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第四節 呪術用の有機物と無機物

 呪術に用ゐた植物、動物、及び土石等に就いて、一一節を設けて記述しようと思つてゐたが、其れでは餘りに本章が長文に成るので、今は是等を一節の下に押し包めて言ふ事とした。從つて、論じて盡さず、說いて詳しからぬ點が有るかも知れぬが、缺けた處は其機會の有る每に補ふとして筆を進める。

一、笹葉

 天照神が磐戶隱れの折に、天鈿女命が、「手次(タスキ)繫天香山之天之蘿(日影)而,為鬘天之真拆(マサキ)而,手草結天香山之小竹葉而。」神憑りしたと有る蘿の襷も、真拆の鬘も、笹葉も共に一種の呪具であつて〔一〕、然も此笹葉(襷と鬘に就いては後に言ふ。)を持つてゐる間だけは、巫女に神が憑かつてゐる事を象徵した物である。『神樂歌』の採物に、榊、幣、杖、篠(ササ)、弓、劍、鉾、杓、葛の九種を舉げてゐるが、此の採物は九種共に、所詮は呪具である事は言ふ迄も無いが、就中、榊、幣、篠の三種は、後世迄も呪具として用ゐられて來たのである。神樂歌に「瑞垣の、神の御代より、笹葉を、手草にとりて、遊びけらしも。」と有るのも、鈿女命の故事を詠んだ者で〔二〕、神遊び──即ち神を降ろして、託宣させるには、手に笹葉を持つ事が必要とされてゐたのである。『萬葉集』に、小波(ササナミ)と云ふ語に神樂聲浪(ササナミ)の字を當てた處から見るも〔三〕、神樂に笹葉は附き物であつた事が知られるのである。
 『皇極紀』二年春正月條に蘇我蝦夷の通行を目掛けて、

 國內巫覡等,折取枝葉懸掛木棉,伺候大臣渡橋之時,爭陳神語入微之說。其巫甚多,不可悉聽。

 と有る枝葉に就いては、後世の柴であると云ふ說も有るが〔四〕、併し此れを笹葉と見る事も決して許されぬ事では無い樣である。更に後世の記事ではあるが、『和漢三才圖會』卷七(人倫類)巫の條に、

 按,上古人心淳朴而,神託亦分明。(中略。)今巫女所業者,奏神樂以慰神慮,或束竹葉探極熱湯,敷注浴於身,既心體共勞倦忙忙然。時神明託干彼,以告休咎,謂之湯立(由太天)。其巫曰伊智(イチ)。今人疑多,巫女媚不少,而神託何分明耶?

 と有る如く、神憑りと、笹葉とは、離す事の出來ぬ約束に置かれてゐたのである。
 其では、何が故に、笹葉が斯うした呪力を有してゐたかと言ふに、本居宣長翁は此れを解して、次の如く論じてゐる〔五〕。

 此故事(中山曰、鈿女命の所作。)に因て、神樂には小竹葉を用ゐ、其(ソ)を打振る音の、サァサァ(佐阿佐阿)と鳴るに就て、人等の同じく音(コヱ)を和せて、サァサァ(佐阿佐阿)と云ける故なるべし。

 此說は本居翁としては變つた觀方であるが、私には合點(ウナヅ)ける處が有る。
 由來、我國の尸坐(ヨリマシ)(此處には非職業的の意味の者を云ふ)が、神憑りの狀態に入るには、(一)尸坐の身近くで火を焚く事、(二)集つた者が一齊に或る種の呪文を唱和する事の二つが、大切なる要件とせられてゐた。鈿女命の場合に見るも『日本書紀』には明白に、「火處燒」と載せてゐる〔六〕。然るに、此齋庭に集つた神神が、何等の唱和をし無かつたのは、鈿女命が神憑りに熟練してゐた為に、斯かる手數を要さ無かつたのであるかも知れぬが、其にしても少しく物足らぬ思ひのせらるるのが、本居翁の解釋に從へば、此れが救はれる事となるのである。且つ笹葉を叩く音が、神を招きて身に憑ける合圖とした事は、卓見とすべきである。
 襷を掛ける事及び鬘をする事は、共に神に仕へる者の當然の裝身法であつた。祝詞に、「忌部の弱肩に、太襷取掛けて。」と屢記されてゐるのが其であつて、更に『古今集』の採物歌に「卷向の、穴師山の、山人と、人も見るがに、山鬘せよ。(1076)」と有るが如く、鬘の有無を以て山人と神人との區別をしたのである。而して此襷は、後世の神道家なる者に重要視せられた木綿襁(ユウタスキ)と成り、鬘は民俗としては鉢卷と成つたのである〔七〕。琉球の祝女(ノロ)が現今でも三味線蔓の葉を以て鬘とするのは、蓋し鈿女命の遺風を殘した物であらう。


二、賢木

 賢木(サカキ)は神事の總てを通じて用ゐられた物で、特に巫女に限られた物で無い故、茲には簡略に記述する事とした。
 全體我國でも木篇に春夏秋冬の作りを添へた木は、悉く呪力有る靈木として相當の信仰を維(ツナ)いでゐたのである。椿(ツバキ)の枝を持つ女は、我國では巫女であつて〔八〕、此木で作つた槌を用ゐる事は、景行帝の海石榴(ツバキ)槌を以て土蜘蛛を鏖殺された故事からして、昭和の現代でも忌まれてゐる〔九〕。榎(ヱノキ)の信仰に在つては、『崇峻紀』に物部守屋が衣摺の朴(榎)を利用して、聖德太子の軍兵を三度迄擊退したのを始めとして、其こそ僕を代へるも數へ切れぬ程夥しく存してゐる〔十〕。楸(キササキ)に在つては、支那の梓と同じであるとも、異なるとも云はれてゐるが、兔に角に楸の實が今に呪力有る物として用ゐられてゐる事は事實である〔十一〕。柊に至つては敢て說明する迄も無く、『景行紀』に倭尊が柊(比比羅)木の八尋矛を賜りしを初見とし、京都の賀茂神社の地主神なる柊神社の故事〔十二〕、及び節分の追儺に柊の枝に鰯頭を刺して戶口に插す事迄舉げると、此れも寧ろ多きに苦しむ程である。
 而して是等の呪木と信ぜられた物は多く常磐木であつた。現時でこそ、賢木(サカキ)と言へば、榊に限られた物の樣に考へてゐるが、太古に在つては、常磐木は悉く賢木であつて、賢木が榮木(サカキ)である事は、此れからも說明が出來るのである。後世の口寄巫女が生靈を寄せる時に、常綠樹の葉を用ゐる事に就いては、其條に詳述する考へであるが、此れが榮木信仰に緣を曳いてゐる事だけは過り無ささうである。而して是等の常磐木に神が憑けば、即ち魂木(タマキ)(後には玉木と書く。)と成り〔十三〕、祟(タタ)り木と成り〔十四〕、勸請木と成り、遂に此信仰が發達して、神木の思想と成つたのである〔十五〕。
 猶ほ此機會に、巫覡の徒が神意を問ふ為に、種種なる樹木を地に插して、其榮枯に依つて占うた「插木傳說」及び此信仰から導かれた「杖立傳說」を併せ說くべきであるが〔十六〕、是等は必ずしも本書の範疇に屬する物とも思はれぬので、必要が有つたら、其條に說くとして今は除筆する。


三、樺木

 太占を行ふ際に、龜甲を灼く燃料の、波波迦木に就いては異說が有るが〔十七〕、私は本居翁の、

和名抄に朱櫻、波波迦、一云邇波佐久良、亦木具部に、「樺木皮名,可以為炬者也。和名加波(カバ),又云加仁波。今櫻皮有之。」と見え、『萬葉集』に、「 櫻皮纏(カニバマキ)、作流(ツクレル)舟。云云。(0942) 」と讀み、『古今集』物名に、「樺(迦爾婆)櫻。云云。(0427) 」有り。(中略。)此れを合せて思ふに、此木の本名は波波迦にて、加爾婆は皮名也、加婆は迦爾婆の約りたる也。

 と有る樺木說に左袒する者である〔十八〕。延喜の「民部式」下に、「信濃國,(中略。)樺皮二圍。上野國,(中略。)樺皮四張。」と有るのは、鵜飼の燃料に用ゐたとの說も有るが〔十九〕、私は此れも太占用として考へたいのである。巫女が樺木を用ゐた事は、私の寡見には入らぬけれども、東北地方──殊に陸中國の上下閉伊二郡にては舊家名族の別稱として樺皮(カバカワ)の家と云うてゐるさうだが、此れは樺皮に畫ける佛像亦は名號を所有してゐる為であつて〔二十〕、其を所持する事が家格の高い事を意味してゐるのだと云ふ事である。而して此佛像なり名號なりを古く巫女が傳へた事は、同地方に於ける巫女の勢力を知る時は、自然と解決される問題である。
 此れと同時に、考へ無ければ成らぬ問題は、盂蘭盆會の聖靈迎へに樺の火を焚く習俗の各地に存する事である。我國の聖靈は、其子孫の者が焚いて吳れる火の光りを目途にして、遠い幽界から降り(或は其火の煙に乘つて來るとも云うてゐる。)て來るのであると信じられてゐて、必ず墓地で迎へ火を焚く事と成つてゐた〔廿一〕。都會人が墓參もせず、己の門口で炮烙の上で麻殼を焚き、其で迎へ火だ等と濟してゐるのは、都會生活の屈托から儀式を簡略化したに過ぎぬ物であつて、聖靈に戶惑ひさせる虞れが無いとも限らぬ。前に舉げた陸中の上下兩閉伊郡では、今も盆の迎へ火は樺を墓前で焚く事に成つてゐる〔廿二〕。陸奧國東津輕郡の各村村でも、盆の迎へ火には樺を焚くが、殊に平內村(西中東の三村を押し包めて。)では、十三日から二十日迄每夜戶外でこれを焚き、且つ舞踏を續けるさうである〔廿三〕。信濃國伊那郡北部を中心とした地方でも、同じく盆には墓前で樺を焚く事と、ドンブヤを振る事の二つが、迎へ火と成つてゐるのである〔廿四〕。
 斯うした習俗は、克明に各地に亘り詮索したら、此外にも存してゐる事と思ふが、兔に角に年に一度子孫を訪れる聖靈を迎へるのに、樺火を焚くと云ふ事は太占の思想に負ふ所を考へさせると共に、此木に呪力の有る事を信じた物で、然も此信仰を民間に植ゑ付けたのは、記錄にも口碑にも忘られる程古い時代に、田舍渡らひした巫女の所業であつたと想はれるのである。


四、葦

 此れも必ずしも巫女に限つて用ゐた物では無いが、葦が呪力有る物として、神意を占ふ際に重要な役割りを勤めた事は珍らしく無いので、書き添へて置く。『新撰姓氏錄』皇別條に、

和泉國。葦占臣。大春日同祖,天足彥國押人命之後也。

 と載せて有る。記事が餘りに簡單なので、此葦占臣の呪術的方法の如何なる物であつたかを知る事は出來ぬけれども、其姓の示す如く、葦を以て神意を占ふ事を職としてゐたので、此姓を負うた者である事だけは明確である。
 更に葦を呪力有る物とした信仰に至つては、此れも取捨に苦しむ程多く存してゐるが、各地の神社で追儺式に桑弓と葦矢を用ゐる事は、支那の桃弓蓬矢の影響を受けた者とも思はれるが、併し豐葦原國と云はれただけに、我國獨特の葦の神事も少くは無い。三州豐橋市横田の牛頭天王社では、每年六月晦日に、茅輪の神事を行ふのは他社と變りは無いが、此社の神事は拜殿に薄(ススキ)を長さ二尺四五寸に切り、根の所を葦にて包み、此葦に青黃白の幣と紙の人形(ヒトガタ)を附ける。輪潛りが終ると夜の一二時過ぎに、茅輪と葦とを、豐川に流し棄てる。然るに、此葦の流れ著いた村では、其葦を產土神の地內へ假宮を建てて安置し、其の翌日の一日か又は三日の內に、日待と同じく村民は悉く水垢離を為し、男女とも業を休んで參詣して祭り、以來七十五日間は每夜獻燈する事に成つてゐる〔廿五〕。紀州熊野の新宮十二所權現の舊九月六日の祭禮には、一ツ物とて馬に編笠著せた人形を乘せるが、古くは若い人を用ゐた物である。人形は眾徒永田氏から出すのだが、『寬文記』に據ると、一ツ物は、金襴の狩衣を著て、葦十二本に牛王十二枚挾みしを腰に插し、飾馬に乘り、神輿の先に立つた物である。そして此葦は、大島から獻上した物を、一山の眾徒等が七日間神殿に籠り祈禱して出す物だと云ふ〔廿六〕。陸中國平泉町の白山權現の舊四月の祭禮にも、七歳の男兒を潔齋させ、腰に葦葉を插させ、飾馬に乘せ、社前に牽くを、お一ツ馬と云うてゐる〔廿七〕。東京市に近い王子町の王子神社の八月十三日の例祭にも、神人の行列中に唯一人、箙に青い葦を一本插してゐる者が有る〔廿八〕。
 斯かる類例は際限が無いから他は省筆するが、是等から見るも、葦を持つてゐる事が、神の憑かつた事を證明してゐるのであつて、葦に呪力を認めた信仰に出發してゐる事は言ふ迄も無い。
 猶ほ此外に、樒、柳等が存してゐるが、此れは必要の機會に讓るとする。



 呪術に用ゐた動物も決して少く無いが、茲には狹義に解するとして、巫女が用ゐた物のみに就いて、記述する事とした。

一、宍

 古く我國では、鹿も豬も、共にししと稱し、此れを區別する時には、鹿(カ)ノしし、豬(イ)ノししと呼んだ。而して此ししには、宍(シシ)即ち食し得る肉と云ふ程の意味が有る。巫女が呪術に行ふに際して、鹿(太占の場合は今は全く省く。)及び豬を用ゐたと思はれる事は、古く黃泉(ヨミ)の枕辭に「宍串呂(シジグシロ)」の語を用ゐた事から察せられるのである。宍串呂の解釋に在つては、賀茂真淵翁は繁釧(シジクシロ)の意なるべしと云ふてゐるが〔廿九〕、此れは僧仙覺の、「串に插して炙たる肉は旨き物成れば味の芳と續く。」と云ふ說こそ〔三十〕、蓋し上代の民俗に適うた物と考へられるのである。
 宍串の民俗學的例證は、私の集めただけでも相當に存してゐるが、其代表的の物は『出雲風土記』意宇郡安來鄉に載せた語臣豬麻呂の記事である。天武朝に豬麻呂が娘を鰐の為に喰殺されたのを怒り〔卅一〕、天神地祇に祈つた所、百餘の鰐が一頭の鰐を圍み率ゐて來たので娘の仇を復したが、其時に豬麻呂は「鰐(和爾)者,殺割而挂(カケ)串,立路之垂也。」と有るのが其であつて、現代に其の面影を殘してゐる物は、大隅國姶良郡東襲山村大字重久の止上(トカミ)神社の贄祭である。社傳に、此祭は、景行帝が熊襲を退治せられた處、其梟師の惡靈が祟りを為し人民を苦しめるので、每年舊正月十四日に、氏子が初獵を為し、獲物の肉を三十三本の串に貫き、地に插立てて牲と為し、熊襲の靈を祀るに始まると言ひ、今に其祭禮の次第が存してゐる〔卅二〕。
 併し乍ら、此肉串も原始期に溯ると、獨り鹿や豬の肉ばかりで無く、人肉を用ゐた事も在りはせぬかと思はれる點である。即ち前に舉げた枕詞の本歌は『萬葉集』卷九菟原處女の墓を見て詠める長歌の一節で、即ち「宍串呂(シジクシロ)、黃泉(ヨミ)に待たむと、隱沼(コモリヌ)の、下懸想(シタハ)へ置きて、打嘆き、妹が去(ユ)ければ。云云。(1809)」と有る樣に、死國である黃泉に掛けた冠辭なのである。巫女が屍體を支解する職程を有してゐた為に祝(ハフリ)と稱した事の詳細は後章に說くが、宍串が人肉であつた事も、此結論から、當然考へられる事である。而して是等の宍串を作る役目は、言ふ迄も無く巫女であつたに相違無いのである。


二、鵐

 『古語拾遺』に、「片巫。【志止止鳥。】」と有る事は既記を經たが、さて此志止止鳥(シトトトリ)の解釋に就いては、昔から學者の間に異說の多い難問なのである。第一に、伴信友翁の說を舉げんに、『正卜考』卷三、片巫・肱巫條に、

 強ひて思ふに、片は肩にて肱に對する言の如く聞こゆるを以て思へば、(中略。)漢國にて股肱臣等云ふ心ばへに似て、(中略。)然稱へるには有らざるか、猶ほ考ふべし。(中略。)さて志止止鳥は、『天武紀』に、「攝津國貢白巫鳥。」自注に、「巫鳥,此云芝苔苔(シトド)。」(中略。)『和名抄』に、「鵐鳥。『唐韻』云:『鳥名也,音巫。』『漢語抄』云:『巫鳥,之止止(シトド)。』」『新撰字鏡』に、鵐字を訓めり、亦「名義抄」に、鳥(神)をカウナイシトトと訓り、此鳥(神)字、漢字書どもに見當らず、斯方にて制り(中山曰、國字の意。)たる字なるべし、其訓カウナイは、巫(カウナギ)の音便にて、巫しとどと云ふ義なれば、片巫の志止止鳥の占に由あり聞こえ、漢字に鵐と作き、又巫鳥とも云へりと聞こゆるも、己(おの)づから片巫の占に相似て聞ゆ。亦『枕冊子』の、鳥はと云條に、巫女鳥(みこどり)と云へるも、巫鳥と聞こゆ。亦『秘藏抄』と云ふ書に、「巫(かうなぎ)の、かややこ鳥に、こととはむ、我思ふ人に、何時か逢ふべき。」(中略。)『歌林撲樕拾遺』に此歌を載て、(中略。)かややこ鳥は、巫鵐を云ふと云へり、此れもいの占の事と聞こえたり、されど如何にして卜ふるにか知る由無し云云。

 第二に、橘守部翁の說を載せんに、『鐘の響き』卷一に於いて、「麿(中山曰、守部自身を指す。)もえ心得ず、只年頃訝しむのみ也、(中略。)片生(かたなり)なる試みをも申べし。」とて、先づ此れに就いては自信無き事を告白し、さて曰く、

 片巫【志止止鳥。】と有るは、鵐字を分ちて書けるか。(中略。)『和名抄』に、「巫、【和名、加牟奈岐(かむなぎ)。】祝女也。」と見えし如く、覡を男祝と云ふに對て、傍(ツクリ)無ければ片巫とは云ふ歟。其を鵐鳥に取作(とりな)せしなるべし。『枕冊子』に、「巫鳥(みことり)と云へるを、古く鵐の事也。」と云へる等も由有り。(原註、又按に、只字の上のみならず、此鳥にも、神社に由緣有るかと思ふ事有れと、(中略。)是は良く考て又も云べし。太刀に鵐目と云は、彼が目の貌に似たるを以て云なれど、鳥も多かるに此鳥の目にしも象るは、如何なる由か、若は其刀を重みして、巫祝の神を齋くに准らへたるにや、(中略。)是も良く考へて又も云べし。)云云。

 と有る。猶ほ此外にも國學者と稱する先覺の間に異說も有るが〔卅三〕、其を一一引用する事は長文に成るので省略し、更に此れに對する私の管見を述べるとする。
 私は第一の片巫の解釋に就いては、伴翁の說を其のまま承認する者であつて、片は肩にて、肱に對して言うた語と考へてゐる。琉球の祝女(ノロ)の間に行はれてゐる肱折り指折りと云ふ祭祀の作法は、內地の鹿自(シシジ)物膝折伏せ、鵜自物頸根(ウナネ)衝拔てある形容よりは、肩巫・肱巫の作法に類似する所が有る樣に想はれる。第二の志止止鳥は、古く頰白(畫眉鳥)の事を云うたのでは無いかと思つてゐる。私が此志止止鳥に就き二三の學友に尋ねた處、肥後國宇土郡地方では頰白の事を斯く言ひ〔卅四〕、奧州秋田地方でも同じく頰白の事を斯く稱してゐるとの事であつた〔卅五〕。而して『和訓栞』の頰白條を見ると「頰白は、しととの類也。」と載せてゐる。此れに就いて想起こされる事は、『神武記』に、伊須氣余理媛が大久米命の黥(サケ)る利目(トメ)を見て詠める、「胡鸞鶺鴒(アメツツ)、千鳥真鵐(チトリマシトト)。」何裂る利目の歌である。此真鵐は、言ふ迄も無く、志止止鳥の真なる意味で、真鴨とか真鯉とか云ふ用例と見て差支無い樣である。此歌も昔から難解に屬する物ではあるが〔卅六〕。私は矢張り簡單に大久米命の目が、鶺鴒や、真鵐の樣に、圓く黥(サケ)てあつたと形容した物と見てゐるのである。從つて片巫が呪術に用ゐた志止止鳥は殊に目の圓い物であつたと思はれるので、其には頰白が最も應(フサワ)しく無いかと考へたのである。而して此鳥を如何にして呪術に用ゐたかは、『津島紀事』卷一に、『龜兆傳』を引用して、「鹿は天の事は知れども、地の事は卻て知らず。此故に、龜に代ゆと。(中略。)又鵐の骨を以て卜し事、『古語拾遺』に見えたり。」と有るのを手懸りとして、鹿卜や龜卜と同じ樣に此鳥の骨を灼いて占ふ方法が在つた物と信じてゐる〔卅七〕。
 然るに私の此頰白說を打消すに足る程の資料も存してゐるのである。第一は、能登國鹿島郡鳥屋村大字一青(シトト)の地名の由來である。『鹿島郡誌』卷上に『三州志』を引用して、「一青をシトトと旁訓せり。(中略。)小野蘭山シトト種類多し云云。豈此物に取るか、凡そ地名は土宜獸に取れる者多し。」と載せた事である。此れに由れば、一青と云ふのであるから、志止止鳥は青い鳥で無ければ成らぬのに、私の言ふ頰白には青い物は見當らぬ樣である。
 第二は伴信友翁が『正卜考』志止止鳥條に細註に、「シトトは青みがちなる毛色にて、俗に青鵐(アヲジ)とも云ふ、黑燒にして、金瘡等の血を良く止め治る藥也。」の一節である。青鵐(アヲジ)が民間藥として用ゐられた事は私は他の治方も承知してゐるが〔卅八〕、頰白に此事を聞かぬとすれば、呪術に用ゐられただけに、私の說には弱い所が有る樣な氣もする。
 第三は陸中國の『東磐井郡誌』に「巫鳥(シトトリ)、田野に棲む、冬季食用とすべし。」との記事である。此れも頰白は食用に成らぬから、志止止鳥と頰白とは全く別な物と考へ無ければ成らぬ事と成る。
 併しながら、私に強辯する事を許されるならば、蘭山の云ふ如くシトトは種類が多く、『神武記』の真鵐(シトト)は青く且つ食用にも足る物であるが、巫女が呪術に用ゐた物は、青く無い食用にも成らぬ頰白であつたのでは無いかと言ひたいのである。敢て後考を俟つとする。猶ほ此志止止鳥が後世に成ると時鳥と同じ物の樣に解釋されて種種なる俗信を生む樣に成つたが、其等に就いては後章に述べるとする。


三、鵜

 全體、我が古代の民族は、人は死ぬと鳥の形と成つて天に昇る物だと信じてゐた。我國の「鳥船信仰」なる物の基調は此處に存してゐるのであつて、『古事記』神代卷に天稚日子の葬儀を營む時、「河雁為傾頭(岐佐理)持,鷺為掃持,翠鳥為御食人,雀為碓女,雉為哭女。」とした習俗が行はれたのである。倭尊が薨後に白鳥と成つて飛んだと云ふ傳說も、更に現代でも琉球を始めとして內地の各所で、葬禮の際に紙で造つた鳥の形の物を飛揚するのも、咸(み)な此鳥船信仰に由來してゐるのである。從つて鳥を神と人との間の使と見たのも此れが為である。而して茲に言ふ鵜は、必ずしも此信仰を如實に現はしてゐる物では無いけれども、其呪術として用ゐられた根底に於いては、一脈相通ずる物が有ると考へたので、敢て記載する事とした。
 鵜を呪術に用ゐた徵証は、櫛八玉神が鵜と化したと云ふ『古事記』の記事であるが、此れに就いては、次項に土の事を言ふ折に併せ述べる方が便宜が多いと信ずるので今は省き、此處には鵜羽を呪術に用ゐた一例だけを記すとする。而して此徵証は『古事記』の天孫彥火火出見尊の妃豐玉媛が皇子を生奉る條である。

 於是海神之女豐玉毘賣命,自參出白之:「妾已妊身,今臨產時。」(中略。)爾即於其海邊波限(ナギサ),以鵜羽為葺草,造產殿。於是,其產殿未葺合,不忍御腹之急,故入坐產殿。(中略。)是以名其所產之御子,謂天津日高日子波限建鵜葺草不合命。

 而して此鵜羽を以て產殿を葺いたと云ふ事に關しては、古くから異說が有る。『釋日本紀』卷八には、「鵜,口喉廣,飲入魚又吐出之容易之鳥也。是以象產生平安,令葺此羽於產屋者歟。」と安產の呪方として鵜羽を用ゐし事を述べ、一條兼良も、此說を承けて、『日本紀纂疏』に「祝其易產之儀。」と記してゐる。然るに、新井白石は此れに反して、神話を歷史として解釋せんと試みただけあつて、「今の荻は昔の海茅(うみがや)である。日向國では此れを鵜茅(ウガヤ)と云ふ。產殿を葺けるは此の鵜茅(ウガヤ)なるべし。」と論じてゐる〔卅九〕。
 私は此れに對する管見を記す以前に、更に鵜に關する民間の俗信を述べて置く必要が有ると信ずるので、茲に其の一つだけを載せたいと思ふ。能登の官幣大社氣多神社では每年鵜祭と云ふを行ふが、『能登名跡志』の記す所に據ると、祭儀が備ふと一羽の鵜を社前に放ち、此れが階段を昇るのを合圖として祭禮が始まる。斯く鵜を社前に供へるのは、鵜肉は人肉と味を同じくし、古く此神社は人身を供御としたが、後に此鳥に代へたのであると傳へてゐる。私は鵜肉と人肉とを食ひ分けて見た事が無いので、此傳說を其のまま鵜呑みにする譯には往かぬが、其にしても、斯うした民間信仰が在つた事だけは、認めても差支無いと考へてゐる。而して是等の事から、古く我國には產屋(古代は分娩は常住の家宅では行はず、必ず別に一屋を設けて、其處で舉げた物である。然も此民俗は明治の初期迄は各地に存してゐた。產所村の起原の一面は此れである。)で分娩する時には、惡靈を防ぐ呪術として鵜羽を屋上に插した信仰が有つたのでは無いかと考へるのである。我國の祭禮に「一ツ物」と稱する尸童が、必ず山鳥羽を身に附けたのも、琉球の祝女(ノロ)が鴛鴦羽を頭に插すのも〔四十〕、共に其等の羽に呪力を信じたからであつて、鵜が魚を呑吐する樣に、產も易かれとの類比呪術の思想から、鵜羽を產屋に插したのを、鵜の羽を以て葺くと云うたのではあるまいか。而して此呪術が、巫女に依つて行はれた事は、古くより出產に參與する者は女子に限られてゐたのを見るも知られるのである。


四、蟹

 蟹は現代でも呪力有る物として用ゐられてゐる。東京市中で良く見掛けるが、蟹甲を水引で軒頭に結び付けて置くのが其である。今日では蟹甲を下げるのは、小兒の驚風の厭勝だ等と云はれてゐるが、併し此俗信の由來は遠き神代に發生した物である。蟹を呪術とした文獻は『古語拾遺』に、

 天祖彥火尊,娉海神之女豐玉姬命。生,彥瀲尊。誕育之日,海濱立室。干時,掃守連遠祖天忍人命,供奉陪從。作箒掃蟹,仍掌鋪設。遂以為職,號曰蟹守。【今俗謂之借守者,彼詞之轉化。】

 と有るのが其である。然るに、此蟹守の故事は、獨り『古語拾遺』に載せて有るばかりで、他の記・紀・風土記等には、全く記して無い。唯に是等の書籍に載錄を缺くばかりで無く、『新撰姓氏錄』和泉國神別條には、此記事と相反するが如き物が記して有る。即ち、

 掃守首。振魂命四世孫天忍人命之後也。雄略天皇御代,監掃除事,賜姓掃守連。

 と有つて、掃守は神代の蟹に關する事では無くして、雄略朝の箒掃の事に始まると云ふのである。併し私は茲に此兩記事の是非を說く事は姑らく措き、唯分娩に際して蟹を呪術に用ゐたと云ふ點に就いてのみ短見を述べるとする〔卌一〕。
 私は曾て「蟹守土俗考」と題して、此れが考證を發表した事が有るので、茲には其記事を要約し、更に其後に獲た新たなる資料を加へて載せるとするが、蟹が蝦や蛇と同じ樣に、靈的の動物として、我が古代の民族に崇拜されたのは、(一)蟹の脫殼作用と云ふ不思議な生態と、(二)蟹と月の盈虧の關係と、(三)蟹の形狀から來た物と思うてゐる。
 古代の我我の祖先達は、蟹や蛇や蝦の脫殼作用を見て、此れを不思議なる物と考へずには居られ無かったのである。人類には決して見る事の出來ぬ此不思議は、やがて是等の動物は脫殼作用の有る為に、幾度と無く生命を更新して、永遠に生存する物であると云ふ信仰に導いたのである。復言すれば、脫殼は老いたる生命を若きに返す不思議の靈能の有る物で、斯くて何時迄も生き永らへる物と思惟したのである。
 琉球の傳說に、古代の人間は、蛇と同じ樣に脫皮した物で、然も其の脫皮每に、心身ともに若く成つたのであるが、其には正月の若水に身體を浸す事に成つてゐた。然るに或年の事、若水を浴びやうと、井戶へ往つて見ると、人間より先に蛇が浸つてゐたので氣味惡く思ひ、手足の先だけ水に浸して歸つてしまつた。其以來、蛇は脫皮するも、人間は此靈能を失ひ、僅に手足の爪だけが脫け變るのだと云ふのが有る〔卌二〕。此傳說は、內地の若水信仰で、其基調と成つてゐる物は、前に述べた「變若水(ヲチミヅ)」の信仰である。而して此信仰は延いて、神神の復活と云ふ事迄も考へさせる樣に成つた。日神の運行も、月神の盈虛も、穀神(古代人は種子其の物を直ちに神と見た。)が一度刈られて、又繁茂し、結實するのも、悉く復活に外成らぬと認識したのである。天照神の磐戶隱れも、大己貴命が二度死んで二度共蘇生したのも、共に生命の更新であつて、然も靈能の復活である、と信じていたのである。
 蟹肉が月の盈虛に依つて肥瘠を異にした事も、亦古代人をして蟹を靈的の動物と考へさせた一原因である。然も月の盈虛が海潮の去來と關係有る事を知るて、彌が上にも蟹を不思議の物と考へる程度を加へたのである。更に蟹の形態──殊に背甲に往往人面に髣髴たる地紋が有り、且つ此れに中毒して死を招く事等は、愈愈蟹を崇拜せしめるのに有力なる物が有つた。我我の祖先は此種の蟹を以て人間の怨魂が化した物と考へて、今に平家蟹、長田蟹、島村蟹、武文蟹、治部少輔蟹等の傳說を殘してゐる。斯くして『日本靈異記』に載せた蟹滿寺の古緣起と成り、近江國甲賀郡土山村の蟹坂〔卌三〕、越中國西蠣波郡北蟹谷村大字五郎丸の蟹掛堂〔卌四〕、駿河國庵原郡高部村大字大內の保蟹寺の蟹樂師〔卌五〕、甲斐國西八代郡御代咲村大字蟹澤の長源寺の蟹佛〔卌六〕、美作國久米郡久米村大字久米川南の蟹八幡〔卌七〕の由來等を始めとして、江州八幡町の少年が每年小正月の左義長に蟹に扮する土俗や〔卌八〕、此外に私のカードに數へ切れぬ程記して有る蟹に關する傳說等も、其の悉くは蟹を靈物とした為に生じた信仰の結果なのである。
 此見地から言へば、蟹を產室に這はせる習俗は、產兒が蟹の如く幾度と無く生命を更新して、永く健全であれとの呪術から出た物であつて、單に赤兒が蟹の如く這ふ樣に成れと祝福しただけでは無いのである。琉球の各島島では、現に出產が有ると、數匹の蟹を捉へて來て室內を這はせる習慣が殘つてゐるが、此場合に若し蟹の獲られぬ時は、其の代りに螽斯(方言セーガ。)を用ゐるさうである〔卌九〕。蟹の代用に螽斯を以てした理由は、私には良く判然せぬが、支那には此事が古くから行はれてゐた樣である。『詩經』の螽斯三章は即ち其であるが、此祝儀は文字の上だけでは我國でも用ゐた物と見えて、『山槐記』治承二年十月十日條所載、建禮門院德子の皇子降誕祭文中の一節に、「世以歌螽斯之詩,天以授龜鶴之齡。」と見えてゐる。而して此蟹を這はせる役目は、『姓氏錄』に魂振命と有るのから推すと、此れが巫女であつた事は明白である。何と成れば、魂振とは即ち鎮魂の儀であつて、此れの魂振の聖職を奉ずる物(次章鎮魂の節參照。)は巫女に限られてゐたからである。
 巫女が呪術に用ゐたと思はれる動物は、未だ此外に蛇(『古事記』に蛇比禮と有る。)が有り、蜈蚣(同上、蜈蚣比禮。)が有り、蜂(同上、蜂比禮。)が有つた樣だが、記事が餘りに簡單なので、其方法すら知る事が出來ぬので、今は省略した。更に、牛・馬・犬・狐等の如き動物にあつては、記錄にこそ見えぬけれども、實際にあつて呪術に用ゐられた物と想はれるが、是等は後章に說くとして、茲では触れぬ事とした。



 呪術用の無機物は、前に鏡や玉を述べた折に、一と纏めにしても差支無いのであるが、是等の鏡や玉は、專ら呪術の為に發達した物とも言へる程であるのに反して、此れから述べ樣とする石や土は、偶偶呪術に用ゐられたと云ふだけで、其間に相當の差違が有ると考へたので、斯く別に記す事としたのである。

一、石

 石の呪力をやや完全に說くには、我が古代に於ける石信仰の起伏を述べ無ければ成らぬ。例へば「成長する石」とか、「子を產む石」とか、更に進んでは、『風土記』其の他に見えてゐる「寄(ヨ)り神(ガミ)」としての石信仰等、茲に其題目を舉げるだけでも容易な事では無い。其れに今は、是等の一般的の石信仰を論ずるのが目的で無いから悉く省略し〔五十〕、直ちに呪術に用ゐた石だけに就いて、然も簡明に記述したいと思ふ。
 而して、石に呪力有りとした記事の初見は、諾尊が黃泉國から追はれて歸へる折に、黃泉平坂に千引石を置いたのを、『古事記』には「亦所塞(サヤ)其黃泉坂之石者,號道反大神,亦謂塞坐黃泉戶大神。」と載せてゐる。併しながら、此れは單に石の呪力を認めたと云ふだけで、未だ石を呪術に用ゐたと云ふ積極的には出てゐ無いのである。然るに『豐後國風土記』直入郡蹶石野條の、

 同天皇(景行帝),欲伐土蜘蛛之賊,幸於柏峽大野。其野中有石,長六尺,廣三尺,厚一尺五寸。天皇祈之曰:「朕將滅此賊者,當蹶茲石,譬如柏葉。」即蹶之,騰如柏葉。因曰蹶石野。

 と有るのは、明かに石占である事を示してゐる。
 由來、我國の石占には、其方法が三種有る。

第一、景行帝の場合の如く、神に祈(ウケ)ひて石を蹶り、又は投げて、其石が己れの思ひし高さ成り、又は遠さ成りに達するを以て、神慮の己れを加護する物と占ふ物。
第二、石を扛(ア)げて、其輕重に依つて神意を占ふ物で、今に此れは俗に「輕重(オモカル)さん」と稱して行はれてゐる。
第三、或る石を見立てて、草なり、藁なりを、後手で石の長さ位に切り、其を石に當てて見て、其長さが合致するか否かを以て、吉凶を占ふ方法である。

 此三方法は、古く廣く行はれてゐて、『萬葉集』卷三丹生王の詠める長歌の一節に、「夕占問(ユウケト)ひ、石占以ちて。」有るのは、輕重さんの方法に由つた物だと云はれてゐる〔五一〕。『新撰姓氏錄』蕃別に、石占忌寸の姓が載せて有るが、此れは古く此事に從うてゐた為に負うた物である。『神功紀』に皇后が征韓の途に上りし時、「于時也,適當皇后之開胎。皇后則取石插腰,而祈之曰:『事竟還日,產於茲土。』」云云と有るのは、畏き事ながら、石の呪力を認めさせられての呪術であると拜されるのである。


二、土

 此れも石と同じ樣に、土に關する古代信仰を說かねば成らぬのであるが、其では益益長文と成るので茲には省き、直ちに土を呪術に用ゐた事に就いて述べるとする〔五二〕。而して呪術に用ゐられた土にあつては、凡そ二つに區別されてゐた。第一は或る限られた場所の土を用ゐる事で、第二は或る種の土を用ゐた事である。併しながら兩者とも其の根本問題として、土に呪力の有る事を信じてゐたのは勿論である。
 第一の例証は『神武紀』戌午年秋九月條に、

 天皇惡之,是夜自祈而寢,夢有天神訓之曰:「宜取天香山社中土,以造天平瓮八十枚,并造嚴瓮而敬祭天神地祇,亦為嚴咒詛。如此則虜自平伏。」天皇祇承夢訓,依以將行。時弟猾又奏曰:「(中略。)宜今當取天香山埴,以造天平瓮而祭天社國社之神,然後擊虜則易除也。」天皇既以夢辭為吉兆,及聞弟猾之言,益喜於懷。乃使椎根津彥著弊衣服及蓑笠為老父貌,又使弟猾被箕為老嫗貌,而敕之曰:「宜汝二人到天香山,潛取其巔土,而可來旋矣。基業成否,當以汝為占。努力慎歟。」

 と有るのが、其である。斯くて、二人は敕命により、天香山土を得て歸り、天皇此れを以て齋器を造り、神祇を祭つて、遂に其加護を受けて賊徒を平げ、天業を成したのであるが、如何に此事に天皇が重きを置かれたかは、敕に、「此れを以て其業の成否を占ふ。」と仰せられた事からも、恐察せられるのである。而して茲に老嫗の貌と成つて赴いた弟猾は、即ち當時の巫女なのであつた〔五三〕。
 然るに『崇神紀』にも土を呪術に用ゐんとした事例が載せてある。即ち同紀十年秋九月條に、

 大彥命到於和珥(ワニ)坂上,時有少女歌之曰。(中略。)於是天皇姑倭跡跡日百襲姬命,聰明叡智,能識未然。乃知其歌怪,言于天皇:「是武埴安彥將謀反之表者也。吾聞,武埴安彥之妻吾田媛,密來之,取倭香山土,裹(ツツミ)領巾頭而祈曰:『是倭國之物實。』則反之。」

 と有るのが其である。而して此事が例と成つて、攝津の官幣大社住吉神社の埴取神事と成るのであるが、其れ迄言ふと、少しく長文に成るので割愛する。
 第二の例証としては、『古事記』神代卷に、

 櫛八玉神,化鵜,入海底,咋(クヒ)出底之埴(波邇),作天八十瓮(毘良迦)而,鎌(カ)海布之柄作燧臼,以海蓴(コモ)之柄作燧杵而,鑽出(キリイデ)火云:「是我所燧火者,於高天原者,神產巢日御祖命之富足(登陀流)天之新巢之凝烟(スス)之八拳(ヤツカ)垂迄(麻弖)燒舉,地下者,於底津石根燒凝而,(中略。)獻天之真魚咋也。」

 と有つて、此れは海底の土が擇まれてゐるのである。且つ此處に述べた八玉神の祝言(ホギゴト)は、又一種の呪文とも見られるのである。更に此れとは趣きを異にし、赤土に限つて用ゐた例も有る。『崇神記』に活玉依媛の許に夜夜通ひ來る壯夫を知る為に、「以赤土散床前。」て、其壯夫の美和大神であつた事が判然した故事が有り、猶ほ『播磨風土記』逸文に、

 息長帶日女命,【○神功皇后。】欲平新羅國,下坐之時,禱於眾神。(中略。)於此,出賜赤土。其土塗天之逆桙,建神舟之艫舳。又染御舟裳及御軍之著衣(ヨロヒ)。云云。

 と有る。是等は共に赤土なる故に、一段と呪力の強かつた事を示してゐるのである。
 猶ほ此機會に「灰」を呪術に用ゐた事も見えてゐるが、此れは特種の事ではあり、且つ左程に重要な事とも思はれぬので省筆する事とした。

〔註第一〕巫女の持物である手草に就いては、柳田國男先生の巫女考(鄉土研究第一卷連載)の第二號に詳記して有る。參照を望む。
〔註第二〕「瑞垣」の二字を崇神朝と解する學者も有る樣だが、私は橘守部に從ひ、單なる古代の意味に考へてゐる。
〔註第三〕『古事記傳』卷八(本居宣長全集本)。
〔註第四〕谷川士清翁『日本書紀通證』に、「枝葉は柴也。」と載せて有るが、私は必ずしもそう考へる必要は無く、笹葉、亦は賢木と見る事も、不可能では無いと思つてゐる。
〔註第五〕『古事記傳』卷八(同上)。
〔註第六〕神降しを行ふ際には、尸坐の身近くで、熾んに火を焚く事が、普通とされてゐる。此れは、第一は、火力に依つて尸坐の心身を夢境に誘ふ事と、第二は、火に依つて莊嚴の氣を加へる為と、第三は、火を燈火の代用とする必要から來てゐた樣である。後世の職業的巫女に成ると、斯うした形式を採らずとも、直ちに神憑りの狀態に入るだけの修業を積んでゐたが、單なる信仰心で行ふ者、又は修驗道系の者は、必ず火を焚いた物である。そして周圍の者が大聲で呪文めいた物を合唱した。其例證は後章に述べる機會が有る。
〔註第七〕男女の鉢卷を單なる髮の亂れるのを防ぐ為とか、又は景氣を付ける為の裝身具とか見るのは、後世の合理的の解釋であつて、其起りは神に對する場合にのみ限られた物である。換言すれば、神を祈る時に鉢卷をした物である。狂亂の保名が、紫の鉢卷を忘れぬのも、此の名殘りであるとは、既に柳田先生の說かれた所である。
〔註第八〕我國の椿と、支那の椿とは、用字は同じだが、樹木は異つてゐて、支那の椿に相當する物は、我國の山茶花だと云ふ說が有る。併し茲にはそんな詮索は措くとするが、兔に角に椿は靈樹として我國では崇拜されてゐた。八百比丘尼と云ふ有名な巫女は、常に此樹の枝を所持してゐた。八百比丘尼に就いては後章に述べる。
〔註第九〕『豐後國風土記』大野郡海石榴市條に載せて有る。其れから、美作國勝田郡豐國村では、椿木の槌を用ゐる事を忌んでゐると『民族』第四卷第三號に見えてゐる。
〔註第十〕榎の俗信に就いては『鄉土研究』・『民族』、其他の雜誌の資料欄に、夥しき迄各地の報告が載せて有る。一里塚に榎を栽ゑたのも、又其の一つである。
〔註十一〕楸は梓の一種とも、又た同じとも云はれてゐるが、此樹の實は藥劑として、今に民間に用ゐられてゐるが、特に腎臟病に效驗有ると云はれてゐる。
〔註十二〕賀茂社の地主神である柊社へ、他の杉なり、松なりを栽ゑても、幾年かの後には柊と成つてしまふと云はれてゐる。此れに就いては、『京阪文化史論』に載せた內藤虎次郎氏「近畿の神社」を參照せられたい。
〔註十三〕出雲の熊野から、冊尊の神靈を賢木に憑けて紀伊の熊野へ遷祀する際に、其靈木を捧持した者の姓を玉木と稱したと有る。此れに就いては、鈴木重胤翁『日本書紀傳』に詳細なる考證が有る。參照せられたい。
〔註十四〕現在では、祟(タタル)と云ふ語は、神の報復とか、懲罰とか云ふ意味に解釋されてゐるが、古くタタルとは、神の出現と云ふ意味に用ゐられてゐたのである。信州諏訪神社には「七たたへ」の木とて、松たたへ、檜たたへ等も有るが、此れは諏訪神が、是等の樹木に憑つて、出現すると云ふ事なのである。
〔註十五〕我國の神木思想は、民俗學的には、かなり重要な問題であるが、又かなり面倒な問題なのである。私も健康が許したら、其の內に纏つた物を書いて見たいと思うてゐる。
〔註十六〕「杖立傳說」に就いては、柳田先生の「杖の成長した話」が『民族』(第一卷第一號)に、「插木傳說」の一班に關しては同先生の「楊枝で泉を卜する事」が同誌(第一卷第二號)に有る。共に參照を望む次第である。
〔註十七〕伴信友翁の『正卜考』の餘說として『波波迦考』が有る。其れを參照されたい。
〔註十八〕『古事記傳』卷八(同上)。
〔註十九〕前揭の『正卜考』に見えてゐる。
〔註二十〕柳田國男先生著の『雪國の春』に載せた「樺皮の由來」に據つた。
〔註廿一〕聖靈迎への為に、墓地で火を焚く信仰の起原は、墓地を暖める思想──即ち人體の冷卻は死であるから、此れを暖めれば復活すると考へた事にも關係が有る。詳說は差控へるが、此事は考慮の內に入れて置くべきである。
〔註廿二〕『上閉伊郡土淵村鄉土誌』其他に據る。
〔註廿三〕『平內志』。
〔註廿四〕『民族』(第四卷第三號)有賀喜左衛門氏「爐邊見聞」に詳記して有る。
〔註廿五〕『三州吉田領風俗問狀答』に據る。
〔註廿六〕『紀伊續風土記』卷八二。
〔註廿七〕『平泉志』。
〔註廿八〕『十方庵遊歷雜記』初編(江戶叢書本)。
〔註廿九〕『冠辭考』(賀茂真淵全集)。
〔註三十〕前揭の『冠辭考』に引用してある。
〔註卅一〕我國の近海に鰐は居ぬ。從つて古典に現はれた鰐は鮫であると言はれてゐる。白鳥庫吉氏は此說を稱へる御方であつて、私も其れに贊成する者である。
〔註卅二〕明治二十九年に島津家で發行した『地理纂考』に據つた。
〔註卅三〕片巫・肱巫に就いては、片を縣のカタと聯想して、田を祈禱する巫女、肱巫は此れに對して畑の巫女等と云ふ珍說さえ有る。
〔註卅四〕同地出身の學友小山勝清氏談。
〔註卅五〕同地出身の友人橋本實朗氏談。
〔註卅六〕橘守部翁は「鐘の響(ヒビ)き」に於いて珍說を提出してゐるが、此れは異說を立つるに急であつて、全く原義を失うた物である。
〔註卅七〕『津島紀事』の其れは、同地方の民俗を以て『古語拾遺』を推測した物と考へたい。猶ほ『津島紀事』には、異本が私が見ただけでも、三種在る。注意せられたい。
〔註卅八〕私の友人である下野國安蘇郡舟津川村の醫師武藤隆秋氏の家は、代代漢方醫であつたが、氏の談に、家傳の婦人用の秘藥は、此の青鵐(アヲジ)で製した物だと云ふ事である。
〔註卅九〕『古史通』卷五(新井白石全集本)。
〔註四十〕「一ツ物」に就いては『考古學雜誌』第十卷第一號に拙稿を載せた事が有る。其中で、鵜羽を產屋に插した事に關しても述べて置いた。今其雜誌が手許に無いので、記憶の儘(ママ)で記した。參照を願へると仕合せである。
〔註卌一〕京都で發行した『鄉土趣味』第二〇號に拙稿「蟹守土俗考」が載せて有る。發行部數が少いので一寸手に入れ難い雜誌ではあるが、此れに詳しく私見の有る所を述べて置いた。
〔註卌二〕『民族』(第三卷)に連載したニコライ・ネフスキー(Николай Не́вский)氏の「月と不死」の論文は、此傳說の研究である。
〔註卌三〕『淡海溫故錄』卷一。
〔註卌四〕『西蠣波郡紀要』。
〔註卌五〕『駿國雜誌』卷二四ノ上。
〔註卌六〕『裏見寒話』卷九。
〔註卌七〕『岡山新聞』大正七年六月分。
〔註卌八〕『鄉土趣味』第一一號の表紙繪及び記事。
〔註卌九〕『鄉土研究』第二卷第一〇號。
〔註五十〕石信仰に就いては柳田先生の「石神問答」を參照されたい。
〔註五一〕伴翁の『正卜考』に見えてゐる。併し、是等の石占の中には、足で蹴る、手で投げる方法も加つてゐた物と見るべきである。
〔註五二〕我國の土信仰に就いては『鄉土趣味』第一八號に「砂撒き」と題して、私見を發表した事が有る。かなり複雜してゐる問題なので、簡單に說く事は出來ぬ。
〔註五三〕弟猾が女性である事は、學友折口信夫氏から教へを受けた。
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