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第四章 巫女の漂泊生活と其足跡

第一節 熊野信仰の隆替と巫道への影響

 紀州の熊野神社は、古代に出雲の熊野から移住した民族が遷宮奉祀した物であるが、平安期に至り、朝野を通じて、熾烈なる信仰を集める樣に成つた。宇多帝より龜山帝に臻る九帝の行幸は、實に九十八回の多きに達し、皇后王妃の行啟も亦(マタ)決して少く無かつた。就中、鳥羽帝は二十一回、後白河帝は三十四回、後鳥羽帝は二十八回迄、共に御一代の內に幸詣されてゐる。上の好む所下此れより甚だしきのは無しの譬に漏れず、皇室の尊崇が既に斯くの如くであるから、權門勢家より農民商估に至る迄、總ての階級を通じて、殆んど神詣でと云へば、熊野詣りが信仰の中心と成つてゐた。俚諺に蟻群の集り走るを今に「熊野參り」と云ふのは、當時、四方より雲集する熊野道者を形容した事から出た物で、更に後世の子守歌に熊野道中の悲劇を題材とした物が多いのは、又た當時の傳承である事が知られるのである〔一〕。
 私は此處に熊野信仰の由來や發達を記す事は、多岐に涉るので省筆するが〔二〕、既に平安朝には本地垂跡の說が大成され、神佛一如の思想も普及され、殊に熊野の地は伊弉冊尊が、有馬の花窟に葬られたと云ふ傳說から導かれて古代から同地は死に由緣の深い場所とせられてゐた。中古、本宮を現世の極樂淨土と觀じた樣子は『源平盛衰記』等にも載せ、現今でも、妙法山を近郡の死人の靈が、枕飯の出來る間に必ず一度は詣るべき所とする等、佛法渡來以前から死靈に大關係有る地として、一般に信仰されてゐたのである〔三〕。加之、觀音信仰の隆盛に成つた平安朝の中頃から、熊野浦は補陀洛渡海(生身の觀音を拜むとて舟に乘り、浪の隨に自ら水葬する方法である。)の解纜地として俗信を博してゐた〔四〕。
 斯うした事象だけでも、熊野神は、民間信仰を集めるのに、總ての要素を具へてゐた上に、更に有力なる一事象を加へてゐたのである。其は他事でも無く、熊野神への參詣は、伊勢の內宮・外宮と同じである──否否、熊野の祭神は、伊勢皇大神の親神であるから、此れへ參詣する事は、伊勢へ參詣するよりも、御利益が多いと世間が考へてゐた事である。勿論、世間が斯う考へるに至つた理由は、伊勢神宮は國家の宗廟として、皇室の祖神として、古くから「私幣禁斷」の制が嚴かに施かれ、貴姓臣僚と云へども濫りに奉幣する事は許されず〔五〕、況んや農商漁樵輩に至つては、神官に近付く事すら警められてゐたのである。殊に斯うした關係から、伊勢神宮の分祠は絕對に禁ぜられ、神宮に由緒有る各地の御厨でさへ、漸く神明宮の名で祭る事を、黙許されてゐたと云ふ有樣であつた。斯くて伊勢神宮に對する民間信仰は、熊野神に移る樣に成り、後には熊野明神と稱して崇拜される事と成つた。
 熊野の祭神は既記の如く、諾尊の唾液の神格化である速玉之男・事解之男の兩神であつて、之に冊尊を加へて所謂熊野三所權現と稱した〔六〕。更に此外に九柱の神を加へて、熊野十二所權現とも云つてゐた。而して熊野の主神である速玉・事解の二柱は、前にも述べた樣に、「占ひの神」であるから、古くから巫女に親しみ有る物として、彼等の特殊の崇敬を受けてゐた事が推察される。殊に冊尊が併せ祭られる樣に成つてからは〔七〕、前に言うた如く、死靈に關係深き神として、一段と巫女に信仰される密度を加へたのである。然れば、物の本には見えてゐぬが、熊野に巫女の居つた事は、殆んど古代からであると云ふも大過無き物と考へられる。其が平安期に於いて、熊野信仰が全國的に成り、本宮、新宮、那智の三山が繁昌する樣に成つてからは、熊野は巫女の本山の如き有樣を呈するに至つた。『古事談』第三に、

 法性寺入道殿(藤原忠通)發心地、少將阿闍梨房覺奉祈落之貶。【○原註略。】僧伽の句云:「南無熊野三所權現五體王子。云云。」後日、件事申出之人有りければ、被仰云:「如然之僧伽の句は、近來の御子(ミコ)驗者とて劣る事也。」

 と有るのを見ると〔八〕、當時、熊野に巫女が居り、然も其が佛教と融合してゐた事が知られるのである。稍(ヤヤ)後世の記事ではあるが、『宴曲抄』卷上の熊野參詣の一節に、「印南、斑鳩、切目の山、惠みも繁(シゲ)き梛の葉、王子王子の馴子舞〔九〕、巫女(キネ)が鼓も打鳴し、賴みをかくる木綿繦(ユフタスキ)。」と有るのでも、當時の隆盛が想像される。
 然るに、鎌倉期に入るに及び、さしもに旺盛を極めた熊野信仰も漸く衰へ始め、蟻の如く集つた道者も、次第に影を潛めるに至り、更に同期の末葉に入ると、全く寂寥を感ずる樣に成つて了つた。天野信景翁は此理由を討ねて、「元弘、建武之後,帝(後醍醐)遷南山,道路不通。此後熊野參詣絕跡。」と論じてゐる〔十〕。斯く熊野信仰が衰滅したと成ると、此處に當然湧起した問題は、如何にして三山の祠堂を經營し、併せて社僧神人等の生活を維持すべきかと云ふ事であつた。然るに是より先に、同じ紀州の高野山に屬する非事吏(ヒジリ)と稱する徒が〔十一〕、前述の如く護摩灰なる者を頒布して諸國を勸進した故智を學び、三山の巫女達は、或は口寄せの呪術を以て、或は地獄極樂の繪解き比丘尼として、更に牛王及び醋貝を配つて金錢を獲る為に、己がじし日本國中に向つて漂泊の旅に出た。其は恰も後世の伊勢の御師の如く、現今の越後の毒消し賣りの如く、田舍度會(ワタラ)ひに、日を重ね月を送つたのである。而して是等の巫女又は比丘尼が女性の弱さから淪落の淵に墮ちて賣色比丘尼と化したのであるが、然も其收入は極めて多かつた物と見え、『倭訓栞』に、

 熊野比丘尼と云ふは、紀州那智に住で山伏を夫とし、諸國を修業為しが、何時しか歌曲を業とし、拍枕(ビンザサラ)を為して謠ふ事を歌比丘尼と云ひ、遊女と伍を為すの徒多く出來れるを統(ス)べて、其歲供を受けて一山富めり、此淫を賣るの比丘尼は一種にして、縣神子と等(ヒトシ)きもおかし。

 と有る如く、熊野は尼形賣女の大本山として、是等多數(廣文庫所引の『青栗園隨筆』には數千人と有る。)の比丘尼を統括して收入を計り、為めに一山富む程の繁昌を致したのであるが〔十二〕、然も此色比丘尼なる者は、江戶期の中葉迄、猖んに情海に出沒した物である。
 斯く多數の熊野の巫女が、全國の津津浦浦迄足跡を殘す樣に成れば、(此考察は次節に述べる。)兔に角に曾て存した熊野信仰の餘勢を背景とし、其が一般の巫女の呪術、及び風俗等に影響せずして終るべき筈が無いのである。果して近古に於ける巫女と其呪術とは、此れが為めに大なる衝動を受け、教育され、感化される所が多かつた樣である。唯私の寡聞なると、近古以降の巫道が極端に墮落して、何も彼も混淆雜糅したので、其中から、熊野系統の呪法なり、呪具なりを識別する事が、至難に成つて了た事である。然るに、此れに就いて、折口信夫氏は、奧州の巫女が持つ大白(オシラ)神を中心として、此神は熊野巫女の持ち運んだのであるとて、大要左の如き考證を發表されてゐる。

おひら樣と熊野神明の巫女

 人形を神靈として運ぶ箱の話では、更にもう一つの物について述べて置きたい。(中略。)其は奧州の大白(オシラ)神である。金田一京助先生の論文で拜見すると、大白(オシラ)はおひらと言ふのが正しい。大白(オシラ)と言ふのは、方言を其まま寫したのと說かれて有る。此所謂おひら樣は、何時奧州へ行つた物か、此は恐らく誰にも斷言の出來る事では無いと思ふが、少くとも、此だけの事は言へさうだ。元來、東國に斯う言ふ形式の物が有つたか、其とも古い時代に上方地方から舊信仰が止まつたか、或は其二つが融合した物か、結局此だけに落つく樣である。
 私は、其考のどれにでも多少の返答を持つてゐる。先、誰にでも這入り易いと思ふ事から言うて見ると、おひら樣と言ふ物は、熊野神明の巫女が持つて步いた一種の神體であつたらうと思ふ。熊野神明と言ふのは、伊勢皇大神宮で無い、紀州に於ける一種の日神である。即、宣傳者が、神明以外に他の眷屬を持つて步ゐた。(中略。)おひら樣なる物も、熊野神明其ものでは無く、神明の一つの眷屬で、神明信仰を宣傳して步く巫女に直接關係を持つた精靈──神明側から言うて──であつたと思はれる。神明の外に、神明の使令(ツカハシメ)とも言うべき物があつた、其がおひら神であつたのだ。(中略。)ニコライ・ネフスキー(Nikolai Aleksandrovich Nevskii)氏が磐城平で採集して來られたおひら樣の祭文と稱する物を見ると、此は或時代に、上方地方で稍(ヤヤ)完全な形に成立した簡單な戲曲が、人形の遊びの條件として行はれてゐた事が察せられる。即、おひら樣の前世の物語で、本地物語とも言ふべき物が隨伴して居つた譯である。云云。(『民俗藝術』第二卷第四號並に『古代研究』民俗學篇第二。)

 私は折口氏とは多少所見を異にする者であつて、大白(オシラ)神は神明の形代と考へてゐるので、從つて此れに反する神明の眷屬とか、又は使令(ツカハシメ)とか言ふ事には左袒せぬが、(猶ほ大白(オシラ)神に就いては後に述べる。)其他に於いては、大體同氏の說を認めて差支あるまいと信じてゐる。前揭の『源平盛衰記』に、熊野で巫女を板(イタ)と稱したと有るのは、奧州で今に巫女を巫女(イタコ)と言うてゐるのと、或は關係が有るかも知れず、更に東北地で同じ巫女を若(ワカ)と云ふのは、熊野九十九王子の若宮信仰と交涉を有し、又巫女の一名を傀儡子(クグツ)と呼んでゐるのも、木偶舞しの傀儡(クグツ)から出た物で、其が熊野比丘尼から學んだ物であるかも知れぬ。奧羽六郡の太守であつた藤原秀衡が夫人を攜へて熊野へ參詣し、其歸る際に夫人が分娩したので、子持櫻の故事を殘したとか、誰でも日高川の物語で知つてゐる清姬の情人安珍も、又奧州の若き修驗者である。奧州と熊野との交通は案外頻繁なる物が有つた。
 而して殊に注意し無ければ成らぬ點は、古く關東から奧州へ掛けて、熊野神の社領が、多く存してゐた事である。此れに就いては、故八代國治氏から詳しい話を聽いた事も有るが、東京に近い箱根も王子も、共に熊野の社領が有つたので、此處に三所權現を勸請したのである。斯うした例證は、奧州に於いても、隨所に發見せらるる事なのである。斯く熊野社領の多かつた事は、元より熾烈を極めた熊野信仰に負う所の有るのは言ふ迄も無いが、更に一段と思ひを潛めて、斯く迄關東や奧州へ熊野信仰を宣傳し移植した者は、是等多くの巫女──即ち熊野神明を持ち步いた彼等の活動に依る事を考へ無ければ成らぬ。古き俚謠に、「熊野道者の手に持つたも梛葉、笠に插したも梛葉。」と有るのは、此木が熊野神の神木であつて、傳說に據れば、冊尊の神靈を出雲から紀伊へ遷す時に梛木に憑け、其を奉持したのに由來すると云ふが〔十三〕、此俚謠が殆ど全國の人口に膾炙されたのも、熊野信仰を普及させた彼等の宣傳の力である。後世に伊豆の走湯權現を熊野に比し、「今度(コンド)來る時持て來て賴(タモ)れ、伊豆の御山の梛葉。」と歌はせる迄に至つたのである。當代に於ける熊野巫女の活動は、實に驚くべき物が有つたのである。

〔註第一〕『南方隨筆』の紀州俗傳に見えてゐる。
〔註第二〕熊野神社研究に就いては、宮地直一氏著の『神社の研究』に收めて有る物が、詳細であり、正確であり、且つ尤も權威有る物である。敢て參照を望む。
〔註第三〕前揭の『南方隨筆』の「牛王の名義と烏の俗信」に載せて有る。
〔註第四〕補陀洛渡海に就いては、『台記』、『吾妻鏡』、『中外經緯傳』等に見えてゐるが、纏つた物では、未見の學友なる橋川正氏の『日本佛教文化史』に收めて有る。此れも一讀を薦む。
〔註第五〕『延喜式』伊勢太神宮條に、「凡王臣以下,不得輙供太神宮幣帛。其三后、皇太子,若有應供者,臨時奏聞。」と。斯くて私幣禁斷の制は永く續いてゐたのである。
〔註第六〕熊野三神に就いては、速玉、事解の二神の外に、菊理媛神を加へる說が『類聚名物考』に『玉籤拾遺』を引用して載せて有る。而して此說は、古代の熊野巫女の出自と、由來とを考覈する上に、多くの暗示を與へてゐるのであるが、其を言出すと長文に成るので省略し、今は通說に從ふ事とした。
〔註第七〕熊野三神の內に冊尊を配した年代に就き、林道春の『本朝神社考』中の三に『古今皇代圖』と云ふ書物を引用して、崇神朝の六十五年に在る樣に記して有るが、元より信用すべき限りで無い。本當は判然せぬと云ふのが穩當である。
〔註第八〕『古事談』は『史籍集覧』本に據つた。
〔註第九〕此處に『馴子舞』とは、巫女が賣笑した事を意味してゐるのである。
〔註第十〕『鹽尻』卷四十六(帝國書院の百卷本。)
〔註十一〕高野山には學侶、行人、非事吏の三者が居て、各各其勢力を爭つた物である。詳細は『紀伊續風土記』の高野山部に載せて有るが、非事吏の社會的地位とか、其仕事とかに關した物では、柳田國男先生の『鄉土研究』第二卷第六號所載の「聖と云ふ部落」が卓見に富んでゐる。
〔註十二〕『熊野鄉土讀本』に據ると、江戶期に紀州德川家の財政を救濟する為の一策として、熊野宮の祠官に資金を與へ、其を他の大名旗本農商へ高利で貸付け、幕末には利殖の額十餘萬兩に達し、明治維新の際に、紀州藩が江戶を無事に引拂へたのは、此金が有つた為だと載せて有る。紀州の高野金は、他の座頭金、エタ金と共に、江戶期庶民の金融機關の一つであつたが、熊野社人が別に斯うした事を遣つたとは、餘り世に知られてゐぬので、敢て附記した。
〔註十三〕鈴木重胤翁の『日本書紀傳』卷十二に見へてゐる。此神木の奉持者を玉木氏と云ひ、更に分れて鈴木氏、穂積氏と成つたと云ふ事である。



第二節 笈傳說に隱れた巫女の漂泊と土著

 我國には古くから、笈に納めて背負うて來た神體、又は佛像が遽に重量を加へ、人力を以て動かす事が出來ぬままに、遂に其土地に祀つたと云ふ傳說が、各地に亘り、殆んど更僕にも堪えぬ程夥しく殘つてゐる。然も此事たるや、明治中葉迄は、其信仰が儼として生きてゐたのである。下總國匝瑳郡野田村大字野手には、法華宗六老僧の一なる日朗の出生地とて、朗生寺と云ふ巨刹が有る。明治十五年中に、備中國後月郡高屋町の矢吹伊三郎なる者惡疾を病み、迴國の為、佐渡身延等を經て房州に往かんとて、同寺に參詣せしに、背にせる笈急に重く成りて動かず、奈何ともする事が出來ぬので、止むを得ず、此地に足を留め、朗尊の靈に奉仕せんと決心し、日夜心身を盡して佛を念じ、病者の為に祈禱を續けたと有る〔一〕。此話等も故日下部四郎太氏に聽かせたら、直ちに得意の力學を以て縱橫に論じて、「信仰に非ず、詐謀也。」とでも言うたかも知れぬが〔二〕、兔に角に斯うした信仰が、大昔から民間に存してゐて、神も咎めず、佛も怒らず、又た人も怪しま無かつた事だけは事實である。私は此處に神體や佛像が動かぬままに、此れを奉持した者が、笈と共に其地に土著し、又は奉祀したと云ふ類例を舉げ、此笈傳說に隱れた巫女漂泊の故鄉遠き旅の姿と、荒蕪の地を開拓して部落を作つた經過を記述して見たいと思ふ。
 唯前以て一言お斷りして置かねば成らぬ事は、時勢の降るに連れて、巫女と修驗者とが餘りに接近し、餘りに親密と成つた為に、記錄の上に於いても、兩者が全く雜糅されてゐて、巫女の事を修驗者として誤り傳へたと思ふ物や、此れに反して修驗者の事を巫女として民俗に殘したと思ふ物が有り、更に其持物等にあつても、笈は修驗者の背に負ふ物、巫女は外法箱を肩に(中古の繪卷物等見ると笈を背負うた女子も多く存してゐた。)する物と、記錄の書かれた後世の事相から見て、古へも斯うであつたと推定した物さへ有り、かなり混雜してゐて今からは其を明確に判別する事は出來ぬのである。殊に其頃は、民間信仰の上からは、神と佛との境界線が殆んど撤せられてゐた所へ、修驗は神佛道の三つを一つ物としてゐたし、巫女も此影響を受けて、神も佛も無差別と云ふ有樣なのであるから、神とあるも佛の事やら、佛とあるも神の事やら、此れも極端に混淆してゐて、到底其一一を截然と識別する事が出來ぬのである。其で止む無く、玉石同架と云はうか、巫覡一體と云はうか、兔に角に、私が巫女に關係有る物と考へた物を、雜然として列舉した點である。現在の私の學問の程度では、此れ以上は企て及ばぬ事故、取捨は讀者にお任せするとして、豫め賢諒を乞ふ次第である。
 神體又は佛像が重く成つた為に、其場所に奉祀したと云ふ傳說は、餘りに夥しく存してゐるので、此處に其總てを盡す事は思ひも寄らぬので、稍(ヤヤ)代表的の物だけを、奧羽、關東、中國、四國、九州に掛けて抽出する。一は同じ樣な事の陳列を控へるのは、讀者を倦怠から救ふ事であるし、二はさらぬだに物識りぶると思はれるのを避ける為であり、三は例證は數の多きよりも質の良いのが尊いと考へたからである。
 羽後國河邊郡豐崎村大字戶嶋の戶嶋神社(祭神素尊。)は、昔京都鞍馬山の林正坊なる者不動尊を笈に入れ、諸國遍歷の途次此地に休息すると、俄に笈が重く成つて動かず、遂に此地に留まつて祠を建てて祀つたが、明治に成つてから神社と改めた〔三〕。岩代國耶摩郡月輪村大字中小松の鄉社菅原神社は、俚傳に神良種と云ふ者が、此像(高さ五寸七分の鑄物。)を京都に得て、迴國の折に、此地へ來た所、急に重く成つて動かぬので、鎮座した物である〔四〕。常陸國多賀郡松岡村大字赤濱の妙法寺の境內に、僧日辨(日蓮の俗弟と云ふ。)の墓が有る。法難の為、弟子達が日辨の棺を負ひ此處迄來ると、急に重く成つたので、止む無く此處に祭り寺を建てた〔五〕。千葉市の千葉神社は、古く妙見社と稱してゐたが、領主千葉成胤の弟胤忠が家督を奪はんとして、神像を負ひ、往く事數百步にして、遽かに重く成つて棄てたので、此處に社を建てて祀つた〔六〕。武藏國北埼玉郡下忍村大字下忍の藥師堂の本尊は、昔藤原秀衡の守護佛で、奧州信夫の鄉に安置して在つたのを、夢想により、相州鎌倉へ遷さんと同所迄來たりしに厨子重く成りて動かず、佛意なるべしとて一宇を建てた〔七〕。上野國邑樂郡羽附村大字野木前の楠木神社は、俚傳に延元二年七月四日楠氏の遺臣、小林、田部井、石井、半田、江守等が、正成の首級を笈に納め、此地を過ぎり野中の大樹の下に到りしに、笈重くして負ふ事能はず、由つて此地に留り、首級を大樹の下に埋め、祠を建て野木明神と稱し、遺臣も此處に土著し開村したと有る〔八〕。此話等は、下總國古河町に賴政神社を祀つた緣起と、全く同巧異曲の物である〔九〕。併しながら、摘錄するつもりでも、斯う書き列べて國盡しをするのでは、其こそ富士山の張りぬきを拵へる程原稿紙を要するので、此邊から筆を飛ばす事とする。
 越後國北蒲原郡加治村大字金津新村(?)、蒲原神社の境內五社明神の社殿に、比丘・比丘尼の二木像が有る。昔秩父六郎重保夫婦が、源義經を慕うて此國へ來て剃髮し、死後居宅を寺と為し、白蓮寺と稱した。後年寺は亡びたが、住僧は夫婦の木像を持つて出羽に赴かんと、偶偶此地に來たりしに、木像忽然として重き事金石の如く、止む無く此れを五社の拜殿に置いたと云ふ〔十〕。能登國鳳至郡浦上村大字西圓山の地藏尊は、始め同郡鵠巣村大字西大野に在つたが、或る年西圓山の村民が此地を通ると、路傍に聲有つて、「共に往く。」と云ふので、此地藏尊を擔ひて歸りしに、今迄輕かつた像が、忽ち重く成つて動かぬので、此處に安置した〔十一〕。越前國坂井郡棗村大字深坂に百姓半助と云ふが有り、家に源賴光が大江山入りの時用ゐたと稱する、古き笈を所藏してゐる。此笈の緣起二卷有るが、由來は、以前福井藩の仕士であつた太田安房が、祖先の源三位賴政から傳へた此笈と、獅子王の劍と傳へて來たのを同藩中の柳田所左衛門に讓つた。所左衛門後に此村に退いたが、半助は其玄孫である〔十二〕。是等は、賴政が憑坐(ヨリマシ)の訛語である事を知れば、賴光大江山の物で無くして、憑り祈禱を遣つた修驗の物である事が直ちに釋然する。
 土佐國香美郡德王子村の若一王子神社も、永源上人と云ふ者が、紀州熊野から神體を得て厨子に入れ背負うて來たと有る〔一三〔十一〕。周防國玖珂郡餘田村字北迫に流惠美酒社が有る。土地の傳へに、五六百年も前に、廣嶋から流れ著いた物で、「惠比壽(ヱビス)樣は廣い廣嶋に緣が無くて、狹い田布施の田の中に。」と云ふ俗謠が有る〔十四〕。肥後國球摩郡上村の谷水藥師は日本七藥師の一と稱されてゐるが、此本尊は、元奧州金華山に在りしを、或る六部が背負うて迴國の途すがら、此處で像が重く成つたので、祀堂を建てた〔十五〕。大隅國姶良郡牧園村大字巣窪田の熊野權現社は、大永三年の社記に據ると、昔異人が有つて、熊野三所神を笈に入れて負ひ來たり、岩上に安じて一夜を明し、翌朝に笈を舉げんとせしに重き事磐石の如く、故に此地に祀つたと有る〔十六〕。
 さて以上書き列ねて來た此種の笈傳說は、一面から見れば、巫覡の徒が漂泊に勞れて、其土地に居著かうとする方便として利用したのかも知れぬが、斯うして神や佛を背にして、國國を遍歷した彼等の心情を察する時、必ずしも利用とばかり見るのは酷で、或は現今でも行はれてゐる「おもかるさん」の樣な信仰が伴つてゐた物と信ずべきである。
 以上は雜然と笈傳說を並べただけであつて、此中のどれだけが、巫女に限られた物であるかさへ、判然せぬ程であるが、今度は稍(ヤヤ)明確に巫女に、關した物を檢出するとする。然るに、此れに就いては、夙に柳田國男先生が『鄉土研究』第一卷第八號で、卓見を發表せられてゐるので、左に此れが要點を轉載する。

 巫女の旅行用具として、最重要なる物は其手箱である。此箱中は極秘であつて、見た人が無いから色色の臆說が有るが、(中略。)兔に角口寄の靈驗は其力の源を、此箱から發してゐると見て宜しい。(中略。)此箱の形が古今東西を通じて同じであるか否か、自分は未だ深く調べて見たのでは無いが、(中略。)箱ならば其引出しや入れ底に少少の雜品を藏つて置いても、さして不體裁でも無いから、結局、此れ一つで天下を橫行する事が出來たのであらう。此點から見れば、男の修驗者が背に負う所の笈も、巫女の手箱も目的は一つで、一所不在の傳道者が本尊を同行する方法としては、箱が一番好都合であつた事は想像に難く無い。
 今一つ箱類の方が便利であつたかと思ふ點は、行先先任意に樹の陰石の上等に安置して、自分も拜み人に信心させるのに手輕であつた事である。(中略。)稍(ヤヤ)大膽な假想說ながら、諸國の雜神の名目に、天白(テバク)、山白(サンバク)、野白(ノバク)等と云ふのが多いのも、事に依ると白神(シラカミ)の思想に影響せられた、箱神であつたかも知れぬ。中山共古翁の說に、遠州中泉の西南に野筥と云ふ部落が有つて、白拍子千壽の本尊佛を安置したと云ふ千手堂及び千壽の墓又は朝顏の墓等と云ふ怪しい古跡も有る。又野筥と云ふ地名は、昔能面を埋めたのに基くと云つてゐる。(見附次第。)
 巫女の口碑が、何時の間にか、小野小町、和泉式部、俊寬僧都の娘、さては大磯の虎等と云ふ古名媛の傳記に附會せられてゐる事は、極めて普通の現象である。斯の曾我兄弟の靈を思ひ掛け無い土地に祀つてゐるのも、大磯の虎を中に置いて考へぬと分ら無い。美作苫田郡上田邑の箱王谷では、俚民箱王の像を刻ませて之を祀つて居た。『作陽志』には箱王は如何なる人か知らず、此邊に金丸烏帽子町等の地名が有つて、何か由來が有るらしいと有る。此も多分は大磯の虎の故事にこじつけられて居るだらう。『曾我物語』に五郎時致の童名を箱王と有るが、其動機は何であつたか。箱根に成長したから箱王だと云つても良いが、其も亦小說であつたなら、どうして其趣向が浮んだかを尋ねたい。白王權現と云ふ祠は土佐に甚だ多い。(南路志。)此神の王の字は王子の王で古人の幼名に何王何若の多いのが、何れも元は神の御子(ミコ)に擬して、其保護を仰いだのと同じく、神託を仲介すべき人の稱號から移つた名であらうと思ふ。云云。(中山曰、誌上には川村杳樹の匿名に成つてゐる。)

 柳田先生の研究に從ふと、筑前箱崎八幡宮の箱松の由來や〔十七〕、若狹國の筥明神や、更に各地に在る箱清水の中からも、巫女關係の物を見出す事も出來る樣に思はれるが、今は其にも及ぶまいと考へたので省略する。
 漂泊の旅を續けた巫女の成る果は、好運の者でも、名も無き堂守りか、非運の者は並木の肥料となるのが落ちの樣にも考へられるが、其中には神社を興す者も有り、稀には一村落を開拓して、永く草分け芝起しの土產神と仰がるる者も有つた。筑前國早艮郡脇山村字子谷に十二社神社(即ち熊野十二所權現である。)と云ふが有る。土地の口碑に、昔比丘尼某が紀州熊野神の分靈を奉じて此處に土著し、谷口、內野、原田、上原、寺地の六部落を開拓したので、今に六部五十餘戶の產土神と成つてゐる。此比丘尼の墓は谷口に殘つてゐるが、貞觀年中に椎原の下日堰(轡堤とも云ふ。)を築き水路を通じ、脇山地內八町步、內野地內十六町步の田に灌漑して農利に便じたと云ふ事である〔十八〕。阿波郡美馬郡祖谷村は山深い片田舍であるが、俚傳に此村は、昔惠伊羅御子(エイラミコ)と稱す巫女が來て、耕耘機織の道を教へたので、今に其を祀つた祠堂が存してゐる〔十九〕。讚岐國小豆郡坂手村も、大昔にセセ御前と土人が云ふ巫女が來て、開拓したのが村の始まりだと云はれてゐる〔二十〕。飛驒の牛蒡種と稱する憑物の本場である雙六谷の部落等も、又斯かる人物が土著開拓した物と思ふが、既に此事は管見を發表した事があるので割愛する〔廿一〕。村村の開發とか產業(殊に製紙事業。)の發達とか云ふ點と、巫女の關係を究める事も興味の多い問題ではあるが、今は此程度に留めるとする。
 本節を終るに際し、開村の序に一言すべき事が有る。其は、大昔の農民が他村に移住し、又は居屋敷を潰して社地とする際に、信託を受ける信仰の存した事である。安藝國安藝郡倉橋嶋の農民が、享保十五年正月に鹿老渡へ移住を企て、有志三十六人相談して里正に訴へ、里正吉凶を神意に問はんとて、同二月一同打揃つて八幡神社に詣で、神官藤村大和は、神社の舞台に於いて、白刃を持つて舞ふ事久しく、(此れを御託の舞と云ふ。猶ほ刃戟を持つて舞ふ事の起源は、巫女の呪術と交涉が有るのだが、其を言ふと長く成るので省略する。)やがて神の告げ、「吉也。」とて眾議一決して移住した〔廿二〕。越後國蒲原郡芹田村に、昔吉見御所と云ふ貴人が暫らく居住した。後に此御所跡を神慮に任せんとて、氏神熊野神社の神主式部太夫朝日御子と云ふ者に命じ、阿氣淵と云ふ所にて神託を乞はしめ、其神告に依り、高出村に移住し、居地には若宮を祀つた〔廿三〕。巫女が民間信仰に深い交涉を有してゐた事は、此一言を以ても容易に知られるのである。

〔註第一〕『千葉盛衰記』。
〔註第二〕故日下部氏は、御輿荒れを力學から說いた遍痴奇論者であつた。其顛末と日下部氏の謬見であつた事とは『祭禮と世間』(爐邊叢書本)に詳しく載つてゐる。
〔註第三〕『河邊郡誌』。
〔註第四〕『福島縣耶摩郡誌』。
〔註第五〕『多賀郡誌』。
〔註第六〕『新撰佐倉風土記』。
〔註第七〕『新編武藏風土記稿』卷二一六。
〔註第八〕『群馬縣邑樂郡誌』。
〔註第九〕『許我志』に載せて有る。此れには渡邊競が賴政の首級を負うて來たと有る。
〔註第十〕『越後野志』卷九。
〔註十一〕『鳳至郡誌』。
〔註十二〕『越前國名蹟考』卷一〇。
〔註十三〕『諸神社錄』。
〔註十四〕『鄉土研究』第三卷第十一號。
〔註十五〕『球磨郡鄉土誌』。
〔註十六〕『三國名所圖繪』卷四十。
〔註十七〕『筑前續風土記』卷十八參照。
〔註十八〕『早良郡誌』。
〔註十九〕『美馬郡鄉土誌』。
〔註二十〕『讚岐史』初篇。
〔註廿一〕拙著『日本民俗志』所收の「牛蒡種という憑き物の研究」參照。
〔註廿二〕『倉橋島志』。
〔註廿三〕舊會津藩領の事を書いた『新編會津風土記』卷一〇二。
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