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第二節 狩獵に於ける巫女

 我國に狩獵時代が有つたか、無かつたかに就いては、文獻上からは、明確に知る事が出來無い。否、文獻にのみ據れば、我國は開闢の當時から、既に農耕時代に入つてゐる樣に記されてゐて、狩獵時代の有つた事等は、遂に發見する事が出來ぬのである。併しながら、文獻に見えぬからとて、我國に狩獵時代が無かつたと云ふのは速斷である。各地から發掘された銅鐸の紋樣中には、曾て此時代の存した事を想はせる物が尠からず殘されてゐる〔一〕。更に我が國民の常食と成つてゐる五穀の中にも、粟と稗だけは原產してゐたが、他の米や麥や豆は、悉く外來の物であつて、殊に豆類は、一段と新しく輸入された樣である〔二〕。勿論、米や麥が無くとも、粟と稗が有れば、生命を維ぐに差支は無かつたであらうが、各地に貝塚が存し、其中から獸骨の出る所から考へると、我國古代民族は狩獵に依つて獲たる獸肉──又は漁撈に依つて獲たる魚肉を、主食とした一時代を經過した物と想はれるのである〔三〕。若しそうで無いとしても、副食物を得る為に、狩獵や漁撈を營んだ事は明白であるから、私が此處に言はうとする狩獵と巫女との關係は肯定されるのである。
 我國に狩獵時代が有つたにせよ、山に棲む獸や野を飛ぶ禽を捕る役は、言ふ迄も無く男子の所業であつて、此れに婦女が加つたとは考へられぬ。從つて巫女が狩獵に關係を有する點は、狩獵を好結果に導く樣神を祭り、併せて神意を問うて、日時と方角を擇み定める事であつた。詳言すれば、四季の鳥狩り、獸獵に、其等の動物の棲む山や野を領知(ウシハ)ける神神を祭り、八十ヶ月の中より、今日の生日を足日と定め、更に朝狩りか夕狩りか、好ましき時を神判に據つて擇むのが、其の務めであつた。神祇官流の解釋に據れば、山神と云へば、大山祇命と治定してゐるけれども〔四〕、民間信仰を基調とすれば、今に山神は女性である〔五〕。
 斯く山神が女性であると考へられるに至つた根本の理由は、山で獵をするには、巫女の助力を受ける事が安全であつた信仰に起原を發してゐるのである。『天野告門』に紀州高野山の地主神である丹生津比賣命が、白犬一伴、黑犬一伴を連れてゐたと有るのは〔六〕、此女神が古く狩獵に關する巫女であつた事を、意味してゐるのではあるまいか〔七〕。而して私に此事を想はせる物は、左の『伊豆國風土記』逸文の記事である。

 割駿河國伊豆乃崎,號伊豆國。日金嶽,祭瓊瓊杵尊荒神魂。奧野神獵,年年國別役也。構八牧別所幣坐,出納狩具行裝之次第,有圖記。推古天皇御宇,伊豆、甲斐兩國之間,聖德太子御領多。自此獵鞍停止。八牧別所,往古,獵鞍之司,司祭山神,號幣坐神社。其舊法斷久也。夏野獵鞍者,伊藤、奧野,每年撰鹿柵射手行云云。〔八〕。

 山神を祭る儀式及び狩獵の古式は、『吾妻鏡』に據れば、源賴朝が建久年間に、富士山麓に卷狩を行うた折には既に湮滅し、漸く肥後國阿蘇大神宮家に傳へた下野(シモノ)の故實を學んで濟せたと云ふ程であるから、今から其詳細を知る事は不可能であるが、其でも同じ『吾妻鏡』及び、其他の狩獵に關する文獻に據れば、山神祭や矢口祭は、相應に嚴肅であつた事が窺はれるのである〔九〕。併し、文獻や記錄に依つて傳へられた山神——即ち獵神は、大山祇命と固定してからの信仰を承けてゐるだけに、狩獵と巫女の關係等は、尋繹すべき手掛りも無く、且つ山神は悉く男性であると、神の性迄も語り歪めてゐるのである。此等の所傳に比較すると、各地に殘つてゐる山神に對する民間信仰は、我國の古き正しき物と考へるので、左に各地に亘り此れを抄出する。

 盛岡市の南郊藪川村の道の入口に山神祠が在る。澤山陽物の形をした物が供へられてゐて、年に二回、春の始めと、秋の終りに祭が有る。春は山神が里へ下りて里神と成る時であり、秋は里神が山へ上つて山神と成る時だからと云ひ。又陽物を獻ずるのは、此神は非常な醜女で、嫉妬深い神だからとm云ふ云云。(『民族』第二卷第三號所載金田一京助氏「山神考」の一節。)

 シャチ山の神 狩人の祀る山神の名にて、三河國北設樂郡にて言へり云云。

 シャチナンジ 女神にて、「狩人の守り神也。」と云ふ。北設樂郡豐根村字分地、遠江國周知郡にても言へり。(以上、「民族」第三卷第一號所載、早川孝太郎氏「參遠山村手記」の一節。)

 安堵峯(中山曰、紀伊國西牟婁郡。)邊に、又言傳へるは、山神女形にて、山祭の日、一山に生ぜる樹木を總算するに、成るべく木の多き樣數へんとて、一品每に異名を重ね唱へ、(中略。)樵夫此日:「山に入れば、其內に讀込まる。」とて、懼れて往かず。又甚だ男子が樹陰に自瀆するを好むと云云。(「南方隨筆」所收「山神虎(オコゼ)魚を好むと云ふ事」の一節。)

 斯うした民間信仰は、未だ夥しき迄に存してゐるが、山神の研究が目的では無く、唯山神が女性であると云ふ事だけが判然すれば宜いのであるから、他は省略する。此れから見るも、木花開耶姬命が富士の山神であると云ふ傳說の古い事が知られるのである。而して是等の民間信仰を基調として、更に前揭の『伊豆風土記』の逸文を讀み直して見ると、八枚の神坐を構へて祭儀に從つたのは巫女であつて、然も此巫女が、古くは狩獵の良否を占問ひする役目を有してゐたのでは無いかと考へられる。琉球には海神(ウンジャミ)祭と稱して、各地に祝女(ノロ)(巫女。)を中心とした狩獵の神事が行はれてゐるが、其中でやや原始的な物で、然も極めて簡單な物を一つだけ抽出して、古くは我が內地にも、斯かる神事が舉げられたのでは無いかと信ずべき旁証とする。『山原の土俗』安田(沖繩縣國頭(クンチャン)郡國頭村大字安田)の海神(ウンジャミ)祭條に、

 舊七月亥日に行ふ。二日前に神酒を造る。そして神人(カミンチュ)は當日に成ると、神衣裳を著けて神祭場(アシアゲ)(中山曰、內地の齋場と同じ物。)に集つて、神體に向ひ祈願をする。(中略。)其が濟むと豬取りの真似をする事に成つてゐる。豬には若い青年が一人選ばれ、身には蓑を纏ひ頭には笊を被る事に成つてゐる。又犬は十五歲位の少年を十名位選定す。豬取りは神人で男女各一人で、犬を引連れて來て御馳走(原註略。)を與へる。そして愈愈豬取りに掛るのである。暫く豬と犬とを闘はせて置いて、時刻を見計つて弓を以て之を射る。すると豬はもがく真似をする。其時に女の神人(中山曰、祝女(ノロ)。)が來て愈愈矢を以て之を射止める樣にする。斯くして儀式が濟むと、晚には若い女の臼太鼓踊が有り、青年の角力を余興として行ふ。此れは一名大男祭(ウフシヌグ)とも云ひ、その日は女祭(ウナイウガミ)(中山曰、女を神として拜む事で、巫女の起原の條に言うた「於成(をなり)神」の意である。)とも稱へるらしい。女を男が拜する儀式だと云ふてゐる云云。 (爐邊叢書本)

 此れ等は明瞭に巫女が狩獵に參與し、然も其の中心人物と成つてゐる事を物語る物である。誰でも知つてゐる事であるが、『木原楯臣狩獵說』鹿笛條に、狩詞の記(群書類從本。)を引用して、

 鹿笛の事は、獵人申すは流行(ハヤ)る傾城の足駄にて作りたるが良く寄ると申也と云へり。又『徒然草』に女の執念を戒むる所に、「女の履(ハ)ける足駄(アシダ)にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄ると言傳へ侍る。」も、古き諺ならん。

 と有る故事も、其源流に溯る時は、巫女が狩獵に交涉を有してゐた為に考へられた俗信ではあるまいかと想はれる。
 『萬葉集』を讀むと、狩獵に女性を伴つた歌が散見する。例えば左の如き物が其である。

 足引の、山海石榴(ヤマツバキ)咲く、疊峰(ヤツヲ)越え、鹿(シシ)待つ君が、齋(イハ)ひ妻かも。(卷七1262。)

 江林に、臥せる豬鹿(シシ)やも、求むるに良き、白栲の、袖卷上げて、豬鹿(シシ)待つ我が夫。(同上、凱旋歌1292。)

 足柄の、彼面此面(ヲモテコノモ)に、さす羂(ワナ)の、喧鳴(カナ)る間靜み、兒ろ我紐解く。(卷十四3361。)

 此の第一の短歌の、「鹿待つ君が、齋ひ妻。」に就いては、異說が有つて、今に定說を見ぬのであるが、併し單に愛するだけの妻の意ならば、齋ふとは言ふまいと想はれるので、此れには何か鹿を取る獵人の間に妻を齋ふ──恰も琉球の山原(ヤンバル)地方で女を男が拜むと云ふ樣な、呪術的の信仰が存してゐたのでは無いかと考へられる。そして其が古い時代の狩獵に巫女が參與した傳統を殘した物と想はれぬでも無い。更に想像すれば、太占(フトマニ)に鹿の肩骨を用ゐたり、山鳥の尾ろの初穗に鏡を掛けたり、片巫が巫鳥(シトド)の骨を燒いて神意を問うたりした事は、古く遠く巫女が狩獵に交涉を有してゐた時代に發明した呪法であるとも言へる樣である。猶ほ漁撈と巫女との關係は、やや明瞭であつて、左迄に考究すべき必要が無いし、それに巫女と製紙の關係を說くと、餘りに本節が長く成るので省略した。
 狩獵の良好を神に祈る為に巫女が舞ひ、更に豐富の結果を得たので、神に報賽する為に、巫女が踊つた物の中から、後世迄傳つた動物に扮する舞踊の幾つかを指摘する事が出來る樣である。而して動物に扮する舞踊の動機(モチーフ)が、動物の習性や所作を模倣した事に由るのは勿論である。琉球の國頭郡大宜味村で、每年舊七月二十日後の亥日に行ふ海神(ウンガミ)祭に、神祭場(アシアゲ)の左端に各瓜で拵へた豬を据ゑ、右端に槍や弓を立てて置き、巫女(ノロ)や神人が前後四回まで神歌(オモロ)を謠いつつ神踊りを為し、豬を取る真似をして儀式を終るのは〔十〕、巫女が神へ對して斯くの如く好獵の有る樣にと祈る形式だとも考へられるし、更に『山城風土記』逸文の賀茂社の一節に「撰四月吉日,馬繫鈴,人蒙豬頭而駈馳,以為祭祀。」と有るのは、古く賀茂神が狩獵神としての一面を有してゐた事を想はせると同時に、動物に扮する舞踊の在つた事を偲ばせる手掛りに成る。
 私は動物に扮する舞踊の中で、巫女に源流を發した物と信ずべき幾多の民俗學的資料を蒐めて置いたが、其を一一披露する事は、徒らに長文に成るので、今は省略する。雞舞、烏舞、鷺舞等の、女性に相應した物は言ふ迄も無く、鹿踊とか駒舞とか云ふ、男性的の物すら、巫女が權輿者である事を考へさせる物が有る。後世に成ると、此等總ての舞踊は、勇壯とか、活波とか云ふ方面のみ重く視られた反對に、巫女の月水の血忌みが極端に迄嫌はれる樣に成つた結果は、當然、巫女が狩獵と關係を斷つたので、舞踊迄男子の手に渡つてしまつたのである。

〔註第一〕我國に於ける銅鐸は、學界の謎として、今に解決されぬ程の難物であるが、兔に角に、此銅鐸が有史以前の遺物である事だけは明白である。そして各地から發掘された銅鐸の紋樣の中に、男子が槍の樣な物を以て鹿や豬を取る處、又は犬を用ゐて野獸を取る處の意匠が見えてゐる。此れは狩獵時代の事を研究する場合に參考すべき事である。更に信州諏訪神社の御頭祭(鹿の頭を七十五供へる神事。)に於ける鹿頭の食べ方や、其他此れに類した動物の料理法の原始的な物が殘つてゐる事も、動物を主食とした時代を窺ふべき手掛りと成るのである。
〔註第二〕天照神が天熊大人を遣して稻を覓めさせた事は、我國に稻の野生の無かつた事を示唆してゐる物である。琉球の傳說を輯めた『遺老說傳』に據ると、豆類は新しく渡來した事が記して有る。
〔註第三〕『萬葉集』卷十六に載せた乞食者の唱へた長歌の一節に「小壯鹿の、來立ち嘆かく、(中略。)、吾が肉は、御鱠はやし、吾が肝は、御鱠はやし、吾が美義は、御鹽のはやし。(3885)」云云と有るのは、鹿の原始的料理法を傳へた物と見るべきである。
〔註第四〕現今では山神と云へば、大山祇命と固定してしまつたが、此れは言ふ迄も無く、原始神道其のままでは無い。山祇は海祇に對立した神名で、山を支配する意で、山神其のものでは無いのである。神祇官流の神道が、總ての神神を記紀に載つてゐる神神で統一しようとした為の結果である。
〔註第五〕民間信仰の對象としての山神は、殆んど全國的に女性である。妻女の俚稱を「山神」と云ふのも、此れから導かれた事で、兼ねて妻女が古く家族的巫女であつた事を傳へてゐる物である。
〔註第六〕『天野告門』は偽書だと云ふ說も有るが、私には必ずしも左樣だとは思はれ無い。勿論、記事の全部を其のまま信用する事は出來ぬが、兔に角に古い文獻を土台として後世に書き入れた物と考へてゐる。從つて土台に成つた部分だけは信用し得る古い物として差支無い。其は恰も『倭姬命世紀』と同じ事である。
〔註第七〕南方熊楠氏談に、丹生神社の末社に皮剝(ハギ)明神と云ふが有る。即ち皮細工の祖神とも云ふべき物であるが、此れは獸皮を衣服の代用とし、獸肉を主食とした時代の遺物であらうとの事であつた。丹生津姬命と犬の關係は、相當に後世迄殘つてゐて、僧空海が始めて登つた時も犬が案內したと言はれてゐる。
〔註第八〕『伊豆風土記』逸文は、北畠親房著の『鎌倉實記』卷二に引用してあるのだが、此記事は、他の風土記の文體に比較すると、やや時代の降つた物である事が知られる。栗田寛翁は其の著『古風土記逸文考証』に於いて、此れは後人の攙入なるべしと云うてゐる。併し記されてゐる狩獵の事は古い物と見て大過は無い樣である。
〔註第九〕『好古類纂』遊戯部に收められてゐる「木原楯臣狩獵說」は、古今の記錄を要約して、良く古代の狩獵の事が輯めてある。
〔註第十〕『山原の土俗』(爐邊叢書本)。



第三節 農業に於ける巫女

 豐葦原瑞穗國と云はれただけに、農業と巫女との關係は、狩獵の其よりも、一段と明確に知る事が出來るのである。由來、我國に於ける穀物神——即ち農業神の研究は、原始神道の上から見ると、相當に興味の深い問題たるを失はぬのである。現在では農業神と云へば、直ちに稻荷神であると考へられる樣に成つてゐるが、此れは言ふ迄も無く、歸化族秦氏の祖靈神を祀つた物が、何時の間にか祭神が入れ代へられて稻荷神と成つてからの信仰であつて、決して原始的の物では無いのである〔一〕。『古事記』に、

 又食物乞大氣都比賣神。爾大氣都比賣,自鼻口及尻,種種味物(タナツモノ)取出而,種種作具而進時,速須佐之男命立伺其態,為穢污而奉進。乃殺其大宜津比賣神。

 と有るのは、有名な神話であつて、然も此神の屍體から五穀其他が生じたと云ふ事に成つてゐるのである〔二〕。而して此大氣津比賣神は、又の名を豐宇賀能賣命と稱して、我國の穀物神であり、農業神であると信仰されてゐるのであるが、此信仰には、少くとも二つの、疑いを挾むべき間隙が存してゐるのである。即ち第一は、『丹後國風土記』逸文、奈具社條の末節に、天女が、

 復至竹野郡船木里奈具村。即謂村人等云:「此處我心,成平善(奈具志久)。【○原註略。】」乃留此村,斯所謂竹野郡奈具社坐,豐宇加能賣命也。

 と有る記事と、第二は祝詞の「大殿祭」の一節に「屋船豐宇氣姬命」と記せる腳註に、

 是稻靈也。俗謂宇賀能美多麻云云。

 と記せる記事が其である。此れを詳言すれば、前者の奈具社の記事は、天女が穀物神と成つた事を意味し、後者の大殿祭の腳註は、稻靈を神格化して穀物神とした事を說明してゐるのである。
 其では何故に、斯く『古事記』の神話と矛盾する樣な傳說が存したかと云ふに、此れは要するに、穀物神に仕へた巫女を、後世から直ちに穀物神とした誤解に基く物である事が知られるのである。換言すれば、元元我國の穀物神は、稻靈を神格化して崇拜してゐたのであつて、(穀物神が斬殺されると云ふ神話も、此れが為めに生じた物で、其事は註に述べて置いた。)稻靈以外には、別に穀物神とか、農業神とか云ふべき物は、無かつたのである。然るに、神に對する合理的解釋は、稻靈を神とする事を疎卻して、次第に此穀物神に奉仕した巫女(即ち大氣津比賣とも豐宇賀能賣とも云うてゐた。)を、穀物神其の物と信ずる樣に成つて來て、遂に稻靈は全く忘れられて、巫女が代つて其位置を占めてしまつたのである。私は此立場から、穀物神を考へてゐるので、豐宇賀能賣命が伊勢に祭られたのは、取りも直さず、皇大神宮に對する散飯神(サバカミ)(散飯(サバ)の事は後に述べる。)であつて、穀物神に仕へた巫女の神格化と信ずる物である〔三〕。
 古代の農業には、專ら女子のみが從事して、男子は多く此れに與ら無かつた。其は、當時の社會生活から見て、男子は絕えず他部落との間に起る闘爭に從ふ事が重なる役目で、其他は常に山野河海に出でて、狩獵漁撈に勵ま無ければ成ら無かつた為である。此れに反して、女子は狩獵時代から、山に野に木の芽や草の根を採つて食物とした傳統的の經驗を有してゐる上に、女子の第一使命である育兒の責任が有り、更に體力關係から烈しい狩獵には堪へられぬので、自然に親しみの深い春耕秋收の農事に服する樣習慣付けられて來たのである。從つて古代農業に巫女の關係する事が多かつたのである。
 柳田國男先生に依つて唱へられた我國の「於成殿(をなりど)」傳說なる物は、(浦木按、於成殿(をなりど)とは、田植の日に田人に食物を運ぶ役の女の事を云ふ。)農業と巫女との交涉を考へる上に閑卻する事の出來ぬ大問題である。私は曾て自ら揣らず柳田先生の意中を忖度して此傳說に就いて「田植に女を殺す土俗」と題し、大要左の如き管見を發表した事が有る。

一、穀神へ人身御供を捧げる

 我が古代の農業は、小氏又は一部落の共同耕作であつて、年年輪番に田主を定めて春播秋穫し、別に田地の永代所有者は無かつたのである。即ち經濟學上の定期分配耕作共同制とも云ふべき物である。從つて此時代に於ける豐凶は、其が部落全體の利害休戚に影響する所が深甚であるだけに、田主となる者の責任は極めて重大なる物が有つた。殊に同時代に在つては、田主及び部落民の德不德の行為が、直ちに農作の豐凶に影響する物と考へられてゐた。我國に此事由を直接に証明する記錄の欠けてゐる事は遺憾であるが、其でも猶ほ間接には這般の消息を窺知すべき文獻が有る。即ち『神功紀』に天野・小竹の兩祝がアツナヒ(阿豆那比)の罪を犯した為に天候が不順と成り〔四〕、『允恭紀』に木輕皇子が同母妹に通じた為に天候に異變を生じ、六月の酷暑に供御の羹が冰つたと有るのは、共に此思想の在つた事を暗示する物である。加之、自然の恩寵に最も依賴する事の多い農業は、旱損霖害、一朝の霜、一夜の風にも長い間の努力を徒勞に歸する場合が尠く無く、然も斯かる自然現象の總てを神神の啟示であると信じた時代に於いては、水は廣瀨神、風は龍田神、雨は丹生神に祭られ、只管に是等の神神の荒ぶる事を恐れて、專らそれを和め鎮むるに祈念焦慮した。而して此の神を和め鎮むる為には、殆んど手段と方法を擇ば無かつた。否否、擇ぶ餘裕が無かつたと云ふのが適當である。斯くして人身御供が起り、斯くして種種なる呪術的祭儀が工夫されたのである。
 於成(オナリ)の民俗も、斯かる時代に人身御供の一として發明された祭儀なのである。於成(オナリ)の語は世人の多くに忘られてしまつたが、其でも一部の間には活きてゐる。伊賀國名賀郡地方では、今に水仕女を此語で呼んでゐる〔五〕。琉球では、於成(オナリ)の語は、姊妹の意に用ゐられてゐる〔六〕。內地の神名や、地名にあるボナリ(母成)・(母成と書く。)ウナリ(宇成)(宇成亦は於成とも書く。)も、又此於成(オナリ)の轉訛である。
 於成(オナリ)は一に晝間持ち(ヒルマモチ)とも云はれてゐる〔七〕。即ち晝間持の事であつて、田植に働く早乙女其他の者の晝飯を運ぶ役に當る女性である。そして此晝間持(ヒルマモチ)が田神の犧牲に供へられるのである。


二、於成(オナリ)としての奇稻田媛

 素尊が八岐大蛇(於呂智)を斬つて稻田媛を救う折に、尊は媛を立ち處に櫛と化し、其御髻に插したと有るが、此れの解釋に就いては異說が多く存してゐるも、所詮は後世の知識を以て神話を合理的に解釋しやうと企てた物であつて、學問的には價值の低い事は言ふ迄も無い。私見を簡單に云へば、稻田媛を櫛に化して插すとは、取りも直さず媛を穀神に犧牲として供へた事で、我國の最も古い於成(オナリ)の民俗が神話に反映した物だと考へてゐる。更に詳言すれば、媛を櫛にして插すとは、即ち串に插すの意であつて、斯く代代の語部が語り傳へてゐたのを、文字に記錄する折には、夙くも於成(オナリ)の民俗が泯びてしまつたか、若しくは神を串に插すとは、如何にするも當代の信仰では許され無かつたので、斯くは媛を櫛と化して髻に插すと記したのであらうと信じてゐる。我國には、古く神に供へる人肉又は鳥獸の肉を串に插した民俗が存してゐた。(既述の曲玉は腎臓の象徵の條參照。)而して是等の民俗から推すも、媛を櫛にして插すとは、犧牲にした媛を串に插すの意に解するこそ、卻つて學問的ではあるまいか。


三、穀神を殺す古代民族の信仰

 我國の穀神である大氣津比賣命は、素尊の為に殺された。何故に我が古代民族は穀神と云ふが如き高級神を殺した神話を傳へて怪しま無かつたか〔八〕。此れには又た相當の理由が在つたのである。
 私達の遠い祖先達は、穀物を播種すると、發芽し、繁茂し、結實し、枯死するのを、直ちに自分達の生死から類推して、此れを穀物の生死であると考へたのである。結實と共に幹葉の枯れる事は死であつて、發芽と共に繁茂するのは生であると信じたのである。加ふるに、我國にも天父地母の思想が存してゐた。即ち蒼天を父とし、大地を母とし、總ての自然物は、此天父地母の交接作用に依つて生成する事、恰も自分達の交接作用に依つて子孫が生成するのと同一だと信じてゐた〔九〕。斯くて農業の神事に、婚嫁(トツギ)祭りと云ふが如き、奇怪なる呪術的方法が案出されたのである。而して古代の民族にあつては穀物其の物が直ちに神であつた。文化のやや進んだ民族は、農作の豐凶は穀物を支配してゐる神の左右する物と考へる樣になり、穀物と穀神とを區別して認識したのであるが、古代民族には此區別は無かつたのである。そして穀物の幹莖を刈取る事は取りも直さず穀神を殺す事なのである。此思想はやがて於成(オナリ)──即ち穀神の代理を殺す事迄に發展したのである。


四、原始農業と女子の位置

 『古事記』に雀を碓女とした事を載せ、『萬葉集』に、「稻舂けば、胼(カカ)る我が手を、今宵もか、殿の若子が、取りて嘆かむ。(3459)」と有るのや、同集に、「住江の、岸に田を墾(ハ)り、蒔きし稻、秀てて刈る迄、逢はぬ君かも。(2244)」と有る等は、共に古く女性が農業の主要なる働き人であつた事を証明してゐる。而して穀神に對する信仰は、依然として女性が中心と成つてゐた。其故に、我國には御田植の神事に、男子が特に女裝して祭儀を勤める例が多い。此れは言ふ迄も無く、巫女が農業に關與した遺風を留める物と考へられるのである。
 例へば、信州諏訪神社の田遊びの神事は、每年小正月の夕刻に行はれるが、其時に樂員一名が婦人に扮し、振袖の衣服を著て、頭に綿帽子を載せ、折櫃に鏡餅を盛りて神前に向ひ此れを供へ〔十〕、其他種種なる式があつて終る〔十一〕。山城國葛野郡七條大字西七條でも、小正月の夜に、頭座の男子一人麗しき女の小袖(此小袖は其の前年に新婚せる妻女の物に限る。)を著し、赤き帶を結び、顏に紅粉を粧ひ、大なる盒子(ユリ)に注連を曳いて頭に頂く。此れをオヤセと云ふ。外に鋤鍬を持てる者二人、オヤセの前に立ち、村中の家家に入り、耕作の真似をする。即ち田遊びの祭儀である〔十二〕。
 又、攝州武庫郡鳴尾村大字小松の岡神社の田植神事にも、社頭に供物を獻ずる男子一名は、舊例を以て其年に村內に嫁したる新婦の衣裳を著用して、此役を勤めるのである〔十三〕。紀伊國有田郡の各村で、每年正月に行ふ御田踊は、相當に大仕掛の物であるが、此踊の中心となる晝間持(ヒルマモチ)は、村內で最も美男子が女衣の襲ねを著し、丸帶を太鼓に結び、頭に鬘を被り、簪を插し、緋布の鉢卷をしてゐる〔十四〕。奧州若松市では、正月に成ると近村から、田植踊と云ふ錢貰いが出て來るが、其中一人だけは、男子が女裝して、太鼓を打ち、農歌を謠ふ〔十五〕。
 而して斯かる類例は未だ全國に亘って殆んど際限無き程夥しく存してゐるが、是等の民俗が古く穀神を女性とした信仰の名殘りである事と、併せて女性が農業──殊に田植の中心人物であつた事が偲ばれるのである。更に田植に插秧する女性を、早乙女(サウトメ)と稱する語義に就いても說明すべきであるが今は省略する。


五、農業の神事と婚嫁(トツギ)祭

 穀物の生成結實を天父地母の交接作用の一部の現はれと信じた古代民族が、其穀神を和(ナゴ)めて豐穰を祈る神事に、婚嫁(トツギ)の祭儀を行ふのは當然の工夫であつて、フレザー(Fraser)教授の所謂模倣呪術とも見るべき物である。而して茲には、誰でも知つてゐる樣な武州赤塚村の杉山社の祭儀や、三河の天手古(テンテコ)祭、尾張の田縣社神事の如き物は悉く割愛し、餘り人に知られ無い然も有力なる物五六を舉げんに、陸前國遠野町附近の村落では、每年二百十日の前日に村中で大きな人形を二個作り、其へ瓜で陰陽の形を作り添へて、田圃へ持つて往き、道の辻で兩方を合せる行事が有る。此れを風雨祭と云うてゐる〔十六〕。信州下高井郡秋山村は、粟を主食とする程の邊鄙の土地であるが、正月七日には粟稈で大なる玄根を作り、今年の粟も此の樣に稔れと、家每に持ち迴つて祝言すると云ふ〔十七〕。我國の七夕は種畑(タネハタ)で、古く田主(タアルジ)夫婦が、此夜に畠中で呪術的抱擁をする儀式が有つた。今に越後國北魚沼郡上條村大字西名の七夕神社では、每年陰曆七月一日から二十七日迄、里人は同村を流れる破間川の東西岸の喬木に注連繩を張渡し、男女の陰具を模した物を藁で作り揭げ、其時異口同音に、「破間川に注連引渡し、西の御姬らしいので穗垂(ホダレ)(玄根の古語。)を迎ふ。」と云ふ事である〔十八〕。此れも婚嫁(トツギ)祭である事は明瞭である。近江國蒲生郡各村で行ふ山神祭は大同小異であるが、東櫻谷村のは先づ木で男女二體の像を作り、此れを神前に供へて交媾(トツギ)の狀を為さしめ、白酒を獻じ式を終る。そして年番の一人が音頭を取り、參集の村民此れに和し、「去年より今年は年良し、早稻、中稻、晚稻、二十四の作物皆良かれ。」と唱へて散會するが〔十九〕、是は明白に婚嫁(トツギ)祭である。大和國磯城郡纏向村大字江包の素尊神社と、同郡織田村大字大西の稻田媛神社とで、每年舊正月十日に網掛の神事と云ふが行はれる。素尊社では一反分の藁で元根の形を作り、稻田媛社でも同じ程の藁で女根を拵え、神官氏子立會の上で婚嫁(トツギ)の祭儀を執行する〔二十〕。此神事は昔から有名な物と見え、『大和高取藩風俗問狀答』にも載せてある。越前國敦賀郡松原村大字沓見の信露貴神社(男神)と、同所の久豆彌神社(女神)との田植祭は五月六日に行はれるが、古來、嚴重なる頭屋の制度が有り、當日には警固、神官、舞人、早乙女、晝飯持等の稚兒が供奉し、本殿にて田植式有り、終つて女官に渡御し、後に兩宮同例にて、男宮に歸る。式が濟むと、馬場先で、三三九度の神事が有る〔廿一〕。美作國久米郡稻岡村大字南庄の稻荷神社の例祭には、神輿が同所の小原神社に渡御するが、此れは婚嫁(トツギ)の語らひの為めである〔廿二〕。肥後の阿蘇神社で、每年舊二月卯日に田作祭を執行するが、此祭は中の巳日から亥日迄、子安河原から姬神を迎へて婚嫁(トツギ)の式が有つて、五穀を生み、種を播く依り、成熟する迄の行事が有る。阿蘇谷の村村では、此祭儀の終らぬ內は、子女の婚姻を禁じてゐるが、此れは大昔からの制法である〔廿三〕。而して是等の祭儀が、巫女を中心とした農業と生殖との信仰の表現である事は、私が改めて說明する迄も無く、會得された事と思ふ。
 更に如上の信仰の一段と古い所に溯れば、田植神事の最中で、於成(オナリ)が分娩の所作を演ずるのである。そして斯かる民俗も我國には尠からず存してゐるが、茲には僅に二三だけを揭げるとする。出雲國簸川郡江南村大字常樂寺の安子神社の祭儀は、早乙女が早苗を植ゑながら安產する有樣を演ずるが、今では安產の神として信仰されてゐる〔廿四〕。美作國真庭郡八束村大字下長田の長田神社では、例年正月五日に御田植祭を行ふ。祭具は鋤鍬鎌等の農具で、別に菖蒲で牛の角形を裝ひ作り社前に供へ、田舞を奏す。奉幣、祝詞、玉串の獻上、苗代の式等が有り、終ると牛使用者が「御三晝飯」と呼ぶ。次に本殿の椽に昇る時豫め紙で拵へた人形を懷中し、燒米を三寶のまま棒持して出づると、他の祭人御酒と御飯とを持ち、笛太鼓の拍子に連れ、左右に舞ひ終ると、御三と稱する祭人(女性の象徵。)產米を舞殿の高案の上に直し、本殿に昇らうとして曩に懷中せる人形を取出し階段に置く。此れ出產を意味する物であつて、齋主は其人形を肩に載せ神前に供へ、氏子安全の祈禱をする。御產の式と云ひ終つて直會する。〔廿五〕土佐國安藝郡吉良川村の八幡社では、三年に一度、五月三日に、御田植祭を行ふが、其行列中には、酒絞りと稱する女裝男子一人と、取揚げ婆と稱する男子一人とが加はり、酒絞りは水桶に礫(つぶて)杓を入れて頭上に戴き居り、酒絞る時安產の態をする〔廿六〕。豐後國東國東郡西武藏村の氏神の步射祭には、於成(オナリ)と稱する女裝の男子が、田植の神事の最中に分娩する所作を演ずる。そして生れた子が男か女かに依つて豐凶を卜するのであるが、其の人形の子供は秘かに神官が神意を問うて拵へ、於成(オナリ)に渡して置くのである〔廿七〕。而して是等の分娩の役を勤める者が古くは巫女であつた事は勿論である。


六、穀神の犧牲となる於成(オナリ)

 下野國足利郡三重村大字五十部の水使神社の緣起に、此祭神は土地の富豪の水使女であつて、乳吞兒を抱へて奉公してゐた。或年の田植に早乙女に晝飯を持つて田へ往つた留守に、主人が其乳吞兒を殺してしまつたので水使女は氣狂ひの樣に成り、附近の池へ投身して死んだ。爾來、其女の怨靈が祟るので神に祭つたのが此社である。神體は、左手で飯櫃を抱へ、右手に飯匙を持つて水中の岩上に立つてゐる木像だとて、今に其御影を出してゐる。此神社は私の故鄉に程近いので、私も幼少の折に亡姊に連れられて二度程參詣した事が有る。而して此緣起に後人の作為が加はつてゐる事は勿論であるが、兔に角水使女が、(一)田植に晝飯を持參した事、(二)乳吞兒が殺され(此れは必ずしも重要事では無いが、此例も嫁殺し田傳說迄合せると多數有る。)る事、(三)そして自分も死ぬと云ふ此三點は、他の於成(オナリ)傳說と共通な物であつて、然も此三點が於成(オナリ)として穀神の犧牲と成つた事を語る眼目なのである。同じ足利郡御廚町大字福居字中里(私の生地の隣村。)の鎮守は、飯盛飯有神社と云ふ珍らしい奇拔な社名で、古老の語る所に據ると、神體は飯櫃と飯匙とであつたさうだが、現今では大氣津比賣命と入れ代へられて了つた。此祭神等も於成(オナリ)に由緣在る物と思はれるが、社記も傳說も殘つてゐぬので、考覈すべき手掛りさへ無く成つて了つた。阿波國板野郡撫養町大字桑島の於加神社の神體も、水使神社と同じ樣に、右手に飯を高盛りにした御椀を持ち、右手に飯匙を握つてゐるさうだが〔廿八〕、此れ等も詮議したら於成(オナリ)系の神であるかも知れぬ。陸中國上閉伊郡松崎村大字矢崎に灌溉用の大堰が在る。往古、此堰が年年洪水の為に崩壞するので巫女を人身御供として水底に沈めた。堰口は其以來崩壞せぬ樣に成つたが、巫女の祟りを恐れて、ボナリ(母成と書く。)神として祭り、今に每年初春壬辰日に醴酒と煮豆を供へてお祭りをする。殊に田植の水揚げする時は、村民團子を作り神に供へる〔廿九〕。此傳說こそは巫女が於成(オナリ)であつて、農業に深い關係を有し、然も穀神の犧牲と成つた事を克明に語つてゐるのである。下總國印旛郡宗像村大字師戶某の小娘が、同郡船穗村大字船尾の農家に子守奉公してゐると、或年、田植に働く人人に晝飯を運べと言ひ付けられ、子を背負うたまま持參すると、小供と一緒に持つて來るとは不都合だと叱られ、遂に其小娘は子供を負うて金比羅淵に投身して死んだ。然るに小娘の怨靈が大蛇と成つて村に祟るので、村民は鎮守宗像社に併せ祭り、今に七月一二日には新刈(ニヒガリ)とて鎮守社に集り草を刈り庭を清めて、其夜に來る大蛇の為に道を拂つてやる〔三十〕。此話等は、常識から云へば、理窟に合はぬ事のみであるが、然し話の基調が於成(オナリ)に在る事を知れば、朧げながらも吾人の腑に落ちる物が存するのである。美濃國瀨川の左岸に晝飯岩と云ふが在る。大昔、某家の下女が田植してゐる下男達に晝飯を運ぶ為に此處迄來ると、突然、岩が崩れて下女が殺されたので此名が有る〔卅一〕。此話等も、是れだけ聽かされたのでは、何の事やら頭も尾も無い出鱈目話の樣に思はれるが、古い於成(オナリ)の條件を備へてゐる穀神の犧牲を語つてゐるのである。猶ほ此外に磐城國白川郡竹貫駒ヶ城趾に在る母成(ボナリ)石の由來や、丹波國何鹿郡東八田村大字於成の於成(オナル)神社の緣起等、詮索すれば相當に資料も有る事と思ふが、大體を盡したので他は省略する。


七、穀神に對する古代人の態度

 瑞穗國と稱しただけに、我が古代人の穀神に對する態度は、其敬虔さに於いて、然も其真摯さに於いて、實に淚ぐましい程の幾多の習禮が殘されてゐる。畏くも伊勢皇大神宮を始めとして、名だたる名神大社に御田植の神事の存してゐる事は言ふ迄も無いが、更に世に謂ふ叢祠藪神にも此祭儀の儼然として伴つてゐるのは、全く農を國の基とした事に由來するのであるが、此れが民俗は各地の田植に於いて、今に明確に見る事が出來るのである。田植の中心と成る早乙女が、月水中は田に入る事を禁ぜられるのも此信仰であり、更に早乙女が襷や腳袢や手甲等を新調して、穀神を穢さぬ樣に注意するのも、又此信仰に外成らぬのである。飛驒國大野郡白川村では、早乙女は五ツ紋付の衣服を著し、襷を掛けて插秧する〔卅二〕。琉球の石垣島では、田植の朝に數十人の早乙女となる妙齡の女子が盛裝を凝らし、赤紐の衣笠を戴き、下衣には純白、上衣には友禪染を重ね、右肌を脫ぎ肥馬に跨り、「潟原(カタバル)馬」の式を行つてから田植に掛かるさうだ〔卅三〕。
 現時の田植は、實際と云ふ事を主眼とする為に、大昔に有つた樣な複雜した儀式は段段と泯びて了ふが其でも中國邊(安藝、石見、伯耆等。)に行くと、散飯(サンバイ)サン(私が前に述べた散飯神(サバカミ)の轉訛で即ち穀神である。)と稱する神に扮した神官を先頭とし、此れに歌謠ひ、太鼓打、簓(ササラ)摺り等の樂人が附添ひ、定まれる田植歌を謠ひ、早乙女が此れに和しつつ插秧する有樣は〔卅四〕、中中に嚴肅さを偲ばせる物が有る。一代を風靡した田樂舞が、田遊びの其から發達した事は既に定說も有るが、斯うして田植せねば成ら無かつた時代は豐凶と共に一に穀神の手に握られてゐたと信じて疑は無かつたので、於成(オナリ)の人身御供が考へられるのも又た無理からぬ事であつた。


八、於成(オナリ)と嫁殺し田の關係

 我國の各地に殘つてゐる嫁殺し田の傳說は、於成(オナリ)の民俗の一派生として考ふべき物である。反言すれば、於成(オナリ)の民俗の曾て存した事が、此嫁殺し田の傳說に依つて、其の確實性を裏書する物と信ずるのである。陸前國宮城郡岩切村大字小鶴に小鶴ヶ池と云ふが有る。昔、多賀城下の富豪の姑が嫁の小鶴を酷遇し、何町步と有る田植を小鶴一人に一日中に濟ませと命じた。小鶴は幼兒を背負うたまま終日插秧する內、幼兒は餓死し、自分も田植が濟まぬので、姑に責められるのが悲しく池に投じて死んだ。其で此池を斯く呼ぶ樣に成つたのである〔卅五〕。而して此れと類似した傳說が同國栗原郡尾松村大字櫻田にも有ると、近刊の『栗原郡誌』に、安永七年七月の書上の風土記を引用して詳記して有る。下總國印旛郡船穗村大字松崎に千把ヶ池と云ふが有り、其池畔に大きな松が一本在る。此れは昔田植女が、一日千把の苗を植ゑよと命ぜられたが果さずして死んだのを埋め、其墓印に植ゑた松だと稱してゐる〔卅六〕。此話は前に載せた子守の傳說と同じ物が、斯く二つに成つて語り殘されたのであらう。信州更級郡更府村大字三水の泣き池は、惡心の姑が嫁を虐待し、持田を一日に植ゑよと無理を言はれて嫁が死んで池と成り、其泣き聲が聞ゆるので斯く名付けたのである〔卅七〕。駿河國安倍郡安東村大字北安東字柳新田に二反步於の水田が在る。嫁を憎む姑の為に嫁が田植最中に死んだ所で、今に田を耕作すると祟りが有るとて、今に除け地に成つてゐる〔卅八〕。遠州掛川町在の嫁ヶ田も同じ頑愚な姑に插秧の無理を強ひられ、嫁が田で悶死した故地である〔卅九〕。因幡國八頭郡大御門村大字西御門にも嫁殺し田と云ふのが有つて、其傳說は他の其と全く同じである〔四十〕。安藝國賀茂郡志和掘村にお杉畷と云ふが在る。昔お杉と云ふ女性が一人で五反餘步の田植中に死んだので、村民此れを憐み、杉を栽ゑて記念とした〔卌一〕。而して茲に注意すべき事が、是等の嫁と云ふ事は、必ずしも今日の新婦とか、花嫁とか云ふ意味では無くして、古く嫁(ヨメ)とは一般の未婚者を指してゐた點である。嫁(ヨメ)の語が、嫁の意に固定したので、意地惡の姑の事が加へられたのであるが〔卌二〕、此の嫁(ヨメ)は家族的の巫女と見るのが正しいのである。


九、田植に行ふ泥掛けの意義

 穀神の犧牲に於成(オナリ)を供へた當時の遺風と思はせる物に、田植の泥掛けの行事が有る。土佐の高知市地方には現今でも田植祭の泥掛けが猖んに行はれてゐる。當日は、早乙女(何れも處女であつて妻女は加はらぬ。)は、綺羅を飾り、插秧するが、近村から若者達が手傳とて酒肴を攜へて來る。早乙女は、是等の人人を見ると、「お祝ひ」と呼ばりながら泥を打掛ける。若者達は散散泥を掛けられ、歸りには早乙女から著替を借りて戻るが、早乙女は後で其衣類を洗濯し、若者の許に持參すると、饗應される例と成つてゐる。然も此日は、誰でも通行の男子は、泥掛けされても苦情の言へぬ事に成つてゐる〔卌三〕。此土俗は、後世の妻覓(ツママ)ぎの思想が多分に加へられてゐるが、更に此れに較べると、隣國阿波殖麻郡川田村の「のたうち」は一段と古風が存してゐる樣である。同地では、田植の際に通行人を見かけると、「祝ひませうか?」と問ひ掛け、承知をすると、早乙女の多數が田の泥を前垂等に入れて投げ付ける。逃げると追ふ。追ひ詰めては投げ付ける。老人連中は後から箱等に泥を入れて運んでやる。立腹しても誰彼に關らず土地の習慣として受け付けぬ。小學校教員、巡査等の他鄉人は、此手に掛かつて困つた事が有るさうだ〔卌四〕。併し此民俗も、承諾を得る事が、妥協の後世を考へさせるが、壹岐國では穀神を田天神とも云つてゐて、田植の時人が通ると、苗を祭り上げるとて泥を掛ける。此れは通行人を田神にするのか、田神に上げる意か判然せぬが、兔に角に神を自由に作り得る物と考へてゐたらしい〔卌五〕。是等は前二條の其に比較すると、原始的の民俗である事が窺はれる。曾て柳田國男先生が言はれた樣に、「白石噺」の志賀團七の泥掛けも、此方面の民俗を作者が利用して腳色した物であらうと思ふ。
 此の泥掛けの行事は猶ほ種種なる相(すがた)で殘つてゐる。武藏國府中町の大國魂神社の田植神事は、舊五月六日に行はれるが、當日は神領の村長等數十名の早乙女と其事に從ふ。楓の若葉で飾つた傘桙と云ふ物に白鷺の形を造り立て、神田の邊りに持出て、神領の男兒等數人が太鼓を打ち、祝言を唱へ終ると、田の泥土の中で角力を取る事に成つてゐる〔卌六〕。常陸國真壁郡大寶村では田植の終りの日に村內の男女が集つて田中で泥塗ぶれに成る角力を取る。平生怨みを負へる者は、油斷すると悲しき目に遭ふべく、男たりとも徒黨を組める女達に摑まれば、手足を逆しまに釣るされて、泥中に頭を漬けおかるる事も有るべしとの事だ〔卌七〕。而して斯くの如き蠻習が、何故に工夫され、然も其が何故に存續してゐたかと云へば、私は此れに對して、泥掛けの起原は、於成(オナリ)を田中で泥を打ち掛けて殺したのに由來する物と考へてゐる。(以上、『中央史壇』第十一卷第二號所載の拙稿を訂正した。)

 於成(オナリ)傳說の考察が意外に長く成つてしまつたので、此上に農業と巫女の關係を記すと餘りに紙幅を費すので、茲には總てを省略し、不十分の點は、第三篇に於いて、機會が有つたら補足する事とした。猶ほ巫女と人身御供との傳說に就いては、此れも他の機會で記述したいと思つてゐるので、參照を望む次第である。

〔註第一〕私は稻荷の原始神は狐を祭つた物だと考へてゐる。其が秦氏の繁昌に依つて、同氏の祖先神と代る樣に成り、更に秦氏の沒落後に稻荷神──即ち大氣津比賣命と入れ代へられた物と信じたい。其で無ければ、民間信仰に於ける稻荷神と、狐との關係が、判然せぬのである。更に『開化記』には「日子坐王,(中略。)又娶其母弟袁祁都比賣命,生子。」云云と有る。此れより推すと大氣津比賣の名は、玉依姬の其と同じ樣に、或は古代の貴女の通稱の一では無かつたらうか。後考を俟つ。
〔註第二〕白鳥庫吉氏の研究に據ると、諾尊が天照神に賜つた御倉板舉(ミタナクラ)とは即ち稻種であるとの事である。
〔註第三〕伊勢の豐受大神宮は、皇大神宮の供御神として祭られた物であつて、神格の上からは非常なる相違が有り、內宮外宮と押し並んで申上ぐべき物では無い。其が殆んど同格神の樣に國民に考へられる樣に成つたのは、全く外宮神官の昇格運動に由來するのである。此事は、古く尾張の吉見幸和も極力辯じてゐるが、思ひ出すままを記すとした。換言すれば、豐受神は散飯神(サバカミ)であつて、今に各地の田植歌に、散飯(サンバイ)サンと謠はれてゐるのは、散飯(サバ)の轉訛である。猶ほ散飯(サバ)神に就いての詳細は『旅と傳說』の昭和四年十二月號揭載の拙稿「散飯(さんばい)考」を參照されたい。
〔註第四〕アツナヒ(阿豆那比)の罪に就いては異說も有るが、私は岡部東平(嬰嬰筆語卷一。)の考證に從ひ、同性愛だと考へてゐる。
〔註第五〕『名賀郡鄉土資料』。
〔註第六〕此事は前揭の「巫女の起原」の條に述べて置いた。
〔註第七〕於成(オナリ)と晝飯持とは別だとの說も有るが、私は姑らく同一だと云ふ舊說を支持したいと思つてゐる。
〔註第八〕フレザー(Fraser)氏の研究に據ると、穀神を殺す信仰は、殆んど世界的に存してゐるさうである。曾て折口信夫氏が主幹された雜誌『土俗と傳說』創刊號に此事が記載されてゐる。
〔註第九〕米人ホルトム(Holtom)氏は、諾冊二尊は天父地母の思想に由來する物だとの研究を發表された。詳細は『明治聖德記念學會』紀要第十六卷より同二十卷に連載されてゐる。
〔註第十〕折櫃は曲木細工の淺い盥の樣な物で、古く神供はこれへ容れて頭上で運ぶのが常禮と成つてゐたのである。
〔註十一〕『好古叢誌』第七編。
〔註十二〕『諸國年中行事大成』卷一。
〔註十三〕『攝陽落穗集』卷二。
〔註十四〕『日本及日本人』の臨時增刊「鄉土光華號」に據る。
〔註十五〕『新編會津風土記』卷十五。
〔註十六〕『遠野物語』。
〔註十七〕『信濃奇勝錄』卷五。
〔註十八〕『越後溫故栞』。
〔註十九〕『近江蒲生郡誌』卷六。
〔註二十〕『鄉土趣味』第五卷第五號。
〔註廿一〕『敦賀郡誌』。
〔註廿二〕『美作國神社資料』。
〔註廿三〕『增訂肥後國志』卷下。
〔註廿四〕『簸川郡名勝誌』。
〔註廿五〕同神社社掌星野謹吾氏報告。
〔註廿六〕『國文論纂』所收の古謠集に據る。
〔註廿七〕同村役場よりの回答。
〔註廿八〕『阿州奇事雜話』卷三。
〔註廿九〕『東京人類學雜誌』第三十三卷第一號。
〔註三十〕『鄉土研究』第一卷第七號。
〔註卅一〕博文館發行の『文藝俱樂部』第八卷第十二號。
〔註卅二〕『日本週遊記』。
〔註卅三〕『蛭木(ヒルギ)の一葉』。
〔註卅四〕文部省發行の『俚謠集』に見えてゐるし、更に日本青年館で催した第三回鄉土舞踊會で此の實演を見た事が有る。
〔註卅五〕舊仙臺領の地誌である『封內風土記』卷四。
〔註卅六〕高田與清の『相馬日記』に據る。
〔註卅七〕『日本傳說叢書』本の信濃卷。
〔註卅八〕『靜岡縣安倍郡誌』。
〔註卅九〕『煙霞綺談』卷二。
〔註四十〕『因幡志』。
〔註卌一〕『賀茂郡誌』。
〔註卌二〕古く<嫁rt>ヨメ)とは一般の女性を言ふた物で、吉女の轉だと云ふ說さへ有る。詳細は拙著『日本婚姻史』に記述した。
〔註卌三〕『風俗畫報』第七十三號。
〔註卌四〕『鄉土研究』第四卷第十一號。
〔註卌五〕折口信夫氏談。
〔註卌六〕『武藏國總社志』卷下。
〔註卌七〕『日本及日本人』の臨時增刊『自然と人生』に據る。
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