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第五章、巫女の作法と呪術の種類

 茲に巫女の作法とは、巫女が呪術を行ふに際して、如何なる動作を執つたかと云ふ意味なのである。反言すれば、巫女は呪術を為すに、呪文又は呪言を唱へる以外に、肉體的に如何なる所作を演じたかと云ふ事なのである。更に、呪術の種類とは、呪術の目的を基調とした種類では無くして、呪術の方法を標準として區別した種類の意味なのである。換言すれば、第二章に既記した呪術の目的の種類では無くして、呪術の方法の種類を言うたのである。敢て誤解を防ぐ為に附記する次第である。

第一節 巫女の呪術的作法

 古代の巫女が呪術を行ふ折に、如何なる作法を執つた物か、其詳細は元より知る事は出來ぬけれども、古文獻に現はれた所では、(一)逆手を打つ事、(二)跳躍すことの二つだけは、やや明確に知る事が出來るので、此れに就いて記述する。

一、逆手

 逆手の典據に就いては、『古事記』國讓りの條に、八重事代主神が、「『此國者,立奉天神之御子。』即蹈傾其船而,天逆手矣。於青柴垣打成而隱也。」と有るのが、其である。然るに、此逆手の研究に在つては、此れ又、古くから異說が多く、今に其定說を見ぬ程の難問題なのである。此處には代表的の研究として二三の異說を舉げる。
 本居宣長翁は斯う云つてゐる。

 『伊勢物語』に、天の逆手を拍てなむ呪(ノロ)ひ居ると有ると、相照して思ふに、古へに逆手を拍て、物を呪(カヂ)る術(俗に云ふ麻自那比(マジナヒ)也。)のありし也。(中略。)此處は船を柴垣に變化(ナサ)む為の呪術也。さて、逆手を拍と云ふ拍狀は、先づ常に手を拍は、掌を擊つを、此は逆に翻して、掌を外に為して拍を云ふか、又は常には兩掌を同じ態に對へて拍を此は左と右との上下を、逆にやり違へて拍を云か、此二の間今定め難し。

 と說き、更に逆手は吉凶ともに拍つ物である事、及び逆手と後手(此事は後に云ふ。)とは別な物であるとて僧契沖と賀茂真淵の兩說を難じてゐる〔一〕。
 然るに、本居翁の論敵である橘守部翁は、之に就いて先づ本居說を引き、更に曰く、

 逆手とは、逆は唯借字にて、榮手(サカデ)の義にこそ在れ、逆にするには非ず。榮手とは榮字を、常にさかえともはえとも訓如く、其為術事に榮あらせんとて、手を拍て物とするを云ふ。こを右の『古事記』以て云はば、即船を青柴垣に變化(ナス)術に榮あらせんとて手を拍てものし給ひし也云云。

 と論じ、猶お、「本居氏等の、恒に右の如き幼說(ヲサナゴト)を言ひ流行(ハヤ)せる、打見るも痴(シレ)痴しく。」と云ひ、一歩を進めて、「斯くて復古の大道開くべき器かは、と思へば悲しくさへ成りて。」と迄極言してゐる〔二〕。
 而して谷川士清翁は曰く、「天の逆手と云へるは、蒼柴垣に隱れたまはんとての事なれば、進むは順退くは逆なれば、逆手打とは云ふなるべし。『伊勢物語』に、『天逆手打て呪(ノロ)ひをりける。』と見えたるは、人を呪詛する樣逆手を用ゐたる成べし。猶後手(シリヘテ)の義の如し。天とは例文に依る詞也。今の人逆手を忌と云ふも是也。寄海人戀歌に、『我戀は、蜑(アマ)の逆手を、打返し、思ひ時てや、世をも怨みん。』肖聞抄に海人のかつきに海底へ入らんとて、手にて浪を打也と云へり。」と述べてゐる〔三〕。
 猶ほ、此外に、伊勢貞丈翁は、「逆手は退手也、退く事を退事(サカゴト)と云ふ、人前へ進みて逢ふ時に、手を拍つ、此れ進み見るの禮也、退く時にも又手を拍て退く、是(コレ)退出の禮也。天逆手の事を海人の事と云說有り。(中略。)色色樣樣の邪說區區(マチマチ)也、用ゆべからず。(中略。)逆手とて後(ウシロ)手に、手をうちて、人を呪詛する事也と云は、『伊勢物語』の本文に合ふ樣作りたる說也、是僻事(ヒガゴト)也。」と〔四〕、殆んど以上の諸說を否定するが如き駁論を試みてゐる。
 而して是等の諸說を參酌して、私の考察を述べんに、事代主命の船を踏み傾けて青柴垣に隱るるとは、即ち入水した事を意味してゐるのであるから〔五〕、此場合に拍つた逆手なる物が、本居翁の言ふ如く、吉凶の兩方に用ゐたと解せらるべき筈は無く、さればとて、守部翁の言ふ如く、船を柴垣に打ち成す榮手とも考へられず、谷川翁の三義も徹底せぬ嫌ひが有り、伊勢翁の退手も字義に捉はれた樣に想はれるので、所詮は賀茂翁の言はれた樣に、凶事にのみ用ゐる呪術の一作法と信ずるのである。後手に就いては、『日本書紀』の一書に、海神が彥火火出見尊に教へて、「以此鉤與汝兄時,則稱:『貧鉤(マチチ)、滅鉤(ホロビチ)、落薄鉤(オトロヘチ)。』言訖,以後手((シリヘデ)投棄與之。勿以向授。」と有る樣に、此れは呪術的の意味が明白に且つ濃厚に含まれてゐた事が知られる。『釋日本紀』卷八に、「今世厭(マジナフ)物之時,必以後手也。」と述べたのも、決して虛構だとは想はれぬ。私は逆手は此後手と同じ程の內容を有する物と信ずるのである。


二、跳躍

 シャーマン教は、一名跳神教とも言はれる程であつて、之に屬する巫覡の徒は、猛烈に跳躍を續け、其結果催眠狀態に入るのであるが、我が古代の巫女が、此れと同じ樣に旺んに跳躍したか否か、判然し無い。勿論鈿女命が天磐戶の齋庭に於いて神憑りした事を、『日本書紀』には、「巧(タクミ)作排優(ワザヲギ)。」と載せてゐる據り推すも、鈿女命が跳躍的の動作を執つた事は明白であるが、此動作が、神憑り狀態に入るべき必要條件であつたか、其れとも磐戶に隱れし天照神を誘出す手段として、八百萬神を咲樂せしむる為であつたか、其の點が少しく釋然せぬ嫌ひが有る。併しながら、私の考へてゐる所を簡單に言へば、鈿女命は『釋日本紀』に引用せる『天書』第二に有る如く、神憑りには熟練せる師巫であつたと想はれるので、シャーマンの如く狂跳勇躍せずとも、直ちに其狀態に入る事が出來たのであろうが、又相當の跳躍的動作を為した事も、覆槽を踏み轟かして拍手を取り、胸乳を搔き出し、裳紐を番登に押し垂れる有樣から見て、疑ふ餘地は無い。
 唯、問題として殘る所は、鈿女命の此動作が、シャーマンの其と、直接なり、間接なりに、交涉を有つてゐるか、どうかと云ふ點である。私の淺薄なる見聞では、此問題を解決する事は至難であるが、兔に角に我國の古代は、シャーマニズムの文化圏內に在つた所から見ると、全く影響が無かつたとは言へぬけれども、さりとてシャーマン即鈿女命と斷ずる事は如何かと考へられる。而してずつと後世に成ると、巫女も猖んに跳躍を試みた記事が散見するが、此れが鈿女直系の所作か、或は佛道・修驗道の影響を受けた物か、其の邊が明瞭を缺くので、此れを以て古代を反推する譯にも往かぬのである。猶ほ、巫女と舞躍との關係に就いては、後章に述べる考へである。

〔註第一〕『古事記傳』卷一四(本居宣長全集本)。
〔註第二〕『鐘の響き』卷三(橘守部全集本)。
〔註第三〕『增補語林和訓栞』其條。
〔註第四〕『貞丈雜記』卷一(故實叢書本)。
〔註第五〕事代主命が蒼柴垣に隱るるとは、即ち入水した意味と解釋する學者も少く無い。私もそう解釋する事が至當であると考へてゐる。



第二節 顯神明之憑談としての呪術

 巫女の初見は菊理媛神であるが、此神に就いては、『日本書紀』(『古事記』には載せてない。)の記事が餘りに簡單である為に、如何なる呪術を用ゐた物か全く知る事が出來ぬけれども、此れに較べると天照神の天磐戶隱れの齋庭に於ける天鈿女命の顯神明之憑談(カミガカリ)なる物は、やや詳しく記載されてゐるので、左に『古事記』から必要の部分だけを抄出し、此れに私見に添へるとする。

 天宇受賣命,手次繋天香山之天之蘿(日影)而,為鬘天之真拆而,手草結天香山之小竹葉而,於天之石屋戶伏受(汙氣)而,蹈轟(登杼呂許志),為神懸而,掛出胸乳,裳緒忍垂於番登也。爾高天原動(ユス)而,八百萬神共嗤(ワラ)。云云。(有朋堂文庫本。)

 此記事に據ると、神の憑代と成る者は、(一)蘿を襷に掛け、(二)真拆を鬘にし、(三)笹葉を手に持ち、(四)空槽の上に乘つて、其を踏み轟かして、神懸り狀態に入るのであるが、然も此狀態に入ると、(一)胸乳を搔出し(二)裳緒を番登に押垂れる等の放神的動作に出る事さへ有つた。併し、此時に、鈿女命に何れの神が憑り、何の託宣をしたかに就いては、記・紀ともに明記を缺いてゐるので、何事も知る事が出來ぬのである。
 由來、巫女が神懸り狀態に入る目的は、神の憑代と成つて、託宣をする事に存してゐて、其以外には殆んど此作法を必要としてゐぬのである。其にも拘らず、此鈿女命の場合に限つて、其を缺いてゐるのは如何なる次第であるか、此れには又た相當の理由が存してゐるのである。
 天照神の磐戶隱れに就いては、昔から學者の間に異說が有る。本居翁の如く、「神代卷の總てを一種の信仰と感激とを以て、其の在るがままに解釋した物は、此れを天照神が素尊の暴逆を怒つて、磐戶に隱れた物。」としてゐるが、新井白石翁の如く、「神代の記事は悉く歴史也。」と云ふ立場に在る者は、此事件を天照神の神避りと作し、齋庭の儀式は葬祭であると斷じてゐる〔一〕。更に、高木敏雄氏の樣に、比較神話學から此事を說き、素尊を暴風雨神と作し、「暴風雨退散して、天日再び輝ける狀を記す物也。」と論ずる有れば〔二〕、津田左右吉氏は、比較民俗學の觀點から此事象は蠻民俗の間に見る、日蝕の祭儀であると說く者も在る〔三〕。 而して私は、是等の四說の中から、第二の新井白石の說を採る者であつて、磐戶隱れは、一種の墓前祭(我國祭祀の起原が、社前祭で無くして、墓前祭で在つた事は後節に述べる。)であつたと信ずるのである。然らば何故に墓前祭に斯かる巫女の神憑りが必要であつたかと云ふに、此れには又相當に重要なる理由が存してゐたのである。
 元來、我が古代では、人が死ぬと、其屍體を直ちに葬る事無く、八日八夜の間は、殯葬(モガリ)(殯葬(モガリ)の民俗學的意義は後章に述べる。)と稱して梓宮(アラキノミヤ)に置く習俗が有つた〔四〕。而して此殯葬の期間だけは、親族(ウカラ)・宗族(ヤカラ)が集つて、一方死靈を慰め和げる為に、一方遺族の悲しみと憂ひを拂ふ為に、盛んに歌舞宴遊するのを習はしとしたのである。『古事記』に、天若日子が横死せるを殯葬せし條に、

 在天天若日子之父・天津國玉神,及其妻子聞而,降來哭悲。乃於其處作喪屋而,(中略。)日八日、夜八夜以遊也。

 と有るのが、一証である。而して茲に注意すべき事は、此殯葬中は、屍體を全く活ける者同樣に取扱ひ、そして生ける者に接する樣、其死顏を見ては、遊びを續けた點である。前に舉げた諾尊が冊尊を追うて黃泉國に往かれたと有るのは、民俗學的に言へば、冊尊を殯葬した靈柩を開いて窺ひ見られた事なのである。天照神が磐戶に隱れたと有るのは、考古學的に言へば、石棺に入られた事である。
 然も此民俗は、琉球には近年迄殘つてゐた。即ち、同國の津堅島では、二十四五年前迄は、人が死ぬと、蓆で包んで、後世山(グシャウヤマ)(中山曰、後世の語には骨を腐らすと云ふ程の意が有る。)と稱する藪中に放つたが、其家族や親戚朋友達は、屍體が腐爛して臭氣が出る迄は、每日の樣に後世山を訪れて、死人の顏を覘(ノゾ)いて歸るのであつた。死人がもし若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、每晩の樣に酒肴や樂器を攜へて之(コレ)を訪ずれ、一人一人死人の顏を覘いた後で、思ふ存分に踊り狂つて、其靈を慰めた物である〔五〕。
 此民俗を知つて、再び天磐戶の記事を讀み返して見ると、其處に共通の信仰の含まれてゐる事が知られるのである。即ち鈿女命が神懸りしたのは、託宣する為めで無くして、專ら天照神の尊靈を慰め和らげるのに外成らぬのであつた。現在では、國語の「あそぶ」に、漢字の「遊」が箝當せられた所から、遊びと云へば、遊樂とか、道樂とかにのみ解釋されてゐるが、我國の「遊(あそび)」の古義は、祭祀を指した物であつて、祭祀の外に遊びは無かつたのである。度會延佳が、「遊は神事也。」と斷言したのは、最も良く我國の古俗を道破した物である。而して此遊びに必要として、胸乳を搔出し、番登を露出して、「八百萬神共咲(ワラ)。」と有る葬宴に成るのである。勿論、此等の局部が呪力(マジカル・パワー)として死靈の祟りを防ぐ事の出來る物と信じての動作である事は言ふ迄も無い。更に『古語拾遺』に此條を記した末に、「天晴(阿波禮)、あな面白(阿那於茂志呂)、あな樂(阿那多能志)、あな清(阿那佐夜憩)、をけ(飫憩)。」と稱へて、神神が手を伸して歌舞したと有る。此「面白」は、昔から如何にも古代に相應しからぬ措辭として、代代の學者も疑つてゐるのであるが、私に言はせると、琉球津堅島の民俗の如く、屍體の顏を覗き見ては、未だ變相せぬのを、斯く、「面白し、あな樂し。」と言うたのでは無いかと考へてゐる。天磐戶前に於ける鈿女命の神懸りの目的は、殯祭葬祭の為の遊樂であつた。從つて茲に憑り神無く、託宣無きは、當然であつたのである。猶ほ此れに就いては、次節の鎮魂條を參照せられたい。

〔註第一〕『古史通』及び『古史或問』に、其意味の事が、明白に記されてゐる。
〔註第二〕『比較神話學』一三〇ページに、其事が力說して有る。
〔註第三〕『神代史の研究』及び『古事記・日本書紀の新研究』に見えてゐる。
〔註第四〕殯葬は身分の高下に依り、其期間に長短の差の有つた事は言ふ迄も無いが、長いのは五・六年も要した物おさへ有る。此れは大規模なる墳墓を築造する為である。
〔註第五〕雜誌『民族』第二卷第五號の「南島古代の葬儀」參照。



第三節 鎮魂祭に現はれたる呪術

 我が古代人が我が靈魂を二つに分けて、一は荒魂(アラミタマ)──即ち生ける人の魂と、二は和魂(ニギミタマ)──即ち死せる人の魂とした事は既述したが、更に此靈魂の解釋は、時勢と共に一段と發展して、人が病魔に襲はれるのは、魂が身體の居るべき處に居られぬ為である。其故に、健康を續けんには、恒に魂を中府に置く樣にし無ければ成らぬと云ふので、此處に鎮魂祭なる物が發生した。然るに、此れに反して、死せる人の魂は、凶癘魂と成つて、疎び荒振る物である。此れを鎮めるにも同じく鎮魂の神事なる物が工夫された。而して前者は、鈿女命及び其系統に屬する猿女君(サルメノキミ)が傳へ、後者は伊賀の比自岐和氣(ヒジキワケ)に屬する遊部(アソビベ)なる者が承けたのである。私は此れに就いて、猶ほ少しく詳述して、兩者の關係と、古代の靈魂に對する信仰とを、明かにしたいと思ふ。
 生身魂(イキミタマ)を鎮める方法に就いては、『舊事本紀』(第五天孫本紀。)に左の如き典據が載せてある。

 宇摩志麻治命,以天神御祖授饒速日尊天璽瑞寶十種,(中山曰、瑞寶十種は後に舉げる。)而奉獻於天孫。(中略。)宇摩志麻治命,十一月丙子朔庚寅,初齋瑞寶。奉為帝后,鎮祭御魂,祈請壽祚。其鎮魂之祭,自此而始矣。(中略。)凡厥鎮祭之日,猿女君等主其神樂,舉其言大謂:「一(ヒ)、二(フ)、三(ミ)、四(ヨ)、五(イ)、六(ム)、七(ナ)、八(ヤ)、九(コ)、十(ト)。」而神樂歌儛,尤緣瑞寶,蓋謂斯歟。云云。(國史大系本。)

 此記事を文字通りに解釋すれば、鎮魂祭の本義は、瑞寶十種を齋ふ事に存するのである。而して其瑞寶とは、同じ『舊事本紀』(第三天神本紀。)に、下の如く掲げて有る。

 天神御祖詔授天璽瑞寶十種。謂,瀛都(ヲキツ)鏡一、邊都(ヘツ)鏡一、八握劍一、生玉(イクタマ)一、死反(シニカヘシ)玉一、足玉一、道反玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物(クサクサノモノ)比禮一是也。天神御祖教詔曰:「若有痛處者,令茲十寶謂:『一(ヒ)、二(フ)、三(ミ)、四(ヨ)、五(イ)、六(ム)、七(ナ)、八(ヤ)、九(コ)、十(ト)。』而フルヘ(布瑠部),ユラユラとフルヘ(由良由良止布瑠部)。如此為之者,死人返生矣。」是則所謂「布瑠之言」本矣。云云。(國史大系本。)

 此記事を讀めば、多くの說明を為さずとも、直ちに是等の瑞寶十種の悉くが、純然たる呪具(Talisman)である事が知られると同時に、唱ふる所の一二三(ヒフミ)の數字、及び由良由良(ユラユラ)の語が、此れ又た純然たる呪文(Spell)である事が知られるのである。而して此一事は、我國の呪術が醫術的方面にも交涉を有してゐた事を示唆する物であつて、然も此呪術を行へば、「死人反生」する物と、信じてゐたのである。『令義解』の職員令鎮魂條に、「謂鎮安也。人陽氣曰魂,魂運也。言招離遊之運魂,鎮身體之中府。故曰鎮魂。」と有るのも、又此方面に觸れてゐるのである。
 神代に發祥した鎮魂の祭儀は、列聖の間にも、每年十一月の中の寅日を以て、嚴かに執り行はれて來た。勿論、其の時代に依り、多生は繁簡の差は在つた事と思ふが、今日からは仔細に其を知る事は出來ぬ。此處には、やや時代が降るけれども、此祭儀の固定して永く規範と成つた、然も記錄として最も古き物に屬する『貞觀儀式』(『政事要略』第二十六要所收。)から、本節に必要有る處だけを抄錄する。

鎮魂祭儀 【十一月中寅日,中宮(祭儀)准此。但東宮用巳日。】

 其日,所司預敷神座於宮內省廳事、次設大臣以下座於西舎南。(中略。)酉二點,大臣以下就西舎座。神祇伯以下率琴師、御巫、神部、卜部等,著榛摺衣,令持供神物,左右相分,入立庭中。神部昇自東階,置神寶於堂上。(中山曰、十種瑞寶。)次舁神机昇,御巫從之。次神部四人,各持琴,左右相分。(中略。)次大膳職、造酒司,供八代物。縫殿寮,率猨女昇自東側,就座。次內侍令賚御衣匣,自大內退出,昇自東階就座。治部省率雅樂寮樂人、歌女等,昇自西側階就座。訖大臣出自西舎,昇自西側階、就堂上座。(中略。)大臣宣:「賜縵木綿。」丞稱:「唯。」退。丞率錄史生、藏部等,實木綿於筥,入先賜神祇官人。(中略。)訖神祇伯喚琴師,各二人,共稱唯。次喚笛工,各二人,共稱唯。伯命琴笛相和,【○原註略。】四人共稱唯。先吹笛一曲,次調琴聲。訖,琴師彈絃,與神部共歌二成。次神樂寮歌人同音共歌二成,神部二人候(催夕)拍子,御巫始舞。每舞巫部譽舞三週。【○原註略。】大藏錄以安藝木綿二枚實於筥中、進置伯前。御巫覆宇氣槽立其上,以桙撞槽,每十度。畢,伯結木綿縵。訖,御巫舞訖,以諸御巫猨女舞畢。(中略。)訖,各各退出。云云。(史籍集覽本。)

 此記事に據つて考へれば、宮中に行はれた鎮魂祭は、既載の『舊事本紀』の典據と、『古事記』に記された天磐戶の鈿女命の所作とを基調として、僅に此れに二三の新しい祭儀の手續きを加へただけであつて、其根幹と成つてゐる祭儀も信仰も、全く同一である事が、明白に看取せられるのである。而して其祭儀が呪術的であつて、且つ信仰が、呪術思想に出發してゐる事も、併せて拜察されるのである。
 猶ほ平安期の鎮魂祭に就いては、其機會が有れば記述したいと思うてゐるが、根本の信仰に在つては、依然として呪術的範疇に屬してゐたのである。因に云ふが、鎮魂祭に關する史料を集めた物には『古事類苑』の神祇部が有り、考証的の物には、伴信友翁の詳細を極めた『鎮魂傳』が有り、由良由良(ユラユラ)の呪文に就いての委曲を盡した考証は、同翁著の『比古婆衣』に在り。更に一二三(ヒフミ)の數字を呪文とした理由(此れはやや獨斷的の物ではあるが。)に就いては平田翁の『宮比神御傳記』が有る。參照せらるると仕合せである。
 然るに、此れに反して、我が古代には、死人の魂を鎮むるにも、鎮魂の神事が行はれてゐた。而して此れを行ふ者を「遊部」と稱してゐた。遊部の典據に就いては、『令集解』の喪葬令の條に、左の如き記載が有る。

 遊部者,終身勿事,故云遊部也。釋云。(中略。)遊部,隔幽顯境,鎮凶癘魂之氏也。終身勿事,故云遊部。古記云,遊部者,在大倭國高市郡,生目(垂仁)天皇之苗裔也。所以負遊部者,生目天皇之蘖,圓目王娶伊賀比自支和氣之女為妻也。凡天皇崩時者,比自支和氣等到殯所,而供奉其事。仍取其二人名稱禰義余此也。禰義者,負刀,並持戈。余此者,持酒食,並負刀,並入內供奉也。(中略)。後及於長谷(雄略)天皇崩時,而依罄比自支和氣,七日七夜不奉御食,依此荒び賜ひき(阿良備多麻比岐)。爾時諸國求其氏人,或人曰:「圓目王娶比自支和氣為妻,是王可問云。」仍召問。答云:「然也。」召其妻問,答云:「我氏死絶,妾一人在耳。」即指奉其事。女申云:「女者不便負兵供奉。」仍以其事移其夫圓目王。即其夫代其妻而奉其事,依比和平給也。爾時詔:「自今日以後,手足毛成八束毛遊詔也。」故名遊部君是也云云。(國書刊行會本。)

 是れに據ると大體次の如き事が知り得られる。
一、遊部とは、生目(垂仁)天皇の苗裔であつた圓目王に屬し、中臣裔の猿女君以外に、一部の部曲(カキベ)を為してゐた事。
二、其職務は、天皇の大喪に際し、殯所に於いて、幽顯の境を隔てて、凶癘の魂を鎮める事。
三、然も此神事は、伊賀の比自支和氣の家に傳つてゐた事。
四、神事を行ふには、比自支和氣の氏人二人を採り、其一人を禰義(ネギ)と云ひ、他の一人を余此(ヨシ)と云ひ。禰義は刀を負ひ、戈を持ち,余此は酒食を持ち、(私の謂ふ葬宴の儀式化した物である。)刀を負ひ、殯所の內に入つて供奉した事。
五、然るに長谷(雄略)天皇の崩じた時に御食を奉らぬより荒びたので、比自支和氣の氏人を求めた所、其多くが死に絶えて、圓目王妃一人だけが殘つてゐたので是れを召す事。六、女子では供奉に不便だと云うて其夫が代つて勤めた事。七、遊部は手足の毛の八束になる迄遊べと詔ありて、總ての租調庸を免除された事。
 而して此比自支和氣の家に傳へた鎮魂の作法が、猿女系の其と同じく、全く呪術的祭儀と信仰である事は明白である。
 然るに、茲に一言注意して置か無ければ成らぬ事は、斯く猿女系の鎮魂は、生者に對して行はれ、此れに反して遊部系の鎮魂は、死者に對して行はれる樣に記載して有るが、果たして此記載の樣に太古から少しも渝る事無く行はれて來たか否かと云ふ點である。換言すれば、鎮魂を斯く兩樣に差別してゐるけれども、元は兩者同根より發生した物では無かつたか否か、其間に、混用なり、併用なりが、ありはせぬかと云ふ事である。而して更に、此場合に併せ考へて見無ければ成らぬのは、我が古代に支那に於いて發達した陰陽道の「招魂」の呪術が早くも輸入され、然も其が行はれてゐたと云ふ事である。仁德帝が皇弟の菟道稚郎子が薨去せられた折に、

 乃解髪跨屍,以三呼曰:「我弟皇子!」乃應時而活,自起以居。

 と有るのは〔一〕、即ち『禮記』に載する復(ナキタマヨバヒ)又は『楚辭』の注に在る復の思想と作法とを其のまま移された物である〔二〕。而して此仁德帝の行はれた呪術的作法が、『日本紀』の編纂される折に後人から追記された物かどうか、其は姑らく別とするも、此呪術が陰陽道の影響を受けてゐる事だけは明確である。從つて斯うした事の有つた事等を考へ併せると、生者に對して行はれたとある鎮魂も、始めは死者に對して行はれた物では無かつたかと云ふ疑ひの起るのである。前に引用した『舊事紀』の、瑞寶十種の呪術中に、「死人反生。」と有るのは此事を想はせる。更に『天武紀』十四年十一月條に、

 丙寅,法藏法師全鐘,獻白朮(オケラ)煎。是日,為天皇招魂。

 と有るが、當時の用語例より云へば、招魂は死者に對して行つた物である。而して後世の書ではあるが、兼好の『徒然草』に、

 真言書の中に呼子鳥の鳴くは招魂の法をば行ふ(中山曰、此事に就いて後章に述べる。)次第あり。

 と有るのも、其事を裏付てゐる樣に考へられるのである。
 而して是れに對する私の管見を極めて率直に言へば、猿女系の鎮魂祭も、元は遊部系の鎮魂神事と同じく、死魂に對して行はれたのであるが、神道が固定すると共に、墓祭葬宴であつた天磐戶の神事が、專ら天照神の復活又は再現の事とのみ解釋せられる樣に成つたので、遂に兩者を截然と區別する樣に成つたのであろうと考へるのである。勿論、斯う言ふ物の現人を神と崇め、現人の魂を鎮める事の無かつたと主張するのでは無く、唯鈿女命の行うた磐戶前の祭儀はそうであつたろうと言ふ迄で、其點誤解無き樣敢て附記する次第である。

〔註第一〕『仁德紀』に載せて有る。
〔註第二〕『曲禮』『楚辭』の註に、此事が詳記して有るが、有名な事であるだけに、原文を引用する事は見合
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