情は、采女の殘生を送るに氣安くも有り、都合も宜かつたので、多くの采女は好んで所緣の地に土著した事と思はれる。我國に古く、佐用姬、小野小町、和泉式部、菖蒲前と云ふが如き、名媛才女と同名の巫女の徒が、夥しき迄に各地に住み、又は各地を漂泊した事は既述したが、是等の內には、采女の土著した者、若しくは漂泊した者の在る事を考へ無ければ成らぬ。而して是等采女の子孫が巫女と成つたのは、彼等が此事に多少とも由緣を有してゐたからである。後世の俳諧の附句に、「樣樣に品變(カハ)りたる戀もして、浮世の果は皆小町也(ナリ)。」と有る樣な、氣の毒な境涯に終つた采女も少く無かつたのである。


三 處女は悉く娼婦たりし民俗

 我國古代の「處女(ヲトメ)」の意義は、現今の其とは大に內容を異にしてゐる。即ち人妻であらうが、娼婦であらうが、或る定められた物忌み(但し此物忌は頗る嚴重な物であつた。)だに完全に仕終うせれば、幾度でも處女と成り得る物と確信してゐた。反言すれば、性の復活を信じてゐたのである。我國に古くから「腹は借物(カリモノ)」と云ふ思想の有つたのも、更に「操は賣つても身は污さぬ」と云ふ性を二元的に見た思想の存したのも、所詮は性の復活に由來してゐるのである。從つて古代の「處女(ヲトメ)」と云ふ語は、人妻で無いと云ふ事だけは意味してゐるが、決して童貞を意味してゐた物では無い。『萬葉集』には未通女(ヲトメ)を「をとめ」と訓ませて、此「をとめ」に童貞の意を含ませてゐるが、此れは奈良朝に成つてからの事で、其以前には全く見當らぬ事である。否、其所では無く、奈良朝に在つても、「處女(ヲトメ)」の名で、賣笑を職業とした婦人さへ有つた〔廿一〕。神に仕へる女性は、處女たる事を原則としてゐたが、人妻であつても、娼婦であつても、物忌だに濟せば、再び元の處女として、神に仕へる事を許されたのである。而して此思想は、巫女と娼婦の境界線を撤廢するに、大きな力と成つて、社會的に動いてゐたのである。
 私は此處に、我國の定期婚や、試驗婚や、更に勞働婚等の婚制の根底に、微弱ながらも賣笑的意識の有つた事を說かうとは思はぬ。又、純粹なる共同婚は、賣笑と擇む無き事情を論じ樣とも考へてゐ無いが〔廿二〕、古代の處女は、一面に於いて、巫女性を帶びてゐた(此事は屢述した。)と同時に、他の一面に於いては、娼婦性を有してゐた事を言ふに留めるが、此世相はモルガン(Lewis H. Morgan)の所謂娼婦制(ヘテリズム)に相當する物である。而して其遺物とも見るべき物は、古く羽後國鶴岡町の小岩川に近き厚見邊の村里では、富める者も、町人も、總て娘を持てる限り、遊び傀儡子(クグツ)に遣るを習ひとした。此れを「濱の姨(オバ)」と呼んでゐた〔廿三〕。伊豆の下田港でも、明治以前は、良家の娘でも、好んで旅客の枕席に侍した物であるが、斯うせねば一人前の女に成れぬと云はれてゐた〔廿四〕。肥前國の平戶町に遠からぬ田助浦は漁村であるが、此地の娘は、悉く娼妓の鑑札を受けてゐて、客が招けば貸座敷に出掛ける。平生は宅にゐて家事を取つてゐるが、他國には見られぬ慣習である〔廿五〕。志摩國の的矢港は、昔は大阪江戶間の寄港地であり、避難所でもあつたので、船が入ると女の名の付く者は、悉く船客船員の需めに應じた。古い俚謠に「的矢港や女郎島、チヨロ(艀の事。)は冥土の渡し船、死に行く人を乘せて漕ぐ。」と有る樣に〔廿六〕、殆んど全港の女子が娼婦であつた。更に『信州叡山藩盆踊薩摩歌』に有る、「嫁に往くなら越後今町いやでそろ、晝は三味彈(ヒ)く、夜去(サ)りはお客の褄を引(ヒ)く。」と有る俚謠も、又た此意味に解釋されるのである。私等が覺えて迄も、伊勢や越後等では、娘を娼妓に賣る事を、行儀見習に遣る位に手輕に考へて居り、肥前邊りでは娼妓上(アガ)りの女子を卻つて悅んだと云ふのも、古い民俗の殘片と思はれるのである。此れでは愛の標の白羽の矢が立つた時、其召に應ずる事は名譽であつたに違ひ無いのである。
 猶ほ此れには、我國に於ける旅人に貸妻する各地の民俗を述べぬと徹底せぬのであるが〔廿七〕、今は其にも及ぶまいと考へたので割愛した。


四 琉球に殘存せる巫娼の傳說と事實

 我が內地の古俗を化石させ、其を親切に然も克明に保存した、琉球の賣笑發達史に於いて、巫娼の成立と存在とを、更に有力に暗示する傳說と、證示する事實とが殘つてゐた。同地出身の伊波普猷氏は、此れに就いて大體左の如く記述してゐる。

 琉球には尾類(ズリ)と稱する一種特別の賣笑婦が居るが、其由つて來たる所が判ら無い。彼女等自身が自分等の鼻祖は、御姊妹(オミナンベ)(王女。)であると云つてゐる事や、一種の神(原註略。)を祭り、兼ねて遊郭內の一切の世話を燒く長老が、牡前(オイメー)と云はれてゐる事や、老妓が巫女(ノロ)同樣に世間の人から、一種の尊敬を拂はれてゐる所等を見ると、尾類(ズリ)の鼻祖は、やはり他民族の歷史に於いて見る樣に、神に仕へる巫女にして賣笑を兼ねた物で、其歷史も亦た琉球の歷史と、同じ古さを有つてゐる物と思はれる。云云(以上、『新小說』第三十一卷第九號。)


 更に伊波氏は、琉球にも內地の采女の制度に類似した物が有り、然も此女性達が售春した事に關して、大要次の如く記述してゐる。

 琉球の城人(クスクンチネー)と云ふ者が、此采女の類では無かつたかと思はれる。『混效驗集』(AD一七一一年編纂。)と云ふ古代琉球語の辭書に、天妃の事を「みきよちやの美御前加那志(ミオマエカナシ)」と書いて有るが、此れは御息所や御台所等と同じ義があらう。第二尚氏の事を書いた『王代記』と云ふ本を繙くと、代代の國王には、王妃の外に一兩人の婦人と幾人かの妻の有つた事が判る。(中略。)記錄には見えてゐ無いが、國王には此外に大勢の城人(クスクンチネー)と云ふ女が有つたと云ふ事である。思ふに、古くは寵愛を失つた城人(クスクンチネー)が、農村に歸ら無いで、首里其他の都會を徘徊して、春を賣つた事が有つたであらう。云云。(同上。)


 而して那覇の辻遊郭の開祖は、尚真王の世子浦添王子尚維衡の妃であつて、併せて此王妃が尾類(ズリ)の鼻祖であると傳へられてゐる〔廿八〕。王妃が遊郭を開くとか、娼婦の初めと仰がれるとか云ふ事は、現在の社會感情から見れば實に在り得べからざる事であると共に、又た許すべからざる不祥の事であるが、併しながら、同國の古俗が、既述した如く、王妹は巫娼に緣故深き巫女(ノロ)の最上官である聞得大君(キコエオホギミ)として、國中の巫女(ノロ)を支配した國情に置かれた事を知れば、此傳說は必ずしも無稽だとばかりは云へぬのである。琉球では今に娼妓を尾類(ズリ)の名で呼び、此尾類(ズリ)が守護神の祭日──即ち尚王妃の命日である每年正月二十日に行ふ「尾類(ズリ)馬」と稱する祭禮は、全く娼婦が中心と成つてゐる。然も此祭禮を度度目撃した同地出身の友人金城朝永氏の談に據ると、巫女(ノロ)が祭典に列する為に著用する神聖なる式服と、此「尾類(ズリ)馬」に出る娼婦の盛裝とが、悉く同一形式であると云ふ事は、彼之の間に深甚なる關係の有つた事を考へさせるのである。更に辻遊郭に、男子の樓主が一人も無い事も、古俗を偲ぶ上に關心すべき事で、內地も大昔に在つては、樓主は女性に限られてゐた物で、其起源は遠く巫娼時代の部曲に緣を引いてゐるのである。而して是等辻遊郭の樓主中から、力量有り人望有る者が推されて、牡前(オイメェ)(此語には神前に奉仕する人の義が有る。)と稱する司祭長で、兼ねて遊郭の事務を總轄する者を選定する。由來、同遊郭は、前村渠(アンダカリ)、上村渠(サンダカリ)と云ふ二部落に分れて互に競爭してゐるので、從つて二名の牡前(オイメェ)が有る譯であるが、此二名の牡前は、前者は白堂(シラドウ)の拜(オガン)所(內地の神社とも云ふべき靈地。)に仕へる屍婦で、後者は古場津笠(クバツカサ)に仕へる屍婦である〔廿九〕。是等の事情を總合して考へると、琉球の娼婦は初め巫女(ノロ)から出て、拜(オガン)所を中心に生活した事が明確に知られるのであつて、我が內地の古俗も又此れと共通してゐた事が想像されるのである。


五 神社中心に發達したる各地の遊郭

 神社は國家の宗祀であつて、然も國民崇敬の對象であると云ふ、現在の神社觀から云へば、不淨であり、不倫である遊郭が、神社を中心として發達したとは、誠に以て言語道斷の事であるが、併し、民俗神道學の立場から見れば、既に神社に仕へた巫女──若しくは神社を放れた巫女が、娼婦の先驅者と成つてゐるのであるから、各地の遊郭が神社を目安として發達し繁昌したのは、寧ろ當然の結果とも云へるのである。
 伊勢の古市の娼婦の發生を說くに、御子良の墮落せる者が相集りしに初まると云ふ者が有るも、私は此說に容易に賛成する事が出來ぬ。寡見の及ぶ限りでは、斯かる事を考へさせる記錄に接しぬからである。併しながら、古市が參宮道者の攀花折柳に、都合良く設備されてゐたのは大昔からの事で、全國に亘り、「夫婦連れで參宮したのでは御利益が薄い。」と云ふ俚諺が行はれてゐた裏面には、道者は必ず古市で剪紅摘緑の遊びをし無ければ成らぬ樣に仕向けられてゐたのである。私の生れた南下野地方では、昔は伊勢參宮を殊の外手重い物とし、參宮すると其者の生涯の運が極まると稱して、五十歲以上に成ら無ければ參宮せぬ習いと成つてゐた。現に私の父も五十三歲で參宮したが、私等も此潛在意識が活いて今に參宮した事が無い。其癖、伊勢へは幾度と無く旅行して、宇治山田へも往つた事も有るが、態態參宮だけは差控へてゐる有樣である〔三十〕。而して此五十を越してからの參宮と云ふ事情は、古市の梅毒を非常に恐れたからであつて、參宮して發病した梅毒は、伊勢の水で治療し無ければ全治せぬと云ふ迷信が伴ひ、其が為めに思慮の定まつた知命以上を條件とした物と思ふ。古い俚謠に、「伊勢の古市女郎眾の名所、戾らしやんせよ迷はずに。」と有るのも、更に昔の川柳點に、「伊勢參(マヰ)り太神宮へも寄つて來る。」と有るのも、共に此間の消息を傳へた物である。
 古市遊郭が既に斯くの如くであるから、上を見倣ふ下下に在つては、少しく誇張して云へば、名が聞え德の高い物で、附近に遊郭を有してゐぬ神社は無いと云ふも、決して過言では無いのである。此處に四五の例を舉げると、京都に近い伏見市の泥町と、深草の撞木町とは、稻荷と藤森の兩者の為に發達し、「食(ク)らはんか船」で有名な牧方及び橋本の兩地と男山八幡宮、奈良の木辻と春日社、攝津住吉社と乳守、廣田社と神崎、下關の赤間宮と稻荷町、筑前の筥崎宮と博多柳町、讚州金毘羅社と新町、日吉神社と大津の柴屋町、出雲の美保神社と同地の遊里、越後の彌彥神社と寺泊、越前敦賀の氣比神宮と六軒町、熱田神宮と宮宿、静岡市の淺間神社と彌勒町、伊豆の三嶋神社と三嶋女郎眾、常陸の鹿嶋社と潮來の遊郭、武藏府中の國魂神社と同所の遊女町、信州の諏訪社と高嶋遊郭、陸前の鹽釜神社と門前の遊郭等を重なる物として、殆んど枚舉に遑非(アラ)ずと云ふ多數である。就中、珍重すべきは筑波神社を祭れる筑波山の半腹と、安藝の巖島の孤嶋に遊里の營まれてゐる事である。是等は神社に參拜する為に赴くのか、遊女を買はんが為に往くのか、恐らくは信心と道樂とを兼ねてゐたのであらうが、蓋し其關係は、歷史的に云へば、太古から傳統的に殘されてゐたのである。『梁塵秘抄』に、

 住吉四所のお前には 顏良(ヨ)き女體ぞ坐(オハ)します。
  男は誰ぞと尋ねれば 松崎(マツヶサキ)なるすき男。


 と有る此女體こそ、即ち神社に附屬してゐた神采女の末であつて、併も「すき男」を歡迎へた巫娼其の者である。住吉社と乳守遊郭との關係は、後にも述べる機會も有るが、古く此巫娼が乳守の發達に與つてゐた事だけは、見逃す事の出來ぬ點である。併しながら、是等は神社に屬するか、又は神社を離れてゐても、未だ上位に數へられる者であるが、全く神社を棄てて各地を漂泊した巫女、又は采女の名に隱れて媚を售つた「步巫女(アルキミコ)」に至つては、殆んど後世の「道の者」か、或は土娼と異る無き迄に墮落してゐたのである。
 同じ『梁塵秘抄』に、

 吾が子は十餘りに成(ナ)りぬらん、
   神巫(カウナギ)してこそ步りくなれ。
 田子浦(タゴノウラ)に潮踏むと、
   如何(イカ)に海士人集ふらん。
 問ひみ問はずみ調戲(ナブル)らん、
   愛(イト)をしや。


 給分を失ひ、神社に離れ、併も衰へた古い信仰を言立てて、情海の一角に辛うじて生活の血路を求めた多くの神采女や巫女の身の成り果ては、其は奈何にするも淚に富んだ、憐れな境遇であつたに相違無い。巫女の賣笑も決して新しい問題では無かつたのである。


六 神社の祭禮に遊女の參加する理由

 神社の恒例祭に遊女が參加し、又は遊女が祭禮の中心と成る民俗は、各地に亘り、相當の數に達してゐる。前揭の琉球の尾類(ズリ)馬は、遊女が祭儀の中心と成つてゐるだけに大掛りであつて、恰も在りし昔の吉原か嶋原の花魁道中の如く、廓內の名妓は、定まれる式服を纏ひ、派手やかな色布で鉢卷を為し、木で作つた馬首に紅白(今は模樣物。)等の縮緬の手綱を付け、其を前帶に挾み、兩手に手綱を取つて、廓內を練り步くのである。播州室津町の賀茂明神は遊女を具して降臨したと傳へられるだけに、祭禮には同地の遊女は、錦の袴に紫の帽子を頂き、二人づつ並んで、歌を謠ひ、笛太鼓を鳴らして、町中を迴つた物である〔卅一〕。攝津の住吉神社では、每年二回づつ、卯葉の神事には、大阪新町の遊女が八乙女として參加し、田植祭には乳守の遊女が早乙女と成つて參加し、昭和の現代でも其が懈怠無く行はれてゐる〔卅二〕。下關の赤間宮の先帝祭には、祭神に扈從した女性が生活に窮し遊女と成つたと云ふので參拜供奉するのは有名な事である〔卅三〕。長崎市の諏訪神社の大祭には、丸山・寄合兩町の遊女が、每年交代で參加する〔卅四〕。京都祇園の八坂神社の神輿迎へにも、古くは白拍子、加賀女等の遊女が出て、舞を奏した物である〔卅五〕。静岡市二丁目の遊女も、昔は每年元朝に打揃うて淺間神社に參詣する事に成つてゐた〔卅六〕。
 而して是等は悉く當時の名神大社であつて、現今でも官國幣社として國民の崇敬を集めてゐるのであるが、此他の名も無き叢祠藪神の祭儀にも、遊女の參加した例は決して尠く無い。備中國淺口郡玉嶋町の天神祭には、藝娼妓が盛裝を凝らし多くの船に乘込んで、神輿船に從ひ、海上を漕迴り、大騒ぎをする〔卅七〕。遠江國磐田郡見付町は、明治以前には賣女が二百人餘り居て、每年舊二月初午には同郡中泉町御陣屋の稻荷祭に美服を纏ひ、參詣するのを恒としてゐた〔卅八〕。陸中國紫波郡見前村大字津田志町の大國神社は、同町の總鎮守であるが、祭日には鍬ヶ先から遊女が參拜に來て、振袖の色を爭ひ同音に彈立てる三絃の音に、信徒の心を狂はせたと有る〔卅九〕。更に奇拔なのは羽後國山本郡能代町で、每年舊三月四日に遊女調べを行ふが、其場所は同町の氏神住吉社の長床と定まつてゐる。然も當日は、能代方、木山方、出入役所の三吟味、及び庄屋、町宿老等が出張し、遊女を長床に零(コボ)れる程集めて盛宴を張つた〔四十〕。遊女の點呼を神社で行ふとは、遊女が祭禮に參加するよりは一段と珍しい事ではあるが、詮索したら、更に此れより奇態な事が有るかも知れぬ。併し斯かる事を書き出すと、際限が無いので大抵にするが、兔に角に遊女屋を氏子に有してゐた神社ならば、其總てが祭禮に遊女の艷容を見たと云つても差支へ無い程である。大嘗祭の翌年に朝廷の名で執り行ふ八十嶋祭にも、遊女に纏頭を與へるのが恒例と成うてゐたのであるから〔卌一〕、祭禮と遊女の關係は古くも有り、且つ親しくも有つた事が知られるのである。而して斯くの如き事象が永く存したのは、遊女の發生が神社に交涉有る巫娼に在つた為である。


七 神に祭られた巫娼と遊女

 源流を神妻に發した巫娼──良し其が、神母、神妾、神婢、采女として傳へられてゐるにせよ、是等の女性が軈て神として祭らるるべき充分の可能性を有してゐる事は既に記し、併せて神母の祭神と成つた類例も既に舉げた。
 私は更に、巫娼又は遊女が、古くは神、新しくは佛に祀られた事實に就いて述べるとする。延喜の神名帳に載せてある伊勢國度會郡の久久都比賣(傀儡子姬)神社は、社傳が全く失はれてゐるが、其神名から推して巫娼に交涉有るものの樣に想はれる。丹波國多紀郡の母上(ハハカミ)神社は、後世には多田滿仲の母を祭つた物だと傳へてゐるが〔卌二〕、此れは古く神名帳〔卌三〕。併しながら、此社を別に女別當と呼んだ所から見ると、同じく神母か巫娼に由緣有つた物として差支無い樣である。伊勢國鈴鹿郡片山神社の鈴御子に關しては、後世の謠曲や、御伽草子の為に書き崩されて了つて、其正體を知る事が困難であるが、其でも此御子を祭つた鈴鹿御前社が巫娼關係の物である事だけは看取される〔卌四〕。京都八坂神社の末社である美御前三座の如きも、社家の說には素尊の生める三女神と有るが、其神名を第一京上﨟、第二岐(ミサキ)御前、第三小上﨟と有るのを聽くと〔卌五〕、何と無く神妻か巫娼に所緣が有る樣に察しられる。上總國長生郡土睦村大字岩井に玉崎祖母大明神と云ふが有る。里人は祖母神樣(バアカミサマ)と云うてゐる。往古、一宮神社の祭禮每に誇つて參來るので訴訟と成り、官より姥神の名を差止められて、鵜羽山大明神と改めたと有る〔卌六〕。記事が簡單である為に委曲を盡さぬが、想うに一宮祭神に關係有つた神妻か、神妾の為に、誇つて參詣した物と見るのが妥當であらう。
 猶ほ、民間に人氣の有つた和泉式部、小野小町、菖蒲前と稱した巫女(又は巫娼。)を祀つた物は、各地に亘り夥しき迄に存してゐる。和泉式部は、寡聞なる私でも二十餘ヶ所を知り、小野小町でも十餘ヶ所を、菖蒲前も數ヶ所を舉げる事が出來るが、此處には煩を避けて、一人一所づつを示すに留めるとする。紀伊國那賀郡中貴志村大字上野山に和泉式部社と云ふが有る。俚傳に式部が熊野參詣の歸途此處で病死したので、埋葬の地に社を建てて祀つたのである〔卌七〕。美濃國加茂郡蜂屋村の小野寺は、小野小町の開基であつて、境內の觀音堂は、小町の護身佛と小町とを併せて祀つた物である〔卌八〕。丹波國何鹿郡吉美村大字多田字聖塚に菖蒲前を祀つた塚が有る。俚傳に源賴政の妾であつたと云うてゐる〔卌九〕。是等の乏しき類例から推すも、巫娼の勢力と分布とを、窺知するに足る物が在つて存するのである。
 更に巫娼より一段と世の降つた純粹なる娼婦を神又は佛に祀つた例も尠く無い。此處には僅に一二を舉げるとするが、近江國野洲郡祇王村大字中北は、平清盛の寵愛を受けた祇王祇女姊妹の生地で、同所と隣村の富波の兩所に姊妹の祠堂が有り、村民は其命日には精進する〔五十〕。此事象は、儒者氣質の伊藤東涯には餘程不思議に考へられたと見えて、其著『輶軒小錄』にも載せてゐる。駿河國富士郡鷹岡村大字厚原字中宿の玉渡神社は、曾我祐成が買ひ馴染んだ大磯の遊女虎御前(中山曰、虎と云ふ巫女が、式部や小町の如く各地を漂泊した事跡が多く殘つてゐる。此れに就いては後で言ふ機會が有らうと思うてゐる。)を祀つた物で〔五一〕、同國安倍郡長田村大字手越の少將神社は同じ遊女の少將を祭神としてゐる〔五二〕。陸中國東磐井郡千廄町の千壽長根と稱する山麓に千壽塚と云ふが有る。傳說に平重衡に愛せられた名妓千壽が狂亂して、此處に迷來て死んだので祀つたのだと云つてゐる〔五三〕。美濃の大垣市に近い結村には、小栗判官の寵妓であつた照手姬を神に祀り〔五四〕、上野國多野郡新町の御菊稻荷神社は、同町の妓樓大黑屋の賣女御菊を併祀した物である〔五五〕。更に近世の事ではあるが、東京市の永代橋の袂には、遊女高尾を祀つた高尾神社なる物が、明治初年迄存してゐたと云ふ。而して斯くの如く、巫娼遊女が神に祭られ佛と崇められて、一部の崇敬を受けてゐたのは、其大昔に於いて是等の者が神妻として、又は神妾として、更に神母として、神に親しみ、神を生んだ信仰に系統を引いてゐる為である。
 神妻から巫娼への過程は、此れで稍(ヤヤ)輪廓を盡したと思ふので本節を終るが、更に此遺風餘俗は、熊野信仰の興隆に連れて、繪解比丘尼より、賣り比丘尼を出すに至り、江戶期に於いては、巫女の大半迄賣笑する迄に墮落したのであるが、是れの及ばざる所は、彼に補ふ考へであるから、併せ讀まれん事を望む次第である。

〔註第一〕折口信夫氏は、一夜妻の對手と成る者は、賓神(まれびとがみ)であつて、此信仰から旅客に貸妻する土俗が派生したのだと說いてゐる。私はさう迄せずとも、一夜妻の對手は、考へられると思ふのである。
〔註第二〕我國の生贄は、其言葉の如く、神の占めてゐる山なり、池なりに、放ち飼ひにして有る獸や、魚を云つた物で、必ずしも支那の犠牲と同一に見る事が出來ぬのである。詳細は長くなるので見合せるより外に致し方が無い。
〔註第三〕宮座とは、祭神に對して特種の權限を有する氏子の事で、詳細は『社會學雜誌』に載せた拙稿『宮座考』を參照せられたい。
〔註第四〕『攝津名所圖會』其他にも載せて有る。
〔註第五〕『攝陽落穂集』卷二。
〔註第六〕『鄉土研究』第一卷第七號。
〔註第七〕『攝陽落穂集』卷四。
〔註第八〕『女性改造』第三卷第九號。
〔註第九〕『阿蘇郡誌』。
〔註第十〕『鄉土研究』第四卷第七號。
〔註十一〕猿女君と巫娼の關係、及び我國の賣笑の發生等に就いては、拙著『賣笑三千年史』に稍(ヤヤ)詳しく述べて置ゐたので、參照を望む。
〔註十二〕猿女の語源は、從來、鈿女命が猿田彥の名を併せ得て、斯く稱したのであると言はれてゐるが、信用すべき限りで無い。猿田はサダと訓むべきであつて、サルダと訓むべきで無い。此事も前記『賣笑三千年史』に詳しく述べて置いた。
〔註十三〕『物類稱呼』卷一遊女條に、信州輕井澤にて「おじやらく」、奧州にて「おしやらく」と云ふと載せ、『米澤方言考』に「おしゃめ女郎」と舉げ、『異本洞房語園』卷六に、越前三國にて遊女の別名をシャラと云ふと有る。『鹿嶋詣(マウデ)』に、舊三月九日に、鹿嶋神宮で行はれる齋頭祭に用ゐる俚謠の一句に、「おしゃらく目の毒。」と有る。此邊にても古くは斯く言ひし物か。
〔註十四〕『東京人類學雜誌』第二十八卷第二號以下に連載された、柳田國男先生の「巫女(イタカ)及び山家(サンカ)」と題せる研究は、巫女と賣女との關係並に其過程が詳記されてゐる外に、先生獨特の創見に富んだ記事である。私のは其を真似たり、拜借したりした物である事を明記し、謹んで先生に敬意を表する次第である。
〔註十五〕「傀儡子(クグツ)」の娼婦であつた事は、改めて言ふ迄も無いが、此れも『賣笑三千年史』に詳記して置いた。
〔註十六〕前揭の柳田國男先生の記事に見えてゐる。
〔註十七〕我國に於ける貸妻の發生、其他に就いては、拙著『日本婚姻史』に詳說して置いた。
〔註十八〕『牛馬問』(溫知叢書本)。
〔註十九〕『雄略紀』に、「遣凡河內直香賜與采女,祠胸方神。香賜與采女既至壇所,及將行事,奸其采女。云云。」
〔註二十〕『大和物語』其他にも有る有名な話である。
〔註廿一〕『萬葉集』卷九に載せた上總の末の珠名娘子が其である。こは、本居內遠の『賤者考』に考證して有る。
〔註廿二〕是等の婚姻の種種相に就いては、前揭の『日本婚姻史』に盡して置いた。
〔註廿三〕天明四年九月に記した菅江真澄翁の『齶田濃刈寐』に據る。
〔註廿四〕『新小說』第十一卷第十號。
〔註廿五〕『週刊朝日』第九卷第廿三號。
〔註廿六〕雜誌『性之研究』特別號『賣淫研究』參照。
〔註廿七〕貸妻及び妻女を交換する土俗に關しては『日本婚姻史』に述べた。
〔註廿八〕前揭の『沖繩女性史』に收めた「尾類(ズリ)の歷史」。
〔註廿九〕『新小說』第三十一卷第九號所載の「琉球の賣笑婦」に據る。
〔註三十〕皇太神宮に對して、私幣禁斷の制は、古くから國法として行はれてゐた。從つて、本來なれば、華士族でも、平民でも、幣帛を捧げ、參詣する等とは、過分の振舞である。慎しみ畏れ無ければ成らぬ事である。
〔註卅一〕『明治神社志料』卷上。因に、遊郭が神社中心に發達した人文上の理由も、他に相當に存してゐるが、此處には煩を避けて省略した。誤解無き樣に敢て附記する。
〔註卅二〕『東成郡神社誌』及び『住吉名勝記』。
〔註卅三〕『長門志料』。
〔註卅四〕『官國幣社特殊神事調』一。
〔註卅五〕『八坂志』乾卷
〔註卅六〕麗澤叢書本の『晁東仙鄉志』。
〔註卅七〕文藝倶樂部增刊の『花柳風俗誌』。
〔註卅八〕山中共古翁の手記『見付次第』。
〔註卅九〕『紫波郡誌』。
〔註四十〕『能代由緒記』。
〔註卌一〕『江家次第』卷十五。
〔註卌二〕大日本風教叢書本の『神社啟蒙』卷七。
〔註卌三〕大日本地誌大系本の『近江輿地志略』卷十五。
〔註卌四〕『勢陽雜記』卷二。
〔註卌五〕同上の『神社啟蒙』卷三。
〔註卌六〕『房總志料叢書』續篇卷五。
〔註卌七〕紀州德川家で編纂發行の『紀伊續風土記』卷三十七。
〔註卌八〕『新選美濃志』卷二十三。因に『稿本美濃志』と間違はぬ樣、注意せられたい。
〔註卌九〕『何鹿郡案內』。因に言ふが、茲に賴政と有るのは、即ち憑坐(ヨリマシ)の訛語であつて、初め巫女を憑坐(ヨリマシ)と稱してゐたのが賴政と訛り、更に賴政から菖蒲前が附會されるに至つたのである。此過程に就いては、柳田國男先生の『鄉土研究』第一卷第九號の「賴政の墓」と題せる研究に盡して有る。
〔註五十〕『淡海溫故錄』卷一。
〔註五一〕山中共古翁の手記『吉居雜話』。
〔註五二〕『駿河志料』卷二十六。
〔註五三〕『封內風土記』卷二十。
〔註五四〕『三河雀』卷四。猶ほ同書に據ると、羽前山形市の近村に、金賣り吉次が、遊女龜鶴を神に祀り、社領五百石を寄せたと記して有るが、此事は山形地方の地誌類にも見えてゐぬので、真偽ともに判然せぬけれども、五百石は少し多きに過ぎるので、少しく怪しい樣に思はれる。
〔註五五〕『多野名勝誌』。
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