第三節 言靈の神格化と巫女の位置

 我國に於ける一般的の呪術から言ふと、太卜(フトマニ)は最も古き方法であつて、然も最も重き物である。文獻の示す處に據れば、諾・冊二尊も此れを行ひ、天照神の磐戶隠れにも此れを行ひ、天兒屋根命が神事の宗源を司ると云ふのも詮ずるに此の事が重大なる務めであつた。人世と成り、鹿卜が龜卜に變り、兒屋根命が卜部氏と成つても、太卜の呪術的重要さは、依然として少しも渝る處が無かつた。從つて歷聖も大事の有る每に此れを行ひ、民間でも稀には此れを行ふ事すら有つた〔一〕。然るに此れ程重要なる太卜の呪術に、巫女が深い關係は有してゐぬのは抑抑如何なる理由であらうが。

一、太卜が文獻に記される樣に成つた頃は、覡男の勢力に巫女が壓倒された為であるか。
二、其れとも、太卜と云ふが如き最高の呪術には、當初から巫女は交涉を有(も)たぬのであらうか。

 此れに對する私の答へは、極めて簡單明瞭である。即ち巫女は初め太卜に關係し、然も此れが中心と成つてゐたのであるが、世を代へ時を經る內に、神道が固定し、呪術が洗練されて神事と成り、覡男が巫女を排斥した結果として、遂に斯かる文獻を殘したに過ぎぬと言ふのである。而して私の此の答へは、太卜の主神である卜庭之神(ウラニハノカミ)──即ち太詔戶命(フトノリトノミコト)と、此れに仕した巫女の龜津比女命との考覈を試みれば、其れで明白に成り且つ確實になる物と信じてゐる。
太卜を行ふには、卜庭二神の太詔戶命と櫛真知命(クシマチノミコト)とを祭る事が、儀禮と成つてゐた〔二〕。太詔戶命に就いては『釋日本紀』卷五(述義一)の太卜の條に左の如く載せてある。

 太占
 私記曰,問:何是占哉?答:是卜之謂也。上古之時,未用龜甲,卜以鹿肩骨而用也。謂之フトマニ。(中略)『龜兆傳』曰:「凡述龜誓,皇親神魯岐、神魯美命,荒振神者掃掃平,石木草葉斷其語。詔群神:『吾皇御孫命者,豐葦原水穗國安平知食。天降事寄之時,誰神皇御孫尊朝之御食、夕之御食、長之御食、遠之御食之間,可仕奉?』神問問賜之時,徑天香山白真名鹿【一說云,白真男鹿。】:『吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之。』問給之時,已致火為。太詔戶命進啟【又按,持神女住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也。】:『白真鹿者,可知上國之事。何知地下之事?吾能知上國地下天神地祇,況復人情憤悒。但手足容貌不同群神。』故皇御孫命放天石座別八重雲天降坐,立御前下來也云云。」

 此の記事を讀んで、當然、導出される問題は、(一)太詔戶命とは如何なる神か、(二)太詔戶命と龜津比女との關係を如何に見るか、及び此の兩神と太卜との交涉は如何なる物かと云ふ二點である。私は此れに就いて簡見を述べて見たいと思ふ。

一、太詔戶命は言靈の神格化

 私の父は大變な平田篤胤翁の崇拜家であつただけに、草深い片田舍の半農半商の親爺としては、一寸、珍しい程の古典通であつた〔三〕。其の父が生前に書き殘して置いた物の中に、『六月晦大祓』の祝詞の一節に「天つ菅麻(スガソ)を、本刈斷ち末打切りて、天津祝詞の太祝詞事を宣れ、斯く宣らば天つ神は。」云云と有る『太祝詞』とは何の事か知るに由が無いと云ふ意味が記してあつた。私は深く此事を記憶してゐて、爾來、本居・平田兩翁の古典の研究を始め、伴信友・橘守部・鈴木重胤等の各先覺の著書を讀む折には、必ず特に『太詔詞』の一句に注意を拂つて來たのであるけれども、私の不敏の為か、今に此の一句の正體を突き留める事が出來ぬのである。其れでは、代代の先覺者には、此事が充分に解釋されてゐたかと云ふに、どうも左樣では無くして、多分こんな事だらう位の推し當ての詮索ばかりで、手短く言へば、私の父の考察に少し毛が生えた位の物に過ぎぬのである。斯く碩學宏聞の大家にあつても、正體を知る事の出來無かつた太詔詞の一句、田舍親爺の父等に知れべき筈の無いのは、寧ろ當然と云ふべきである。然らば、其の太詔詞とは如何なる物であるか、先づ二三の用例を舉げるとする。
 太詔詞の初見は『日本書紀』神代卷の一書に、「使天兒屋命掌其解除之太諄詞(フトノリトゴト)而宣之。」の其れで、祝詞では前揭の大祓の外にも散見してゐるが、重なる物を舉ければ「鎮火祭」には二箇所有つて、前は「天下依し奉りし時に、事依し奉りし天津詞太詞事を以て申さん。」と有り、後は、「和稻、荒稻に至る迄に、橫山の如置きたらはして、天津祝詞の太祝詞事以て、稱辭竟へ奉らんと申す。」と有る。「道饗祭」には、「神官、天津祝詞の太祝詞を以て、稱辭竟へ奉ると申す。』と有り、「豐受宮神嘗祭」には「天照し坐す皇大神の大前に申し進(タテマツ)る、天津祝詞の太祝詞を、神主部・物忌等諸(モロモロ)聞食せと宣る。」と有り、此れも前に引用した『中臣壽詞』には「此玉櫛を刺立て、夕日より朝日の照る迄、天津祝詞の太詔詞言(フトノリトゴト)を持て宣れ。」と有り、更に『萬葉集』卷十七には、「中臣の太祝詞言ひ祓ひ、贖ふ命も誰が為に汝。」と載せてある。
 而して是等の用例に現はれたる太詔詞に對する諸先覺の考證を檢討せんに、先づ賀茂真淵翁の說を略記すると、「或人(中略)、されば茲に天津祝詞と有るは、別に神代より傳はれる言あるならん、と云へるはひが事也。」とて〔四〕、大祓の外に別に太詔詞有る事を云はず、且つ太詔詞其のものに就いては、少しも觸れてゐぬのである。本居宣長翁は「太祝詞事は、即ち大祓に、中臣の宣此詞を指せる也。」として〔五〕、賀茂說を承認し、且つ太詔詞に就いては何事も言うてゐぬ。然るに、平田篤胤翁に至つては、例の翁一流の臆斷を以て、異說を試みてゐる。
茲に其の梗概を記すと、

 太祝詞を天津神・國津神の聞食せは、祓戶神等の受納給ひて罪穢を卻ひ失ひ給ふ。斯在ば其太祝詞は別に在けむを、式には載漏されたる事著明し、若し然らずとせば、太祝詞事を(乎)宣れ(禮)とは何を宣る事とかせむ。

 と言はれた迄は卓見であるが、更に一步を進めて、太祝詞の正體は、

 太詔詞は、皇祖天神の大御口自に御傳へ坐るにて、祓戶神等に祈白す事なるを、神事の多在る中に、禊祓の神事許り重きは無ければ、天津祝詞の中に此太祝詞計り重きは無く、天上にて天兒屋命の宣給へる辭も、其なるべく所思ゆ。

 とて〔六〕、遂に禊祓を太祝詞と斷定したのである。鈴木重胤は平田說に示唆されて一段と發展し、伯家に傳りし大祓式に三種ノ祝詞有るを論據として、遂に太詔詞は、

 吐普加身衣身多女(トホカミエミタメ)とて、此は占方に用ふる詞なるが、吐普(遠)は遠大(トホ)にて天地の底際(ソコヒ)の內を悉く取統て云也、加身(神)は神(カミ)にて天上地下に至る迄感通らせる神を申せり、依身(惠)は能看(エミ)、多女(賜)は可給(タメ)と云ふ事にて。(中略)簡古にして能く六合を網羅(トリスベ)たる神呪にて、中中に人為の能く及ぶ所にあらざりけり。(中略)此三種ノ祝詞を諄返し唱ふる事必ず上世の遺風なる物也、そは大祓の大祝詞に用ゐららるに祓給へ(幣)清給へ(幣)の語を添て申すを以て曉(さと)る可き也云云。

 と主張してゐる〔七〕。鈴木翁が太詔詞を神呪と見た警眼には服するが、此れを吐普加身(遠神)云云を以て充當しようと企てられたのは、恰も平田翁が此れを皇祖天神の口授とし、禊祓を擬せんとしたのと全く同じ事で、共に出典を缺いた臆說と見るべき外は無いのである。
 然らば太詔詞の正體はと云へば、此れは永久に判然せぬ物であると答へるのが尤も聰明な樣である。恐らく此の神呪は此れを主掌してゐる中臣家の口傳であつたに相違無い故、其れが忘られた以上は永久に知る事の出來ぬ物である。然るに、茲に想起される事は、『類聚神祇本源』卷十五(此書に就いては第一篇第二章に略述した。)神道玄義篇の左の一節である。

 問:開天磐戶之時、有呪文歟如何?答:呪文非一、秘訓唯多。(中略)又云而布瑠部由良由良止布瑠部文、此外呪文依為秘說、不及悉勒。謂天神壽詞天津宮事者、皆天上神呪也。
 問:何故以解除詞稱中臣祓哉?天神太祝詞者、祓之外可有別文歟如何?答:以解除詞稱中臣祓者、中臣氏行幸每度奉獻御麻之間有中臣祓之號云云。此外猶在秘說歟。凡謂濫觴,天兒屋命掌神事之宗源云云。奉天神壽詞、天村雲命者捧賢蒼懸木綿、抽精誠祈志地、就中天孫御降臨之時、天祖太神授秘呪於天兒屋命、天兒屋命貽神術於奉仕累葉。(中略)次座に(仁)面受秘訓、莫傳外人。由緣異他相承嚴明也。復次天祝太祝詞、是又有多說。此故聖德太子奉詔撰定伊弉諾尊小戶橘之檍原解除、天兒屋命解素戔鳴惡事神呪、皇孫尊降臨驛呪文、倭姬皇女下樋小河大祓、彼此明明也、共可以尋歟。(續續群書類從「神祇部」本。)

 此記事に據れば、太詔詞は全く呪文であつて、然も其の呪文の幾種類かが悉く太詔詞の名に依つて傳へられてゐる事が知られるのである。勿論、私とても僧侶の手に依つて著作された此種の文獻を、決して無條件で受容れる者では無いが、兔に角に祝詞の本質が古く呪文であつた事、及び此書の作られた南北朝頃には、未だ太詔詞なる物 が存してゐた事等を知るには、極めて重要なる暗示を與へる物と考へたので、斯くは長長と引用した次第である。殊に注意し無ければ成らぬ事は、此記事に據れば、天兒屋命は純然たる公的呪術師であつて〔八〕、神事の宗源とは即ち呪術である事が明確に認識される點である。未だ太詔詞に就いては、記したい事が相當に殘つてゐるのであるが、其れでは餘りに本書の疇外に出るので省略し、更に太詔戶命の正體に就いて筆路を進めるとする。
 伴信友翁は「太詔戶命と申すは、兒屋命を稱へたる一名なるべし。(中略)名に負ふ中臣の祖神に坐し、果た卜事行ふにも、神に向ひて、其の占問ふ狀を祝詞する例なるに合はせて、卜庭に祭る時は、太詔戶命と稱へ申せるにぞあるべき。」と考證されてゐるが〔九〕、私に言はせると、是れは伴翁の千慮の一失であつて、太詔戶命とは即ち太詔詞の言靈を神格化した物と信じたいのである。畏友武田祐吉氏の研究に據れば、

 言靈信仰は、自づから言語を人格神として取扱ふに至るべき事を想像せしめる。其例として、辭代主神・一言主神の如き、言靈神では無いかと思はれる。辭代主の屢ば託宣するは史傳に見ゆる處であり。一言主も亦『鄉土研究』に據れば〔十〕、良く託宣した事が見えてゐる。善言も一言、惡(まが)言も一言と神德を傳へた其の神が、言靈の神であるべき事は想像せられ易い。

 と有るのは至言であつて〔十一〕、私は是等の辭代主・一言主に、更に太詔戶命を加へたいと思ふのである。伴翁は太詔戶命と共に卜庭の神である櫛真知命は波波加木の神格化であると迄論究されてゐながら〔十二〕、何故に太詔戶命の太祝詞の神格化に言及せられ無かつたのであるか、私には其れが合點されぬのである所謂、智者の一失とは此の事であらう。前に引いた『龜兆傳』の太詔戶命の細註にも「持神女,住天香山也,龜津比女命。今稱天津詔戶太詔戶命也。」となりと明記し、兒屋命と別神である事を立證してゐる〔十三〕。太詔戶命は言靈の神格化として考ふべきである。


二、太詔戶命と龜津比女命との關係

 龜津比女命なる神名は、獨り『龜兆傳』の細註に現れただけで、其他の神典古史には全く見えぬ神なる故、其の正體を突き止めるに誠に手掛りが尠いのであるが、此の細註に神を持つ少女、天ノ香山に住む、龜津比女命、今は太詔戶命と稱すると有る意味は、既に言靈の太詔詞が神格化されて太詔戶命と成り、此れに奉仕してゐた巫女を龜津比女命と稱したのが、更に附會混糅されて龜津比女命は即ち太詔戶命であると考へられる樣に成つた物と信ずるのである。而てし斯かる例證は原始神道の信仰に於いては屢屢逢著する處であつて、少しも不思議とするに足らぬのである。
 旁證として茲に一・二舉げんに、原始神道の立場から云へば、畏くも天照神に奉仕されて最高の女性であつて、消して日神その者では無かつたのである。其れが神道が固定し、古典が整理され、天照神の御神德が彌が上に向上されて來た結果は、天照神即日神と云ふ信仰と成つてしまつたのである。更に豐受神にした處が、『丹後國風土記』の逸文を徵證として稽へれば、豐受神は穀神に奉仕した女性であつて、此れも決して榖神その物では無かつたのである。其れが伊勢の度會に遷座し、天照神の御饌神として神德を張る樣に成つたので、遂に豐受神即穀神と迄到達したのである。而して茲に併せ記す事は、頗る比倫を失ふ嫌ひは有るが、古く宮中の酒殿に酒神として祭られた酒見郎子・酒見郎女の二神も、仁德朝の掌酒であつて、酒神その者では無かつたのが、後には酒神の如く信仰されたのは、天照神や豐受神と同じ理由──其間に大小と高下との差違は勿論有るが、兔に角に斯うした信仰の推移は宗教心理的にも民族心理的にも、良く發見される事なのである。龜津比女と太詔戶命との關係も又其れであつて、始めは龜津比女は神を持て女として太詔戶命に仕へてゐたのが、後には太詔戶命その者と成つたのである。斯う解釋してこそ兩者の關係が會得されるのである。
 龜津比女が巫女であつた事は、改めて言ふ迄も無いが、唯問題として殘されてゐる事は、龜津比女の名が總てを語つてゐる樣に、此の巫女は鹿卜が龜卜に變つてから太詔戶命に仕へた者か、其れとも鹿卜の太古から仕へた者かと云ふ點である。巫女が鹿卜に與つたと云ふ事は、他の文獻には見えてゐぬので、此れを考證するに困難を感ずる事ではあるが、姑らく『龜兆傳』の記す處に據れば、前揭の如く、「天香山白真名鹿:『吾將仕奉。我之肩骨內拔拔出,火成卜以問之。』」有るので、巫女は鹿卜時代から此れに交涉を有してゐた者と見て差支無い樣である。後世の記錄ではあるが、『續日本紀』寶龜三年十二月の壹岐國の卜部氏の事を記せる條に「壹岐郡人直玉主賣」と有るのは、女性の樣に思はれるので參考すべきである。

〔註第一〕『萬葉集』卷十四に、「武藏野に、占部肩灼き、真實(マサデ)にも、告らぬ君が名、占に出にけり。(3374)」と有り。同卷に、「大楉(オフシモト)、此本山の、真終極(マシバ)にも、告らぬ妹が名、卜兆(カタ)に出でむかも。(3488)」と有り、同卷十五雲連宅滿の挽歌の一節にも、「壹岐海人の、名手(ホツテ)の卜筮(ウラベ)を、肩灼きて、行かむとするに。(3694)」云云と有る。是等は太卜の民間に行はれた事を證明してゐる物である。
〔註第二〕『本朝月令』に引ける『弘仁神祇式』に、「卜御體・卜庭神祭二座。」云云と見え、『延喜』四時祭式にも「卜御體・卜庭神祭二座。御卜始終日祭之。」と載せてある。而して此の二神は太詔戶命と櫛真知命である事は、本居翁の『古事記傳』及び伴翁の『卜正考』等に考證されてゐる。
〔註第三〕私の父は平田翁を崇拜の餘り、控へ屋敷へ平田翁・外二翁を併せ祭つた靈三柱神社と云ふ大きな社を建てて、朝夕奉仕した。從つて神典古史も可なり讀んでゐて、郡中の神職連等は父の弟子分と云ふ程であつた。私も此父の庭訓で八・九歲頃から祝詞を讀ませられた者である。拙著『日本民俗志』に收めた「男は御產の真似をする話」に載せた記事の一半は、私の體驗と父の庭訓振りを書いた物である。
〔註第四〕「祝詞考」(賀茂真淵全集本)。
〔註第五〕『大祓後釋』卷下(本居宣長全集本)。
〔註第六〕『天津祝詞考』及び『古史傳』に據つた。但し行文は專ら鈴木重胤翁の『祝詞講義』に要約した物に從うたのである。
〔註第七〕鈴木重胤の『延喜式祝詞講義』卷十。
〔註第八〕天兒屋命が我國最高の公的呪術師である事を考へさせる記錄は決して尠く無いが、此の『類聚神祇本源』の記事は最も明確に其れを示してゐる。勿論、僧侶の述作ではあるが、古傳說として見る時は、其處に他の記錄の企て及ばざる物がある。唯本書は一般の日本呪術史では無し、更に日本巫覡史でも無いので、此處には深く其れ等に論及せぬ事とした。
〔註第九〕「正卜考」(伴信友全集本)。
〔註第十〕鄉土研究(第四卷第一號)にある柳田國男先生(誌上には川村杳樹の匿名と成つてゐる。)の『一言主考』を指したのである。
〔註十一〕武田祐吉氏著の『神と神を祭る者との文學』から抄錄した。猶ほ此の機會に於いて、私は此書を讀んで種種有益なる高示に接した。謹んで武田氏に敬意を表す。
〔註十二〕『正卜考』の中に收めた『波波加考』に據る。
〔註十三〕伴翁は『龜兆傳』は後作であらうとの意を『正卜考』の中で述べてゐる。或は後作であるかも知れぬが、此處には其の詮索は姑らく預り、釋紀の作られた頃には此種の信仰が事實として考へられてゐたのであるとして眺めたのである。



第四節 宣託と祝詞と巫女の關係

 現代人は祝詞と云へば、其れは概して人が神へ請祈る為に、意の有る處を申上げる物とばかり考へてゐる樣である。實際、現行の祝詞なる物は、此用意の下に作られ、人が神へ祈願するだけの目的しか有つてゐぬのである。併しながら、斯かる祝詞觀は、其の發生的方面を全く沒卻した物であつて、祝詞の最初の使命は、此れと反對に、專ら神が意の有る處を人に告知らせる為に發生したのである。即ち祝詞(ノリト)の原意は詔事(ノリコト)であるから、其の語意より見るも、此事は會得されるのである。『龍田風神祭』の祝詞の一節に、

 天下公民の作れる物を、草の片葉に至る迄成賜はぬ事、一年・二年に非ず、歲間無く備へる故に、百の物知り人等の卜事に出でむ〔一〕。神の御心は、此神と白せと仰賜ひき。此を物知り人等の卜事を以て卜へども、出づる神の御心も無しと白すと聞食して、皇御孫命詔賜はく、神等をば、天社・國社と忘るる事無く遺つる事無く、稱辭竟奉ると思ほしめすを、誰ぞの神ぞ、天下公民の作りと作る物を成賜はず、傷(ソコナ)へる神等は、我御心ぞと、悟(サト)し奉れと誓賜(ウケヒタマ)ひき。是を以て、皇御孫命の大御夢に悟し奉らん、天下公民の作りと作る物を、惡しき風荒き水に遭はせつつ成賜はず傷へるは、我御名は、天御柱命・國御柱命と御名は悟し奉りて云云。

 と有るのは、良く祝詞の發生的事象を盡してゐるのである。
 更に詳言すれば、祝詞なる物は、神が人に對して、積極的に、此れ此れの事をして祭れとか、又は消極的に、此れ此れの事はする勿と誨へた事が、此れの起源と成つてゐるのである。而して此の意義を理解し易い樣、祝詞の中から例證を覔めて具體的に言へば、前者の例としては『遷卻崇神祭』の祝詞に、

 進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備奉りて、見明むる物と鏡、翫ぶ物と玉、射放つ物と弓矢、打斷る物と太刀、馳せ出づる物と御馬。

 其他種種の幣帛を橫出の如く置き足らはして祭つたのが其れであつて、後者の例としては『道饗祭』の祝詞に、

 根國底國より麤び疎び來む物に、相率り相口會する事無くて、下行かば下を守り、上往かば上を守り、夜の守り・日の守りに、守り奉り齋ひ奉れ。

 と有るのが其れである。從つて祝詞は、古い物に成る程宣命體と成つてゐるが、然も其の宣命の一段と古い處に溯ると、託宣と成つてゐるのである。而して其の託宣は概して神の憑代(ヨリシロ)である巫女の口を藉りて發せられるのである。
 古代人は神意を伺ふ方法を幾種類が發明し工夫して所持してゐたが、其の中で祝詞に最も關係の深い物を舉げれば、託宣である。勿論、此託宣の中には、既記の如く、呪言も呪文も、更に呪術的分子も、多量に含まれてゐるが、託宣は直ちに神聲であり、神語である。『欽明紀』十六年春二月條に「天皇命神祇伯,敬受策於神祇。祝者迺託神語報曰。」云云と有るのは、祝者──即ち巫女(祝はハフリと訓むとは後章に述べる。)が神語を託宣した者である。『萬葉集』卷十九に「注江に、齋(イツ)く祝(ハフリ)が、神語(カムコト)と、行くとも來とも、船は早けむ。(4243)」と有るのや、同集卷四の長歌の一節は「天地の、神辭寄せて、敷妙の、衣手交へて、自妻と、賴める今宵。(0546)」等を始として、書紀、萬葉に多く散見する處である。
 而して、此の神語なる物は、如何なる形式で表現されるかと云ふに、憑神(カカルカミ)に依つて、或は散文的の普通の言語を以てし、或は歌謠的に律語を以てする物と有るが、概して言へば、太古に溯る程素朴で單純であるのに反し、時代の降る程枕辭を冠し、對句を用ゐる等、頗る典雅な物となる。『肥前國風土記』佐嘉郡條に、

 郡西有川,名曰佐嘉川。(中略。)山川上有荒神,往來之人,半生半殺。於茲,縣主等祖大荒田,占問。于時,有土蜘蛛大山田女、狹山田女,(中山曰、巫女也。)二女子云:「取下田村之土,作人形、馬形,祭祝此神,必在應和。」大荒田,即隨其辭祭此神,神敵(ウチテ)此祭,遂應和之。(云云。)

 と有るのは、神語の最も簡古な物で、前者の例と見るべく、『播磨國風土記』逸文に、

 息長帶日女命,【○神功皇后。】欲平新羅國,下坐之時,禱於眾神。爾時,國堅大神之子爾保都比賣命,著(カカリ)國造石坂比賣命,教曰:「(中略。)比比良木八尋桙根底不附國(ヒヒラギノヤヒロノホコネソコツカヌクニ)、越賣眉引國(ヲトメノマヨヒキノクニ)、玉匣賀賀益國(タマクシゲカガヤククニ)、苦尻有寶白衾新羅國(コモマクラタカラアルタフサマシラギノクニ)矣,以丹浪而將平賜伏。」如此教賜。(云云。)

 と有るのは、やや技巧の加つた物で、後者の例として見る事が出來る。更に『神功紀』に載せてある神后の託宣に至つては、(中山曰、此の全文は後章に引用する、參照を望む。)對句と疊句を用ゐ、高雅にして典麗を極め、全く歌謠體の律語を以て表現されてゐる。
 斯くて祝詞の基調と成つた託宣も、時勢の降ると共に、漸く常識化され、倫理化されて來て、祝詞が固定する樣に成れば、字句は洗練され、構想は醇化されて、呪文の分子と、託宣の內容は減卻される事と成り、且つ神が人に宣る祝詞が、正反對に人が神に申す祝詞と解釋される樣に成つて來ては、祝詞と巫女との關係は全く世人から忘られてしまつたのである。
 併しながら、民俗は永遠性を帶びてゐるだけに、祝詞の解釋が故實を失ふ樣に成つても、猶ほ其の古き面影を留める為に工夫された物が、「返し祝詞」の一事である。「返し祝詞」とは、人が神に申した祝詞に對して、神が其の事を納受した證據として返答する事なのである。洛北賀茂神社の「返し祝詞」は、最も有名な物であつて〔二〕、北野天神社、石清水八幡宮にも此事が存してゐた。『梁塵秘抄』に「稻荷山みつの玉垣打ち叩き、吾が祈ぎ事ぞ神も答へよ。」と有るのも、蓋し此思想を詠んだ物であらう。

〔註第一〕物知りとは、現代では博識家と云ふ意味に用ゐられてゐるが、古く物とは靈の意味であつて、物知りとは即ち靈に通ずる人と云ふ事なので、即ち巫覡を指した物である。琉球では、今に此意味に、物知りの語を用ゐてゐる。從つて大物主神の意味も、此れで釋然するのである。
〔註第二〕賀茂社では、今に「返し祝詞」を用ゐてゐると、宮內省掌典星野輝興氏から承つた事がある。記錄では『玉海』承安二年四月十二日條に「於寶前,申祝歟不聞,次祝歸出自中門於砌上申還祝,其音太高。」と見えてゐる。更に北野社は『北野誌』に、石清水八幡宮は『大日本古文書』石清水書卷一に載せてある。
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