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第二節 巫道に影響した佛法の教相と事相

 欽明朝に佛教が公けに渡來し〔一〕、奈良朝に夙くも端を發した本地垂跡說は、平安朝に於いて漸く完成し、神佛一如の教へは弘く通じ、和光同塵の實は普く行はれる樣に成つた。而して此間に在つて佛法の教相と事相とは、我が巫道に甚大なる影響を與へ、遂に「法師巫(ホウシミコ)」と稱する、巫佛一體の實行者さへ出すに至つた〔二〕。
 元來、我國に佛教が輸入された當時は、專ら宮廷又は貴族の信仰に限られてゐて、殆んど一般民眾とは沒交涉の狀態に置かれてあつた。從つて此佛教が、廣く民間信仰の對象と成る迄には、長い年月を經過してからである事は言ふを俟たぬ。そして少數の貴族の手から多數の民眾の手に移る間には、時勢の暢達と、人文の發展とに促されて、同じ佛教でありながら、幾度か信仰の對象も變遷し、教理や儀軌の消長も伴うたのである。奈良朝の小乘佛教期には、藥師と觀音であつて、主として加持祈禱が行はれ、平安期の大乘佛教期には、大日と彌勒であつて、儀軌は前期を承けた上に、更に複雜せる加持や祈禱が續けられてゐた。鎌倉期に成ると、阿彌陀と妙見、室町期には地藏尊が崇敬されてゐた。勿論、此區別は、單に其時代に於ける信仰の中心と成つた物を、概括的に舉げただけであつて、起伏こそ有れ各佛共に相當の信仰を維いでゐた事は言ふ迄も無い。本地垂跡說が民心を支配する樣に成つてから、我國の神祇の本地佛なる物にも、此推移が窺はれるのである。山本信哉氏の研究に據ると、伊勢皇大神の本地佛等も、大日・觀音・彌陀の三變遷を經たと云ふ事である〔三〕。而して此本地佛の推移が、民間信仰の反映である事は見易い歸結である。
 此等の佛教に在つて、就中、我が巫道に深長の交涉を有してゐる物は、僧最澄に由つて唱へられた天台宗と、僧空海に由つて創められた真言宗との二宗であつて、之(コレ)に次いでは、少しく時勢は降るが、僧日蓮が弘めた法華宗の、殊に加持方面を傳へた中山流(此流儀は元修驗道から出た物である。)の祈禱である。而して此等の佛教と、巫道の關係は、かなり複雜した物が存するので、左に項目を分けて、管見を記述する事とした。唯懼るる事は、私は佛教に就いては、全くの無智である為に、說くに正鵠を失ひ、論ずるに軌道を脫し、飛んでも無い見當違ひや、藪睨みに陷る事が有りはせぬかと思ふ點である。幸いに是正を仰ぐ事が出來れば、獨り私の仕合せばかりでは無いのである。



一、佛教の促成せる巫女の二潮流

 原始神道は、祭神の墳墓より發生した事を如實に立證してゐるのであるが、平安朝頃から、佛教が專ら屍體の埋葬を掌り、墳墓の監理をする樣に成つたので、神道は是等の行掛りから、從來とは反對に、屍體に近付き、墳墓を扱ふ事を穢れとして、極端に忌嫌ふ樣に成つて了つた。此れには神道對佛教を中心とした、政治上の爭ひ等も含まれてゐて、常に兩者の間には柄鑿相容れぬ物が有る樣に導かれて往つた。而して此結果は、佛教が弘通されればさるる程、兩者の距離が遠く成り、神道は生を尚ぶ物、佛教は死を迎へる物、神社は淨き物、寺院は穢れた物と云ふ、對蹠的の地位に置かれる樣に成つたのである。併し其と同時に、一方に於いては、神佛一如であると云ふ、本地垂跡說が發達してゐたのであるから、當時の思想界は複雜でもあり、且つ混沌としてゐたのである。
 斯うした信仰と世相とは、巫女の態度を、神佛何れにか決定し無ければ成らぬ機運と成つて來た。勿論、巫女は其出自から云ふも、其職務から見るも、當然、神社に附屬してゐるのであるから、今更に態度を定むべき必要等の有るべき筈は無いのであるが、本地垂跡の信仰が一般に考へられる樣に來ては、さうばかりも言つては居られず、之(コレ)に加ふるに、古くは、禰宜でも、祝でも、女性が主となつてゐたのが、時勢に連れて、男性が割込んで來て、當時は卻つて女性が從と成つて了つた關係等も有り、神社に於ける男女の職掌の競爭は、漸次、男性に有利であつて、女性に不利の事のみ多かつたのである。『八幡愚童訓』は後出の書籍である上に、(室町期。)日本一の託宣好きの八幡宮の事を記した物だけに、其のまま無條件で信用する事は出來ぬけれども、僧道鏡の事件に就き、和氣清麿が神託を受けし光景を敘する內に、

 爰清丸、宇佐の敕使に參じたりし時、女禰宜が託宣を信ぜざりしかば、御寶殿動事一時計にして、忽ちに御殿上に紫雲聳(ソビ)き、中より滿月輪の如して出まします。(中略。)清丸、汝託宣を不信、女禰宜が奉仕する元由を知らずや否、女禰宜は受職灌頂に適(カナ)ふ者を撰仕ぞ、斯の位とは妙覺朗然の位に相叶ふ、彌陀佛の變化の御身也。(中略。)女禰宜迄も輕しむべからず、可恐可恐。(群書類從本。)

 と有るのは、極端に迄神佛が雜糅されてゐるけれども、女禰宜が輕視された事だけは、斯うした事も在つたらうと合點されるのである。而して更に『類聚三代格』卷一に載せた左の太政官符は、女性の禰宜や祝が、男性の其等の為に壓迫されてゐた事を證明する物である。

太政官符
 去天長二年十二月二十六日符偁:「承前之例,諸國小社,或置祝無禰宜,或禰宜、祝並置。舊例紛謬,准據無定。加以,或國獨置女祝,永主其祭。」左大臣宣旨:「自今以後,禰宜、祝並置社者,以女為禰宜。但先置者,令終其身者。」云云。
貞觀十年六月二十八日 (國史大系本。)

 職務の壓迫は直ちに給分の減少を意味してゐるので、巫女は從來の如く、神社に屬して、高く淨く──併し生活の不安に襲はれながらも世に處して往くか、此れに反して、家の歷史を棄て、神社に離れて、低く污く──併し生活には、多少の餘裕を有して世渡りするかの岐路に立たされたのである。而して此結果は、神社に屬する「神和(カンナギ)系の神子(ミコ)」と、神社を離れた「口寄(クチヨセ)系の市子(イチコ)」との二つに分れる樣な趨勢と成り、斯くて此區別は、千餘年の歷史を通じて、現代に迄及んだのである。


二、靈魂觀の進步と口寄せ呪術の發達

 佛教の渡來は、我國の靈魂觀及び來世觀に、一段の飛躍的進步を為さしめた。神は人の死して祀られた物、人は死ねば夜見國に往く物と單純に考へ、魂は荒魂と和魂とを體とし、奇魂と幸魂とを用とする物と漠然と信じてゐた所へ、佛教の高遠なる教理に依つて、分靈の思想を知り〔四〕、來世に於ける地獄と極樂の生活を教へられたのは、全く一種の驚異として迎へた事と思ふ。而して此靈魂觀は、巫女をして、冥界に居る靈魂を、何時でも呼出し、又は遠隔の地に居る生ける人の魂を招寄せて、此れと自由に談話を交へる事が出來ると云ふ思想を懷かせ、更に此れを呪術として發達させる迄に至つたのである。
 勿論、此呪術は古代文獻にこそ見えてゐぬが、靈魂の不滅を信じ、併せて幽界との交通を信じてゐた我が民族の間にも存してゐて、巫女が此種の呪術を好んで行ひ來た事と想はれるし、殊に道教の影響を受けて、次第に此種の呪術も巧妙に成つた事と考へられぬでも無いが、併しながら我國の巫女は屢述の如く神其の者であり、又は神の代理者でもあつて、靈媒者としても極めて狹義の活動に制限され、他界に居る死者の魂を自在に呼出したり、遠方に在る生者の魂を隨時に招寄せたりして、此れと交話すると云ふが如き廣義の活動は為し得無かつたのである。更に換言して、詳しく述べれば、我國の巫女は道教に依つて弦寄せ(即ち弓弦を叩いて神を寄せる事。)の呪術を知つたが、此れ以外の口寄せの呪術は餘り深くは知ら無かつたのである。其を佛教の靈魂觀や來世觀や、更に天台・真言の兩宗が行つた加持祈禱の事相を學んで(是れには猶ほ修驗道と巫女との關係を知らねば成らぬが、此れに就いては後に述べる。)漸く口寄せの呪術を知るに至つたのである。
 由來、我國の文獻で、口寄せと云ふ術語(テクニカル・ターム)の用ゐられたのは、管見の及ぶ限りでは、平安朝の『榮華物語』が最初である。即ち同書「後悔大將」卷に、「神の真事(マコト)・空事(ソラコト)をも聞むとて、左近の(目)メのと御口寄(クチヨセ)に出立(イデタ)つ。(中略。)此巫女(カウナギ)唯泣きに泣きて。云云。」と有るのが其であつて、此れに次いでは、同期の藤原明衡の『新猿樂記』に、「四御許者覡女(カムナギ)也。占卜、神遊、寄絃(ヨリツル),口寄(クチヨセ)之上手也。」と見え、後世に成ると、梓巫女(アヅサミコ)と、口寄とが、彼等を呼ぶ有力なる二代名詞と迄成つたのである。
 佛徒である僧尼が、巫女の領域に立ち入つて、猖んに呪術を敢てした事は、古代からの陋習であつた。『續日本紀』卷七養老元年夏四月に詔して、

 方今,僧尼輙向病人之家,詐禱幻恠之情,戾執巫術,逆占吉凶,恐脅耄穉。云云。

 と宸戒を加へ、次いで『養老令』に於いても、固く之(コレ)を禁斷し、「僧尼令」に左の如く規定して有る。茲には便宜の為、『令集解』から摘錄する。

 凡僧尼卜相吉凶,【謂,灼亀曰、卜視地曰相,占筮亦同。(中略。)】及小道,【謂,厭符之類也。(中略。)穴云,小道,謂,符造左道是也。云云。】巫術【謂,巫者之方術,既是遙邪多端,不可具言。(中略。)朱云,巫術,謂祭神而療病耳。云云。】療治者皆還俗,其依佛法持呪救疾,不在禁限。【古記云,持呪謂經之呪也。道術符禁,謂道士法也。今辛國連行是。云云。】

 此れに徵するも、僧尼の輩が巫女的呪術を行つた事が知られると共に、佛教と巫道とが如何に密接に習合されてゐたかが窺はれるのである。而して更に注意すべきは、前揭の最後の腳註に、「古記云,持呪謂經之呪也。道術符禁,謂道士法也。今辛國連行是。」と有る一節である。此辛國連とは、有名な役行者(修驗道の開祖と云はれてゐる。)を讒して伊豆へ流したと傳へられてゐる韓國連廣足の一族と思はれるので、此頃に於いて既に、佛教と巫道と修驗道との三つが、相當に習合され混糅されてゐた事を證示する記事として、關心すべき物がある。『枕草子』に、「見苦しき物、法師・陰陽師の紙冠(カミカウフリ)して祓したる。」と記し、『紫式部集』に、「彌生の朔日、河原に出でたるに、側の車に、法師の紙を冠にして、博士立(ハカセダ)ちたるを惡み。」と載せ、『宇治拾遺物語』卷十二に、「爰に法師・陰陽師、紙冠を被て祓するを見つけて。云云。」と有り、更に『古今著聞集』に、藤原基俊が城外の道に小堂の在るを見て、六歲ばかりの小童に其名を問ひしに、「社(ヤシロ)堂」と答へたので、基俊口吟に、「此堂は、神か佛か、覺束無(オボツカナ)。」と云ふと、小童取り合へず、「法師巫(ホウシミコ)にぞ、問ふべかりける。」と下句を答へたと有る樣に、此三者は殆んど區別する事の出來ぬ迄に、民間信仰としては融合渾成されたのである。
 斯く佛教に導かれ、道教に誘はれて、巫女の有してゐた固有の呪術は、漸を追うて失はれ、形式も、內容も、道教化し、佛教化する餘儀無き道程を辿つたのである。『古事談』第三に、惠心僧都が大和の金峰山に、正しき巫女有りと聞いて、唯一人にて京都より同地へ赴き、心中の祈願を占へと賴みしに、其巫女の歌占(ウタウラ)に、「十億萬土の、國國は、海山隔て、遠けれど、心の道だに、直ければ、努めて到るとぞきけ。」と占うたので、隨喜の淚を流して歸洛したと有るが、京迄盛名を馳せた正しき巫女にあつても、其言ふ所は全く佛臭き文句であつた。他の正しからざる巫女の佛教化せる、又た以て知るべきである。


三、巫女の守護神から歸依佛への過程

 祖先信仰を基調とした巫女の守護神は、記述の如く、始めは祖先を葬つた墓地を人格化し、後には其土塊を以て造つた人形(ヒトガタ)であつて、此れが呪力の源泉であると同時に、巫女の驗者たる事を保證してくれたのである。然るに、佛教が巫道に習合される樣に成つてからは、此守護神に迄變動を來たし、後には歸依佛が此れの代用と成つて了つた。迥かに後世の記錄に見えた「後佛(ウシロホトケ)」なる物は、巫覡の徒が共通して用ゐた呪源であつた樣に思はれるが〔五〕、其が大昔から存した物か否かは判然し無い。『三河雀』卷三に、

 信州善光寺に通夜せる僧の談に、某は羽黑山の者なるが渡世の業に後佛と申す外法を使侍りしが、金銀は心の儘にしてたぐる、富貴なる者には後佛に申して、即座に惱し奇異なる術を使ひ、身の榮華を極るは第一の重寶にて侍れど、常に我身に後佛笑付き、棹投る間も放れず、此苦み堪え難く、(中略。)後佛を笈に入れ犀河に投入れ、善光寺に來り二六時中念佛す。云云。(國書刊行會本。)

 と有る。此れに據れば、「後佛」は、修驗と、佛法と、巫道の三者に關係を有つてゐた樣である。更に『平家物語』卷一赦しの文の條に、

 怖(コハ)き御物怪共(オンモノノケドモ)、數多(アマタ)取入奉る、神子(ヨリマサ)、(中山曰、巫女。)明王(中山曰、不動明王。)の縛(バク)に掛けられて、靈顯(アラワ)れたり。云云。

 と有るのは、間接ながらも此れを示唆してゐる物である。而して後世の巫女は、十三佛と稱する物の一佛を歸依佛とし、此れを一代の守り本尊として、呪力の根源と為し、或は此佛と結婚(此詳細は第三篇に述べる。)する巫女さへ有つて、十三佛が巫女の歸依佛と成つてゐたのであるが、然(サレ)此十三佛なる物が、民俗學的には、誠に面倒な問題であつて、我國に於いて、何時頃(イツゴロ)に、誰が、何の理由が有つて、十三佛を定めたかさへ判然せぬのである。『寂照堂谷響集』卷六に據れば、

 十三佛十王逆修次第。云云。不知誰定。按『本朝文粹』及『性靈集』等達噺願文,上古無定法。想中古人效道明藏川遺意定之矣。(大日本佛教全書本。)

 と斷じ、南方熊楠氏は、「佛說大阿彌陀經上卷に、彌陀佛の十三の名有る外、日本に謂ふ十三佛は無い。」と語られ、富田斅純師の『秘密百話』には、十三佛は立川流の大成者たる文觀僧正の作つた物で、十三の數は胎藏界十三大院に象(カタド)つたのであると言はれてゐる。是等の諸說に據ると、十三佛は和製ではあるが、割合に新しい物であつて、奈良朝や平安朝の巫女が歸依佛としたと云ふ證據には成らぬのである。
 併しながら、十三佛と押し包めて言ふ事は、古く無いにせよ、其佛の一一は、佛教の渡來と共に存してゐたのであるから、其後に巫女が、その一一の佛を捧持し、此れを守り本尊としたであらうと云ふ假說は成立つ譯である。『鹽尻』卷三七に、

 今、巫覡の祈禱とてするは、多くは密家の行法と習合の事也。(中略。)神家は祓修行と稱して神人を多く集め、同音に祓の祝詞を唱へ、一度每に手鳴らしなんどして、千度萬度の祓なんと云へる甚(イト)心得ず。(中略。)今社家の祓は僧の千部萬部の經を讀誦する樣に心得ぬるは、誠に過らずや。

 と有るは、極めて微溫的ではあるが、巫佛の習合に觸れてゐるので、敢て抽出した。佛教に門外漢である私は、此れ以上に突つ込んで言ふべき材料を持合わせてゐぬので差控へるが、兔に角に、古く巫女が、守護神から歸依佛へ乘代へた事だけは、事實と見て大過は無い樣である。
 斯うして佛教の影響を受けたとすれば、巫女の呪法も從つて變化せざるを得無かつたと見え、古代には存せぬ樣な所作が、極めて斷片的ではあるが散見してゐる。而して其重なる物は、(A)巫女縛と云ふ事、(B)巫女が佛の供養を營んだ事、(C)巫女の呪具に現はれた佛教的要素等が其である。



A、巫女縛と不動のから縛

 前に引用した『平家物語』卷一に、巫女縛の事が見えてゐるが、此れに就いて、山岡浚明翁の『類聚名物考』には、

 巫女縛、此れは巫女の呪術に憑座(ヨリマシ)を立て、其靈を顯(アラワ)し縛束して責伏するを云ふ。不動尊の修法にても縛(バク)の索とて、物を縛りて動かさぬ事有るに似たり。俗に不動の唐縛(カラバクリ)と云ふ。

 と解說してゐる。此記事に從ふと、巫女縛は不動尊修法の唐縛(カラバクリ)と關係が有る樣で、私の此場合の例證として誠に都合が好いのであるが、茲に併せ考へて見無ければ成らぬ一問題が存してゐる。其は他事でも無い。鳥居龍藏氏が朝鮮の巫女(ムーダン)に關して調查した所に據ると、巫女(ムーダン)は、被術者の病氣が甚だ重く、容易に荒魂(中山曰、病魔の意。)が體內から去らぬ場合には、麻布の長い物を巫女(ムーダン)の身體に卷付け、此れに荒魂を負はせて退散せしめるさうである〔六〕。而して我國と朝鮮との巫縛を比較すると、前者は憑座(ヨリマシ)として縛され、此苦しみに依つて禍を人に加へた物の氣を拂ふのであつて、後者は鳥居氏の說かれた如く、麻布に病魔を付ける──我國で云へば贖物(アガモノ)の思想であつて、其間に相違の有る事は言ふ迄も無く、且つ我國のは佛臭く、朝鮮のは巫女(シャーマン)臭く考へられるのである。 斯う詮議してから、更に元へ立戾つて、前の『平家物語』の記事を見直すと、既に山岡翁が云はれた樣に、不動の修法に類似した物と信じられるのである。『保元物語』に、久壽二年、鳥羽法皇が熊野へ參詣した折の光景を記して、

 山中無雙の巫(ミコ)を召出し、朝より權現を降し參らするに、午時迄振りませ給はねば、古老の山伏八十餘人、般若妙典を讀誦して祈誓稍(ヤヤ)久し、巫も五體を地に投げ肝膽を碎く。云云。

 と有るのは、巫女(シャーマン)の呪法に似通つた所が有る樣だが、此れも修驗道の護法附けの呪法を參照すると、寧ろ此方の影響を受けてゐる事が合點されるのである。


B、佛の供養を巫女が營む

 巫女が亡者に親しみを有してゐる事は、既述の如く、古く其屍體を扱ひ、又た黃泉國への道標(ミチシルベ)迄した關係から見て、少しも不思議では無いのであるが、此れが佛教と習合されてからは、愈愈其親しみの度を加へた樣である。而して私の不詮索から、此種の文獻は、古い物から發見する事は出來無かつたが、併し斯うした民俗は、突如として起る物では無く、必ずや其起源は、遠い昔に屬する事と信ずるので、其資料を地誌類から覓めるとした。
 『出羽國風土略記』卷四に、出羽國の三崎山は、飽海・由利の兩郡堺に跨つてゐるが、山頂に三崎神社(祭神は素尊。)が祭つて有る。俊賴の夫木集(ママ)に宿世山と有るのは、此山だと云うてゐる。然るに、此地方の民俗として、橫死者有る時は、鹽越(由利郡。)の巫女・神職を賴み、亡者の菩提を祈る。神壇を構へ、幣帛湯釜を飾り、幣の垂紙に島の形を剪る。巫女、幣笹を執つて、熱湯に浴し、橫死の時の苦しみ、惡趣に墮ちて責を受くる等と語ると、死者の妻子を始め、其座に並居る者は、「此れぞ亡者の靈魂が、巫女に乘り移りて託する也。」とて哭泣する。神職は、巫女の詞に應じて、今日行ふ所の功德を以て、必ず菩提に至るべしと申す。事終れば、神職より死者の靈號を送る。願主此れを受けて悅ぶが、世に此事を「三崎噺(ハナシ)」と云ふ。後に佛徒から苦情が出て、此事は稀れに成つた。(以上摘要。)
 而して此記事は、前に舉げた土佐のタテクラヒの民俗と共通してゐる點も有るが、此れは橫死者に限つて行ふと云ふ所に、非常なる相違が有る。橫死者が、屍體の始末又は埋葬の方法に就いて、慘酷なる取扱ひを受けた事は、既述辻占の發生の條に述べたので、再び其を繰返す事は見合せるが、更に此記事中には三つの暗示が潛んでゐる事に注意せねば成らぬ。即ち第一は、橫死者に限つて此事を行ふのは何故か、第二は、何故に此事を「三崎噺(ハナシ)」と云ふか、第三は、此事は巫女が持傳へた古俗其のままか、其とも佛教の儀式を學んだ物かと云ふ點である。
 併しながら、其を言出すと、說明が多岐に涉るので茲には省略し〔七〕、更に此種の民俗を書き續けるとする。陸中國江刺郡の各村落では、死者の葬儀が終り、大概五日目に法要を行ひ、會葬者に馳走をする。其夜は講中の者が集り、神式にては奏樂、佛式にては念佛を為し、又巫女を迎へて口寄を聽くのが慣習と成つてゐる〔八〕。此行事こそ、琉球の魂分(マブイアカシ)と全く同じ信仰であつて、古く巫女が死者に親しみを有してゐた徵證である〔九〕。羽後國仙北郡の村村では、死者の葬禮の終つた夜に巫女を招き、口寄せさせて死人の語る體を為さしめ、遺族や親戚も額を鳩め淚を流して聽聞する〔十〕。秋田市では、春の彼岸に成ると、各家家で巫女を賴み、口寄せして亡者の便りを聽く事に成つてゐる。田植頃に成ると、農家は繁忙の為に此事を行はぬが、若し其でも行ふ時は、柳に幣(シデ)を切掛けて門に高掛かげ、此事を遣つてゐる目標とする〔十一〕。岩代國河沼郡冬木澤村(會津若松の市外。)の八葉寺は、九品念佛の一脈で、空也上人が開基した古刹と云うてゐる。俚俗此地を會津の高野と稱へ、每年舊七月朔日より同十一日迄の遠近男女相集り、死者の為に遺齒を堂中に納め、奧院に香花茶湯を奠し、盂蘭盆會を營む。此時諸村より多くの巫女集來たり、亡者の口を寄せて過去將來の事を語る。又其を聽かんとて參詣する者が夥しく多い〔十一〕。
 而して是に類した民俗は、未だ各地に存してゐるが、第三篇にても述べる機會が有るので、今は概略に留めるも、斯うした民間信仰は、巫道が佛教に征服された事を意味した物として見る時、其處に限り無き興味が湧くのである。全體、奈良朝から平安朝へ掛けての本地垂跡說の發達した事情に就いては、必ずしも平田篤胤翁が『俗神道大意』や、其他の著述で論じた樣に、佛徒が其教理を弘通する為に、神道を利用したばかりでは無く、此反對に、神道の方から佛教の方へ步寄つた事情さへ存してゐた。當時、佛法を重んじ、神道を輕んずる為政者の宗教政策は、佛教を興隆に導くのに急であつた為に、神道はかなり危險の地位に置かれてゐたのである。奈良朝の初め頃から、宇佐八幡神が頻りに託宣して神佛の掛け合を慫慂し、遂に東大寺大佛の開眼式に、遙遙と九州から出掛けて來て、今に手向山に八幡宮を殘した等は、良く此間の消息を傳へてゐる。聖武天皇が、

 夫有天下之富者朕也,有天下之勢者朕也。以此富勢,造彼尊像(大佛)。

 と詔し、畏くも躬ら土運び迄せられた大勢から言へば、神道は佛法の前に兜を脫がざる破目に立たせられてゐたのである。然も此大勢は、かなり永い歲月を通じて保たれてゐたのであるから、巫道が佛法に降參して、巫女が尼僧に似た樣な所作を演ずる等は、寧ろ當然の歸結と言ふべきである。宇佐八幡神を日本一の託宣好きと為し、其分靈が僧行教に依つて石清水に祀られ、此れの身體が僧形であつた事や、此他の名神大社の殆んど悉くが神前に讀經した事や、神宮寺が建立せられた事や、神が佛の頤指のままに三十番神に迄利用された事等も、決して偶然では無かつたのである。


C、巫女の呪具に現はれた佛教的要素

 後世の巫女の中で、或る流派に屬する者は、最角(イラタカ)の珠數と稱する物を所持してゐて、他の巫女が弓弦を叩き、又は笹葉で顏を叩きながら、呪文を唱へて神降しをする樣に、其數珠の珠(タマ)を手で一つ一つ繰りながら神懸りの狀態に入る方法を執つてゐる。私の寡聞では、現在最角(イラタカ)の珠數を用ゐる巫女は、秋田縣を中心としてゐる「座頭嬶(ザトカカ)」と稱する巫女及び宮城・岩手兩縣の巫女(イタコ)の外には餘り多くを耳にせぬが、併し關東を中心とした巫女も、彼等の仲間で「切り珠數」と稱して、普通の珠數を中央から切り放した樣な物を用ゐ、然も此れで占ふ事を俗に「珠數占」と言つてゐる所を見ると、古くは奧州の其の如く、最角(イラタカ)の珠數を用ゐてゐたのでは無いかと考へさせられるのである。
 而して最角(イラタカ)の珠數に就いては、昔から學者の間に異說が有り、最角(イラタカ)とは珠數の梵語(サンスクリット)だ等云ふ考證が有るが〔十二〕、此れは修驗者が用ゐた最角念珠(イラタカノネンジュ)と同じ語源であらうと思ふ。(但し、修驗が先きで巫女が後か、或は此反對に巫女が先で修驗が後かは後に述べる。)そして此珠數は插入の寫真で示した樣に、私の見た物は、長さ八尺、無患子(ムクロジ)の珠の數は三百を本義とし、(寫真のは5つ程失はれてゐる。)別に「裝束」と稱して雙方の房(フサ)の所に、羚羊の上顎骨、狐の上顎骨、(下顎骨を用ゐぬのは見た眼が惡いからだと云ふ。)羚羊の角、熊の牙、鷲の爪、及び鷹の爪、貝が二つ、此れに變り錢(繪錢及び文字の異つた變り錢。)と、秋田藩で發行した鍔錢とが著けて有つた〔十三〕。此珠數は是を用ゐる巫女にとつては、唯一の呪具であると同時に、呪力の根元と成つてゐるのであるから、常に尊崇して、座右を放さず、師匠が死ぬ時に弟子に傳へ、以て法統の靈物としたのである。此れに反して、切り珠數の方は頗る簡單であつて、珠は普通のと異り、丸く無くして稍(ヤヤ)平たく、恰も十露盤珠の樣で、數は日本總國を象り六十六とし、外に日神・月神を象つて、水晶の大きい珠を二つ加へてゐる〔十四〕。珠數の說明は此れで大體を盡したが、さて問題と成るのは、巫女が此種の珠數を呪具として用ゐたのは、佛法に學んだのか、修驗道に教へられたのか、其とも巫女獨特の理由が有つたのか、三つの中(ウチ)どれが正しいかと云ふ事である。
 此れに對する私見を簡單に述べれば、既記の如く我國の巫女は、遠き狩獵時代から、或る種の獸骨禽爪等が呪力を有してゐる事を知つてゐて、常に其等を所持してゐたのである。詳言すれば、意外なる豐獵に依つて獲たる、獸骨禽爪(骨爪は禽獸の象徵である。)を所持してゐると、幾度でも豐獵を獲させてくれる(一種の交感呪術である。)と云ふ信仰を持つてゐたのである。而して此獸骨禽爪等の元の意味が忘られて、裝身具と成れば、即ち曲玉と成つて、(曲玉の古い物が腎臓である事は既述した。)男女の胸邊に懸けられる樣に成つたのであるが、此間に於いて、獨り巫女だけ、古き傳統のままに(元の意義は忘れても。)獸骨禽爪等を所持してゐた所、佛教の渡來に依つて珠數を知り、此處に獸骨禽爪等の處置に就いて、何時(イツ)の間にか二派を生じ、一派は珠數に真似て此れを造り用ゐ、一派は其を「外法箱」の內に藏して用ゐる樣に成つた物と考へる。此觀點から云へば、修驗の最角念珠は、卻つて巫女の其を模倣したのでは無いかとさへ思はれるが、併し此れは筆序(フデツイデ)に記すべき樣な簡單の事では無いから、姑らく留保する。
 巫女が巫鳥(シトド)の骨を燒いて占ひを行うた事、及び此巫鳥が俗に頰白(ホオジロ)と云ふ鳥である事は既述を經たが、佛教の渡來と、密宗の事相とは、遂に此巫鳥を時鳥(ホトトギス)として了(シマ)つた。全體、時鳥の考證は頗る厄介な問題であるが、其は本問に交涉が無いので省略するも〔十五〕、此鳥が巫鳥に附會されるに至つたのは、別名を死出田長(シデノタオサ)とも、魂迎鳥(タマムカドリ)とも、又た無常鳥(ムジョウチョウ)とも稱した事に由來するのである。死出田長に就いては『伊勢集』に、「死出(シデ)の山、越えて來つらむ、時鳥(ホトトギス)、戀しき人の、宜(ウベ)語らなむ。」と有るのが古く〔十六〕、魂迎鳥(タマムカドリ)の事は『藻鹽草』卷十に見え、無常鳥(ムジョウチョウ)に關しては、我國で偽作された『佛說地藏菩薩發心因緣十王經』の一節に、

 一切眾生,臨命終時,閻魔法王遣閻魔卒,一名奪魂鬼,二名奪精鬼,三名縛魄鬼。即縛三魂,至門關樹下。樹有荊棘,宛如鋒刃。二鳥栖掌,一名無常鳥(ムジョウチョウ),二名拔目鳥。(中略。)化成監鷜。(中山曰、和名抄には此字をホトトギス(不如歸)と訓せた。)示怪語,鳴別都頓宜壽(ホトトギス)。云云。

 と有る〔十七〕。是(コレ)だけでも、時鳥の解釋が頗る面倒であるのに、更に此上に喚子鳥なる物が、此れに附會されるに至つて、益益複雜を加へて來て、私等の學問では、全く判然せぬ迄に紛糾して了(シマ)つたのである。
 喚子鳥(ヨブコドリ)は、他の稻負鳥(イナオオセドリ)、紅葉鳥(モミヂドリ)と共に、所謂『古今集』の三鳥と稱せられる口傳の秘事であつて〔十八〕、此れ又時鳥にも劣らぬ難物が附會されたのであるから、問題は愈愈面倒と成つたが、伴信友翁は『壒囊鈔』を典據として、「喚子鳥は即ち時鳥の別名也。」と埒を明けてくれた。從つて元祿元年に撰集した源為憲の『口遊』に載せたる、

 黃泉(與美)、鳥(止利)、我が垣元に(和加加支毛止爾)、鳴きとなり(奈岐徒奈利)、人皆聞きつ(比止美奈支支津)、往く魂も現し(由久多毛安良志)。謂之鵼鳴時歌。云云。

 と有る鵼の正體は、喚子鳥であつて、其喚子鳥は時鳥である事が知れ、延いて『徒然草」』に、「或る真言の書の中に、喚子鳥啼く時、招魂の法を行ふ次第有り、是(コレ)鵺也(ナリ)。」と有る事迄明白に成つた〔十九〕。然無(サナ)きだに、時鳥は、一種の靈魂動物として俗信を集めてゐた所へ、佛說に依つて更に幽恠化されたので、其結果は巫鳥の地位迄奪ふ樣に成つて了つたのである。
 巫道に影響した佛教の教相及び事相に就いては、未だ記すべき多くの物が殘されてゐるが、盡さざる點は第三篇に於いて補ふとして、餘りに長くなるので此節を終るとする。

〔註第一〕佛教が我國に渡來した年代に就いては、公には欽明朝の十三年と云ふ事に成つてゐるが、實際は是(コレ)より以前に在る事は言ふ迄も無い。佛教學者の間には、此年代を迥かに古代迄引上げ樣と試みる者も少く無いが、私の信ずる所では繼體朝の頃では無いかと考へてゐる。
〔註第二〕法師巫(ホウシミコ)の平安期の文獻に見えた事は、本文中に記して置いたが、更に我國に於ける毛坊主は、(清僧に對する俗僧とも云ふべき物。)或は是等の思想から導かれたのも、一原因では無いかと考へた事が有る。
〔註第三〕山本信哉氏が曾て『歷史地理學會』の講演で此事を詳しく述べられた。
〔註第四〕我國の古代に於ける分靈の思想は、極めて稀薄な物であつた。天照神が皇孫に御鏡を親授して、吾が御靈として齋き祀れとあるのが、其だと言つてゐる學者も有るが、猶ほ考覈すべき餘地が有るやに思ふ。一神が百にも千にも分靈すると云ふ思想は、原始神道の上からは明確に知る事が出來ぬ。折口信夫氏は『萬葉集』卷十四東歌の「麤玉(アラタマ)の、寸戶林(キヘノハヤシ)に、汝(ナ)を立(タ)てて、行(ユ)きかつましじ、寐(イ)を先立(サキダ)たね。(3353)」を解釋して、「魂榮(ハヤシ)の式を行ひ云云、此の榮(ハヤス)には分靈を殖し、分裂させる義が有る。」と、例の氏一流の天才を發揮してゐるが、私には必ずしも此歌はさう解釋されぬ。よし又た折口氏の如く解釋するのが古俗の正しき物としても、分靈を殖す思想は、佛教の影響であつて、我が固有の物だとは信じられ無い。
〔註第五〕後佛の事は、前揭の外には、『慶長見聞集』卷八に一例を發見しただけで、外に在る事の耳福に接し無い。誰か此種の事に通ぜるお方の教へを仰ぎたい物である。
〔註第六〕大正五年十二月十五日發行の『大阪每日新聞』の記事に據る。
〔註第七〕我國には、三崎(ミサキ)と稱する社名や、地名が、少からず存してゐるが、此解釋は、中中に面倒である。其よりも、私として此場合に考へて見たい事は、高貴の陵墓を、何故に陵(ミササギ)と稱するかと云ふ點である。三崎(ミサキ)と陵(ミササギ)──何か關係が有るのでは無いかとも思はれるので、附記して敢へて後考を俟つとする。
〔註第八〕『江刺郡志』。
〔註第九〕『日本風俗の新研究』。
〔註第十〕『秋田風俗問狀答』。
〔註十一〕『新編會津風土記』卷八一。
〔註十二〕山崎美成翁の『海錄』卷六に、「念珠の梵名アラタカと云へり、最角(イラタカ)は此轉語也。」と載せたのは、好問堂としては、千慮の一失であつた。織田得能師の『佛教大辭典』には、珠數の梵名は「鉢塞莫」と有る。『鹽尻』卷五四に、「最角(イラタカ)の珠數は、密家の故實も有やと、或真言師に問ひしに、是は修驗者の具にして、させる故も無し、最角と書て、いらたかと讀むと答へし。」と有る。
〔註十三〕私は秋田縣出身の鈴木久治氏の秘藏せる最角(イラタカ)の珠數を拜見し、且つ寫真の撮影迄許して貰い、併せて有益なるお話を澤山聞かせて貰つた事は實に感謝に堪へぬ。此處に其事を記して敬意と謝意を表す。因に柳田國男先生が見られた最角(イラタカ)の珠數は、長さ十三尺、無患子の珠が三百三十、外に裝束が付いて居たと有り。又た東京博物館に在る物は、獸骨禽爪等の外に菱の實が付けて有つたと『鄉土研究』第一卷(二五九頁(ペーヂ)。)に記して有る。
〔註十四〕江戶期に、關八州全部と、奧州と、甲信の一部の巫女頭を代代勤めてゐた、田村八太夫の最後の巫女である田村常子の談。猶ほ同家の事、及び田村常子の事に就いては、第三篇に詳記する。
〔註十五〕伴信友翁の『比古婆衣』卷五に、「喚子鳥」及び「死出田長(しでのたをさ)」の詳密なる考證が載せて有る。
〔註十六〕時鳥を死出田長(シデノタオサ)と云ふのは、死出(シデ)は仕出(シデ)の轉訛で、勸農鳥の意だと云ふ說も有るが、深い詮議は前記の『比古婆衣』に讓るとして、今は省略する。
〔註十七〕十王經は偽經ではあるが、我國の作では無いと、『倭訓栞』に載せて有るが、此れは本居翁の『玉勝間』に有る如く、我國の偽作と見る方が穩當の樣である。そして此偽經が古くから行はれた事は、『袖中抄』に僧寂蓮の此經に關する語が載つてゐる事からも知られるのである。
〔註十八〕喚子鳥の正體は古今傳授の一として、大昔の歌學者には喧(ヤカマ)しい問題であると同時に、又一種の米櫃でもあつた。私は晉其角の「六(ム)つかしや、猿にしてをけ喚子鳥。」の方で、深い事は知らぬし、又た餘り深く知る事を要さぬと思つたので概略にして置いた。
〔註十九〕前揭の『比古婆衣』卷五。
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