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第一節 我國における蠱術は、巫女よりは修驗道の山伏が、深い關係を有していた。巫女がこれに交涉を持つようになったのは、恐らく山伏と性的共同生活を送るようになってから、これに教えられたものと思われる。此の見地に立てば、憑き物の考察は、巫女よりも山伏が對象となるのであるが、教えられたにせよ、巫女が此の事に多少とも關係を有していたことも事實であるから、今は巫女を中心として、簡單に記述することとした。既に憑き物に就いては、諸先輩の研究が發表されているので〔一〕、詳細はそれに就いて知る便宜があるからである。 而して茲に、憑き物とは、上下兩野のオサキ狐、信濃のクダ狐、三河のオトラ狐、飛驒のゴホウ種、近畿のスイカズラ、四國の犬神、出雲のジン狐(コ)、中國のトウビョウ等を重なるものとして、此外に、猫神、猿神、飯綱、蟇つき、狸つきなどの名で呼ばれ、更に白神筋(シラカミスジ)、ナマダコ、ゲトウ、院內等の「物持筋」となり、一般に社會から嫌厭される家筋まで含めての意である。從ってここに言う憑き物とは、惡靈、死靈、生靈等の人間の靈魂が、人間に憑くという意味よりは、動物の靈が人間に憑くという方に重きを置くことになっているのである。而して是等の憑き物に共通している大體の俗信は、 一、是等の憑き物は、年々のように繁殖して、常に飼っている家でも困卻しているということ。二、その家の子女が、他家へ聟または嫁に往くとき、憑き物がついてその家に入るということ。三、憑き物筋の者は、他人の健康や作物を害さんと思うと、その憑き物が活いて、健康を害し、作物を損じ、更に現金まで持って來るということ。四、この憑き物を持っていると勝負運が強いということ。五、物持筋が憑き物を放そうと思うても、どうしても放れぬということ。この五點である。而して巫女は、隨意に此の憑き物を使役する者として恐れられた。それでは是等の憑き物という俗信は、何によって發生したか、先ずそれから考えて見るとする。猶お此の問題は、第三篇においても記述すべきであるが、多少の變遷ありとするも、同じ問題を二度書くことは氣がさすので、茲には明治期まで押しくるめて記すとした。敢て賢諒を乞う。 一 オサキ狐クダ狐など 狐や蛇がヴントの所謂靈的動物として崇拜されたことは既述した。それと同時に、我國の神の使令(ツカワシメ)(又は眷屬ともいう)と稱する幾多の動物──例えば、稻荷神の狐、熊野神の鳥、日吉神の猿、春日神の鹿、貴船神の百足、三峯神の狼と云うが如きものは、古くはそれが原祀神ではなかったかと云うことも、併せて既記を經た。それ故に是等の動物が、恰もアイヌ民族に見る如く、憑き神(トレンカムイ)から守り神(シラツキカムイ)にすすんで往く過程も考えられるし、更に是等の動物の靈が人間に憑くという、俗信の發生も考えられぬでもないが、此の俗信を強く、然も深く、我國に植え込んだのは、前にあっては、支那の巫蠱の呪術で、後にあっては、佛法の吒吉尼の邪法だと信じている。 而して蠱術に就いては略記したので、今は吒吉尼に關して云うが、此の邪法も古くから行われていたのである。伴信友翁の「驗の杉」に引用された「拾葉抄」に、 東寺ノ夜刄神ノ事云々。中聖天、左吒吉尼、右弁財天也、天長御記云、東寺有守護天、稻荷明神使者也、名大菩提心使者神也。とある天長御記は、淳和帝の御記と思われるので、僧空海の在世中に、早くも吒吉尼信仰の行われた事が知れる。勿論、稻荷信仰に伴う狐の崇拜は、吒吉尼の乘っている動物と類似している所から、兩者の關係を密接ならしめ、その結果として、僧空海と稻荷神と面談したなどと云う俗說まで生れたが、兔に角、兩者の步み寄りが、狐を一段の靈物とし、稻荷神を吒吉尼化したことは、やや明白に看取されるのである〔二〕。「文德實錄」仁壽二年二月の條なる藤原高房の傳に、 天長四年春拜美濃介(中略)。席田郡有妖婦、其靈轉行暗噉心、一種滋蔓民被毒害、古來長吏皆懷恐怖、不敢入其部、高房單騎入部、追捕其類、一時酷罰、由是無復噉心之害云々。とあるのは、「谷響集」に「真言演密抄」を引いて『荼吉尼是夜叉趣攝云々。盜取人心食之』とあるより推して、此の妖巫が吒吉尼の邪法を行うたことは、疑うべからざる事實である。而して此の信仰から導かれて、狐の神格的地位は段々と向上し、一方においては專(トウノ)女御前となり、三狐(ミケツ)神となり、遂には倉稻魂神と誤解されるまでになり、更に一方においては、神狐とか、靈狐とか云われて、俗信を集めるようになったのである。狐を殺した為に、配流された例は多いが〔三〕、「中右記」長元四年八月四日の條に『京洛之中、巫覡祭狐枉定大神宮、如此事、不然之事也』とあるような事態を見るに至ったのである。民間の惑溺また思うべしである。大江匡房の「狐媚記」の如きは此の產物である。 私の鄉里である下野國足利郡地方の村々では、私の少年の頃までは、オサキ狐の話をよく耳にしたものである。大昔に、九尾ノ狐が帝都を追われて、那須野に隱れたのを、板東武士のために狩り挘されて、殺生石となったが、その折に尾が方々へ散って狐となり、これを尾先狐と云うのだと故老から聽かされ、又た誰々の家には、その狐が七十五匹戶棚の隅に飼ってある。每朝、飯匙(シャモジ)で釜の端を叩くのは、狐に餌を遣る合圖だというて、私などが過って此の所作をすると、父母から嚴しく叱かられたことを覺えている。かかることで、オサキ狐に憑かれた家の人ほど氣の毒なものはないが、それでも私の地方などは、他國に比較すると、まだ氣の毒の程度が輕いようである。通婚にも、交際にも、餘り忌み嫌われていぬからである。 これに反して、信州松本平の中央山脈の麓寄りの方から、木曾の谷へかけて、藪原、宮ノ越、福島などの各駅から美濃堺まで、クダ狐の憑いている家が多い。殊に福島駅に近い新開村字大原は、四十戶ばかりの部落であるが、その中に五六戶は『あすこはクダを飼ってる』と昔から言われている家がある。此の評判が立つと、部落からは元より、やや遠い所の者からまでも特別の扱いを受け、『おれの家は腐る方だが、あすこは是れだからな』と、物を掻く手真似をして見せる。腐るとは癩病の血統で、掻くのは狐を意味している。即ち癩病よりもクダ狐を恐れる意味である。從って通婚は此の者同士に限られている。クダ狐持がこうまで嫌われるのは、これに憑かれると、すっかり狐になってしまい『某の死んだのは、おれが締め殺したのだ』或は『某の家の馬の病氣は、おれがしたのだ』また『某の家の南京はおれが挘ったのだ』というような事を口走る。そしてクダ狐は、元は伏見の稻荷社から受けて來たものだと傳えている〔四〕。 出雲のジン狐に關する氣の毒な事實は、夥しき迄に學會へ報告されている〔五〕。それは大正十一年の事であるが、出雲の某村の有力者が、息子に嫁を迎えようとしたが、世話をする者がないので、段々と調べてみると、その家はジン狐持ではないが、主人の妹が嫁した家の遠緣の者に、その疑いのあることが判然し、親族會議の結果は、妹の家と絕交することとなり、それを言い渡すときの光景は、見るも憐れなものであった。老母の顏は淚に曇り、言渡す主人の聲もふるえていた。絕交された妹は、世の成行きと、自分の運命で、代々續いて來た綺麗な家の血筋を濁すことには代えられぬと、觀念の眼を閉じたということである〔六〕。 而して斯うした社會の壓迫と、家庭の悲劇とは、獨り信州や出雲ばかりでなく、狐憑きの俗信の行われているところには、何處にでも存しているのである。元より俗信であり、理由のない事であるから、疾くにも泯びなければならぬのに、今に此の陋習が依然と行われているとは、如何に俗信の力の偉大なるかに驚くのである。 狐持の家筋が、狐に憑かれた事に原因することは言う迄もないが、その狐を憑けたものが、巫覡であることも、勿論である。「榮花物語」卷七鳥邊野長保三年十二月の條に『かかる程に、女院(圓融后東三條院詮子)ものせさせ給て、なやましう思しめしたり、との(藤原道長)御心をまどはして、おぼしめしまどはせ給(中略)、御物のけを四五人かりうつしつつ、おのおの僧どもののしりあへるに、此三條院のすみの神のたたりと云う事さへいできて、そのけしきいみじうあやにくげなり』とある如く、物の怪を四五人にかりうつすとは、即ち憑(ヨ)り祈禱であって、此の憑座(ヨリマシ)の口から、種々なる御託が發せられ、三條院の場合は、すみの神の祟りという事であったが、これが狐が憑(つ)いているとか、蛇が憑(つ)いているとか云えば、それでその人は、狐つき、蛇つきとなってしまい、心理學上の暗示に支配されて、狐の真似したり、蛇の樣子して座敷を這い迴ると云うことになれば、その家は忽ち「持物筋」となり、それが子孫へまで遺傳することになるのであるから、是等の持物筋の發生が、巫覡の憑り祈禱にあることは明白である。これに就いて、本居內遠翁は「賤者考」において、左の如く述べている。 犬神狐役(ツカヒ)などいふは、唐土(モロコシ)の蠱毒の類にて、かの土には金蠶蝦蟇蜈蚣などの毒種と見ゆれど皇國にはきかず、犬神といふ術四國にありときけど(中略)、出雲の狐持といふ家も是と等し、先年領主より命ありて、此種を絕んとて多く刑にも行ひ、追放もせられしかど、猶その余殘あるうへに(中略)。又そのさま怪しげに偶々聞ゆる事などあれば、狐つかひならむと云ひはすめれど、それも又別術なるか、事發覺に及ばざれば又弁知しがたき物なり。おのが是まで聞及べるは、神佛に託して奇に人の上を言ひあてて祈などに金錢を貪り(中略)。昔名高かりし真言僧などの行法に奇特とてありし事、又修驗加持などして、よりましとて生靈死靈を人にうつして憤恨を云はせたり。しりゃうの事、前に云ふ打臥しの巫(中山曰。此の巫女の事は既述した)の類、皆此狐役の術なるべし。今も日蓮宗の僧徒の中に、疾病の祈をなし、よりましを立てて言はする類まま聞ゆ。佛法の行力なくば、その宗の徒はすべてなすべきを、たまさかなるは狐使の別術なる故なり云々(本居全集本)。狐憑きの發生が、憑り祈禱にある事は、これから見るも明かであって、憑座に對して問(ト)い口(クチ)(大昔の審神(サニワ)の役)をする者が、仕向けるままに放言する與多(ヨタ)が〔七〕、遂に厭うべく悲しむべき結果を生むようになったのである。 飯綱信仰は、信州の飯綱山に起り〔八〕、室町期に猖んに行われたものであって、殊に武田信玄と上杉謙信は、これが篤信者であったと傳えられている。併しながら、その行法は吒吉尼を學んだもので、他の巫覡と同じように狐を遣い、飯綱遣いとは狐遣いの別名の如く民間からは考えられていた。飯綱に關する資料も相當に存しているが、今は深く言うことを避けるとする。 二 蛇神託とトウビョウ 蛇が狐にも增して人に憑くものと考えられるのは、あの醜惡なる形態と、これに伴う幾多の說話からも知ることが出來る。今に全國的に行われているものに、蛇は執念深いものゆえ、半殺しにしておくと、人に祟るということである。而して此の蛇が、人に祟りをしたという傳說は、狐に比して更に多くのものが存しているが、これは直接ここに關係がないので省略する。古く蛇が託宣したことが見えている。「明月記」建久七年四月一七日の條に、 刑部卿參入、中世間雜談等、新日吉近日有蛇、男一人隨其蛇、吐種種狂言、稱蛇託宣、又云後白河院後身也云々、此事不便、書奏狀進之云々。とあるのが、それである。然るに、私の寡聞なる、此の種の類例を他に全く知らぬので、比較して考察を試みる事もならず、それに此の記事だけでは、蛇が如何なる方法を以て託宣したのか、解釋に苦しむほどゆえ、ただ鎌倉期の初葉には斯うした俗信もあったと紹介して置くにとどめる。而して此の蛇が民間の憑き物となったトウビョウなるものにあっては、中國を中心として各地方に存していた。柳田國男先生は、これに就いて、左の如き有益なる研究を發表されている。 蛇の神はトウビョウと云うのが、元の名であるらしい。「大和本草」に、中國の小くちなはとて安藝に蛇神あり、又タウベウと云ふ。人家によりて蛇神を使ふ者あり。其家に小蛇多く集りゐて、他人に憑きて災をなすこと四國の犬神、備前兒島の狐の如し云々とある(中略)。石見などでもトウビョウと云うのは蛇持又は蛇附きのことで、此を藝州から入って來たと云っている(日本周遊奇談)。安藝の豐田郡宮原村の海上に當廟島という小さな島があるのは、恐らく此神がまだ公に祀られていた時の由緒地であろう。備中にも川上郡手ノ莊村大字臘數(シワス)に小字トウ病神がある。今日の如く此神に仕えることを恥辱と考えて隱す世の中なら、到底こんな地名は出來ぬ筈である。備中には海岸部落は犬神の勢力範圍であるが、山奧の田舍から出雲へかけてトウビョウ持と云われる家筋が多い。此邊でもトウビョウは蛇だと云うが、その形狀及び生活狀態というものが餘り蛇らしくない。先ず其形は鰹魚節と同じく、長短くして中程が甚だ太い。それを小さな瓶の類に入れ、土中に埋め其上に禿倉(ホクラ)を立て、內々これを祭っている。此神を祈れば金持になるとのことで、其家筋の者は皆富んでいる(中略)。此神の甚だ好む物は酒であるから、折々瓶の蓋を開いて酒を澆いでやらねばならぬ。祟りの烈しい神である(藤田知治氏談)。密閉した酒瓶の中に生息する蛇というものが、動物學上果して存し得るものか、大なる疑問である。四國は昔から犬神の本場であるが、讚岐の西部には之とよく似たトンボ神の俗信があることを、近頃荻田元廣氏の親切に由って知ることが出來た。かの地方ではトンボ神と口で言って文字は土瓶神(ドヘイジン)と書くそうである。之を思い合す時はトウビョウも亦土瓶の音で、即ち蠱という漢字の會意と同じく、本來蟲を盛る器物から出た名目であった。讚岐のトンボ神は、往々にして蠱家の屋敷內に放牧してある事もあるが、又土甕の中に入れ台所の近く、人目に掛らぬ床下などに置き、或は人間と同じ食物を遣るとも、又酒を澆いでやるとも傳えられている(荻田氏報告以下同)。唯蟲の形狀に於ては頗る備中のものと異り、小は竹楊枝位から大は杉箸迄で、身の內は淡黑色、腹部ばかりは薄黃色、頸部に黃色の輪があって、之を金の輪と云う。身を隱すことも敏捷だとある。土瓶神持は緣組に由って新に出來る。相手の知る知らぬを問わず、娵又は聟(?)が來るときには、神も亦分封して附いて來る。連れて來るのか獨りで附いて來るのかは未だ詳ならず。トンボ神持は如何なる場合にも、世評を否認するにも拘らず、金談其他で人と爭でもすれば、兔角その威力を利用したがる風がある。世間の噂では、或者に怨みを抱くとなれば、土瓶神(トンボガミ)に向って斯う言う。お前を年頃養ったのは、こんな時の為めである。何の某に我恨みを報い玉わずば、今後は養い申すまじ云々(中略)。氣の利いたトンボ神は此相談を聞く迄もなく、家主の心の動くままに、直に往って其希望を遂げさせるとのことである。此の蟲が來て憑くと身內の節々が段々に烈しく痛む、醫者に言わせると急性神經痛とでも言いそうな病狀である。之を防ぎ又は退ける方法は、一つには祈禱で、之を役とするヲガムシと云う巫女を依賴する。第二の方法は、至って穢い物を家の周圍などに澆き散らす(中略)。一旦土瓶神持となれば、永劫其約束を絕つことがならぬ。唯偶然に知らぬ人の手によって、根を絕(たや)すことが出來れば、家にも其人にも、何等の祟りが無いと云うことで、窃にそんな折を待っている云々(以上「鄉土研究」第一卷第七號)。瀨戶內海に面した備前、備中、安藝、及び讚岐のトウビョウは、以上の記事によって詳細を知ることが出來たが、それでは日本海に面したものは如何に傳えられているかと云うに、これに就いては、「雪窓夜話抄」卷七に「伯州のタウベウ狐の事」と題して、下の如き記事が載せてある。 或人曰く、伯州には村々にタウベウを持たる者あり。殊に倉吉あたりに多くありと云へり。國の御法度強く其所の人もタウベウを持つといへば嫌ふ故に、他人に深く隱して云ざるなり。是はタウベウキツネと云て、常のキツネとは變りて、別に一種のキツネなり。形はキツネにて常の者よりも、甚だ小さく大さ鼬鼠程あり。是を見たる者は多くあり。其狐に主有て先祖より子孫に傳はりて其家を離れず(中略)。犬神に少も違はず、他の家に往て心の中にほしきと思ふ時には、本人の知らざるに向の人に附て、其物ほしきと口走りて、本人は口外に出さぬ事を他人に披露して其人を恥かしむ。或は瞋恨ある人には、本人は心中にて思ふ計りなるに、其人に付って讐をなす事あり(中略)。先年も倉吉に牛疫はやりて多く死せしに、此れを賴みてマジナイせしむれば即座に治す。是に依て大分の米銀をもうけたり。タウベウ持の方より附たる疫病なること、忽ち露顯して追放せられたり。少も犬神と變る事なし。狐の一名を專女(タウメ)と云と古き書にも記せり、專女と云べきを誤てタウベウと云へるにやと云たる人もあり、さもありぬべき事ならんか。是も犬神と同じく、其人に飼れては末代まで家を離るる事なし云々(以上「因伯叢書」本)。此の記事は、恐らく享保前後に書かれたものと思うが〔九〕、伯耆にあっては、トウビョウは狐であって、然も此の名稱は、狐を專女(トウメ)と云える訛語であろうと說いている。そして伯耆は言うまでもなく、因幡、美作、石見等のトウビョウは、今でも概して狐だと云われているが、事に東伯地方では、七十五匹が一群團であって、世間の噂にトウビョウ持の家に往くと、緣側とか板ノ間とかなどで、間々これの足跡を見受けることがあるそうで、こうした家で拭き掃除を怠らぬのは、即ちその足跡を人目に觸れさせぬ用心だと言われている〔一〇〕。トウビョウが、蛇であろうが、狐であろうが、所詮は巫覡が糊口の為めに言い出した俗信上の動物であって、大昔から誰あって定かに見極めたという者がないのであるから、私は此の詮索には餘り深入りせぬ考えである。 三 犬神と猫神と狸神 四國は昔から狐が居らぬと言われているだけに、狐憑きは無いが、その代りに、犬神と稱する憑き物が跋扈している。犬神の起源に就いては、「土州淵岳志」卷六に、 讚州東ムギといふ所に何某あり、讐を報ずべき仔細あれども時至らず、日夜これを嘆く。或時、手飼の犬を生ながら地に掘埋め首許り出し、平生好む所の肉食を調へて、犬に言って曰く、やよ汝が魂を吾に與へよ、今この肉を食はすべしとて、件の肉を喰はせ刀を拔いて犬の首を討落し、それより犬の魂を彼が胸中に入れ、彼れ仇を為したる人を咬み殺し、年來の素懷を遂げぬ。それより彼が家に傳りて犬神と云ふものになり、婚を為せば其家に傳り、さて土佐國へは境目の者、かの國より婚姻しけるにより、入り來たると云ふ。と載せてある。これに由れば、犬神の本家は讚岐という事になるが、讚州にとっては、此の上もない迷惑千萬のことと言わなければならぬ。全體、こうした憑き物などは、どこが本家で、どこが分家だなどと云われべきものではなく、土地によって、多少の前後と、粗密こそあれ、そう明確に知れる筈がないのである。併しながら、同じ四國でも此の犬神なるものが、阿波國が殊に猖獗を極めていただけは、事實のようである。「阿波志料飯尾氏考」に收めてある緒方氏所藏文書に左の如きものがある。      犬神下知狀阿波國中使犬神輩在之云々。早尋搜之可致罪科之旨。相觸三郡(中山曰。麻殖、美馬、三好の三郡)諸領主堅可被加下知候由也。仍執達如件。  文明四(年)八月十三日  常連(花押)   三好式部少輔殿こうして領主が公文書まで發して、犬神の剿絕に配慮しているところから推すと、阿波の國民は、相當に此の問題で苦しめられて居たことが知れる。勿論、領主が斯かる手段を採ったことは、獨り阿波だけではなく、柳田國男先生によれば、 土佐の犬神は「土佐海續編」に最も詳しく、其形は山中に栖むクシヒキネズミに似て尾に節あり、毛は鼠に似たり、乾して持つ者往々にしてありとある。長宗我部氏の治世に犬神を吟味して、死刑に行い家を絕(たや)したが、其子孫稀に存し、昔は之を賤んで參會言語する者が無かった。其家では口寄などと同じく、狗の首を神に祀っているともあれば、犬神の名稱は使う神の形からでは無いのかも知れぬ。又こんな事も書いてある。犬神は傳教大師に伴い歸り、弦賣僧(ツルメソ)に附屬する神なり、サイトウ、オオサキ、クダとも謂う。土州にて捕えたるはサイトウと云う者なり云々。とあるのを見ると〔一一〕、土佐の犬神の跳梁も、又頗る猛烈であったようである。更に前揭の「土州淵岳志」の續きの記事に、 土州の地に蠱を畜うる者多し、別て幡多郡に多し。「御伽奉公」という草子に土佐幡多郡狗神の事とある之也。能く人を魅す、然も大人正明の人に入ること無し。一度此蠱に逢えば、病形痛風にて骨節犬の咬むが如く、熱盛んにして譫言妄語す。蠱を畜うる家其祖先に、此鬼を祭りて財を利し富を致す者あり、遂に其家に托りて去らざるなり。民間義を知る人は、蠱を惡む事癩脈の如く婚嫁をなさず、婢僕を召抱えるにも之を詮議する事也。蠱家は之を包み隱せども、其鬼を避くるの術無し。愚婦庸夫に付くに針灸祈禱するに、偶々去る事あり。或は筋骨を咬みて遂に殺すことあり(中山曰。茲に其一例を舉げてあるが省略す)。按ずるに讚州予州に猫蠱と云うものあり土州に無し。「北山醫話」に本邦四國之地、不知蠱狐、其氣何自相反也、俗に言う狐魅の人四國に來れば、其魅自ら去ると。猶お此の外に、周防長門兩國の犬神、肥後阿蘇谷のインガメ、琉球のインガマなど書くべきことも相當に殘っているが、大體を盡すにとどめて、今は省略に從うこととした。 猫神に就いては『伊予國宇摩郡では、猫を殺すと取りつくと稱して、決して猫に害を加へぬ。先年、上山の彌八といふ豪農の主人が誤って猫を殺し、遂に發狂して「猫がとりついた」と獨言を云ひつつ乞食になった』と傳えられている〔一二〕。併しながら、是れはまだ個人的の問題であって、巫覡を介しての社會的問題にまでは發展していぬが、更に紀州邊の猫神のことを聞くと、ここでは純然たる巫女の憑き神になっている。而して南方熊楠氏の報告を集めた「南方來書」卷十には、左の如く載せてある。 田邊町と山一つ隔てし岡(中山曰。紀伊國西牟婁郡岩田村の大字)という村落の小學校長の談に、此の岡には今も代々の巫子數家あり(中略)。此の者の言うには、蠱神は三毛猫を縛り置きて、鰹魚節を示しながら食わせず、七日經るうちに猫の慾念はその兩眼に集る。その時その首を刎ね、其頭を箱に入れて事を問うとの事なり。熊楠思うに、かかる事は每度聞くところにて、安南にても犬をかくする事あり、吾國の犬神に同じ。又國により人の胎兒を用うることあり。「輟耕錄」に見えたる小兒を生剥して、事を問う術なども大抵似たことなり。此の岡の巫子は隱亡の妻なりと聞く。猿、犬、猫などは假話にて、實は人間の頭を用うるならずやとも存ず云々(大正元年十二月二十八日附)。此の猫神の作り方は、誰でも知っている大昔に本願寺の毛坊主が、好んで信徒に與えたと傳えられてる「お白藥(シロクスリ)」なるものと、全く同一の製法であって、ただ原料が猫と犬との相違だけである。少しく蛇足の嫌いはあるが、こうした怪事が行われたという往昔の民間信仰を知る旁證として、要點だけを下に摘錄する事とした。「松屋筆記」卷三十九に「拔莠撮要」と題する上州高崎善念寺の僧秀覺筆記の復寫本を引用して曰く、 紀州法然寺圓成上人ハ、十八歲ニシテ出家ス、則一向宗ノ人也(中略)。其母語云我宗ニ御白ト云事アリ、何ヲ以テ作ル事ヲ知ラズ、或云白犬ヲ養ヒ、其犬ヲ全ク地中ニ埋ミ、首ノミヲ出シテ種々ノ珍味ヲツラネ其首ノ前ニ置ク、白犬此ヲ喰ント食物ヲ念ジテ、氣單ニ逼ルニ及ビテ犬ノ首ヲ切テ、是ヲ燒灰トナス、此灰ヲ人ニ與ル時、其人大信ヲ起シテ單ニ身命ヲ顧ズ、財寶ヲナゲウツト云(中略)。兩本願寺東都參向ノ時分、道俗均ク御杯頂戴ト云フ有リ、御杯頂戴ノ事ニアラズ御灰頂戴ノヨシ、各土器一枚ヲ得テ歡喜ス、此灰ハ親鸞聖人ノ遺灰ニシテ、此灰ヲ服スル時此身則親鸞聖人ナリト傳授ス、一說ニ此事ヲ御白ト云ト(中略)。御白ノ事西國中國邊ノ人ハ時々云出ス事アレド、關東ニテハアマリ沙汰セヌ事也、秀覺{上野高崎/善念寺僧}知己ニ深川某寺ノ上人モト一向宗也、兒ノ時御白ノ事ヲ聞知リ、御白ハ白犬ノ灰也ト云テ、母ニ叱ラレシト語キ、此上人モ中國產也云々(以上「國書刊行會」本)。かかる事が果して行われたものか否か、今から思うと腑に落ちぬことであるが、それにしても斯うした惡說を宣傳された本願寺にとっては、此の上もない迷惑のことであったに相違ない。併しその詮議は、姑らく措くとするが、兔に角に、大昔にあっては、斯うして、猫なり、犬なりの首を、一種の呪力あるものとして信じていたことだけは事實である。讚岐の犬神の作り方に就いても、これと全く同じ方法が傳えられている所から見ると〔一三〕、古くは蠱術家が一般に遣ったことと思われるのである。 狸神は寡見の及ぶ限りでは、殆んど阿波一國に限られているようである。由來、阿波には動物に關する不思議の傳說が多く、事に首切り馬の如きは、今に正解を見ぬほどの難問題である。而して同國の狸神に就いて、未見の學友後藤捷一氏の記す所によると、狸が人に憑いたり、又は惡戲をするので、これを神に祀った祠は、枚舉に遑なしというほど夥しく存しているが、就中、德島市寺町妙長寺の「お六さん」というのは、狸合戰(有名な八百八狸の物語である)に關係した女狸で、相場師、漁夫、藝妓などの俗信を集めている。同市佐古町大谷臨江寺の「お松さん」も、同樣に、狸合戰に出た女狸であるが、これは緣結びの神として崇拜されている。同市住吉島町に「おふなたさん」と稱する神社があるが、此の神體は子供を十二匹連れた狸で、子供の無い人が祈願する。そして何處の家でも、狸が憑くと、先ず陰陽師か修驗者を賴んで、祈禱して貰うのが常であるが、これを落すのに、唐辛で燻べ殺したということも耳にしている。併し大抵は、神々の護符を戴かせて、退散させるのである。此の時には必ず、狸が憑いた動機や名前を語り、最後に祠を立てて祀ってくれなどと註文を出すそうである〔一四〕。併しこれに由ると、狸神は、狸その者が無邪氣であるだけに、犬神や蛇神などにくらべると、極めて罪が淺いようである。猶此の外に、備後のゲトウ、伊予のジャグマ、陸中のオクナイサマなど記すべきものもあるが、大體において共通したものと信ずるので、一臠を以て全鼎を推すとして省略する。 四 牛蒡種と吸い葛 「牛蒡種」は、飛驒國の一部に行われている憑き物であるが、これに關しては、曩に私見を發表した事があるので〔一五〕、これを要約して載せるとする。即ち牛蒡種とは、その憑き工合が、恰も牛蒡の種のそれの如く、一度ついたら容易に離れぬと云う意味に解されているが、これは全く護法實(この事は既述した)の轉訛にしか過ぎぬのである。而して此の俗信の行われている地域、及びその狀態に就いては、「鄉土研究」第四卷第八號に左の如く揭げてある。 牛蒡種という家筋は、飛驒の大野、吉城の二郡と、益田郡及び美濃國惠那郡の一部とに散在し、更に信濃の西部にも少しあると云う。此の家筋の男女は、一種不思議の力を有すると云われていて、家筋以外の者に對し、憎いとか嫌だとか思って睨むと、その相手は、立ちどころに發熱し頭痛し、苦悶し悒惱して、精神に異狀を來たし、果は一種の瘋癩病者の如くになり、病床に呻吟するに至る。幸に輕い者は數十日で恢復するが、重い者になるとそれが原因で死ぬこともあるという。そして此の力は家筋同士の間には效驗がなく、また他の者に對して斯くの如き力を用いつつある間も、自分には何等の異狀を起さぬそうである。吉城郡上寶村大字雙六という部落などは全戶この家筋から成立ってるように噂されていて、他村の者は甚だしく之を怖れ憚っている。また美濃國惠那郡坂下村大字袖川という所にも、此の家筋の者が居住し、或はその家から女を妻に貰った男などは、妻に對して如何ともする事が出來ず、一朝、妻の怒りに觸れると、夫は忽ち病人になるという有樣で、此の種の女を妻とした男は、是非なく洗濯もすれば、針仕事もするというような譯で、全く奴隷同樣の境遇に落ちるという話である。但し牛蒡種の威力も、いくら部外の人でも、郡長、警察署長、村長とかいう目上の者に對しては、效果を發揮することが出來ぬ云々(中山曰。此の點は土佐の犬神と同じで、これが俗信であることを證明する上に注意すべき點である)。此の憑き物の正體は極めて簡單であって、既述した護法實(ゴホウダネ)と稱する巫覡の徒が、此の地に土著し、それの子孫が一般の民眾から忌み嫌われたために(此の例は殆んど全國に存している)生じたものにしか過ぎぬのである。從ってこれが、下層の民眾の間にのみ行われ、知識階級に對して少しも呪力が無かったというのも、又この結果に外ならぬのである。 吸い葛の行われている範圍に就いては、寡聞のためよく判然せぬが、「雍州府志」卷二によれば、洛北の貴船神社の末社に、吸葛(スイカズラ)社の在ることが見えているので、古く近畿に此の俗信の行われたことが推察される。更に「嬉遊笑覧」卷八に「屠龍工隨筆」を引用して、 いづことも限らず、すいかづらといふも有となむ、その祀りやう人の知らざる密なる所に穴を掘て、蛇をあまた入置き神に崇めて遣ふ法、大かた犬神にひとし。すいかづら付られたる人は、熱甚だしく心身惱亂するを、病家それと知りぬれば、寶を送り遣せば病癒ると聞けり。と載せてある。之に由れば、蛇神の一種で、トウビョウの地方化とも思われる。猶お此の外に、オトラ狐、ナマダコ、白神筋など云う憑き物も存しているが、別に取り立てて言うほどの特種のものではなく、且つナマダコや、白神筋に就いては、後段でこれに觸れる機會もあろうと考えるので割愛し、最後に是等に對する結論ともいうべきものを附記して、本節を終るとする。 是等の憑き物が、我國の固有のものでなくして、殆んどその悉くが、支那思想の影響であることは、疑うべからざる事實である。されば、此の事に就いては、古くから識者の間には說があり、「榊巷談苑」の著者の如きは、 四國に犬神といふまじものあり、唐國にては犬蠱と云ふ(中略)。又陶瓶をば蛇蠱と云ふ、共に干寶の搜神記に見えたり。と言うている。山岡浚明翁も又その著「類聚名物考」において、全くこれと同じ意見を述べ、然も猫鬼の事にまで論及している。 私は彼之の共通──と云うよりは、更に一步を進めて、我國が支那の巫蠱に學んだことを證示する為に、茲に「搜神記」より、その原據となっている文獻を檢出するとするが、犬神に就ては、同書卷十二に、 鄱陽趙壽有犬蠱、時陳岑詣壽、忽有大黃犬六七、群出吠岑、後余相伯婦、與壽婦食、吐血幾死、乃屑桔梗以飲之而愈、蠱有怪物若鬼、其妖形變化雜類殊種、或為狗豕、或為蟲蛇、其人不自知其形狀、行之於百姓、所中皆死。とあるのがそれである。勿論、支那のものがそのまま我國に行われているとは云えぬが、併しその蠱術の根本が、共通したものであることは、肯定されるのである。次にトウビョウと稱する蛇神に關しては、同書同卷に、 滎陽縣有一家、姓廖、累世為蠱、以此致富、後取新婦、不以此語之、遇家人咸出、唯此婦守舍、忽見屋中有大缸、婦試發之、見有大虵、婦乃作湯灌殺之云々。とあり、彼之全く一致していることが推知される。殊に柳田國男先生の記された所によると、 舊幕時代に、或人が國普請の夫役に當って、讚岐中部の某村に往き、ある家に宿を借りて日々普請場に通っていた。一日家へ歸って見ると家の者は皆留守で、台所の鑵子に湯がぐらぐら煮えている。一杯飲もうと不斗床の下を見ると蓋をした甕がある。茶甕かと思って開けて見れば、例の神(中山曰。トンボ神)がうようよと丸で泥鰌の籠のようであった。乃ち熱湯を一杯ざっぷと掛けて蓋をして置いた(中略)。其家では大喜びで、普請で知らぬ人を宿したお蔭に、永年の厄介物を片付けることが出來たと云っていた云々(以上「鄉土研究」第一卷第七號)。とあるのは、「搜神記」に、何も知らぬ新婦が、熱湯を以て蛇蠱を灌殺したとあるのと、全く同巧異曲の物語と云えるのである。 更に狐蠱にあっては、一段の類似性を有している事が發見される。例えば寬政頃に奧州の事を書いた「黑甜瑣語」第四編に載せた、羽後の秋田で、梓巫女に宿を貸した男が、巫女に酒を強いて醉潰れて、臥た間に、巫女の用いる髑髏と、墓地で拾って來た只の曝頭と入れ換えて置くと、翌朝一旦歸った巫女、面色土の如くなって戾り來り、惡戲も事にこそよれ、早く本物の髑髏を返せと云うので、その理由を語れと云いしに、この髑髏は、千歲の狐、形を人に變ぜんとする修行に、頭に戴いて北斗を拜するとき用いたもので、稀には野外でこれを見つけることがあるも、その徵には必ず枯木で作って杓子のような物が添えてある、これをボッケイと云うとあるのは、時珍の「本草綱目」に『狐至百歲禮北斗、變為男婦』とあるのから派生したもので、私などが子供の折によく見た大雜書には、狐が髑髏を頭に載せて北斗を拜んでいる插繪があったものである。猫神も狸神も、その原據を支那に求めることは決して難事なく、從って是等の蠱術が舉げて支那のを學んだものであることが判然するのである。 由來、我國の巫女の行いし呪術は、その原義においては、北方民族の間に發達したシャマニズムの系統に屬しているものであるが、その發生地であるシャーマンに是等の蠱術の存在せず、且つ我國で工夫されたものと、積極的に說明すべき證左の無い點から見るも、これが支那の影響である事は、多言を要する迄もないと信じている。 〔註一〕我國の憑き物の就いては、前に柳田國男先生が「巫女考」のうちに連載され、後に「民族と歷史」では「憑物研究號」の特別號を出されている。詳細は是等によって知ってもらいたい。〔註二〕稻荷神と、吒吉尼天との習合に關しては、伴信友翁の「驗の杉」に委曲を盡している。三州の豐川稻荷は、その代表的のものであって、古くは稻荷というも、實際は荼吉尼天であったと聞いている。〔註三〕狐を專女と稱し、これを殺したために配流された例は、「古事談」その他に散見しているが、今は煩を避けてわざと載せぬこととした。〔註四〕「鄉土研究」第一卷第七號。〔註五〕「民族と歷史」の「憑物研究號」參照。〔註六〕同上。〔註七〕ヨタと云う言葉は、現時では、出鱈目とか、戲談とかいう意味に用いられているが、その起源は、神託に關係ある言語であるらしい。近江の官幣大社多賀神社を初めて祀った者を與多麿と稱し、紀州の官幣大社日前國縣神宮に與多と稱する神職があり、更に下總の官幣大社香取神宮に近きところを與多浦というなどは、此の考えを裏付けるものと思うている。〔註八〕飯綱信仰に就いては、記述すべき多くの資料を有しているが、餘りに長文になるのを恐れて省略した。そして此の信仰を言い立てた行者は、山伏と殆んど擇むなき呪術を行ったもので、信仰の對象にこそ多少の相違はあれ、實質は兩者ともに同じようなものである。〔註九〕「雪窓夜話」の筆者である上野忠親は、寶暦七年に七十二歲で死んでいる。更に同書卷七に「備前のたふべうの事」と題せる記事が載せてあるが、此の方のトウビョウは蛇だとあるから、古くから此の物の正體が不明であったことが知られる。私は是等の動物(オサキ狐、クダ狐、ジン狐、トウビョウなど)は、所謂、妄想上の動物であると信じているから、正體を見た者がなく、從って正體不明が卻って正當だと考えている。〔註一〇〕前揭の「憑物研究號」。〔註一一〕「鄉土研究」第一卷第七號「犬神蛇神の類」參照。〔註一二〕同じく「憑物研究號」。〔註一三〕「憑物研究號」に讚岐の犬神の話とて、白犬を首だけ出して地中に埋め、飯を見せびらかした後に首を切ると云うのが載せてある。〔註一四〕これも「憑物研究號」に據った。〔註一五〕私が、牛蒡種は護法實なりとの考證を「醫學及び醫政」の誌上へ發表連載したのは、大正九年頃と記憶している。其の折に喜田貞吉氏から、拙稿を見て自分もそう考えていたとの書信に接した。そして喜田氏が「憑物研究號」に牛蒡は護法實なりともいうべき論說を揭載されたのは、大正十一年のことである。喜田氏は有名のお方であるのに反して私は無名の者、學說を剽窃したなどと思われるも折角だから、誤解を避くるため敢て附記する。

第二節 奧州に殘存せる大白オシラ神の考察

陸中國を中心として、陸前と陸奧と羽後の各一部にかけ、イタコと稱する巫女の持っているオシラ神なるものは、我が民俗學會における久しい宿題であって、今に定說を見るに至らぬほどの難問なのである。私の菲才にして寡聞なる、到底この難問を解決することは不可能であるが、ここに所信を記述して、江湖の叱正を仰ぐとする。 一 オシラ神に關する傳說 オシラ神を學會に提出したのは「遠野物語」であると信ずるが、その由來に就いては、概略左の如く記してある。 昔ある處に貧しき百姓あり、妻はなくして美しき娘あり、又一匹の馬を養う。娘此馬を愛して夜になれば廄舍に行きて寢ね、遂に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘に知らせず、馬を桑の木に吊下げて殺したり。其夜娘は馬の居らぬより、父に尋ねて此事を知り、驚き悲て桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父は之を惡みて斧を以て、後より馬の首を切り落せしに、忽ち娘は其首に乘りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。其像三つありき、本にて作りしは山口の大同にあり、之を姊神とす。中にて作りしは山崎の在家權十郎という人の家にあり(中略)。末にて作りし妹神の像は、今付馬牛(ツクモウシ)村にありと云えり云々〔一〕。此のオシラ神由來記とも云うべきものが、支那の「搜神記」の蠶神の傳說の影響を、多分に受け容れていることは言うまでもない〔二〕。而して此の記事に就いては、更に注意すべき三つの點がある。 第一は、此の神を、民家で祭っていたということである。併し、これは初めからの習慣では無くして、巫女の家の後か、又は巫女の手を離れた神を、篤志の者が祭ったと見るべきであろう。現に磐城國石城郡上遠野村附近では、オシラ神のことをシンメイ(神明)樣と稱え、在家では之を祭らず、修驗行者(ワカと稱する巫女)の徒が祈禱の折に持參し來って拜ませるとあるのでも〔三〕、その古い時代のことが想われるのである。 第二は、神體を桑の木で作るということであるが、これも古い時代にあっては、必ずしも此の木に限られたものではなくして、多くは竹で作っていたようである。菅江真澄翁の「月の出羽路」卷廿一に、羽後國仙北郡地方の事として、次の如く出してある。 谷を隔てて生立る桑ノ樹の枝を採り、東の朶(エダ)を雄神、西方を雌神とし、八寸餘りの束(ツカ)の末に人の頭を作り、陰陽二柱の御神に準う。絹綿を以て包み秘め隱し、巫女それを左右の手に取りて、祭文祝詞を唱え祈り加持して祭る。此の記事から推すと〔四〕、桑で作ることも、決して新しいものでは無いが、更に遠き昔においては、竹で間に合せたよううである。恐らく、オシラ神が「搜神記」などの影響で、蠶の神となってから、桑で作るようになったものと考えて差支ないようである。 第三は、馬の首を斬ったという事であるが、これは阿波國に殘っている首斬り馬の傳說と同じもので、何か兩者の間に共通したものがあるのではないかと思われるのである。而して姊崎正治氏は、曾て「中奧の民間信仰」と題せる記事中にて、オシラ神に關し下の如く述べたことがある。 盛岡付近にては、不動の變形を「オシラサン」と稱して崇拜し、其神體は桑樹の四枝を出だせる枝四體にして、常に此四體を離せば罰を受くと信ぜり。此神は婦女小兒の心願を成就せしむとて、彼等は布を以て之が頭を蔽うを以て、之が崇拜の方法となし、多くは小兒の守護神として、時には小兒等之を街上に引迴す事あり。此神靈は又時に桑梢の四岐せる所に宿れるを以て、此の如き桑樹は靈樹として切るべからず、之を切る者は明を失し、其他重病に罹ると。此神に附屬せる古き神札を見れば、明かに阿遮羅尊の名を記し、其二童子の名を附記せり。故に「オシラサン」とは阿遮羅尊(Acala)即不動なるも、「オシラサン」として祀れる者は不動と同一なるを知らざるなり。何れにしても之を威力の神として、特に疾病に關係ある神として祭れるに至りては一なり云々〔五〕。姊崎氏の記事は、明治三十年頃の古いもので、且つ盛岡地方に限られた採訪であるから、これに對して批評がましい事を言うのは差控えねばならぬのであるが、其中の一つだけを云えば、オシラ神と不動尊とが一體であるといわれたのは如何かと考えられるのである。前にも記した如く、東北の巫女は神と結婚する古俗を忠實に守っていて、愈々一人前の巫女となるとき、神附(カミツ)けと稱して十三佛中の一佛と結婚し、これを一代の呪神──即ち守り本尊として(是等に就いては第三篇に詳述する)崇拜するのである。されば姊崎氏が見られた神札に不動及び二童子の名があったというのは、偶々不動尊を守護佛とした巫女の出したものではないかと思われるのである。 二 オシラ神の神體と裝束 此神に關する諸種の報告を參酌すると、オシラ神の神體は陰陽二體を原則とし、古いものほど竹で作り、長(たけ)は八九寸どまり、頭は雞頭(トリガシラ)、姬頭、馬頭などあり、これも古いものほど動物で、新しくなると人間になっている。裝束(方言でセンタクと云う)としては、方一尺ほどの布の中央に穴を開け、それへ頭を通して被せるもので、俗に貫頭衣という形式そのままである。そして此の裝束は、年に一度正月十六日に新調して被せるのであるが、その折にも古いものをそのままとして、上へ上へと幾重にも被せるので、古い神體になると、十枚も二十枚も重ねているのがある。而してこれを祭るときには、顏面へ白粉を塗り、巫女が神體を左右の手に持ち、祭文を唱えながら、踊らせるように動かすのである。此の裝束の被せ方は、他地方における雛人形のそれと全く同じもので、オシラ神が人形であったことを自ら證據立てる一つである。更に祭りの日に、顏へ白粉を塗ることも、我國には種々形式で殘っている民俗であって〔六〕、これも別段にオシラ神に限ったものでは無いのである。 三 オシラの語源と其の分布 古き相を傳えたオシラ神(人類學雜誌所載)此の神を何故にオシラと言うかに就いては、相當學會に異說もあるが、ここにその大略を摘記すれば、第一說は、前揭の折口信夫氏の云われたように、元はオヒラと稱して、ヒナ(雛)を意味していたのが、斯く轉訛したのであると云うのである。第二說は、加賀の白山神社(シラヤマジンジャ)に仕えた巫女が、古く此の神體を呪術に用いたのが、東北の巫女に傳り、その名を負うてオシラ神となったのであろうと云うのである。第三說は、此の神は元々アイヌ民族の持っていたもので、同民族では守り本尊とも云うべき神のことを、シラツキカムイと稱しているので、その轉訛であろうというのである。第四說は、此の神は蠶の神であって、蠶のオシラ(白彊蠶)を舍利と稱して尊敬した俗信があったので、それに由來するのだろうというのである。第五說は、オシラ神はお知らせ神の轉訛であるというのである。第六說は、ネフスキー氏の主張するシベリヤからの輸入說(この事は後段に述べる)などが存している。 私はオシラ神の語源に對する態度を明かにする以前に、更に此の神が我國の如何なる地方に分布しているかに就いて述べるとする。此の神が、東北一帶──殊に陸前、陸中、陸奧、羽後にかけて分布していることは、既に述べた如くであるが、此の反對に、他地方には、全く見ることの出來ぬ神のように解されていた。換言すれば、オシラ神は、東北地方の特殊神であって、此の以外には、存在せぬものである如く見られていたのである。 併し、私の寡聞を以てするも、此の解釋は全く誤りであって、かなり廣く分布していたことが知られるのである。最近の報告によると、武藏國西多摩郡の各村落にては、此の神(但し神體は異っていて、此の地方のは佛像である)を祭り、今にオシラ講というのが各村に在ることが證明された〔七〕。柳田國男先生の記事によって知った、越後長岡邊では昔は蠶の事を四郎神と云い、正月、二月、六月の午の日に、小豆飯を以てこれを祭ったのや〔八〕、上野郡勢多郡宮田村などでも、正月十四日の夜をオシラマチと呼び、神酒と麺類とで蠶影山の神を祭ったとあるのも〔九〕、共にオシラ神の分布されたものと見ることが出來るようである。 更に「延喜式」の神名帳に載っている武藏國播野郡の白髮(シラカミ)神社も、後には祭神清寧天皇と傳えられたが〔一〇〕、これなども清寧帝が偶々白髮であったという故事から、白髮に附會したさかしらで、古くはシラカミと訓んだものと解する方が穩當であって、然もオシラカミに關係があったのかも知れぬ。美作國苫田郡高野村大字押入に白神神社というがあり、社記を刻した長文の石碑が建ててあるが、それに由ると、即ちシラカミと訓むことが明白である〔一一〕。出雲國大原郡佐世村大字下佐世に白神明神があり、俚俗に祭神は素尊と稻田姬との二柱で、素尊の髮が白いので、斯く稱すのだというている〔一二〕。猶お同村には白神八幡という神社もある。此の俚傳も、前の清寧帝のそれの如く、シラカミに後世から附會したものであることは言うまでもない。紀伊國有田郡田栖川村に白神磯という地名がある。これは「萬葉集」に『由良の崎汐干にけらし白神の、礒の浦みを敢て漕ぎなむ』とあるのがそれである〔一三〕。安藝の廣島市の國泰寺の付近にも白神神社というがある。以前は竹竿に白紙を挾んで、海中瀨のある所に立てたものを神に祭った〔一四〕。此の二つは共にオシラ神であることは言うまでもないが、海邊に祭られた理由に就いては、私には判然せぬ。而して是に關して、想い起されることは、下總銚子町の齒櫛神社の由來である。「利根川圖誌」などによると、齒櫛の二字から構想して、長者の娘が失戀して入水し、齒と櫛が漂著したので、神と祀ったのであるなどと、とんでもない怪談を傳えているが、これは古くシラカミに白紙の文字を當てたのを、更にハクシと訓み過って、齒櫛の傳說となったことが知られるのであって、何か海邊に此の神が由緣を有していたこと、前記の紀州や安藝のそれや、及び渡島の白神岬などと共に考うべき點である。阿波國美馬郡口山村宮內の白人神社や〔一五〕、「筑後國神名帳」に載せた上妻郡の白神神社も、これまたシラ神であって、阿波のは白神を白人と訓み習わしたのを、後にかかる文字を當てたものと見るべきである。 以上は手許にあるカードから抽出したのに過ぎぬのであるが、克明に全國に涉って詮索したら、まだ幾つかのシラ神を發見することが出來ようと思う。而して此の貧弱なる類例から推すも、古く此の神が殆んど全國的に分布されていて、決して東北地方に限られた特殊神で無いことが釋然したと信ずるのである。從って此の立場から言えば、オシラ神の語源に、第一說のヒナ(雛)の轉訛と見るのが、尤も妥當であると考えるのである。そして此の神を東北に持ち運んだのは、熊野比丘尼の徒であると思うのである。 四 オシラ神のアイヌ說 此の神はアイヌ民族の持っていたものであるという說も、かなり古くから傳えられている。例えば「蝦夷風俗彙纂」に引用した「松前記」の一節に『蝦夷にはオホシラ神といふ物あり、何の神という其由來を知る者なし、桑の木の尺余なるに、おぼろげに全體を彫る、男女の二神なり(中略)。其神、巫女に懸りて吉凶をいふ(中略)。中國にある所の犬神といふものにひとしきか』と載せ、更に明治になってから出版された「あいぬ風俗略志」にも、これと同じような記事が見えている。併しながら、是れは柳田國男先生が言われたように『信仰は普通に單なる二種族の接觸のみに由って、一が他を感化し得るものとは想像し難く、殊に敗退者たる本土アイヌとして、其神を故地に留めて今日の盛況の原因をなしたということは、決して推斷し易い事柄では無いと思う』とある如く〔一六〕、此の神をアイヌの遺物とすることは無理だと考える。殊にアイヌ民族の研究者として當代の權威である金田一京助氏にお尋ねしても、オシラ神を持っていた傳說も聽かず、又これを崇拜している痕跡も見えず、殊に「松前記」にかかる記事は載っていぬとて、近刊の「民俗學」第一號で發表されているから、これは內地の神と見るのが穩當である。 五 オシラ神は呪神で無い 斯う考えて來ると、オシラ神は、その始めは巫女が行う所の呪力を授ける神ではなくして、恰も傀儡女(クグツメ)の持てる木偶、遊女の信仰した百太夫の形代(カタシロ)の如きものであったと見るべきである。殊に現在でも、此の神を持っている巫女(イタコ)が呪術を行う時とは、昔の守袋に似た圓筒形の筒と、イラタカの珠數とを大切に取扱い、オシラ神はただ舞わせるだけだと云う事からも、その間の事情を察知し得るのである。折口信夫氏は、既記の如く、オシラ神は熊野明神の使令(ツカワシメ)だと云われているが、私の信ずる所では、我國の用例として、動物以外に使令(ツカワシメ)の意義を有たせたもののある事を發見せぬので、これを直ちに使令と見る說に賛成しかねるのである。折口氏は、抽象的の假定で推論する天才であるが、動物以外の使令の類例を示してくれぬ以上は、氏の說は困難だと信ずるのである。猶おオシラ神の舞わせ方、その折に唱える祭文の如きは、第三篇に述べる考えであるから、これとそれと參照されん事を希望する。 〔註一〕「遠野物語」は、柳田國男先生が、遠野町に近き陸中國上閉伊郡土淵村大字山口生れの佐々木吉善(當時は繁と云った)の話を記されたもので、我國の民俗學上には意義の深い著述である。〔註二〕「搜神記」の記事は餘りに有名で、誰でも知っていることゆえ、わざと省略した。〔註三〕「鄉土研究」第三卷第二號。〔註四〕同上第一卷第五號〔註五〕姊崎氏の記事は「哲學雜誌」に載ったものだというが、今は八濱督郎氏編纂の「比較宗教迷信の日本」に據った。〔註六〕神や佛を祭るときに、その像へ、白粉や、獸魚の鮮血や、更にベニガラ、泥などを塗る民俗は各地にある。殊に、面白いのになると、小豆飯の汁だの、饀などを、塗りつけるものさえある。〔註七〕八王子市出身の學友村上清文氏の談。因に、同地方のオシラサマの佛像は「民俗藝術」の人形芝居號に、寫真版になって插入してある。〔註八〕「鄉土研究」第一號第五號所引の「北越月令」。〔註九〕同上所引の「宮田村沿革史」。〔註一〇〕「神名帳考證」に據る。〔註一一〕「東作誌」。〔註一二〕「雲陽誌」卷下。〔註一三〕「有田郡誌」。〔註一四〕「藝備國郡志」。〔註一五〕「美馬郡鄉土誌」。〔註一六〕「民俗藝術」第二卷第四號。
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